二 稽古有文館蔵本の跋文

次に、稽古有文館本末尾に存する跋文を示し、『山下水』の成立、撰者松平綱隆および書写者養法院について検討する。(傍線・読点は私に付した。)
 
陽神陰神のうましと唱へ給ふ、是和哥の始めとも云なるへし、下照姫の言を永ふし、素盞烏尊のの三十一字に定給ひしより、①出雲の國の守なる人はひとり此道を玩ひ給ふへき事にこそ、②侍従綱隆君また御親にそひましくける比より、しきしまの道をたしみ和哥の浦の玉藻をかきあつめ給ふ、③今此一巻は、神歌に始て二聖六哥仙まてもらさすしるし給ひ、山下水と名つけて几上の珍玩となし給ふ、古今の序の言葉にもとすき給ふなるへし、つらくその餘の意を拾ふに、山と水とは仁智の人のこのむところなりと壁のうちよりもとめ出たりし文にもしるされけるとそ、仁者は義理おもくしてうつらさる事山ににたり、智者は事の理滞なく流て水ににたり、この二品にて国をゝさめ民をめくみ給ふ事、なにかかくること有ぬへし、④人のもとめふせくによしなくおよはすなから臨書し侍る事、かつはおそれかつはやさしくて硯の海のかはくまてよしあし原の末の世のそしりをもわきまへす、つたなき筆を染、是を後序となし侍る者也、⑤時に元禄戊寅年陽復の月穀旦
             養法尼識焉
                  (朱印A)(朱印B)
 
 本書の成立について直接的に述べるのは傍線部③である。「神歌」から始まり、「二聖六哥仙」の歌を含んだ構成の歌集を撰んだのが第二代松江藩主松平綱隆であることは、傍線部②から続く待遇表現により明らかであろう。『山下水』という書名は、『古今和歌集』仮名序の「すべて千うたはたまき、名づけてこきむわかしふといふ、かくこのたびあつめえらばれて、山した水のたえず、はまのまさごのかずおほくつもりぬれば、いまはあすかがはのせになるうらみもき
こえずさざれいしのいはほとなるよろこびのみぞあるべき(2)」の部分を由来とする。こうした撰集を行った背景には、傍線部①・②のように和歌にゆかりのある出雲国の守は和歌の道をたしなむべきという考えがあったようである。
 傍線部④以降の記述から、綱隆側室の養法院が、人の求めにより綱隆撰の『山下水』を臨書し、後序(跋文)を付したものが本書であると判明する。書写年次は傍線部⑤にあるように、元禄十一年(一六九八)十一月である。末尾に二種の朱印が存し、朱印Aは「養法」、朱印Bは「換鵝」と判読できる。(朱印Bは後述するように能書家といわれた養法院の、書聖・王羲之の故事をふまえた落款印か。)
 前掲の『和歌大辞典』に記されるように、この跋文からは『山下水』の成立年次は分からないが、傍線部②によれば綱隆は親の存命中から撰集作業を行っていたようである。松平綱隆は寛永八年(一六三一)、松江藩初代藩主直政〈寛文六年(一六六六)没〉の嫡男として江戸で生まれる。母は久姫(松平忠良女、慶泰院)〈慶安元年(一六四八)没〉。父の死去により家督を継ぐ。延宝三年(一六七五)急病のため松江にて没、四五歳。宝山院と号す。綱隆の詠草は島根大学桑原文庫蔵『高真院様宝山院様源林院様御詠草』(写本一冊)、島根県立図書館所蔵『松平綱隆(寳山院)筆[歌集]』(複写)、平田本陣記念館(島根県出雲市)所蔵の「藤画賛」などにみられるが、本書もしくはその他和歌に関連する事蹟は現在のところ見出せない。時代は下るが桃節山著『藩祖御事蹟』(慶応三跋)には、直政が烏丸光広から和歌や『伊勢物語』の口訣を受けたとの記事がみえるので、綱隆にも何らかの影響があった可能性はある。
 養法院は、綱隆と同年の寛永八年(一六三一)生まれ。明暦三年(一六五七)綱隆の側室となり、「御国御前」と呼ばれた。父は直政に仕えた祐筆平賀半助で、その「父に習った筆跡は流麗で能書家として知られている(3)」とされる。延宝三年(一六七五)に「綱隆が没して養法院と名のり、以来、松江の春日村に隠居し余生をすごす」。宝永四年(一七〇七)、七七歳で没。
 関連資料に、島根県立図書館所蔵『養法院実筆和歌集』(写本一軸)がある。『山下水』の書写から二年後の元禄十三年(一七〇〇)七月下旬、七〇歳を迎えた養法院が書写したとの奥書を有す(「元禄庚辰/文月下旬/養法七十歳」)。但し外題・内題ともになく、書名は所蔵者が整理のために付したものか。一月から十二月まで、季節を追って十二首の和歌が配され、詞書は折々の生活に即したものと思しいが、和歌は養法院の自詠ではなく、すべて先行の歌集に既出のものである。内容の詳細は別稿に譲るが、特徴的な字体を使用する点などからみて、稽古有文館蔵『山下水』と同筆と考えられる。
 
24 むすふ手のしつくにゝこる山の井の
  あかてもひとにわかれぬるかな
 
右に挙げた稽古有文館蔵本『山下水』の傍線部「に」は、「似」を字
母とするかと思われるが、稽古有文館本に全四例(4)見出せるこの字体が『養法院実筆和歌集』にも一例存するのである。さらにこの資料の軸装の体裁や料紙が稽古有文館本に酷似する上、『養法院実筆和歌集』の奥書の後にも二種存する朱印のうち、一つが稽古有文館本の朱印B「換鵝」と一致する。したがって、この両者はともにほぼ時期を同じくして養法院が書写した真筆資料と考えられる。