『上水記』には玉川上水全体で無名橋も含めて計82の橋が記載されています。その中で「拝島橋」とあるのが今の拝島上水橋です。明治の初め(1869年)には、橋の南詰に上水に関する高札場[注1]もあったようです。
この場所は古くから往来の要衝で、橋の北で二手に分かれる道を「村山道」「西砂川道」と呼んでいました。このため橋の名前もむしろ「村山橋」が一般的だったようです。
現在の橋は歩道も整備された現代的な橋ですが、これまでも幾度となく架け替えられているはずです。江戸時代は不明ですが、明治初期の『皇国地誌 拝島村誌』では「長四間(約7m)、幅六尺(約1.8m)、次いで明治28年(1895)の「村山橋」架替え記録によると、長さ6間(約11m)、幅9尺(約2.7m)とあります。昭和7年(1932)には初めてコンクリート橋となり、戦後の昭和28年(1953)に架け替え、さらに平成7年(1995)に現在の橋となりました。
右下の図は明治9年(1876)頃に描かれた拝島村の字図。青く着色されているのが玉川上水、赤で太くなっている場所が現拝島上水橋につながる道を表しています。当時の玉川上水は幅3間(約5.4m)となっています。
玉川上水は開通してから15年後の寛文10年(1670)に3間幅に拡幅され、さらに明治初期の通船の際、拡幅されたところもありました。拝島上水橋付近は寛文時代当時の川幅が続いていたことになります。
[注1] 玉川上水高札場 …… 「魚を取るべからず」「ごみを捨てるな」といった掲示がされていた。