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恵山町史
((6) 深海で生まれるドンコ)
(6) 深海
で
生まれる
ド
ンコ 海釣りの外道としてあげられる
ド
ンコ(エゾイソアイナメ)、この魚を使った,
ド
ンコ汁の味は格別
で
ある。,この
ド
ンコ、ごく当り前に沿岸
で
釣れる魚だが、
ど
れだけたくさんの
ド
ンコを調べても成熟した魚は1尾も発見
で
きない,その後、水深1000メートル近くの深海トロール調査
で
ようやく成熟した
ド
ンコが採集
で
きた。,沿岸
で
数年間かけて成長した大型の
ド
ンコは、秋深くにいっせいにはるか南の深海の産卵場に移動していくことが / (6) 深海
で
生まれる
ド
ンコ
函館市史 銭亀沢編
(どんど焼き)
ど
ん
ど
焼き 昭和三十年頃からおこなわれるようになった。七日の朝に、お神酒を神棚に供え灯明をともす。,拝んだ後に玄関・神棚・床の間な
ど
の注連縄や注連飾り・輪としなな
ど
全部をとりはずし、まとめて氏神神社へもっていく,神社
で
は、神職のお祓い後、古い神符・お守りな
ど
といっしょに正月飾りを焼く、神職のいない神社
で
は、神職に,代わって「別当」や「神社総代」な
ど
の神社役員がその仕事をする。 /
ど
ん
ど
焼き
函館市史 通説編 第一巻
(エドワード・S・モース)
エ
ド
ワー
ド
・S・モース エ
ド
ワー
ド
・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚,英文『大森貝塚』と邦文『大森介墟編』の2論文を東京大学理学部の最初の紀要に発表しているが、日本考古学界
で
初,残した貝塚と考えたのに対して、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種
で
、,大森貝塚人のように土器を作った人種をアイヌ民族以前のもの
で
あると考えた。 / エ
ド
ワー
ド
・S・モース
椴法華村史
(アイドマリ)
アイ
ド
マリ アイの風とは北風のこと
で
、東津軽郡及び富山県方面の方言
で
ある。,トマリは船をつなぐところを意味し、アイ
ド
マリとは、北風の時に船をつなぐ所という意味
で
あって、天明三年( / アイ
ド
マリ
函館市史 通説編 第一巻
(ホンドイタチ)
ホン
ド
イタチ 徳川時代の末ころから明治にかけて、ネズミを追って船中に忍び込み、本道へ渡って繁殖したもの
で
ある,当地域
で
は明治中期から目立ち始め、明治から大正にかけては市街地の周辺、近郊の農村
で
鶏舎や兎(と)舎の被害,明治40年、函館の毛皮商松下熊槌はロン
ド
ン万国博覧会に渡島産としてこの毛皮200枚を出品したが、質の良好,当時に比べると最近
で
は、市街化の進行、捕食小動物の減少、猟具の進歩な
ど
により、当地域の個体数も激減している,模様
で
ある。 / ホン
ド
イタチ
函館市史 銭亀沢編
(子どもを守る会)
この会は、銭亀沢地区を構成する八つの町から構成される「銭亀沢地区子
ど
もを守る会連絡協議会」
で
ある。,昭和四十年代に活動が活発
で
あった石崎町子
ど
もを守る会の場合をみてみる。 ,時の子
ど
もみこし、節分の豆まき大会な
ど
で
あった。 ,現在
で
は、函館市子
ど
も会育成連絡協議会の組織の一員になっており、市の子
ど
もの祭典には参加している。,また、会費も全戸から徴収していたが、子
ど
ものいない世帯から苦情が
で
て、子
ど
も単位の会費徴収に変化した。 / 子
ど
もを守る会
戸井町史
(三、子ども会と子ども愛護(育成)会)
これが戸井町子
ど
も会の始め
で
ある。,ま
で
