近世絹市

Silk Bazaar

藤岡では江戸時代前期には既に絹市が成立しており、 その後絹の取引が盛んに行なわれ、 京都や江戸から多くの商人や店が集まり、大変繁栄していました。 藤岡町には主な2本の通りがあり、東西の通りの動堂通りと、南北の通りの笛木町通りが それぞれ交代で月6回の合計12回の市が立ち、上州では最多の回数であったと記録に残っています。 ここでは、当時の藤岡絹市の繁栄についてを解説します。

絹のまち藤岡

絹市の成り立ち

天明元年(1781)上州・武州の中で藤岡の生絹取引量は最大です。

「六、七十年前から五十年前の藤岡町の百姓の身上・風俗と近年(天明年間)のそれとではすっかりかわり、藤岡町は田舎にも似ない繁昌の土地になった。その証拠には市日の混雑ぶりは高崎よりも栄えているような状態であり、遠く近江の国からの出店もあり、地借人、店借人の多くは他国からやってきた者である。その結果、石高千二百余りの町とは思えず、人口もことのほか多くなった。」

(『天明8年 藤岡町笛木・動堂市立紛争につき地頭戒告書』より)

西上州の脇往還
西上州の脇往還(江戸後期)(出典:「群馬県史通史編5」より一部着色・加工)
 近世の藤岡は代官支配の中、中山道脇往還の下仁田道と十石街道が交差し、北には利根川水運の倉賀野河岸が近接する交通の要衝で、西上州地域の養蚕地帯を結んでいることから上州絹の集散地として繁栄します。江戸時代天明期には絹市は武州・上州で最多の月12回開かれました。また、豊かな商人たちを担い手に狂歌、俳句、国学などの江戸文化が華開きました。

絹市の始まり

近世初頭頃には交通の要衝として周辺の産物が集積し、市が発展しました。

絹市へ

生絹は地元商人により、都市へ運ばれ、販売されました。その後、徐々に都市部呉服商が西上州の生絹に着目、買い付けを行うようになりました。

『上毛藤岡名勝壽語録』菊川英山 画
上毛藤岡名勝壽語録/菊川英山画
諸国道中商人鑑
諸国道中商人鑑
「新版江戸花呉服屋大双六」
新版江戸花呉服屋大双六/渓斎英泉画 山城屋又兵衛版【(公財)三井文庫蔵】

上州武州市場卸領主様并郡附は年次不詳ですが、天明元年(1781)頃に書かれたものとされ、上州(群馬県)、武州(埼玉県・東京都)の各絹市場の取引高を書き上げ、最後にその総量と総額、口銭(手数料)を見積っています。また、文末に下野国足利(栃木県足利)が追記されています。

上州武州市場卸領主様并郡附
上州武州市場卸領主様并郡附

この文書で注目されるのは藤岡市場が絹取引高では他の絹市場の取引高に比較して、群を抜いて数量が多い「五万疋」と書かれていることです。

上州絹市楊の絹・太織取引高
上州絹市場の絹・太織取引高(天明初年)(上州武州市場卸領主様并郡附の取引高を図表化)

また、文末の見積もりで、「但絹壱疋代金弐分積り」で取引額を計算すると10万分、4分で1両換算なので、2万5千両の取引となります。時期によっても相場は異なりますが当時の物価を現在の価値として、1両13万円※1)で考えると取引高は32億5千万円となります。また、口銭を同様に見積もると1両につき銭50文と見積もられていることから1250貫文で312両2貫文が手数料となり、同様に今の価値で計算すると藤岡絹市場だけで約4056万円が手数料として幕府に入るということになるわけです。

