解題・説明
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三田(東京都港区三田)にあった松山藩中屋敷を描いた絵図で、芝愛宕下にあった上屋敷の2倍近くの20,997坪を有していた。元禄15(1702)年の赤穂浪士討ち入り事件後、浪士のうち10人が中屋敷に預けられ、その後庭で切腹した。現在ではイタリア大使館などになっているが、庭の裏手にイタリア語と日本語で赤穂浪士切腹の地を示す碑が建てられている。絵図を見ると、西側が御殿や庭園からなる「御殿空間」、東側が藩士の長屋が建ち並ぶ「詰人空間」になっており、中央の土手を境に東西で機能が二分されている。絵図が作成された当時、中屋敷の御殿には、若殿様である松平定成(後の一三代藩主勝成)が住んでいた。その南側には、池泉を中心にして、起伏に富んだ園路のある山が周囲に配置された池水回遊式庭園がある。池は狭い台地の上部に位置し、その一部を掘削して平地を広げてつくられており、山側からの湧水に加え、掘削することで湧き出した湧水も水源にしているものと考えられている。この池水庭園は、現在のイタリア大使館にもほぼそのまま引き継がれており、貴重な大名庭園の遺構となっている。俳人の内藤鳴雪は、弘化4(1847)年にこの中屋敷で生まれた。『鳴雪自叙伝』には、2歳か3歳の頃、勤番長屋の前の汚水を流す溝に落ちて、大騒動になった話しがユーモラスに記されている。
(伊予史談会:井上淳)
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