定席芝居小屋「大行舎」

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 明治一三年、行事村出店(現大橋三丁目一四番一六号)に、豊前の国では最初の定席芝居小屋「大行舎」が建てられた。
 この劇場は、行事村、大橋村の有志が共同出資して建てたので、大橋の「大」と行事の「行」をとって「大行舎」と名づけられた。
 明治一三年七月一日に出資金一口一〇円の出資証券が発行された。委員として柏木勘八郎、福島甚六など当時の財界のリーダーの名前がある。
 大行舎は劇場の賃貸しが営業目的で、自前で興行するものではなかった。貸料は一日六円くらいだった。
 大行舎には、当時はやりの人形浄瑠璃竹本大隅大夫、三味線の豊沢団平一座、落語の三遊亭円朝のうかれ節など、中央で名の売れた芸能人も来演した。また、当時の世相を反映して「政談大演説会」と称した政治演説会にも活用された。
 「門司新報」の明治時代の記事「行橋通信」には、たびたび大行舎の興行の様子が報じられている。
 
松旭齋天の行橋行  馬関小倉に於て大喝采を得たる奇術師天一の一座は昨廿五日より行橋町行事大行舎に於て興行
(明治二六年三月二六日)
浄瑠璃  目下、行橋町大行舎に於て興行中の竹本文太夫一座は頗る好評あり
 (明治二六年九月一九日)
壮士劇場  行橋町大行舎に於ては一昨七日より推橋豊三郎一座の壮士改良演劇興行
(明治二七年二月九日)
祭文興行  行橋町大行舎に於て去る一九日より吉川辰丸吉田初吉一座の浮れ節興行
 (明治二七年二月二三日)
興行大入  目下当町大行舎に於て興行中なる操人形は人気能く日々札止めの盛況を呈せり
(明治三一年二月一七日)
好人気  過日来当町大行舎の於て興行中の大坂俳優若本一座は非常の人気にて請元はホクホク蛯子然として只管(ひたすら)晴天を祈り居れり
(明治三一年三月一一日)
興行  明日より当町大行舎に於て王川梅光一座の祭文興行開始の筈(はず)なり
 (明治三一年七月一日)
芝居大入  過日来興行中の大行舎歌舞伎芝居は人気能く毎日大入なり 
(明治三一年一一月一〇日)
当町大行舎に於ては過日来浄瑠璃興行中なりしが妓太夫なるか為め人気よろし
(明治三二年二月二三日)

 
 「柏木勘八郎日記」にも、大行舎での興行の記述が見られる。
 「明治二五年五月五日、夜大行舎興行中ナル円朝ノウカレ節ヲ聞キニ至ル」
 「同年五月一九日、本日大隅太夫、団平一座大行舎ニテ興行」
 「明治三四年一月一日、大行舎興行中ナル壮士芝居ヘ至ル」
 大行舎は大正一三年、老朽のため閉鎖した。