Three great men in Fujioka
算聖と呼ばれる関孝和は、幼少より学問に親しみ甲府藩や幕府の御納戸組頭という財務職の傍ら和算の研究に生涯を捧げました。独自の記号(傍書法)を開発し自在に数式を表現。算木を使って高次方程式を解く天元術に改良を加えた点竄術を発明するなど従来の和算を発展させ数々の数学的功績を残しました。市指定文化財の秋葉神社の算額は関流の和算を継承した岸幸太郎が明治7年に秋葉神社に奉納した算額です。円里術の問題と解答が示され、幸太郎の師や多くの門弟の名が記されています。
明治元年(1868)に発明されたといわれる「清温育」は、明治17年(1884)までに確立されたと考えられています。「清温育」は、人工的に温度と湿度を管理した「温暖育」と、換気を重視した「清涼育」の長所を取り入れた「折衷育」と言われています。「清温育」は、温湿度の調整と換気を重視するとともに、蚕の食べる桑の管理の仕方や、蚕の成長段階に応じた桑の与え方をマニュアル化したことが特徴的です。
詳しくは『高山社へのいざない』へ堀越二郎は明治36 年藤岡市上落合出身。東京帝国大学工学部卒業。三菱内燃機株式会社(三菱重工業)に就職、欧米諸国研修に派遣されたのち数々の戦闘機を設計。抜群の操縦安定性で海軍の主力となった九試単座戦闘機に続き、従来の常識を超える名機十二試艦上戦闘機(零戦)を完成させ世界に日本の技術力を知らしめました。そして零戦の後継機「烈風」の設計中終戦を迎えます。戦後は国産旅客機開発の設計に参画、日本航空学会長を務めるなど日本航空界に多大な功績を残しました。
この実物大模型は堀越二郎が昭和12年試作要求で昭和13年1月から昭和14年9月まで試作テストを繰り返し、後の零式艦上戦闘機の原型となる試作一号機を宮崎賢治氏他の監修により、当時の姿を忠実に再現したものです。堀越は操縦性能はもちろん、航続距離と重武装の両立するために機体の軽量化と突出部のない空力性能を得るために様々な技術を盛り込んで、世界水準を超える戦闘機(零戦)を開発しました。