旭川のできごと

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No 年月日 西暦 旭川のできごと 出典 備考
1 康正2年(丙子) 1456 シノリ(現函館市)で起きた、マキリ(小刀)の品質と価格を巡るアイヌと和人の争いをきっかけに、東部のアイヌが蜂起. 1
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2 長禄1年5月14日(丁丑)(9.28改元) 1457 東部アイヌの首長コシャマイン、アイヌを率いて道南の館主らを攻撃.長禄2年、蠣崎信広らによって鎮圧され、コシャマインら多数のアイヌが殺される. 1
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3 永正11年(甲戌) 1514 蠣崎氏、居城を上ノ国から松前に移す. 1
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4 天文20年(辛亥) 1551 蠣崎季広、アイヌと講和する.瀬田内のハシタインを「西夷」の首長、知内のチコモタインを「東夷」の首長とし、諸国渡来の商船から年俸を徴収し、「夷役」として両首長に配分(『新羅之記録』はこれを天文19年とする). 12
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5 文禄2年1月6日(癸巳) 1593 蠣崎慶広、豊臣秀吉より蝦夷島に関する国政の朱印状を下付され、諸国渡来商人らに対する取り締まり、船役(交易船に対する税)徴収権を認められる. 13
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6 慶長4年11月7日(己亥) 1599 蠣崎慶広、大坂城で徳川家康に拝謁し、系図と地図を提出.この時、松前に改姓. 2
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7 慶長9年1月27日(甲辰) 1604 将軍徳川家康、松前藩主へ黒印状を発給し、対アイヌ交易の独占権を認める. 4
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8 寛永20年(癸未) 1643 オランダ東インド会社のフリースが金銀島の発見、蝦夷島周辺の調査のため来航.濃霧により根室海峡と宗谷海峡を発見できず、蝦夷島・樺太島・国後島が地続きの地図を作成し、ヨーロッパに伝える. 5
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9 正保1年5月(甲申)(12.16改元) 1644 松前藩、幕府に絵図(正保国絵図)を上呈.蝦夷島の内陸部や石狩川本流はほとんど描かれず. 267
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10 寛文9年(己酉) 1669 石狩河口より7里上流に居を構えるハウカセ、石狩川流域一帯を「上の国惣大将」として束ねる. 8
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11 寛文9年10月22日(己酉) 1669 反松前の軍勢を率いた東蝦夷地シブチャリの「惣大将」シャクシャイン、松前藩に謀殺される.イシカリのハウカセはシャクシャインに同心せず. 38
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12 元禄年間(1688~1704年) 1688~
1704
石狩川に松前藩主の外に、下流から中流カバタまで家臣の商場が存在. 12
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13 元禄1年6月26日~27日頃(戊辰)(9.30改元) 1688 水戸藩船快風丸、西蝦夷地イシカリへ到来.水戸藩の記録によると「石狩川の惣大将」はカルヘカと記す. 9
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14 元禄5年5月29日(壬申) 1692 イシカリのシュクバカイン、「はつしやふ・ましけ・あつた・しくつし・茂入」のアイヌと共に松前藩主に御目見え. 10
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15 元禄13年2月4日(庚辰) 1700 松前藩、幕府に絵図(元禄国絵図)を提出.蝦夷島内陸部の描写は正保の絵図とほぼ同じ. 711
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16 正徳年間(1711~1716年) 1711~
1716
この頃から享保の初め頃にかけて、飛騨屋久兵衛、伊古真別山(幾春別岳)の唐檜(蝦夷松)伐採を請け負う. 13
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17 享保年間(1716~1736年) 1716~
1736
享保の初め頃、京都の儒者並河天民『闢疆録(へききょうろく)』を著し、蝦夷地内陸部の開発を主張. 1415
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18 元文年間(1736~1741年) 1736~
