解題・説明
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日本硫黄株式会社が経営する、硫黄製錬所の風景写真である。
明治21年(1888)7月15日に磐梯山が噴火し、同年に渋沢一族が沼尻硫黄山鉱区を取得し、社長細野次郎、鉱山長渋沢仁之助の元、沼の平にて欧米式製錬法を用い事業を開始した。 しかし、明治33年(1900)7月17日、沼尻山が断続的に噴火、鉱山長はじめ従業員は巻き込まれ遭難殉職、事業所・施設等は倒壊埋没するという悲劇に見舞われた。その後しばらくは鉱山区に立ち入るものはいなかったが、明治37年(1904)には山田愼が鉱山を譲り受け、硫黄川渓間の近くに採鉱場を移転し、事業を開始した。 はじめ個人経営で操業していたものを、明治39年(1906)5月、「岩代硫黄株式会社」として会社組織にし、その後事業の拡大及び経営の充実や発展を図るため、明治40年(1907)4月、「日本硫黄株式会社」を設立した。硫黄の製錬は始め蒸気製錬法を採用していたが、コスト面の問題などから、昭和に入ると焼取製錬法が採用された。
開業当時、硫黄は国内外で様々な用途があり、需要が拡大していたため、仕事を求めた人々が集まった。製錬場周辺には多様な施設が整備され、病院や学校も設立された。
沼尻病院は、明治44年(1911)8月1日より診療を開始し、当初は製錬場で診療にあたったが、後に採鉱場にも医院を設け、従業員とその家族の私傷、公傷の治癒にあたったほか、近隣の外来患者の治療にもあたった。
私立沼尻鉱山尋常小学校は、明治45年(1912)3月1日に開校し、鉱山労働者の子どもが入学した。
大正に入ると、製錬場では硫黄の他に二硫化炭素の製品化に成功し、化学繊維の原料として国内生産の60%を占めた。
昭和43年(1968)に閉山し、現在製錬場のあった場所は、ゴルフ場が整備されている。
(「日本硫黄株式会社」については、絵はがき「(日本硫黄株式会社)岩代国沼尻採鉱場より鉄索停車場に致る軽便鉄道」を参照。)
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