第六回 慳九郎、異人にたのまれて同僚を討つ

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  第六回 横路慳九郎諾(たくして)異人故朋
爰にまた広之進の同家臣に横路慳九郎(よこぢけんくらう)といへる者あり、力量人に勝(すぐれ)、邪見放逸にして更に憐(あわれみ)の心なく、常に山川に出て狩漁(かりすなどり)を好み、只管(ひたすら)の行悪(ぎやうあく)なりければ、童(わらべ)の戯(たわむれ)にも邪見九郎(じやけんくらう)と異名(いみやう)せし程の悪者なり、かやつ日頃出世の志あると言へども、広之進の輩、この放逸を悪(にくみ)、相公執成(かみのとりなし)悪かりければ、未(いまだ)立身なきを恨譏(うらみそしり)、弥(いよいよ)邪智ぞ募りける、ある日慳九郎玉川に出て釣する楽(たのしみ)もやと、釣竿携へ爰よかしこよと岸伝ひに行けるに、芦(あし)茂りたる傍(かたはら)に小舟を浮、是も釣する人にや有けん、歳の頃十八ばかりの了角(つのがみ)一人、友ほしげにぞ居たりけるが、慳九郎を見るより笑顔して、よしありげに打招、君にも釣たれ給ふや、爰よき所あんなり、この船に乗たまへ、遠慮なし給ひそ、いざいざと進けるにぞ、慳九郎もこの信(まめやか)なる詞(ことば)に、しからばとて、かの舟にぞ乗たりける、了角一瓢(つのがみいつぴやう)を取出し、先一つとて酒汲饗應(さけくみもてな)しける時、何がな肴あらまほしと思ひし折から、舟のうちへ大きやかなる鱒の魚一つ自れと踊入たりける、慳九郎是を見て大に歓びていへるは、昔周の武王の船に白魚(はくぎよ)踊入たると聞、また平相国清盛(へいそうこくきよもり)入道、熊野へ詣(まうで)たまふ時、鱸(すずき)と言魚入たりとや、清盛是を吉事とて自調美(てうび)して、我身も喰(くわ)ひ、郎等どもにも喰(くわ)せ給へし、是より大政大臣とならせ給ひしとや、今この魚吉事の瑞相(ずいそう)也と、慳九郎が心中に大望(たいもう)有事面前(めんぜん)にあらはるれば、了角(つのがみ)もともに祝(よろこ)び、かの鱒を小刀してさしみとし、互(かたみ)に酒くみかはし、了角言ける、この岸、風なくして涼しからず、よき所あるらめとて、袖の内に何かまさくるよと見へしが、竿ささず櫓つかはずして、舟遙(はるか)に向ふの岸へおのれと走りつきぬ、慳九郎甚不審(はなはだいぶかり)、御身如何なる術を以て不思儀の事をなすや、了角言へらく、さばかりの術猶易し、我神変不思儀の術ありて、雲霧風雨を起し、飛行(ひぎやう)自在、よろづ心の儘なり、斯言而己(かくいふのみ)にては、足下(そつか)の疑(うたがい)解べからず、いで其しるしを見すべしとて、手に智剣(ちけん)の印(いん)を結びて呪文を唱ふるとひとしく、俄に雲霧起り真昼忽(たちまち)闇夜となり、向山に振照(ふりて)らす松明(たいまつ)いくらと言員数(いふかず)を知らず、水にかげろひ空に照らし、さらに人間業(にんげんわざ)とは見へざりけり、暫(しばらく)して雲霧晴、もとの昼中となりければ、流石胆(さすがきも)太き慳九郎も殆(ほとんど)奇異の思ひをなし、かゝる妖術を行ふ者、我味方に引入なば、大望の助ともなるべし、と心中大に歓び、席を進で言けるは、御身かかる術を行ひながら、などて卑賎に身を屈するや、我思ふに今国中穏ならず、御身と我と心を合、先(まづ)氏照を打没(ほろぼ)し、時に乗(じやう)じて国々を切順(きりしたが)へんは如何にと言へは、了角〓然(しんぜん)と打笑ひ、我もともとより其望ありといへども、服心の人なきゆへ事を行ふ時至らず、足下の智勇見込しゆへ、最前法を以て鱒の魚を舟にいれ、猶心を引見るに、紂王(ちうおう)を没(ほろぼ)せし武王の古事聞(ふることきく)に付、大望ある事顕前(げんぜん)なり、然らば我分骨細身(ふんこつさいしん)して足下の力を助べし、併(しかし)我に先(まづ)望あり、足下の同家臣竪野広之進の伜(せがれ)千草之助に再三の遺恨有、かれを打んとする事易しと言へども、かの家に一刀の名劒(めいけん)あり、故ありて我、彼の刀あるゆへに恨をはらすこと能(あたは)ず、足下この刀を奪ひ取呉給(とりくれたま)へ、我子細ありて未何国如何(いまだいづくいか)なる者と言事をあかされず、本意を遂て後語るべし、と信(まめ)々しく言ければ、慳九郎打點頭(うちうなづき)、事易(ことやす)き頼かな、左なくとも我も悪(にく)しと思ふ竪野父子、遠からず恨をはらさせ申べし、と速(すみやか)に承引(うけひき)、再会を期(ご)してぞ別れけり、扨も竪野広之進は、この頃不斗(ふと)病に伏しけるが、薬用のしるしも薄く、日を経れども怠(おこた)らねば、桂木はさら也、伜千草之助心をいため、当国高尾山は霊験あらたの御山なれば、父の病を祈祷のため、一七日(いつしちにち)の絶喰(だんじき)にて、神前に通夜(つや)して宅にはあらざれば、慳九郎思ふよう、宝劒(ほうけん)を奪にはこの節こそよき時ぞと、ある夜雨つよく降そそぎ、風さはがしく吹て常ならぬを幸に、笠の下に覆面頭巾を着して面(おもて)をかくし、同腹(どうふく)の者どもは抜足の闇八(ぬきあしのやみはち)、月夜釜平(つきよのかまへい)、向水土左衛門(むかふみづのどざえもん)等打連(うちつれ)、兼て案内(あない)はよく知り、塀をのりこへ忍び入、奥深く窺ふに、常に帯(たい)する刀なればとて、悉く探見れどふつに見へず、慳九郎思ふよう、扨は千草之助、高尾山に通夜すると聞つるが、必定帯(ひつじやうたい)して行つらん、然ばかの地に行て刀を奪んと、既に立出んとする折から、広之進漸々眼を覚(さま)し、病中ながら勇気の老人、行歩叶(ぎやうぶかな)はねども起上り、長押(なげし)の鑓(やり)おつとり、曲者(くせもの)と声かけて追欠出(おいかけいで)しが、茶の湯釜につまづき、どふと倒れければ、慳九郎得たりと飛かかり、大袈裟に打放したり、嗚呼惜(ああおし)むべし、巧臣(こうしん)一刀の霜と消畢(おはん)ぬ、この時家内騒動して、妻桂木長刀(なぎなた)片手に手燭(てしよく)をてらし、夫の敵(かたき)のがさじと走り寄るを、慳九郎小刀(こづか)おつとり、ばっしと打、桂木手燭にて打とむれば、火(あかり)は消て真くらやみ、慳九郎主從は其ひまに行方(ゆきがた)知らず逃失(にげうせ)けり