この文書の目的や誰に宛てたものかは不明ですが、書かれた時期と文書の初めに幕府の勝手掛老中高崎藩主松平左京太夫輝隆城下の高崎から書かれていること、最後に口銭が見積もられているなどの特徴があります。当時幕府が上州と武州の特産物であった絹と養蚕業発展に目をつけて、絹取引の円滑化を名目に武州・上州の絹市場に改会所を設立して、絹の規格を検査して、その改料を商人から徴収し、その一部を幕府の収入にしようと画策して、天明元年六月に改会所を設立し、七月二五日から実施する布告を出しています。この絹市場改会所設立の布告をきっかけに天明の上州絹騒動に発展しました。これらのことを考え合わせるとこの文書は事前に市場の取引高から口銭(手数料)を積算し、目論見資料としたものと推察されますが真意かは定かではありません。 ※1 日本銀行金融研究所貨幣博物館資料による

藤岡の絹

「上州絹、上野の国藤岡周辺より出づる、幅九寸、丈五丈四尺、絹縞も出づる、縞には長尺六丈ものあり、保田織、ほし織等あり、(中略)さて総じて世間にひの絹(日野絹)というのは、この上州絹の事なり、(中略)高崎は中絹、足利・伊勢崎は次絹なり」

『万金産業袋』(享保十七年刊)

「総名藤岡絹という、絹局(呉服屋)で絹とばかりいうはこのことか、この二品升緯(みみきぬ)ともよく揃いて、加賀絹のつやのなきに、地性のよわきものとおもうべし、染付は大体也、紋付表地にも)用いられるなり、其外何にもこよなしよき絹なり、紛紅(ちうもみ)に染まるは此きぬ也」

『絹布重宝記』(天明八年刊)

藤岡絹市の構造

絹市では大阪や江戸の都市呉服問屋は手代による直接買い付けを行なっていました。市が各所で複数回行われる様になり、主要な場所では都市呉服屋の支店が置かれ、手代が買い付けに使用していた定宿が次第に直接特定の都市呉服問屋と結んで取引代行まで行うようになり、絹買宿として成立しました。絹市では生産者(絹売り人)から絹売宿(仲買)を通じて、絹買宿が買い付ける形で行われるようになり、絹買宿と絹売宿を兼ねるものもありました。

藤岡では絹買宿は安永5年には11軒、文政10年では8軒が知られ、それぞれ江戸や京都の呉服問屋の大店と結んで取引を行っていました。藤岡の動堂町通りでは大丸屋、笛木町通りでは三井越後屋が出店しており、大いに賑わいました。

上州絹の集荷機構
上州絹の集荷機構
絹買宿(絹買継商)・都市呉服問屋
絹買宿(絹買継商)・都市呉服問屋
藤岡町中地図
藤岡町中地図(出典:群馬県管轄第十五大区五小区緑埜郡藤岡町を加工)

藤岡町の二つのメイン通りと鎮守

藤岡の絹市最盛期は上州最多の月12回開かれ、動堂町通りは1、6のつく日、笛木町通りでは4、9のつく日のように交代で市が開催されたと言われています。

この2本の通りにはそれぞれ鎮守が設けられ、動堂町通りには富士浅間神社、笛木町通りでは諏訪神社があり、神輿等が残され、当時の賑やかさを物語っています。

動堂町通り

天正19年(1591)藤岡城主松平(芦田)康貞が動堂の観音像を藤岡町一行寺へ移し、周辺を動堂と称しました。

鎮守;富士浅間神社 岩村田町(宮本町)、上町、中町、下町、古新町(古桜町)、鷹匠町、「安政6年資料」

富士浅間神社

富士浅間神社
富士浅間神社

富士浅間神社の本殿周りを囲む玉垣は江戸時代からあるもので、正面階段付近には右側の柱に大丸屋の「(大)下村氏」とその先の柱に絹買宿の「新井喜兵衛」と刻まれています。

大丸屋が奉献した玉垣
大丸屋が奉献した玉垣

また、左側の柱では岩城桝屋の「[岩]岩城氏」とその先の柱に絹買宿の「(叶)吉田半兵衛」が刻まれており、絹市で繁盛した呉服商大店と地元の顔役、絹買宿との繋がりを示しています。

