解題・説明
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『新編会津風土記』は、藩祖保科正之の命によって寛文6年(1666)に編纂された『会津風土記』を大幅に増補改訂したものといえる。その発端となったのは、享和3年(1803)に林大学頭(衡)から、旧知の間柄であった藩士の一柳新三郎(直陽)に「以前の『会津風土記』は漢文であり、しかも記述が簡略にすぎるから、古跡・事実などをもっと詳細に書いたものを編纂してはどうであろうか」という意味の手紙がとどけられたことにある。しかもこれは幕閣の意向でもあるということだった。会津藩では、ただちに会所内に編集役場(地志方)を設け、大老の田中玄宰を総裁として一柳新三郎が御用懸となり、用所役人の武井寛平(璧)、岸源五郎(忠恕)、佐藤彦四郎(忠勇)、宗川直記(茂京)らと、儒者の安部井澹園、神学指南の大竹喜三郎(政文)、郡方勤の田村清次右衛門(三省)などが中心となって編纂作業に入った。地志方から郡奉行・代官を通じて町や郷村に「地志編集書上」を提出させ、これらをもととしてさらに調査を深め、領内の界域、山川、原野、関梁、水利、神社、寺院、人物、褒善など、16項目に分けて詳述している。こうして、文化6年(1809)7代(会津)藩主(松平)容衆の序文もでき、6年がかりの編纂事業は完成したのだった。【引用資料:『会津若松市史6 会津藩政の改革』会津若松市役所企画政策部秘書広聴課市史編さんグループ編、会津若松市、2002年)
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