八高線列車衝突事故と車輪

  • 【所在地】東京都昭島市宮沢町3-15先
多摩川エリア 近代の記憶

八高線は当初から官営鉄道として敷設された鉄道で、最初に八王子南線(八王子-東飯能間)が昭和6年(1931)12月8日に開通し、群馬県高崎までの全線開通は昭和9年10月になります。八高線多摩川鉄橋は開通時に建設されたもので長さは572メートル、橋脚は31本です。

この鉄橋上で悲劇が起きたのは、太平洋戦争終結からわずか9日目の昭和20年(1945)8月24日早朝です。数日来の大雨の中で人為ミスも重なり、単線の八高線でありながら上り下りの列車が鉄橋上(橋脚No.7と8の間)で正面衝突し、少なくとも105人が死亡するという、特異な大惨事となりました。下り列車の犠牲者の多くは復員兵でした。地元の方々等による救出作業も行われ、成隣小学校は遺体安置所となりました。市域の数人も乗車していましたが、犠牲者は確認されていません。

現場の多摩川からは車両の部品などがしばしば見つり、かつては鉄橋下に慰霊碑がありました。

平成13年(2001)5月には中州で錆びついた車輪が発見されました。事故の生き証人である車輪は、今、モニュメントとして堤防上に保存してあります。

  • 堤防にある車輪モニュメント

    堤防にある車輪モニュメント(背景は八高線鉄橋)

  • かつての慰霊碑(昭和63年7月2日撮影)

    かつての慰霊碑(昭和63.7.2)

  • 中州で発見された車輪(平成13年5月27日)撮影

    中州で発見された車輪(平成13.5.27)