岩城桝屋が奉献した玉垣
岩城桝屋が奉献した玉垣

笛木町通り

齋藤佐次右衛門の祖先、星野兵四郎の祖先が、現在の高崎市新町笛木町から度重なる洪水を避けて移住したことがはじめと伝えられます。鎮守:諏訪神社

諏訪神社

諏訪神社
諏訪神社
藤岡諏訪神社御神輿
みこし

諏訪神社本殿参道の入り口に建てられている1対の灯籠があり、灯籠の胴中央には「常夜灯」の文字と「天保二辛卯年秋」「衡鶴年謹書」と刻まれています。これは天保2年(1831)の秋に建立したことと地元書道家横山鶴年が文字を書いたことが分かります。その上には三井越後屋の屋号と「奉献」が刻まれています。また、灯籠の載る台石には「三井店」と三井越後屋の8名と石工の名、「天保五甲午年吉日再興」が刻まれています。

さらにそれらを載せる台座は「明治十四年辛巳九月建之」と刻まれています。

この灯籠は三井越後屋によって天保2年に奉献された後、何らかの原因で天保5年に再建されたことが分かります。

灯篭3Dビューア
灯篭3Dビューア
三井越後屋が奉献した灯篭
三井越後屋が奉献した灯篭

この手水石は正面に「清浄水」と刻まれ、左側には「安政四年丁巳七月建之」、裏面には「三井店奉献」と三井越後屋の5名の名が刻まれています。三井越後屋が安政4年(1857)に奉献したことがわかります。

三井越後屋が奉献した手水石
三井越後屋が奉献した手水石

藤岡絹市の商人たち

越後屋

越後屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
越後屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
越後屋(出典:諸国道中商人鑑)
越後屋(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)星野金左衛門
(絹宿)星野金左衛門(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)星野金左衛門
駿河町越後屋正月風景図/鳥居清長画【(公財)三井文庫蔵】

「越後屋」の屋号は三井則兵衛尚俊が武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始めます。この店は高俊の父・高安の官位が越後守だったことから「越後殿の酒屋」と呼ばれます。これが後に高利の「越後屋」の屋号の起源であり、「三井越後屋」から「三越」の名称が誕生します。三井高俊の四男・三井高利は伊勢から江戸に出て1673年(延宝元年)越後屋三井呉服店(三越)を創業しました。そして見世自体は息子達に任せ、自分は伊勢松坂で指揮を執ります。

天和三年(1683)に江戸店を駿河町、現在の三越日本橋店の場所に移転し、両替商の看板も掲げます。このころに当時の商法代金である売り掛けに代わり、「店前売り」と「現金安売掛け値なし」(定価販売)を確立、庶民の心をとらえ繁盛しました。もうひとつは呉服業者間では禁じられていた「切り売り」の断行です。当時は一反単位の取引が常識で、どの店も一反から売っていたものを、客の需要に応じて切り売りし、江戸町民の大きな需要を掘り起こしました。このほか、「即座に仕立てて渡す」というイージーオーダーである「仕立て売り」も好評を呼び、越後屋はやがて江戸の町人から「芝居千両、魚河岸千両、越後屋千両」と呼ばれ、1日千両の売り上げを見るほど繁盛しました。その後、幕府の公金為替にも手を広げ両替商としても成功し、幕府御用商人となり、屈指の豪商となりました。

松坂屋

(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
松坂屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)

屋号は創業者・伊藤蘭丸祐道の苗字から採ったといいます。この伊藤蘭丸祐道の祖先は織田信長の小姓をしていたとされます。「いとう丸」と呼ばれるマークは、丸の中に「井桁」と「藤」を描いたもので、「井」+「藤」で「いとう」を表しています。 慶長16年(1611)、織田家の小姓の子孫である伊藤蘭丸祐道が名古屋本町で呉服小間物商「いとう呉服店」を創業しました。祐道はのち大坂夏の陣で豊臣方について戦死し、呉服店は一旦閉店となりました。

