機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
函館市/函館市地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 13件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
函館市史 通説編 第二巻
(烏賊釣漁業の発展と入稼漁民)
烏賊
釣漁業
の発展と入稼漁民 北海道全体の鯣生産量は、明治20年代の半ば前後が最も多く、5000石から,また、烏賊(
いか
)の生売については、20年代終わりの4万貫の水準から増加を続け30年代前半には10万貫台,明治始めの烏賊
釣漁業
は、小舟による2、3海里以内の操業で漁獲量は未だ少なかった。,烏賊
釣漁業
は、こうした点で漁船漁業の発展、漁業の沖合化として象徴的なのである。 ,地元の漁業者も烏賊の時期になると、これだけの割合で
釣漁業
に従事しているわけである。 / 烏賊
釣漁業
の発展と入稼漁民
函館市史 通説編 第一巻
(いか漁鰊漁)
いか
漁鰊漁
いか
釣漁業
は、外国貿易が開けたため、やや進歩したが、当時はなお小舟に乗ってわずか半里ないし /
いか
漁鰊漁
南茅部町史 上巻
([幕末・明治のイカ釣り漁])
[幕末・明治の
イカ
釣り漁] 南茅部沿岸の
イカ
釣漁業
は弘化年間、すでにおこなわれていた。 ,烏賊
釣漁業
ハ、安政年間ヨリ陸奥ノ漁夫ヨリ行ハレタルガ、明治七、八年頃、南部ノ人某、烏賊
釣漁業
ノ利ヲ説キテ,函館地方は、北海道における主要な
イカ
の産地となっていく。 ,明治一五、六年、昆布の豊況とともに
イカ
漁も多く、沿岸の漁家の収益は大きく増した。,茅部郡、とくに恵山漁場として、南茅部の沖合で
イカ
釣り漁業を営むものが増える。 / [幕末・明治の
イカ
釣り漁]
戸井町史
(七、集団操業船「とい」の沿革)
指導実績(昭和四二年度) 一本
釣漁業
の漁業改良指導、
いか
なご抄網の夜間操業秩序の確立及び漁場調査,、さめ延繩漁業の漁場開発調査、
いか
釣漁業
の機具普及と漁報通報、まぐろ延繩漁業の漁具漁法改良及び漁場延長調査,ぶり曳網漁業の漁具漁法の改良漁況通報、いわし抄網漁業の漁況通報、たら延繩漁業の漁法研究調査、めばる一本
釣漁業
椴法華村史
(発動機船の登場)
漁獲高 昭和九年渡島支庁管内水産業概要より作成 椴法華村の柔魚
釣漁業
従漁船数 椴法華村, スルメと
イカ
の産高
恵山町史
((7)尻岸内の漁業生産と村の漁政施策)
昭和九年度 ・沖合漁業は各漁業共に概ね好況を呈し、殊に柔魚
釣漁業
に在りては、昼柔魚の奇現象さえ現出し,、鱈
釣漁業
また良績を収めかの市況終始好調を持続し、同三年来凶漁に悩まされた漁民も聯か愁眉を開くを得たり,
イカ
・スルメ全盛時代
イカ
の生産高は大正年間著しい増加を見せ、昭和前期、減少傾向にあったが13年以来再,
イカ
釣漁業
は他の漁業に比べて船主の経営経費の面では人件費の占める割合が非常に少ないが、これは現物歩合制,このような現物歩合制は明治時代から
イカ
釣漁業
で広く行われていたもので、川崎船時代には乗子9割・船主1割
函館市史 銭亀沢編
(天然コンブについての認識)
また、昭和五十年から五十八年までは大タモ網でのイワシ漁業、同五十年から六十年までの
イカ
釣漁業
などの漁船漁業
恵山町史
((4)尻岸内村の新農山漁村振興計画)
漁具の改良 漁具の改良については、
イカ
釣漁具の画期的な進歩が特筆される。 ,この時代、古くから
イカ
釣漁業
に専ら用いられてきた“トンボ・ハネゴ”などの漁具はすでに過去のものとなっていった,すなわち、昭和30年代中頃「回転ローラー式
イカ
釣具」が現れたからである。,(後述するが)この漁具の出現は
イカ
釣漁業
に革命をもたらしたといっても過言ではない。,②天日干に頼っていたスルメ
イカ
乾燥の近代化のため乾燥機を設ける。
恵山町史
((1)漁業改革・新しい漁業法)
トン数五トン以上の動力漁船を使用するもの) 五 さんま棒受網漁業(動力漁船を使用するもの) 六
いか
,
釣漁業
(『北海道漁業調整規則の別表』に掲げる海域において、動力漁船を使用するもの) 七 めぬきうお延縄漁業
函館市史 通説編 第一巻
(狩猟と漁労)
原始農耕や原始牧畜という生産段階に入っているが、日本では縄文時代の後半になってから農耕があったのでな
いか
といわれてはいるが,日本は大陸と違って海洋や河川に恵まれ、漁労に依存していたことが多かったのではな
いか
と考えられる。,渡辺誠の『縄文時代の漁業』によると、網漁業を主とする内湾性漁業と、
釣漁業
及び回転式離頭銛を主とする外洋性漁業,、縄文後期あたりから、土掘り具と考えられる打製石器などが出土するので、生産形態に違いがあったのではな
いか
といわれている,ではすでに陸耕がなされ、いも、ひえ、あわ等の栽培も行われて原始的農耕社会に入っていたことを示すものではな
いか
とも
函館市史 通説編 第二巻
(漁業生産の推移)
このような地元漁民による漁業展開のなかで明治5、6年頃から佐渡漁民による烏賊
釣漁業
の函館沖への進出があり,烏賊(
いか
)
釣漁業
は、この後、羽越地方からの入稼が増加し、漁獲量を大きく増大させる。,しかし、既に指摘したように内地漁業者による底引網や鳥賊(
いか
)釣・延縄等の新漁業が導入され、急速に普及,規制を受けなかった烏賊
釣漁業
は鯣に加工され、生産量も飛躍的に増加する。
恵山町史
([昭和(戦前・戦時)の税制])
但し、柔魚(
イカ
)
釣漁業
を除く。 許可漁業にして着漁せざるものに対しては五割を減率賦課す。,ただ、一般住民にはなかなか理解ができなかったのではな
いか
と思われる。 ,すなわち、村民税が[住民サービスを受けるための負担金であるならば、受益者として平等であるべきではな
いか
椴法華村史
(目次)
……………………………………610 昭和初期の鰮漁業/戦後の鰮漁業 第四節 烏賊(
いか
,烏賊漁業……………………………………………………633 するめ烏賊の増産/昭和二十七年烏賊
釣漁業
/ 1ページ