昭和一一年一一月、新国道沿いの大道に「稲荷座」(木造二階建て)が完成した。興行師の白川吉太郎が建てたもので、総工費は五万円。稲荷座のこけら落しは松本幸四郎の公演で、朝・昼・晩の一日三回の公演は超満員だったという。
昭和一九年、経営者が白川吉太郎から佐々木義丸に替ったが、戦前、戦後を通じて稲荷座は一般市民の芸能発表の舞台ともなって、大いに活用された。
昭和二九年、行橋市制が施行され、京都郡公会堂が仮庁舎になったので、稲荷座の桝席が行橋市制施行祝賀式典の会場となった。
しかし、昭和三〇年代になりテレビが普及すると、すっかり客足が落ち、さらに昭和三九年一〇月、行橋市民会館が竣工したこともあって、昭和四五年、郵政省が買収してついに行橋から劇場が姿を消した。今は行橋郵便局となっている。