  • 万治2(1659)年祐道の遺児・伊藤次郎左衛門祐基が名古屋茶屋町に呉服小間物問屋を再開。
  • 元文元(1736)年呉服太物小売商に業態転換。正札販売を開始。徳川家の呉服御用達となる。
  • 元文5(1740)年尾張藩の呉服御用となる。
  • 明和5(1768)年江戸進出。上野の「松坂屋」を買収し、同店を「いとう松坂屋」と改称。
  • 明治8(1875)年大阪進出。高麗橋の呉服店「恵比須屋」を買収、新町通に「ゑびす屋いとう呉服店」を開店。
  • 平成19(2007)年 株式会社大丸と経営統合。持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。

大丸屋

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大丸屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
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大丸屋(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)新井喜兵衛
(絹宿)新井喜兵衛(出典:諸国道中商人鑑)

創業者下村彦右衛門正啓(元禄元(1688)年~)京都伏見京町。父・下村三郎兵衛兼誠は摂津国茨木の武将・中川氏の家臣の子孫で、大阪の陣後、商人になりました。正啓はその第五子、三男として後継ぎとなり、19歳の時に行商を始めました。背が低く、頭が大きく、耳たぶが垂れ下がった風貌で、人情に厚く、商売を成功させたことから、「福助人形伝説」の一人として伝えられるようになりました。

  • 享保2(1717)年下村彦右衛門正啓、京都伏見の生家に古着商「大文字屋」開業。(大丸創業)
  • 享保11(1726)年大阪木挽町北之丁に大阪店「松屋」を開店、現金正札販売をはじめる(現・心斎橋店所在地)。
  • 享保13(1728)年名古屋本町四丁目に名古屋店を開店、初めて「大丸屋」を称する。(1910年明治43年閉店)
  • 寛保3(1743)年江戸日本橋大伝馬町三丁目に江戸店(えどだな)開店。
  • 明治45(1912)年デパート形式「京都大丸」開店(現・京都店)。
  • 平成19(2007)年 株式会社松坂屋HDと経営統合。持株会社「J.フロント リテイリング株式会社」を設立。

白木屋

白木屋
白木屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
白木屋
白木屋(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)諸星七座衛門
(絹宿)諸星七座衛門(出典:諸国道中商人鑑)

白木屋は初代大村彦太郎可全が慶安年間に京都の寺の内に材木商として白木屋を開いたのが始まりで、若い時から木材を手がけ、店を開いた時の屋号も白木屋でしたが、商標を定める時にも木材に直接縁のあるもの、曲尺を交差し、その下に一を加え、同業者で首位を占めるという意味で、木材業者の第一位ということであります。寛文2(1662)年に日本橋通り2丁目に間口一間半の小間物商としての白木屋を開きました。開店から3年後の寛文5年(1665年)に当時の一等地であった日本橋通り1丁目に移転し、近隣を買収しながら徐々に店舗の拡張を進めていきました。寛文8年(1668年)には羽二重地の販売を始め、延宝6年(1678年)には縮緬・毛氈・紗・綾等の販売も手掛けるようになり、延宝7年(1679年)に晒木綿、天和元年(1681年)に木綿羽織地に着尺麻と徐々に取り扱い品目を拡張して呉服太物商の仲間入りを果たしました。貞学元年(1684年)には店を拡張したほか、貞享3年(1686年)には高級品とされていた郡内縞を売り出し、宝永元年(1704年)には贅沢品の毛織物を含めた一般呉服物を売出すなど江戸の町人文化の開花に合わせて販売品目を広げ、江戸三大呉服店の一つに数えられる大店に成長しました。

明治36(1903)年地上3階建ての新館が落成しました。日本初の和洋折衷建築のデパートとなります。

座売りを廃し陳列式とし、ショウウィンドウ、女子店員を採用し、日本の百貨店初の「食堂」を設置しました。

明治38(1905)1月6日日本の百貨店初の「福引き」を開催しました。

岩城桝屋

岩城桝屋
岩城桝屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
岩城桝屋
岩城桝屋(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)吉田半兵衛
(絹宿)吉田半兵衛(出典:諸国道中商人鑑)

