言い伝えによると、正平年間(1364~70)に新田義貞の家臣三津田源之進が御神体を奉じて拝島に移住し、小祠を建立したことに始まるといわれます。その後、万治元年(1658)、久保庄右衛門が祠を再建し、以後数代にわたって久保家が奉斎しています。江戸時代には町後神社と称していましたが明治28年(1895)に現社号に改称しています。神明造の本殿は、大正6年(1917)の拝島の大火で類焼し、翌年再建。現社殿は平成21年(2009)の造立です。明治7年(1874)建立の馬頭尊が境内にあります。
言い伝えによると、正平年間(1364~70)に新田義貞の家臣三津田源之進が御神体を奉じて拝島に移住し、小祠を建立したことに始まるといわれます。その後、万治元年(1658)、久保庄右衛門が祠を再建し、以後数代にわたって久保家が奉斎しています。江戸時代には町後神社と称していましたが明治28年(1895)に現社号に改称しています。神明造の本殿は、大正6年(1917)の拝島の大火で類焼し、翌年再建。現社殿は平成21年(2009)の造立です。明治7年(1874)建立の馬頭尊が境内にあります。