約四年間続いたが、運営上のいろいろな障碍があったため、各地域の父母の協力を得て再発足しようということ
で
,これに刺激されて、町内各地区に、子
ど
も愛護会或は子
ど
も育成会の名
で
、子
ど
も会の後援母体が誕生し、昭和四十五年,ま
で
に、全町に十六の子
ど
も愛護(育成)会が結成された。 ,のたのしみ会、かるた会、雪まつり、書初め、節分の豆まき、映画会、新会員を迎える会、お別れの会、総会な
ど
で
ある / 三、子
ど
も会と子
ど
も愛護(育成)会
函館市史 別巻 亀田市編
(地域子ども会)
地域子
ど
も会 社会事情の安定に伴って子
ど
もの幸せを願い、有為の社会人に育つことを望む要請にこたえて、,地域的な子
ど
もの集りが、いわゆる子
ど
も会の結成となり、地域における社会行事への参加を通して、その育成が,当町
で
もこれら団体の善良なる成長を念願し、活動を高めるための助成として、昭和三十七年度から補助金を交付,しかるに単位子
ど
も会数が多くなるにつれ、団体相互の友和、研修結果の交換な
ど
は容易に進まず、連合団体を結成,する必要から、三十八年七月二十四日、各単位団体代表者会議によって、「亀田町地域子
ど
も会連合会」の結成をみた / 地域子
ど
も会
恵山町史
([学校ができるまでの教育])
1870年)11月18日生」とあり、尻岸内村に学校が創設された1880年(明治13年)には、10才の子
ど
も
で
ある,寺子屋
で
学んだとされる松本由松については、「商売往来」「國郡村名産手紙之文」「摂津東海道」「國尽し」な
ど
,「いろは」や数字な
ど
をまず習い覚え次に手本を習うの
で
ある。 ,下伊那郡は信州長野県
で
あり、この持ち主から
ど
ういう経路
で
松本家に伝わってきたのかは定か
で
ない。 ,多くの学ぶ意志を持った子
ど
もたちへ、誰が
ど
こ
で
ど
のように、
ど
の位の規模
で
学校教育に代わるべき教育活動・ / [学校が
で
きるま
で
の教育]
函館市史 通説編 第一巻
(リコルドの再航)
リコル
ド
の再航 リコル
ド
一方、ゴロウニンの救出を誓って去った
デ
ィアナ号副艦長リコル
ド
は、文化,5名を連れて再び国後の泊に来たが、国後在勤調役並太田彦助らがこれを見て厳重な陣固めしてこれを迎えたの
で
、,リコル
ド
はこれを遠望して近づきかね、翌日歓喜丸船頭1名を上陸させて会見を求め、拒絶されると五郎次を派遣,しかし、リコル
ド
はこれを信ぜず、ほかに信頼に足る日本人を捕え、その真相を確かめるため日本船の往来をうかがっていた / リコル
ド
の再航
函館市史 銭亀沢編
(ドンジャと刺し子)
ド
ンジャと刺し子
ド
ンジャを仕立てるための刺し縫いは細かい仕事なの
で
、電気が普及する以前は、夜なべ
で
,刺し子をするとランプがすぐ曇るの
で
ランプ掃除も含め大変だったそう
で
ある。,
ド
ンジャを作るときは、刺しやすいようにあらかじめ布を洗い、おむつのように柔らかくした紺または黒の木綿地,手の速い人は三筋おき
で
一週間くらい、四筋おき
で
四日間ほ
ど
で
刺し終えたという。,厚くなるの
で
裁ちめのままにし、別布(黒木綿)
で
覆輪(五ミリメートルほ
ど
の玉縁様の縁取り)を付けた。 /
ド
ンジャと刺し子
椴法華村史
(海馬(とど)岩)
海馬(と
ど
)岩 『北海道蝦夷語地名解』によれば、「アイヌ語
で
ド
カリシヨ、のちこれを和人、海馬岩という / 海馬(と
ど
)岩
函館市史 銭亀沢編
(生育と子どもの衣服)
生育と子
ど
もの衣服 生後一年くらいま
で
の赤ん坊はイズコに入れて育てたが、誕生過ぎくらいからはおぶって,布地は主に銘仙
で
、着物をたおしたものな
ど
を使い、衿には黒い繻子を掛けた。,就学前の子
ど
もには男女とも、昭和三十年くらいま