1741
イシカリ13場所が成立し場所請負制が恒常化.「川上之蝦夷」の産物として干鮭・熊皮・狐皮・兎皮が記される. 17
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19 元文4年5月(己未) 1739 ロシア第2次ベーリング探検隊のスパンベルク、前年の千島ウルップ島回航に続き、カムチャッカのボリシェレック港を出帆し、仙台藩金華山沖に達す.日本人と品物を交換し、仙台藩役人と会談.別働隊のウォールトンは、同月、安房国長狭郡天津村の沖合に達す.日本に上陸し住民と交流. 516
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20 宝暦3年(癸酉) 1753 飛騨屋が松前藩イシカリ13場所の夏商の下請けを行なう. 18
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21 明和8年(辛卯) 1771 ハンガリー人ベニョフスキー(当時の史料には「はんべんごろう」と記載)がカムチャッカの流刑地でロシア官船を奪ってヨーロッパに向かう途中、悪天候によって阿波国や奄美大島に立ち寄る.長崎のオランダ商館長宛書簡でロシアが千島列島に砦を築き蝦夷地侵略を計画していると警告. 519
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22 安永7年6月9日(戊戌) 1778 ロシア地方官庁の意向を受けたイルクーツクの商人シャバーリンを指揮官とする探検隊が、ノツカマフ(現根室市域)に上陸.松前藩役人に通商を要求.松前藩、来年の回答を約束.翌年8.7アツケシを訪れたシャバーリンに通商拒否を伝える. 51620
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23 天明年間(1781~1789) 1781~
1789
天明末~寛政の初め頃、「石狩十六箇所(場所)」のうちカムイコウタン(神居古潭)に松前藩主直領場所が置かれる. 30
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24 天明3年1月(癸卯) 1783 仙台藩医工藤平助『赤蝦夷風説考』を著す. 21
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25 天明4年(甲辰) 1784 松前藩イシカリ場所(秋味)請負人は小林屋宗九郎、運上金1800両. 2223
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26 天明4年5月(甲辰) 1784 勘定奉行松本秀持、『赤蝦夷風説考』に注目し、老中田沼意次に蝦夷地調査を進言.併せて同書を献上. 21
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27 天明4年10月21日(甲辰) 1784 老中田沼意次、蝦夷地調査を許可. 21
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28 天明5年2月(乙巳) 1785 幕府初の蝦夷地調査隊、山口鉄五郎・庵原弥六・皆川沖右衛門・青嶋俊蔵・佐藤玄六郎ら江戸を出発.3月松前到着. 2124
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29 天明5年9月(乙巳) 1785 林子平『三国通覧図説』脱稿. 25
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30 天明6年(丙午) 1786 イシカリ13場所帰属アイヌ総人口344人. 2829
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31 天明6年5月(丙午) 1786 林子平『海国兵談』を著す.寛政3年(1791年)発刊.翌4年幕府により絶版. 1526
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32 天明6年閏10月(丙午) 1786 普請役山口鉄五郎・佐藤玄六郎ら、蝦夷地調査の結果を『蝦夷拾遺』にまとめる.その付図「蝦夷輿地全図」に初めてイシカリ川を本道中央を東西に流れる大河として描く. 2427
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33 天明6年10月30日(丙午) 1786 老中田沼意次の失脚で蝦夷地調査中止となり、山口鉄五郎・佐藤玄六郎ら江戸帰還. 21
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34 天明7年(丁未) 1787 ラ・ペルーズ、フランス政府から北太平洋調査の命令を受け、日本海を北上し、アジア大陸東岸、樺太島西岸を探査するも、間宮海峡を発見できず.宗谷海峡を発見し、ラ・ペルーズ海峡と命名. 5
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35 寛政1年(己酉)(1.25改元) 1789 最上徳内、東蝦夷地クナシリ・メナシのアイヌ蜂起について、幕府から事件の探索を命じられた青嶋俊蔵に請われ、再び蝦夷地調査に加わる. 21
