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椴法華村史
(ウラヤコタンへの襲来)
ウラヤ
コタン
への襲来 『新室蘭市史第一巻』によれば、 天保二年(一八三一)二月二十日、,一隻の外国船が厚岸場所ウラヤ
コタン
に来航した。 / ウラヤ
コタン
への襲来
函館市史 通説編 第一巻
(アイヌ蜂起の底流)
の社会形態も、もちろん生活は漁猟経済を主体としながらも、一定の階級分化が進み、旧来の血族を中心とした
コタン
,といわれる共同体から、地域的社会の共同体に変化し、更に地理的条件から地縁的な共同体の連合も形成されて、酋長(
コタン
コロクル
南茅部町史 上巻
(運上屋)
寛政年間までは尻岸内から椴法華、そして尾札部、臼尻、鹿部辺は、まだアイヌの集落(
コタン
)があって、和人
南茅部町史 上巻
(寛政三年五月)
寛政三年五月 二八日、朝早くネタナヰの
コタン
のアイヌに〓(カンジ)(車〓(くるまがい))をこがせて舟,=ここから遠い海岸に夏浦(シャ
コタン
)といって斑竹を出すところがある。,シヤモ(和人)はそこをシャ
コタン
といっている。同じ意味あいである。 ,この
コタン
からはメノコ(アイヌの婦人)二人に漕がせて舟を出すことになる。,和人(シヤモ)はこの
コタン
をシカベ(鹿部)とだけいうのである。
函館市史 通説編 第一巻
(旗合せの糾問)
旗合せの糾問 それがどういうことからか、折から厚岸のウラヤ
コタン
の外国船乱暴事件の調査のため、蝦夷地
南茅部町史 上巻
(菅江真澄紀行)
六月三日 フルシベ
コタン
よりアイヌの舟にのり、山越内でおり陸路をゆきシラリカに泊る。 ,五日、六日 滞留 七日 舟で出発、アブタの
コタン
に泊る。
椴法華村史
(ロシアの襲来)
ロシアの襲来 文化三年(一八〇六)九月、フォストフ等は樺太クシュ
コタン
を掠奪し、運上屋を焼く。
函館市史 通説編 第二巻
(原初的蓄積の第1期)
場 主 名 木田長右衛門 山口徳蔵 相原寅之助 永野弥平 漁 場 名 タ ラ ヰ カ タラン
コタン
, 15年 20 14 14 14 13 21 9
コタン
ケシ,タラン
コタン
11年 7号 20年 「サガレン島漁場沿革一覧」(外交資料館蔵
戸井町史
([戸井と近隣の変遷])
ここでまた
コタン
の蝦夷舟に乗りかえてコブイの
コタン
を経て、ネタナイという
コタン
につきここに宿泊した。,遠い
コタン
にシヤク
コタン
(夏浦)といって班竹(シャ
コタン
竹)を出すところがある。,シヤク
コタン
は鱒の網引きをして、夏季だけ住居のある
コタン
の名である。,和人はここをシャ
コタン
(積丹)といっている。 ,シャモはこの
コタン
をシカベといっている。
恵山町史
(1、異国船の来航)
・一八三一年(天保二年)二月、厚岸のウライネ
コタン
沖に異国船来航上陸、厚岸勤番所の出張人と戦闘となる。,松前藩も藩士を派遣し応戦するが、ウライネ
コタン
・キリタップ(霧多布)の漁小屋焼払いを受ける。
椴法華村史
(〔字地名地番改正による地名〕)
トトホッケ ミツイシ トトボッケ トトホッケ
コタン
函館市史 通説編 第一巻
(外国船再出現)
更に天保2(1831)年2月20日、1隻の外国船が厚岸場所ウラヤ
コタン
に停泊、ときどき発砲するので、厚岸勤番谷梯小右衛門
函館市史 通説編 第一巻
(ロシアの樺太・択捉侵寇)
露米商会員フォストフが、樺太のオフイトマリに上陸して蝦夷の小児を捕え、更に我が国樺太東部経営の根拠地クシュン
コタン
南茅部町史 下巻
(義経の飯椀)
『えぞのてぶり』 こゝにイタンギという磯(
コタン
)の名あり〔天註-イタンギは椀をいひ、シユマイタンキ
函館市史 通説編 第一巻
(樺太漁業)
また米屋喜代作、山田文右衛門も同じく出稼ぎを出願して差配人並に命じられ、幕府は、東海岸知床岬からマクン
コタン
恵山町史
([昆布の道])
彼等は館を築き和人村をつくり
コタン
のアイヌ達や下北からの出稼ぎ漁師の収獲する昆布や海産物を商った。
函館市史 通説編 第一巻
(森林隈界以内での生育)
、ミヤマオダマキ、モミジカラマツ、イワベンケイ、ホソパイワペンケイ、ダイモンジソウ、ヤマハナソウ、シ
コタン
ソウ
南茅部町史 上巻
