公会堂は築上郡下城井村(現築城町)出身で、衆議院議員を務めた藏内次郎作と養子の藏内保房の寄付によって建設された。集会施設を持たない京都郡が、当時、炭鉱経営で財をなした藏内家に公会堂の建設を要請し実現したものである。
藏内次郎作(弘化四年生、大正一二年没)は、若くして田川郡や企救郡、遠賀郡などで炭鉱を経営。安川、麻生、貝島とともに筑豊大手の地位を築いた。小倉や田川、中津で銀行を開いたり、金辺鉄道、宇島鉄道の創立にも尽力した。その甥で養子の保房(文久三年生、大正一〇年没)も次郎作を助け、事業経営に当たった。
中村十生著『新豊前人物評伝』では次のように記している。
森鴎外は明治三十二年九月十六日の福岡日々新聞に「我をして九州の富人たらしめば」を寄稿し、それが若い炭坑主を啓発し、安川敬一郎の明治専門学校(いまの国立九州工業大学の前身)伊藤伝右衛門の伊藤育英会、嘉穂高等女学校、貝島家の貝島育英会、麻生家の麻生塾の設立となった。
藏内はこれに先だち明治三十年頃、小倉京町に劇場「育英座」を開設した。収益はあげて育英事業に投じようとするにあった。大正六年、十一万五千円(現在の一億円以上相当)を県立田川中学校、十一万円を県立築上中学校の創立資金として寄付した。また各地の神社寺院の増改築に多額の喜捨をして惜しまなかった。養父藏内次郎作の豪放で機智縦横なのに対し保房は温厚で細心周密だった。その剛と柔とが相俟って藏内家の大をなしたといわれている。
藏内はこれに先だち明治三十年頃、小倉京町に劇場「育英座」を開設した。収益はあげて育英事業に投じようとするにあった。大正六年、十一万五千円(現在の一億円以上相当)を県立田川中学校、十一万円を県立築上中学校の創立資金として寄付した。また各地の神社寺院の増改築に多額の喜捨をして惜しまなかった。養父藏内次郎作の豪放で機智縦横なのに対し保房は温厚で細心周密だった。その剛と柔とが相俟って藏内家の大をなしたといわれている。
公会堂は、当時の京都郡役所(現大橋公園)の隣接地(現在、市中央公民館が建っている一帯)一五六二坪(五一六三平方メートル)を買収して、木造平家建て建坪二四二坪(八〇〇平方メートル)の洋風建築として建てられた。
佐藤京都郡長は「公会堂は教育、勧業その他思想善導等の各種公演、講習、在郷軍人会、青年団、処女会、婦人会等の催し及び町村、学校はじめ各種団体のために、日々使用するが、藏内家の偉大な行為により文化の恩沢に浴することは誠に感謝に堪えない」と謝意を述べた。
この公会堂は、昭和二九年一〇月まで三〇年間にわたって京都郡の社会教育をはじめ各種の会合の場として利用されたが、行橋市発足に当たって市庁舎として利用され、その後、豊前農業高校定時制校舎となったあと老朽化のため取り崩された。