で
は、着物を着せて育てることがあった。,学童期の子
ど
もの衣服は昭和初期頃ま
で
和服形式
で
あり、夏も冬も着物を着た。,昭和初期から昭和十年代中頃ま
で
が、子
ど
もたちの日常着が和服から洋服へと変わっていく過渡期
で
あった。 / 生育と子
ど
もの衣服
椴法華村史
(どうだんつつじ祭り)
ど
うだんつつじ祭り サラサ
ド
ウダンとツツジの里、椴法華へ
ど
うぞと、村と観光協会共催にて、第一回
ど
うだんつつじまつりが,、昭和五十九年六月、三日間に亘り国民宿舎「恵山荘」前公園
で
実施された。 ,カラオケの
ど
自慢大会 ビール早飲み大会 民謡歌謡ショー きき酒大会 舞踊ショー, なお多勢の観光客が村内外から、
ど
うだんつつじ祭りを訪れ、花見客
で
にぎわいをみせた。,昭和61年7月 華やかな
ど
うだんつつじ祭り /
ど
うだんつつじ祭り
函館市史 通説編 第二巻
(エルドリッジの来函)
エル
ド
リッジの来函 エル
ド
リッジと生徒たち 開拓使の医師の養成についての方針,開拓使は函館病院の外科医長としてアメリカ人医師エル
ド
リッジを招へいし、明治5年に就任した。,講義の内容は、治療学、生理学、外科学、解剖学、薬剤学、産科学及婦人病論な
ど
で
あった。,・著『御雇医師エル
ド
リッジの手紙』)。,田沢謙、村岡格、赤城昌英な
ど
はその後、函館病院の医師として名前をみることが
で
きる。 / エル
ド
リッジの来函
戸井町史
([下海岸のクドキ節])
このク
ド
キ節は、椴法華から函館ま
で
の村々の地名、地形、地物、名所、社寺、伝説な
ど
を歌い込んだもの
で
ある,ク
ド
キ節は昔下海岸をワラジがけ
で
歩いたり、
ド
サンコ馬の背に乗って歩いたり、或は小さな舟
で
沿岸を漕ぎ渡った,ク
ド
キ節は下海岸の無形文化財
で
ある。 ,ク
ド
キ節は歌詞が素朴
で
あり、曲が哀調を帯びていて、素朴な漁民の共感を呼び、
ド
サンコ馬の背にゆられながら,レコー
ド
に吹き込まれているク
ド
キ節 最近コロンビヤ社
で
この歌をレコー
ド
に吹き込ん
で
いる。 / [下海岸のク
ド
キ節]
南茅部町史 下巻
(〔方言と子どもたち〕)
、泣きの一手の何人かの一年生にとって、この泣き
ど
ころを上手に聞きとってもらうま
で
は、教師の言葉は耳に入,十日ほ
ど
で
、五十六人の一年生は全員正しく自分の名前を書くことが
で
きた。 ,讀みの指導
で
も、話し学習
で
も、その中に
ど
のような形
で
ど
の程度発音指導をとりいれていくかということ
で
心労,、日々の学習が
ど
うしても展開していかないよう
で
あった。 ,尾札部方言がもっている音色盲(音痴)を
ど
のように共通語音に矯正していくか。 / 〔方言と子
ど
もたち〕
恵山町史
(〈徒歩で函館へ〉)
函館の街
で
お祭りがあると聞き、
ど
うしても見物したくなってね、仲良しの女友達2人と連れだって出かけたん
で
す,恵山からは船便があったし、戸井ま
で
行けば自動車もあったらしいけ
ど
、お金は相当かかるし、函館ま
で
歩くのは,、それほ
ど
珍しくはなかったの
で
す。 ,その頃は、大人の足
で
1里1時間と言われていたけ
ど
、女の足
で
しょう、それに、赤ん坊をおんぶしているんだもの,恵山、古武井の辺りはまあまあだけ
ど
、おっつけ
で
は鼻コグリ(註)と呼ん
で
いる坂をおり、磯伝いの道を歩いたの / 〈徒歩
で
函館へ〉
函館市史 別巻 亀田市編
(最近までの歩み)
最近ま
で
の歩み 本道
で
は歴史の古い亀田市
で
はあるが、文化財については、特別関心を示さないまま過ごしていた,五稜郭は函館市に所属したの
で
、その他のものは比較的認識されなかった。 ,サイベ沢、四稜郭、東照宮跡な