([地名のうつり変わり])
ホンキナウシ ホッキナウシ(ホンキナウシ) ポンキナヲシノ ポンキナヲシ村 シ
コタン
,リブンシリ 臼尻 臼尻村 臼尻 ウスジリ会所 臼尻 ウシジリ
コタン
南茅部町史 下巻
(アイヌ神話)
の神からもらった火 オキクルミが、人間(アイヌ)のために火をもらいに天上の国造神(くにつかみ)(
コタン
カラムイ
椴法華村史
(一七〇〇年代の椴法華近海の海運)
蝦夷船にてコブイ・ネタナイに着き宿泊 二十八日 蝦夷船にて跠山(恵山)の麓をすぎ、トドホッケの
コタン
函館市史 通説編 第一巻
(ゴロウニンの捕縛)
その応接の間にも、ゴロウニンは、ケラムイ岬やセンペ
コタン
に部下を上陸させ、食料を得たり採水をしたりしている
恵山町史
(新たに設けられた19の支庁 明治30年(1897年)10月)
占守(しむしゅ)郡(バラムシル・シュムッシュ島他)、さらに、同18年に根室国花咲郡から分離した色丹(し
こたん
戸井町史
(二、魚類以外の海棲動物)
太平洋岸では胆振近海まで、日本海岸は、積丹(しゃ
こたん
)海域を更に北上して、利尻、礼文がアワビ、ワカメ
函館市史 通説編 第二巻
(鰊網全盛の第3期)
日本人の鰊漁場は西海岸のほかに、東海岸のワーレ、マクン
コタン
、栄浜やアニワ湾内にあり、合計の漁獲石数では,197 61,167 東 海 岸 タラヰカ タラン
コタン
,ナ イ 河 内 エホロコフナイ ナヨロ マタン
コタン
戸井町史
(一、蝦夷時代の概観)
蝦夷は川辺や海岸近くに堀立小屋を作って住み、各
コタン
は酋長が統治し、和人の支配権力が全然及ばなかった時代
南茅部町史 下巻
(熊若神楽)
あら)(わ)ねで飯(まま)炊いで それでもアンサマ(婿さま)黙ってで 親爺の叱言(こごと)
こタン
トタント
南茅部町史 上巻
([蝦夷行程記])
ハ村の下の懸る 陣羽織と いへる妓女(ぢよろう)あり 長崎俵物(ひようもつ)方会所あり エヒヤ
コタン
戸井町史
([戸井の万体仏と貞伝上人])
この時南部の大畑からこの
コタン
(村)に来ていた伝七という者が、貞伝上人作の万体仏を持っていたために、その
戸井町史
(十、〓宇美家(東浜町))
第吉が定住した頃の鎌歌は蝦夷の居住地で、シンタ川附近に蝦夷の小さな
コタン
があり、昆布漁をしており、定着
戸井町史
(二、戸井への和人の定着)
瀬田来、戸井、鎌歌、原木、日浦、尻岸内、古武井、根田内、椴法華などの部落は蝦夷の酋長(乙名(おとな))が
コタン
函館市史 通説編 第二巻
(船舶購入と航路の開拓)
同じく同年7月には函館と樺太の南溪(クシュン
コタン
)の間の乗客運賃仮規則が定められ、この方面への航路も
戸井町史
([戸井町の屋号調])
先年、積丹来岸(しゃ
こたん
らいけし)の旧運上屋(脇(わき)本陣)〓岩田家に保存されていた、明治十三年(
南茅部町史 上巻
([慶祥丸漂流])
長夷マキセン一同 七月下旬 ホロムシリ 出船イタシ 海路十八九里程ニテ ヲン子
コタン
,嶋ヘ渡リ 夫ヨリ凡六七里程ニテ ハルマ
コタン
嶋ヘ渡リ 夫ヨリ凡一一里程ニテ シャシ
コタン
嶋
恵山町史
((3)円筒土器)
、函館市函館空港第4地点遺跡、八雲町栄浜1遺跡などでは大規模な集落跡が発掘され、サイベ沢遺跡、八雲町
コタン
南茅部町史 上巻
(明治の漁場図)
一 三 遊楽部川 三 一 七 三 } 一〇 山越内村 ト
コタン
恵山町史
(4、村政のはじまり)
原 〃 掛澗(かかりま) 鷲ノ木 〃 尾白内(おしろない)森 蛯谷古丹(えびや
こたん
函館市史 通説編 第二巻
(新しい産業分野をめぐって)
北蝦夷地では、クシュン
コタン
で、現地の出役山本源一郎や支配人と、「鯨漁手始」について相談していた(前出
戸井町史
([戸井の地名考])
蝦夷だけの住んでいた
コタン
であったので、和人が「エゾの村」即ち「蝦夷村」と名づけ、汐首の人々が「エジムラ,オヤスの変遷を推量して見ただけでも、寛文十年(一六七〇)頃は和人の空家(あきや)が十五戸あり、アイヌの
コタン
椴法華村史
(目次)
後松前藩時代 …………………………………………………………1210 英・来船の来航/ウラヤ
コタン
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