解題・説明
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この歳三の手紙は、署名を含め途中で切断されている。 この手紙で最も興味深いのは、歳三が京都で日記を付けていたということだ。 自分が戦死してしまった時のことを考えて、この日記を、彦五郎に預けることとした。 京都に来ていた富沢忠右衛門(富沢政恕)が帰郷する際に、歳三は鉢金と添え状と共に、日記帳を富沢に託した。それらが彦五郎に届けられたのは、元治元年五月である。 切断された手前(最後の部分)にある『正月二十一日、同二十七日大樹公』は、将軍家茂は再上洛後、二十一日と二十七日に御所へ参内している。このとき新選組が、将軍警護の列に加わったことを記したのであろう。 歳三が文中で『君命これあり候はば、すみやかに戦死もつかまつるべく候』と、一戦の決意を述べているのは、将軍の上洛が長州処分にからんでいるためだった。歳三も新選組の出陣を覚悟していたのであった。 しかし征長軍の出陣は実現されず、五月には将軍家茂も江戸へ戻ってしまう。このような状況から幕府の弱腰を知った長州系浪士の行動が活発化し、ついに翌六月には、池田屋事件が勃発することとなる。(菊池明氏の文、参照)
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