ど
のことも、一部の人によってその重要性を指摘されるにと
ど
まっていた。 ,昭和十年、鍛神小学校訓導服部安正が、『四稜郭史』を発表するにおよん
で
、村民に貴重な参考文献として喜ばれ,しかし、戦争が長期化するにつれ、食糧増産な
ど
の必要もあって、四稜郭は土塁の下ま
で
畑として耕作され、史跡 / 最近ま
で
の歩み
恵山町史
(溶岩ドームおよび溶岩流)
の大きな
ド
ーム
で
ある。,北斜面は標高450メートル〜150メートル付近
で
開析が進ん
で
おり、南東斜面は後述する
ド
ームに覆われている,この溶岩流の噴出が570メートルのピークをもつ溶岩
ド
ームの噴出と同時期の産物か
ど
うかは判断
で
きない。,)溶岩
ド
ーム(428メートル) 椴山は海向山の南方に位置する開析の進んだ溶岩
ド
ーム
で
ある。,しかし、実際には内側が後発の火砕流な
ど
によって埋められて標高が高くなっているだけ
で
、外側が特に急傾
で
あるという / 溶岩
ド
ームおよび溶岩流
函館市史 通説編 第二巻
(函館から森村まで)
たとえば蔬菜にしても、従来は青森、新潟、東京な
ど
から移入して、近村のものは甚だ少なかったのだが、この道路,T.)とワーフィール
ド
(Warfield,A.G.)の2名に、明治4年9月、函館・札幌間の地形、港湾を,J.R.)を「測量長」に任じ、人夫は東京の政田嘉兵衛外3名に受負を命じ、東京、伊豆、木曽、日光、南部な
ど
で
,ところが3月3日東京丸は尻屋岬沖
で
難破沈没し、米、塩、器具な
ど
はほとん
ど
全部流失し、ようやく乗組員だけは,工事は亀田村一本木を基線と定め測量に着手し、遂次各所に人夫小屋な
ど
を建築した。 / 函館から森村ま
で
函館市史 別巻 亀田市編
(掟六か条などによる教化)
掟六か条な
ど
による教化 箱館裁判所が布告した「掟六か条」は次のとおり
で
ある。 ,二 鰥寡弧独(カンカコ
ド
ク)そのほか身体に傷害ある者は保護し、又役人不行届の事あれば罷免することもあるの
で
,四 殺人火付け窃盗な
ど
の大罪は厳重に処置し、その他は軽重にしたがい夫役を申しつけること。 ,六 御上の沙汰
で
も悪しきことは改めるの
で
申し出るべきこと。 ,以上は社会生活における倫理綱要ともいうべきもの
で
あり、また、開拓使において農民の心得な
ど
を制定して、その / 掟六か条な
ど
による教化
函館市史 別巻 亀田市編
(体育協会などの発足)
体育協会な
ど
の発足 昭和二十四年秋、住民の体位向上を目指し、渡島管内のトップを切って発足した亀田村体育協会,小柳忠三郎 若松 勝蔵 毎年のように各種の競技大会を開催したが、三十年七月、亀田中学校グラウン
ド
における,陸上競技大会に参加した団体は次のとおり
で
ある。 / 体育協会な
ど
の発足
函館市史 通説編 第二巻
(沖之口制運用の変化など)
税率の引下げな
ど
、次のような点
で
緩和策がとられていた。 ,、積荷の3割ほ
ど
が、免税のような扱いとなるわけ
で
ある。,大網1統に付き金3両づつを上納させ、その使用をみとめる、大網は500統ほ
ど
あるの
で
1500両ほ
ど
があつまり,、その金
で
小漁民保護のための備米を設け、凶漁な
ど
のときの救助をする、という方法
で
あった。,番家
で
はほとん
ど
増加していないことがわかる。 / 沖之口制運用の変化な
ど
函館市史 通説編 第一巻
(ディアナ号箱館入港)
デ
ィアナ号箱館入港
デ
ィアナ号 「北夷談」付図 (文化9年松田伝十郎著)
デ
ィアナ号は9月11,16日夜
デ
ィアナ号が箱館港外に停泊した時な
ど
は、対岸一帯のかがり火の光が海波に映じてすさまじい情景
で
あったという,リコル
ド
の上陸に先だち、嘉兵衛が官命を帯びて
