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高山社へのいざない
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「高山社跡」は、世界文化遺産「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産のひとつであり、「養蚕改良高山社」の創始者・高山長五郎の生家で養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行っていた場所です。
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ふじおか三大人の足跡
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藤岡には世に多大な功績を残した3人の偉人がいます。和算を飛躍的に発展させた江戸時代の天才数学者関考和、近代的な養蚕法である清温育を全国へ普及させ養蚕技術を確立した高山長五郎、そして日本の航空技術を世界水準に高めた航空設計者堀越二郎。今日の社会を支える技術や産業に大きく影響した3名を紹介します。
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東国古代文化、謎の巨大古墳七輿山古墳とハニワたち
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市内には発掘調査で見つかったものも含めて1,500基以上の古墳があります。 特に白石から上落合にかけては、史跡「七輿山古墳」を始めとして特徴的な古墳が集中しており、上毛野国(かみつけののくに、古代の群馬県)の古代東国文化の中心の一つと考えられていますが、葬られた人物など、未だ多くの謎に包まれています。 ここでは、代表的な古墳と古墳に並べられていた埴輪について解説します。
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中世関東の要、平井城と関東管領上杉氏の盛衰
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室町時代、鎌倉府で関東の統治にあたった鎌倉公方の補佐役として大きな権勢を振るったのが関東管領です。足利将軍家と縁の深い上杉氏が関東管領を務めることが多く、上杉氏の諸流が関東の各地で繁栄します。なかでも山内上杉氏は宗家として大きな力をもち、関東管領を多く輩出しました。山内上杉氏は上野国守護として上野国を地盤としており、その拠点となったのが平井城です。
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藤岡の暮らしの文化
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関東平野と関東山地にまたがる藤岡。水田の耕作から畑作、河川での漁労、林業など、多様な生産活動・生活の営みがあり、それを支える道具・モノたちも多彩です。生産の機械化や生活の画一化が進む以前の、かつての藤岡の自然・生活のなかに使われてきた道具・モノたちを紹介します。どのように使われたか、想像してみてください。
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近世絹市
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藤岡では江戸時代前期には既に絹市が成立しており、その後絹の取引が盛んに行なわれ、京都や江戸から多くの商人や店が集まり、大変繁栄していました。藤岡町には主な2本の通りがあり、東西の通りの動堂通りと、南北の通りの笛木町通りがそれぞれ交代で月6回の合計12回の市が立ち、上州では最多の回数であったと記録に残っています。ここでは、当時の藤岡絹市の繁栄についてを解説します。
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