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解題・説明
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松山平野の北西平坦部に位置する三津は、西方の海岸部に漁家が散在する村落であったが、慶長8(1603)年に加藤嘉明が伊予郡の松前城(正木城)から松山城に移るのにともない、船奉行所と船場が整備されたと伝えられている。さらに蒲生忠知の後に松山に入部した松平定行により船手屋敷と軍用船が整備され、湊町へと成長した三津町を管理するために町奉行所も置かれた。絵図には松山藩水軍の基地で、城下町松山の外港として発展した三津町の姿が描かれている。北側の砂州には番所により取り囲まれた御船場が見える。この砂州は後には周囲に石塁を築き、ほぼ正方形に近い形に整地されるが、少なくとも本絵図の時代まではほとんど手が加えられていなかったことがわかる。船場には竹垣で区切られた区画があり、作事小屋・木挽小屋・材木小屋・板蔵などが見える。絵図の南側には、松山藩主が参勤交代で乗船、下船する際に休憩する御茶屋が見える。三津は遠浅で大きな船が接岸できなかったため、御召船は御船場から港外へ出ると所定の海面で船列を整え、小船を使って乗船する藩主を待つことになっていた。御茶屋の北側、「杉崎十太夫」の名前が記された屋敷が町奉行役宅、その周囲の「森七太夫」、「勝田金兵衛」などが船奉行役宅で、このエリアが三津の官庁街ともいえる。絵図中央部分は、松山藩の船手の住宅と町人が住む町屋とが入り組んでいる。本絵図は、大正13(1924)年に伊予史談会が三津の大坂屋旧蔵の絵図を筆写したものであるが、原本の景観年代は、町奉行や船奉行の名前から貞享から元禄年間と比定することができる。
(伊予史談会:井上淳)
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