解題・説明
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この文書は年次不詳であるが、天明元年(1781)頃に書かれたものとされ、上州(群馬県)、武州(埼玉県・東京都)の各絹市場の取引高を書き上げ、最後にその総量と総額、口銭(手数料)を見積っている。また、文末に下野国足利(栃木県足利)が追記されている。 この文書で注目されるのは藤岡市場が絹取引高では他の絹市場の取引高に比較して、群を抜いて数量が多い「五万疋」と書かれていることである。また、文末の見積もりで、「但絹壱疋代金弐分積り」で取引額を計算すると10万分、4分で1両換算なので、2万5千両の取引となる。時期によっても相場は異なるが当時の物価を現在の価値として、1両13万円※1)で考えると取引高は32億5千万円となる。また、口銭を同様に見積もると1両につき銭50文と見積もられていることから1250貫文で312両2貫文が手数料となり、同様に今の価値で計算すると藤岡絹市場だけで約4056万円が手数料として幕府に入るということになるわけである。 この文書の目的や誰に宛てたものかは不明であるが、書かれた時期と文書の初めに幕府の勝手掛老中高崎藩主松平左京太夫輝隆城下の高崎から書かれていること、最後に口銭が見積もられているなどの特徴がある。当時幕府が上州と武州の特産物であった絹と養蚕業発展に目をつけて、絹取引の円滑化を名目に武州・上州の絹市場に改会所を設立して、絹の規格を検査して、その改料を商人から徴収し、その一部を幕府の収入にしようと画策して、天明元年六月に改会所を設立し、七月二五日から実施する布告を出している。この絹市場改会所設立の布告をきっかけに天明の上州絹騒動に発展した。これらのことを考え合わせるとこの文書は事前に市場の取引高から口銭(手数料)を積算し、目論見資料としたものと推察されるが真意かは定かではない。 ※1 日本銀行金融研究所貨幣博物館資料による
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