京都郡誌は明治四四年、京都郡教育会の計画に係り、その編纂に関しては全て是を文学士伊東尾四郎氏に委嘱せしが、大正五年一〇月に至り、時の会長は本事業を郡に移し以て其の完成を要請せり。大正五年一二月の通常郡会に謀り、大正六年、七年の両年度の本誌継続編纂に要する費目を決議し、本年三月稿完く成り、これを本誌編纂の梗概とす。
大正七年五月 京都郡役所
大正七年五月 京都郡役所
この郡誌は、「地理/沿革/町村略誌/土木及交通/産業経済/教育/遺跡/神社/仏寺/人物/風俗習慣」の一一章からなる大作で、京都郡の古代から近代までの膨大な歴史が収められている。今も郷土研究には必読の史誌である。
この郡誌の編著者・伊東尾四郎の業績について、郷土史家の友石孝之は次のように記している。
伊東尾四郎先生は、宗像郡東郷の人で、明治二年、福岡藩儒臣伊東謙吉の長男に生れ、後、東大に進んで国史科を専攻した。明治三八年八月、歴史の教官として豊津中学(今の豊津高校)に赴任された。そして、在任約一一年、やがて明治四一年三月、新設の小倉中学校の初代校長に栄転されたが、その後、京都郡教育会の依嘱をうけて、編纂されたのがこの『京都郡誌』であった。
先生は小倉中学からしばしば足を京都郡に運んで調査を継続されたといわれる。それで実質的には、先生はこの仕事に明治四四年から大正七年までの長い歳月を費されたわけで、聞くところ、完成されたのはすでに先生が福岡県立図書館の館長時代、すなわち大正八年だったという。
『京都郡誌』が今とりわけて名著といわれるのも当然であろう。ことに、この本の中で、先生は御所ケ谷の研究中、たまたま遺跡の石組みにいわゆる神籠石を発見し、自から詳しく実地調査した上で、その雄大な規模を時の学界に報告するなど、不滅の業績をあげておられる。
また、一例をあげると、与原の御所山古墳の研究に際しても、その内部構造の調査に関する、明治二二年の故坪井正五郎博士の論文を探し出して、その全文を引用掲載するなど、先生の郷土史がいかに克明なものであるかを示している。
その他、等覚寺修験、豊前国分寺、今井祇園、村上仏山水哉園など、先生がとくに力をそそいで調査されていることが、今ではことごとく国か県の文化財に指定されているのも、偶然の一致とは考えられない。
先生は小倉中学からしばしば足を京都郡に運んで調査を継続されたといわれる。それで実質的には、先生はこの仕事に明治四四年から大正七年までの長い歳月を費されたわけで、聞くところ、完成されたのはすでに先生が福岡県立図書館の館長時代、すなわち大正八年だったという。
『京都郡誌』が今とりわけて名著といわれるのも当然であろう。ことに、この本の中で、先生は御所ケ谷の研究中、たまたま遺跡の石組みにいわゆる神籠石を発見し、自から詳しく実地調査した上で、その雄大な規模を時の学界に報告するなど、不滅の業績をあげておられる。
また、一例をあげると、与原の御所山古墳の研究に際しても、その内部構造の調査に関する、明治二二年の故坪井正五郎博士の論文を探し出して、その全文を引用掲載するなど、先生の郷土史がいかに克明なものであるかを示している。
その他、等覚寺修験、豊前国分寺、今井祇園、村上仏山水哉園など、先生がとくに力をそそいで調査されていることが、今ではことごとく国か県の文化財に指定されているのも、偶然の一致とは考えられない。
伊東尾四郎は、その後、福岡県立図書館長や福岡県立女子専門学校(現・福岡女子大学)の教授を務めたあと、昭和五年から昭和二四年に八一歳で亡くなるまで、『福岡県史資料』(全一四集)の編纂や『小倉市誌』、『企救郡誌』、『門司市誌』、『八幡市誌』、『大牟田市誌』、『宗像郡誌』の執筆と編纂に当たった。
『京都郡誌』は福岡県を代表する歴史家の処女作だったわけである。