岩城枡屋については、江戸時代の有力な呉服商であったにもかかわらず近代になって同家が閉店したためほとんどが不明です。岩城枡屋は、名は岩城、屋号は枡屋です。升屋、舛屋とも書きます。代々の名乗りは九右衛門です。初代は寛永2(1625)年に大津で米商を開き、三代目の九右衛門は大坂に進出して呉服店を始めたといいます。寛文12(1672)年3月からは大坂高麗橋畔に店を移し、さらに延宝2(1672)年8月に京都室町二条、元禄3(1690)年には江戸麹町第五街にそれぞれ支店を設け、三都に呉服店を展開しました。一時は大坂の店だけでも300人の店員を抱えていたといわれます。文久3年(1863)7月、将軍徳川家茂を警護する為新選組が大坂に滞在中、商麗橋傍の呉服商岩城升屋に不逞浪士数人が押し入る事件が起きました。山南敬介は土方歳三と岩城升屋に駆け付け、激戦の末に不逞浪士を撃退し、その功により山南は松平容保から金8両を賜っています。この時、山南が使った「播州赤心沖光作」と銘の入った2尺8寸5分の刀が、激しく刃毀れし、切っ先から1尺1寸の所で折れました。この折れた刀は押型にされ、土方の手で小島鹿之助に贈られ、現在は小島資料館で見る事が出来ます。

槌屋

槌屋(出典:諸国道中商人鑑)
槌屋(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)吉田半兵衛
(絹宿)高橋源七※文化15年以降、吉田家へ(出典:諸国道中商人鑑)

「槌屋」の田中家は江州に源を発し、近江源氏の嫡流佐々木四郎高綱が祖先で、日本橋の本町二丁目「槌屋」田中四郎左衛門商店は、十二代続いた老舗です。「槌屋」と云う屋号には面白い伝説があり、初代四郎左衛門は幼少より無限の精力と鉄の如き意志を有し、絶えず他日社会に雄飛の機会を窺って居ました。そして或る日、田圃の中から不思議な槌を拾い、云い知れぬ希望に逸る勇気を感じ、堅い信念を持って、万治元(1658)年、江戸を目指して上ったのです。そして江戸本銀町一丁目に呉服商を開きました。その時に此の由緒ある槌を家号として槌屋とし、小槌は家宝として保存しました。

恵比寿屋

恵比寿屋
恵比寿屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
恵比寿屋
恵比寿屋(出典:諸国道中商人鑑)
(絹宿)星野兵四郎
(絹宿)星野兵四郎(出典:諸国道中商人鑑)

大阪店の前身えびす屋呉服店の創業者は、8代将軍吉宗とは幼なじみで、その屋号も吉宗から贈られた蛭子(えびす)の神像に由来していると伝えられています。

吉宗が将軍になるとえびす屋も江戸に進出し、尾張町(現在の銀座)に店を構えました。江戸の大店として『江戸名所図会』にも描かれています。

呉服屋恵美須屋(えびすや)は、商品を購入すると「恵美須銭」と称して返金され、貯めると吉事があるといわれ大盛況でした。現在のポイントバックのようなものです。

絹市の絵に見えるその外の屋号

市田(高崎)
市田(高崎)(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
近江屋
近江屋(出典:諸国道中商人鑑)
松前屋
松前屋(出典:諸国道中商人鑑)
松屋
松屋(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
画像
(出典:上毛藤岡名勝壽語録)
布袋屋・山本
布袋屋・山本(出典:諸国道中商人鑑)
依田文右衛門
依田文右衛門(出典:諸国道中商人鑑)