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36 寛政1年5月7日(己酉)(1.25改元) 1789 東蝦夷地クナシリ・メナシ地方のアイヌ、場所請負人飛騨屋の運上屋や交易船を襲撃し、松前藩士を含む和人71人を殺害(~13日.クナシリ・メナシの戦い). 213132
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37 寛政1年7月8日(己酉)(1.25改元) 1789 松前藩兵、根室地方ノツカマフに到着.21日投降した挙兵アイヌ37人を処刑. 3132
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38 寛政2年4月(庚戌) 1790 松前藩、アイヌ蜂起の事後対策として「蝦夷地改正」を幕府に提出.蝦夷地管理の改善と蝦夷地及び周辺地域の地理調査を約束. 21
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39 寛政2年6月15日(庚戌) 1790 最上徳内『蝦夷風俗人情之沙汰』を著すと共に、「蝦夷之図」等付図6枚を描く.付図を一つに合わせた蝦夷地図に、神居古潭峡谷と上川地域の地理的景観を描く. 3334
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40 寛政3年1月24日(辛亥) 1791 最上徳内、幕府普請役を拝命し、蝦夷地調査のため松前に到着.厚岸・クナシリ・エトロフ、石狩川等を見分し、12.22江戸帰着. 35
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41 寛政4年(壬子) 1792 イシカリ13場所帰属アイヌ総人口657人. 37
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42 寛政4年(壬子) 1792 この頃の事として、『西蝦夷地分間』は石狩川河口トクヒラより70里上流にウシユシヘツ(牛朱別)、80里上流にシイヘツ(不詳)の地名を記す.トクヒラ場所の交易権益が上川地方に及ぶ. 37
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43 寛政4年9月3日(壬子) 1792 ロシア使節ラクスマン、エカテリナ2世の勅命で、ネモロ(根室)に到着.漂流民伊勢国船頭大黒屋幸太夫らの送還と通商を要求.翌年6月幕府、通商拒否を回答.この間、応接係を勤めた松前藩侍医加藤肩吾自筆の「松前地図」とラクスマンの将来図を相互に写したという. 1636
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44 寛政8年8月14日(丙辰) 1796 イギリスのブロートン、プロビデンス号でアブタ(虻田)沖、エトモ(絵鞆)沖に薪水補給と測量のために来航.松前藩士と交流し、日本北方図(「松前地図」か)を写すことを許された返礼にクック船長の世界航海図を伝えたという. 3536
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45 寛政9年2月23日(丁巳) 1797 松前藩士高橋寛光(壮四郎)ら、『松前地並東西蝦夷地明細記』(『蝦夷巡覧筆記』ともいう)を編集.カムイコタン(神居古潭)、チクベツ(忠別川)、タナシ(現比布町棚瀬山)の三つの上川地名を記載. 38
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46 寛政9年7月19日(丁巳) 1797 ブロートン、再びエトモ沖に来航.松前藩が防御・攻撃態勢を取ったため、閏7.2エトモを出帆. 16
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47 寛政10年(戊午) 1798 本多利明『経世秘策・補遺』を著す.対ロシアを念頭に置き、幕政4大急務の一つとして蝦夷地開発論を説く. 43
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48 寛政10年(戊午) 1798 近藤重蔵、『蝦夷地絵図』を作成.「石狩川上」に「擁護之地」を置く事など、上川地域を拠点とした蝦夷地経営論を説く.図中に「寛政九年巳十一月近藤守重手写」とあるが、寛政10年作成と推測される. 4142
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49 寛政10年3月14日(戊午) 1798 幕府、異国船来航に備え、この日、目付渡辺久蔵(胤)・使番大河内善兵衛(政籌)、17日勘定吟味役三橋藤右衛門(成方)らに蝦夷地の調査を命じる.大河内らは東蝦夷地のシャマニ(様似)まで、三橋らは西蝦夷地ソウヤ(宗谷)までを調査.また別働隊の支配勘定近藤重蔵が東蝦夷地の島々を調査、7月エトロフ島で「大日本恵登呂府」の標柱を建立. 163539
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50 寛政10年7月15日(戊午) 1798 西蝦夷地調査隊、三橋藤右衛門の支配向3人テシヲ川とイシカリ川の川上見分のためテシヲを出立. 40
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