解題・説明
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常野の浮浪の者共(水戸天狗党)が上洛との報で、京都より一橋慶喜をはじめとして、一万人が出動した。新選組は四ツ塚御門(京都市南区)と御所の警備を任された。冥加の至りであるが人数が少なく困った。その後、四つ塚は佐竹家と交代になった。天狗党は十二月十七日に加賀藩に投降して騒乱は終結した。土方が書簡を書いているころは、まだ終結していない。次に、土方が松平容保公より「副長役」を仰せ付けられたことを伝えている。行軍録には、局長、副長という記載はない。当時京都には、日本中から多くの武士が集まっていた。土方は命を張って京都を護る武士は、会津、桑名、見廻り組、新撰組の四家しかないと述べている。そして、新選組の行軍の図を佐藤彦五郎に送って来た。
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