デ
ィアナ号を訪問、オホーツク長官の書を受領、9月19日正午,12時、奉行所差し回しの飾船(儀礼艇)
で
、嘉兵衛が先導し、リコル
ド
は陸岸に向かった。,近々とロシア人を見たいという好奇心から、嘉兵衛に頼ん
で
引受けたもの
で
あった。 /
デ
ィアナ号箱館入港
函館市史 通説編 第一巻
(森林隈界以内での生育)
森林隈界以内
で
の生育 日本の高山植物とは、中部山岳帯の垂直分布
で
いうところの高山帯(森林限界以上のハイマツ,)、これに次ぐ渡島山脈の最高峰狩場山(1520メートル)にしても森林限界は1200~1300メートル
で
あり,、シロバナハクサンチ
ド
リ、シラオイハコベ、タカネミミナグサ、タカネナ
デ
シコ、ミツバオウレン、ミヤマオダマキ,イワキンバイ、ミヤマキンパイ、オオタカネバラ、チシマザクラ、チシマゲンゲ、チシマフウロ、ミヤマタニタ
デ
、,オオバノヨツバムグラ、クロミノウグイスカグラ、マルバキンレイカ、エゾトウヒレン な
ど
で
ある / 森林隈界以内
で
の生育
恵山町史
([学校の創設まで])
新たな教育制度は、教える者も、子
ど
もを学ばせる親も、自らの体験もなく、模範となるべきモ
デ
ルさえ求めることが
で
きない,しかし、現実の生活の中からそのために必要な経費、授業料な
ど
の経済的負担を考えると、学校の建設はその実態,」を提出するな
ど
、慌ただしく動き出さざるをえなかった。 ,ともその年内の届け出から4ヶ月もたたないうちに開校されていることからも、認可以前に学校施設や運営方法な
ど
、, 且粗略ナルヲ免レズ 大正三年十一月 更生者 溝江留吉 識ス
ど
の / [学校の創設ま
で
]
函館市史 別巻 亀田市編
(設置までの経過)
設置ま
で
の経過 鍛神小学校東山分校 昭和三〇・六・二四 開拓予算による分校設置について渡島支庁, 実地調査の結果、学校敷地は横川隼人所有農地にほぼ決定 一〇・二六 開拓農業協同組合
で
理事会開催, 竣工 三一年三月二六日 付属住宅 一七・五坪 一二・二一―二三 ブル
ド
ーザー,により引水七六間 五・ 一 鍛神小学校東山分校として開校式挙行 児童数二七名(四年生ま
で
) / 設置ま
で
の経過
函館市史 銭亀沢編
(浜で働く時の女性の仕事着)
浜
で
働く時の女性の仕事着 女性は漁を待って浜
で
の網引っ張りや魚類のモッコ担ぎ、昆布干し、磯草取りな
ど
に,股引な
ど
で
あったが、冬は上衣にネルの襦袢、
ド
ンジャ、チャンチャン、ハンチャ、チャンチャンコ、袖ナシ、袷,のシャツジュバンな
ど
に、下衣は袷の股開きの股引や膝ま
で
の袷の脚絆な
ど
を組み合わせて着た。,、家事や浜仕事な
ど
で
は色物や柄物が使われた。,イカ干しな
ど
で
はさらに巾広のメンダレを上に掛けた。 / 浜
で
働く時の女性の仕事着
函館市史 銭亀沢編
(ハシワタシ・ナカドとキメザケ)
きの年配者
で
、地域の事情に精通している人があたった。,ナカ
ド
(仲人)には、このハシワタシがそのまま務める場合と、改めてほかの人に依頼するタノマレナカ
ド
(サカヅキナカ
ド
,仲人は夫婦
で
務めるのが仕来たりになっているが、昭和のはじめ頃ま
で
は男二人
で
仲人を務めることがあり、そのときは,結婚の話し合いは一回
で
は決まらず、ハシワタシやナカ
ド
が何回も両者の間を往復してまとめた。,何回かの交渉の結果、これ
で
よしとなるとナカ
ド
が羽織・袴に婿の家の家印のついた提灯を下げ、一升瓶を持って / ハシワタシ・ナカ
ド
とキメザケ
函館市史 別巻 亀田市編
(小学校監督などによる指導)
小学校監督な
ど
による指導 小学校監督は学校管理について、明治十一年六月おいたが、弊害があったため、同十二年一月函館区内,
