読み下し・解説

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 大(小)剣者(は)上作を相撰度存じ奉り候
 麁刀武用聊か相立ち申さず候、其内幸便に
 相損シ剣類差し下シ候、御一覧下さるべく候、
 柄はゆすの木亦樫宜しく御座候、
 剣ハ大坂者(物)決して御用いなられ間敷候、以上
寒冷相催し候得共其御地愈
御清昌賀上奉り候、然は当方
下拙始メ一同無事罷り在り候間、
憚りながら御安意下さるべく候、偖
洛陽模様初秋より段々
妄動致し居り候、去る八月十八日
一条は全ク長州一件
去る頃より
皇朝大和行幸を御進め
大和におゐて暫時御滞留
軍議御立て候様、仰せ出され夫より
天庭ヲ長城え誘引致し
御所向き残らず焼き払い還御
之御念絶し直に華城抜キ、
天子挟ミ幕府誅伐之
事露顕に及び、依て御所
堺町御門御固メ御免
仰せ出され候より十八日之騒動
に及び申し候、大和十津川一騎(揆)
は兼ねて用意の
皇朝御迎えの兵差出置く
者共謀計相成ざるより中山
殿三男ヲ大将といたし一騎
天野川要害に立籠り、
其勢三千余人、大名
五家え但シ彦根、紀州、藤堂、
上村、後に加州誅伐仰せ付けられ
容易に落去仕らず候、九月廿三日
討手分残らず負走致し候、夫より
天野川本陣も当月に至り
平斤致し候、尤も中山侍従殿は
紀州手を打ち破り浪華落ち、
長州蔵屋敷に入り候趣、依て
未だ取り固メ罷り在り候、将に洛陽
形勢御定まりも御立にも
相成ず、兎角穏やか成らず就いては
当月十日ぎおん一力楼
におゐて国家の義論集会、
肥後守殿より仰せ出され、依て
薩州、土州、芸州、細川、会津、
国政周旋掛り残らず集会
に相成り候、且下拙義も一人御招きに
相成り候、海山珍味酒肴に及び
なかんずく、酔に至り候へ共、国家
大義聊か口開き候者も御座無く候、
会津家老横山主税殿、
薩島津某(三郎殿)より報国有志
近藤より高論承り度旨
申され、依て下拙答て曰く、熟(つらつら)愚考
仕り候処、只今迄薩長
攘夷之有り候得共其国港
攘夷にて海国攘夷とは
申され間敷候、然る上は第一
公武合体専一致し、
その上幕府におゐて断然と
攘夷仰せ出され候はば自然国
内安全とも存じ奉り候、素より
外国事より此如く天下囂然
内乱を醸し候哉と存じ候、恐れながら
政府を助け
皇国一致仕り、海岸防御
策略より外他之有り間敷
と相答え候、各藩銘々同意と
申され、夫より段々国家
御議定遊ばされ候は、
大樹公御上洛相成り、其上
武家国政の儀、関東にて
御所置遊ばされ候訳に候、左も
なく候ては決して治まり申す間敷、
と大界一決致し候、夫に依て
御上洛御所より仰せ出され、
随って下拙儀も局中取締り、
国家の大義一人之周旋
心配候より哉、殊の外病身に
相成り困り入り候、固より短才を知らず、
下拙の預かり候儀御座無く候、且、先頃
上村出羽守殿家老より大石
蔵助着具甲冑頂戴
いたし候、当時具足二両、
大小虎徹入道、鍔信家、馬
三疋、其外一統武器差支え
之無く候、去月廿五日
皇庭より御固め御褒美
候て、 天子金壱両宛
一統え拝領仰せ付けられ候、時に
愚父病気如何に御座候哉と
心配仕り居り候、嘸々御厚配と
存じ奉り候、今暫之内御世話
相頼み候、其内東下万々
御厚謝奉り度、以上
 十月三十日     近藤 勇
 佐藤彦五郎様
 萩原多賀次郎様
 寺尾安次郎様
 蔭山新之丞様
 嶋崎勇三郎様
 小嶋鹿之助様
 宮川乙五郎様
 萩原 糺 様
 外御一統様え御鳳声
 希上奉り候以上

【解説】

 佐藤彦五郎以下七名に宛てた書簡である。書簡は佐藤以下小島鹿之助まで回覧され、宮川音五郎に伝わった。音五郎の子孫が作成した書簡で、上書、口上願書とこの書簡は複製である。現在はこの原本の所在は不明である。
前半は、天誅組の事件の経過について、後半は、近藤勇が祇園の一力楼の国家の議論集会に招かれて、近藤の攘夷論を述べて、好評であったことを知らせている。また新選組の武器類も揃い、近藤は上村(植村)出羽守の家老から大石内蔵助の甲冑をもらったことや、大小の虎徹入道の刀を所持していたことが分かる。