啓明学園南に堤防が途切れ、二本にずれている場所があります。地元では「食い違い」と呼び、洪水時には堤防の切れ目から陸地側に水を引入れ、水の勢いを軽減させる目的があったと思われます。
戦国時代に武田信玄が考案したといわれる霞堤[注1]とよく似た形態になっています。永禄12年(1569)の滝山城攻めの際、拝島に陣どったとも伝わる信玄と関連付けるのは飛躍しすぎですが、かつては四番堤まであり、食い違いは3ヶ所あったようです。その後の堤防改修で1か所だけ残りました。
[注1] 霞堤(かすみてい)武田信玄が編み出したとされる急流河川の伝統的治水工法。名前は二重堤防が連続する形が霞がたなびいているように見えることに由来する。同じ不連続堤防である雁行堤(がんこうてい)と合わせ、総称して信玄堤(しんげんつつみ)と呼ぶことも。浅川(日野市)にもあった。