で
はこれを廃止した。 ,巡回教員は伝習所教員が一か月交替
で
区内各校巡視、また支庁直轄各郡は三か月ごとに交番巡回して指導した。,、教員の勤務、規則、学事奨励、就学督励、試験、教員集会、学事年報、施設設備、巡回授業法、教員の任免な
ど
多,また函館県
で
は明治十六年三月、「教育事務要領」において、教育奨励監督のため、学務課員及び小学校、師範学校 / 小学校監督な
ど
による指導
椴法華村史
(英国船ラフォルド号の沈没)
英国船ラフォル
ド
号の沈没 大正四年十月五日、室蘭を出港した英国船ラフォル
ド
・ホール号五千五百五十二屯,、濃霧のため恵山沖
で
針路を誤り十月八日大間弁天島付近に座礁、沈没、大正四年十月十日現在の生存者八十六名 / 英国船ラフォル
ド
号の沈没
函館市史 通説編 第二巻
(市中での買物とバザー)
商品がないことをあえて強調したのも(「御用記写」)、右の問題と深くかかわっていたこと、な
ど
で
ある。,しかし第三に、未だ市中商人とアメリカ人との商品売買にかかわる正式な通貨協定が行なわれていなかったこと、な
ど
で
ある,次い
で
翌4月25日には、洋銀1枚=2朱金6枚との通貨比を決めた(同前、『随行記』
で
は1
ド
ル=銭4800,その粗暴は殆ん
ど
狂人の如し、という意味のことが記されていた(「御用記写」)。,傘類236本、剃刀279丁、砥石205丁、柳行李113、矢立89丁、雪駄下駄類82足、印籠72他、な
ど
で
あった / 市中
で
の買物とバザー
南茅部町史 上巻
(尻戸廻(しどまわし)網漁)
尻戸廻(し
ど
まわし)網漁 尻戸廻は、尻戸間差(し
ど
まさし)ともいわれ、鰮の地曳網の操業のとき、大網から,)
で
肩に担(かつ)い
で
運んだ。,鰮釜と呼ぶ大きな釜
で
鰮を煮て、金胴(昔は木胴)に入れ、ジャッキ
で
圧搾する。,胴
で
圧縮した円筒型の魚粕は、玉粕ともいう。晩秋から冬中、春ま
で
かけて粕干(かすほ)しをした。,合図の方法
で
、
ど
この漁場が魚群を見つけたか互いに分かる。 / 尻戸廻(し
ど
まわし)網漁
函館市史 別巻 亀田市編
(教師心得などによる管理行政)
教師心得な
ど
による管理行政 教師心得は明治十二年二月、函館支庁において定めたもの
で
、教師としての態度,、在り方、生徒の教導法、教場・学校内の管理法な
ど
二十七か条にわたって詳しく述べたが、文部省からは二年おくれて,なお、函館県
で
は明治十六年三月、「小学校職員規則」を定め、免許、任免、給与、職務心得に関することを規定,規定により、教師の在り方について詳細にわたる事項が明示されたが、当時としては、すべて遵守することが第一
で
あった / 教師心得な
ど
による管理行政
戸井町史
([石崎まで来た巡見使])
これに対して松前藩からは、案内役、接待役、運搬役、その外に熊の害に備える鉄砲隊な
ど
の藩士、人夫な
ど
をつけ,通り過ぎるま
で
、家々の前に土下座(
ど
げざ)して迎えたの
で
ある。 ,諸国の商船がたくさん入港して交易するの
で
、売女な
ど
もたくさんいて大いに繁昌している。 ,男は丈の低い者
で
も五尺七、八寸高い者はみな六尺以上
で
、口髭を左右にはやし、色は赤黒く、眼光する
ど
く、絵,然し紅毛人な
ど
とは違い日本人の大丈夫に髭をはやさせたようなもの
で
、異体の者には見えない。 / [石崎ま
で
来た巡見使]
函館市史 別巻 亀田市編
(総務常任委員長報告どおり可決)
総務常任委員長報告
ど
おり可決 四十八年五月十五、六日の二日間の予定
で
開かれた臨時第一回市議会は、合併問題,論議が進むうち
で
二十二日、提出されている合併反対陳情に関し、「市長は
ど
う考えているか。」,調査事項としては学校教育の問題、公営企業な
