解題・説明
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本書筒は文久三年十一月廿九日の書簡である。以下のことがらから、文久三年と断定できる。 事件としては、 ①文久三年八月十七日に起こった天誅組の乱のこと。 ②文久三年十月十二日に平野国臣らが但馬の生野代官所を襲撃した生野の変のこと。 ③文久三年十一月十五日に江戸城の本丸、二の丸が炎上した。 ④新徴組がこのたび幕府の新規御召抱えとなり、新選組にも同じ待遇として禄位を与える旨の内示があったが、新選組は尽忠報国のため攘夷を行なうのが本願であるが、目的を果たしていないので辞退している。(「新選組史録 平尾道雄著」「上書」文久三年十月十五日)このため、新徴組が禄位を受けたことに憤慨している。 ⑤近藤勇の刀剣談が記されている。留守宅を守る天然理心流の有力者八名連名宛に発信されており、いずれ帰国の上は「相槓シ候刀御覧に入れ候」とある。また、近藤は新選組の体験から、「白刃の戦いは竹刀の稽古とは格別の違いも之無く候間剣術執行は能々致し置度」とあり、近藤は稽古のときも常に真剣勝負という気構えで竹刀を握っていたことを意味しており、また、新入の門人が稽古に精進することを励ましている。 なお、「拙子(近藤勇)義も白刃凌き功成り名遂げ候上は必々其家へ帰り撃剣職相勤め度」とあり、新選組の任務を終えたら、以前のように試衛館で剣術師範を勤めるつもりでいたことがわかる。 ⑥なお、文の初めの方に「親共病気種々御厚配の趣」は、近藤周斎の病気のことを述べている。周斎の病気については、留守宅より一度帰郷するようにとの手紙を近藤宛てに出したが、芹沢鴨が九月十八日に暗殺され、局長は近藤一人で多忙につき帰ることができないという書簡を送っている。さらに、京都守護職側からもこの件についての書簡を広沢富次郎、大野英馬の連名で送っている。本書簡では、「年尾の内下向致す可き哉斗り難く」と書いている。
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