武術天然理心流 |
遠江国出身の近藤内蔵之助長裕が、天真正伝神道流を学び、のち武術天然理心流を寛政期に創始したという。天然理心流は、剣術、柔術、棒術と術名不明(気術)からなっていた。伝法の次第は、切紙、目録、中極位目録、免許、(印可)、師南免許となっている。天然理心流は、多くの人が剣術を学んだ。気術は、2代近藤三助の急死によって絶え、剣術、柔術、棒術の三術は、八王子の千人同心増田蔵六から、山本満次郎に受けつがれたが、山本の切腹により明治4年3月で絶えた。2代近藤三助死後、宗家はなくなり、3代目師範は10家に分かれた。その中で、最大の門人を擁していたのが、江戸市ヶ谷柳町で剣術を教えた近藤周助である。周助に見込まれて養子となった近藤勇は、4代目師範を継ぎ、多摩郡に出稽古に訪れている。近藤勇は日野宿の名主佐藤彦五郎、小野路村の名主小島鹿之助と義兄弟の契りを結んだ。二人は、近藤勇の出稽古場に自宅を提供し、新選組結成後も近藤勇、土方歳三を支援した。 |
近藤勇の神文血判帳 |
近藤勇の神文血判帳は、近藤が上洛した時に、佐藤彦五郎が預かり門人を集めたもので、近藤が帰郷したときに、備えたものである。しかし、近藤帰郷後は、甲陽鎮撫隊を結成し、勝沼で西軍と戦い、敗走し後、捕らわれ斬首されたため、神文血判帳に署名した者は、結果的に近藤勇の門人となることができなかった。 |
文久3年11月~慶応3年
所蔵:小島資料館 |
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元治元年3月
所蔵:佐藤彦五郎新選組資料館 |
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慶応3年2月6日
所蔵:佐藤彦五郎新選組資料館 |
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天然理心流切紙 | |
嘉永2年9月
所蔵:小島資料館 |
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天然理心流目録 | |
嘉永2年9月
所蔵:小島資料館 |
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天保6年11月
所蔵:小島資料館 |
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天然理心流中極意目録 | |
嘉永7年2月
所蔵:佐藤彦五郎新選組資料館 |
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天然理心流免許 | |
嘉永7年2月
所蔵:佐藤彦五郎新選組資料館 |
近藤勇の稽古着 |
武州多摩郡小野路村名主小島鹿之助は、小野路村外三十四ヶ村を束ねる寄場名主であったので、武術を奨励し自宅を剣術の出稽古場として提供していた。『小島日記』によると、天然理心流の近藤勇が小島家を初めて訪れたのは、嘉永五年三月十八日である。 十九日の記載に、「昨夜江戸ゟ嶋崎勝太、福田平馬、染谷先生御来臨ニ付終日稽古」とあり二泊した。島崎勇は、近藤勇が宮川家から近藤家に養子入りしてからの名で、染谷先生は、近藤周助の高弟下染谷村の原田忠次郎で、福田は近藤の先輩である。小野路宿の橋本分家で剣術の稽古をしたあと、嶋崎と原田は、正午頃に分梅村(現府中市)の来助宅へ向かった。その後、近藤は小島鹿之助と親しくなり、義兄弟の契りを結んだと伝えられている。この稽古着は、近藤勇の妻つねが近藤のために刺繍したもので、小島家の庭で出稽古が行われ、その折に近藤勇が着用したと伝わっている。 稽古着の背中には、人の頭より大きい髑髏が白い糸で刺繍(チェーンステッチ)してある。古来武術家が決死の覚悟で試合に臨むとき。自分の稽古着の襟などに小さな髑髏の刺繍をしたものを縫い付けたという。近藤勇は、新選組を結成する直前まで、小島家でこの稽古着を着用して、いつも、戦場と同じ気持ちで真剣に剣術を指南したものと考えられる。近藤は、後に京から郷里の門人にあてて、「白刃の戦いは竹刀の稽古とは格別の違いもこれなく候間、剣術執行(修行)は、よくよく致しおきたく事にござ候。必ず御出精願うところに候。」と書簡で述べている。 |
所蔵:小島資料館 |
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