ど
の実態(水道)、交通事業、病院経営、住民世論な
ど
で
ある。,
で
は亀田市が先んじた政策
で
あること、広域的視野の行政が必要
で
あることな
ど
の理由によって陳情書を採択することとした,
ど
おり可決され合併促進の陳情を採択することになった。 / 総務常任委員長報告
ど
おり可決
恵山町史
(1、地球規模で循環する海洋)
世界の三大洋
で
ある大西洋、イン
ド
洋、そして太平洋をつない
で
まる
で
1本のベルトコンベアに乗っているかのように,大西洋の北にあるグリーンラン
ド
沖
で
は、氷山
で
冷やされて重くなった高塩分の海水が沈み、深層水が形成される,グリーンラン
ド
沖
で
形成された深層水が、最後に表層に戻ってくるのは北太平洋
で
ある。,海の動物が死ぬと沈降し、深層
で
分解されてケイ酸塩やリン酸塩な
ど
の栄養塩類となる。,最近
で
は栄養に富んだ深層水をくみ上げて、養殖な
ど
に利用
で
きないかとの計画も進ん
で
いるとのこと
で
ある。 / 1、地球規模
で
循環する海洋
南茅部町史 上巻
(合併決議までの経過)
合併決議ま
で
の経過 昭和三三年一二月一五日、三村議長協議会が開かれたが、一挙に合併することは困難
で
あることから,未合併町村に対する国の最終処理方針な
ど
に対して、道はここ
で
結論を出す時期と判断した。 ,
で
あれば、段階合併も止むなしとの了解を得ることが
で
きた。 ,、二六日ま
で
延期することとなった。,理事者側は、さらに「三村合併は捨てたの
で
はない。 / 合併決議ま
で
の経過
函館市史 銭亀沢編
(松前藩の出先機関できる)
で
あった。,へ他国から直に来る船の監視、昆布採取時分より早く新昆布を商売することを停止するな
ど
、昆布に関する規則に,この地方の土地には早くから松前藩の支配が及ん
で
おり、昆布は古くから重要海産物
で
あったわけ
で
ある。,なお、この昆布場な
ど
の土地所有関係については一章四節に詳細に記述されている。 ,現在銭亀沢地区から東の海岸線の地域をさして「下海岸」と呼ん
で
いるのは、この「下モ」からきたもの
で
あろう / 松前藩の出先機関
で
きる
南茅部町史 上巻
(志海苔で古銭の大甕出土)
出土直後四散したものや欠損破片のものな
ど
をふくめ、およそ五〇万枚が収蔵されていたものと推定された。,出土の地は函館市志海苔町二四七番地の国道
で
、史蹟志海苔館と約一〇〇メートルの至近の海岸通り
で
あった。,鋳造年代は約一五〇〇年間にわたるもの
で
、最も新しい鋳貨は、明の洪武通宝(正平二二年 一三六八)発行のもの
で
あった,志海苔の砂浜に誰が、いつ、
ど
んな目的
で
、莫大な銭貨をいれた大甕を埋めたのか。,志海苔の砂浜に、ある人びとによって大量の中国銭貨が何かのために集まっていたことは、さまざまな歴史
ド
ラマ / 志海苔
で
古銭の大甕出土
恵山町史
([学校が創設されるまで])
(4)子
ど
もも家計を助ける労働の担い手
で
ある。(5)良い教師を得る事が難しい。,な
ど
のほか、教育そのものの効果を実際に住民に示すことが困難
で
あったことがあげられよう。,と改称される)を1876年(明治9年)函館に開設するな
ど
、学校の設置に対して少しずつ
で
はあるが諸条件を,パリ
で
は、生徒の衣服が意外に質素
で
ある。ロン
ド
ンも同様
で
ある。,当時は、教員免許保有者も少なく、神官、僧侶、士族な
ど
寺子屋の師匠
で
もあった読み書きの
で
きるものが、教員 / [学校が創設されるま
で
]
函館市史 別巻 亀田市編
(緊急動議で村長不信任)
に問うべき
で
なかろうか。」,、あるいは「世論不明のまま合併の話し合いを進めるのは議会のあり方
で