藤岡絹市の盛行と華やかな江戸文化

絹市の盛行

絹市は元禄年間(1688〜1704)以降徐々に取引が盛んとなり、安永〜天明期(1772〜1789) にピークを迎えます。藤岡の絹市には多くの絹宿を中心とした江戸・京都の大店呉服商が取引を展開しました。当時の絹市は絹宿が絹市の取引の中心的な役割を果たし、特定の呉服商と結んで代わりに取引を行うだけでなく生産者との交渉も担いました。こうした取引を支えたのが飛脚問屋です。飛脚は手紙などの通信や取引された絹、荷物の送付を担うだけでなく、両替や為替も商売としていました。藤岡には京屋、嶋屋という全国展開する飛脚大店が店を構え、絹市取引決済と物流を行なっています。当時、呉服商の手代(使用人)が多額の現金を持ち歩くことや絹などを直接運ぶことは大変危険で窃盗や盗難だけでなく、手代自体がこうした犯罪に手を染めるリスクが高く、三井越後屋などの大店は地方へ出張する手代が守るべきことを定めた「三井越後屋旅買物式目」(享保6年6月)などの規定を出しています。こうした呉服商のリスクを軽減するために飛脚問屋が為替や物流を担い、飛脚問屋は収益を上げています。

華やかな江戸文化

江戸時代の中頃から後半、絹の取引で集まった商人たちは直接、江戸や京都の文人たちと交流し、藤岡の旦那衆と呼ばれる商人たちの間で狂歌や俳句、儒学、和算などが流行しました。 主な人物では冨田永世や大江丸(嶋屋佐右衛門)は江戸や京都へ行き来することで、江戸や京都の文化人と交流して狂歌や俳句などの藤岡の豊かな文化を築きました。また、冨田永世は江戸で国学を学び、「上野名跡志」を著し、一方、当時流行った狂歌を嗜み、この地域の狂歌壇の中心的な存在でもありました。絹買次商児玉屋の新井玉世、絹宿の桜井浦人など狂歌や俳句で大いに活躍しました。新井玉世は藤岡町4丁目に呉服商「新兵」を営み、冨田永世に狂歌を学びました。その後、江戸の六樹園石川雅望に学び、桑樹園の号をもらいました。斜め向かいに住んでいた菊川英山に自著「神風日記」の挿図を書いてもらい、「上毛藤岡名勝寿語録」では、狂歌や文を書いています。絹市などの絹取引がきっかけで、藤岡に咲いた豊かな江戸文化を支えた人々です。

新井玉世
新井玉世
神風日記第1巻旅立ちの図/新井玉世著 菊川英山画
神風日記第1巻旅立ちの図/新井玉世著 菊川英山画

藤岡三山

そうした文化人の中でも俳諧人の桐淵貞山、儒学者の片山兼山、浮世絵師の菊川英山は「藤岡三山」と称えられています。

桐淵貞山は医術を学び、医者となりましたが、俳句を得意として松本貞徳らの貞門派の松本尺山に学び、俳諧の指導者となりました。49歳で家業を息子に譲り、俳諧に専念しました。当時の江戸の俳諧では松尾芭蕉の門下がもてはやされていましたが、貞山は貞門派の直門として、上州だけでなく江戸にも門弟を大勢持つ俳諧の指導者でした。

片山兼山は藤岡西平井に生まれ、17歳で江戸へ出て、儒学者鵜殿士寧に儒学を学び、熊本藩、松前藩の儒学教師となりました。その後、江戸で私塾を開き、儒学各派の折衷学派を創始し、優れた人材を輩出しました。子は朝川善庵であり、同様に儒学で活躍しました。

菊川英山は江戸で活躍した文化期を代表する浮世絵師で、美人画を得意として、当時浮世絵界の第一人者であった歌川豊国と並んで「役者絵は豊国、美人画は英山」と宣伝されました。晩年、藤岡町4丁目の娘とよの嫁ぎ先であった呉服屋「児玉屋」に身を寄せ過ごしました。市指定重要文化財「観桜舟遊図」や「富士浅間神社祭礼絵巻」「上毛藤岡名勝寿語録」などの作品を残しています。英山の墓は成道寺にあり、市指定文化財となっています。

観桜舟遊図/菊川英山画【群馬県立歴史博物館蔵】
観桜舟遊図/菊川英山画【群馬県立歴史博物館蔵】
絵馬/菊川英山画【諏訪神社蔵】
絵馬/菊川英山画【諏訪神社蔵】

参考資料