劇場・大行舎がなくなると、中町商店街の人々が立ち上がった。中町区長の末広潤治の呼びかけで劇場再建を計画、旧大行舎を三〇〇〇円で譲り受けた。新劇場は株式組織とし、総額四万円(二〇円払い込みで一〇〇〇株)、創立委員長に森住悦太郎を推し、建築資金三万八〇〇〇円を投じた。新劇場の名前は「都座」。完成は大正一四年だったが、途中で資金不足が生じたので大阪の中山悦治から一万円を借入れた。なお、一万円の不足を蜂谷政吉、中原仁六、森住悦太郎、楠見利一の四人で負担した。
こうした努力を続けたが、当時は大不況時代で株の配当はもちろん、借入金の利払いもできず、会社解散の危機となった。昭和六年、森住社長ら前記四名が買収、共同経営に切り替えたが、昭和八年一一月八日午前一時半、原因不明の火災で全焼した。劇場都座はわずか八年で、不運の幕を閉じた。
昭和一〇年、「娯楽機関の不備は町勢発展に影響する」と劇場再開の動きもあったが、大行舎・都座の跡地に再び劇場が建つことはなかった。後にこの地には、大園外科医院が建てられたが、いまは駐車場となっている。