はない。」,、あるいは「このまま
で
は村政運営に支障をきたす。」,な
ど
の意見が多く、一挙に総辞職に持って行こうと協議を進めたが、一部の反対があり、まとまらないまま再開した,、まことに遺憾とするところ
で
あるが、一方的な不信任議決は納得が
で
きないの
で
、やむを得ず地方自治法第百七十八条 / 緊急動議
で
村長不信任
函館市史 別巻 亀田市編
(小学生心得などによる修身教育)
小学生心得な
ど
による修身教育 「函館県小学校則」 (明治十六年)の第二章は生徒心得
で
あり、二十五か条,につとめる、労苦、洗顔、髪をすく、あいさつ、車馬に注意、忘れものをしない、時間を守る、落書をしないな
ど
具体的,に基本的生活習慣について諭したもの
で
ある。 / 小学生心得な
ど
による修身教育
戸井町史
(二、就航までの経過)
二、就航ま
で
の経過 戸井・大間間のフェリーボート 昭和四四、一一、一三 大函丸試験就航 ,出迎えの地元漁船約十隻が満船飾の大漁旗を風になびかせ、五段雷の花火が打ち上げられる歓迎ムー
ド
の中を大函丸,一日四往復、往路は約一時間、帰路は潮流の関係
で
一時間を要しないといわれる。,本年は七月から九月ま
で
の三ヶ月間の就業
で
あったが、昭和四七年度からは六月に就業し、九月ま
で
の四ヶ月間就航,の予定
で
ある。 / 二、就航ま
で
の経過
恵山町史
((1)山麓の林地(火口原まで))
(1)山麓の林地(火口原ま
で
) 標高400メートル付近ま
で
の山麓は、広葉樹林地
で
ミズナラ、エゾイタヤ,、ノブ
ド
ウ、コクワ、ミヤママタタビ、な
ど
と多種
で
ある。 ,点在していることからみて、過去に伐採な
ど
人手が入り、その後に成立してきた林地(二次的林地)
で
あるとみることが
で
きる,この林地を過ぎる付近から火口原台地の周辺にかけて、北海道
で
は道南に限られるサラサ
ド
ウダンが多くなり、数十本,このサラサ
ド
ウダンが多いことも恵山の植生特質の1つ
で
ある。 / (1)山麓の林地(火口原ま
で
)
恵山町史
(土地資源としての土壌(どじょう))
面積160ヘクタール、ほとん
ど
未利用地
で
あるが、砂鉄採掘、土地造成な
ど
で
地形改変を受けたところが多い。,腐植に乏しいA層の厚さは20センチメートル未満
で
、土壌層位の分化はほとん
ど
進ん
で
いない。 ,な
ど
の低地性の種類も多く含ん
で
いる(石塚、1951)。,面積は、5,535ヘクタール、ほとん
ど
天然林(ブナ林)からなるが、人工造林はト
ド
マツ・カラマツ・スギな
ど
で
,面積35ヘクタール、かってほとん
ど
が水田として利用されたが、明渠・暗渠な
ど
の排水改良が不十分
で
、水稲の / 土地資源としての土壌(
ど
じょう)
南茅部町史 上巻
(漁民の出稼ぎで薪炭払底か)
漁民の出稼ぎ
で
薪炭払底か 明治一四年三月三一日の函館新聞(三九五号)は、「今年の漁業雇夫の給金は非常,又此近在各村よりも同じく雇夫に出掛けるゆゑ、薪(たきぎ)や炭を当港へ売出るものが不足になり、為める薪な
ど
ハ,鱈漁が不振
で
あった年は、男達が多く鰊漁場へ出稼ぎするの
で
、山から伐り出す薪が少なくなったほ
ど
で
あるという,明治二〇年代からは樺太、千島への漁業進出にともなって出稼ぎ地も北へと進ん
で
いった。,それを支えていったのは、北海道沿岸からの出稼漁民
で
あり、東北・北陸からの出稼農民が主流
で
あった。 / 漁民の出稼ぎ
で
薪炭払底か
函館市史 通説編 第一巻
(ディアナ号の箱館出帆)
この
デ
ィアナ号来航事件は、箱館港にとっては、寛政5年ラックスマン来航以来の大きな事件
で
あった。,に包ん
で
懐に入れる風景も見られたということ
で
ある。 ,向う
で
は「さなきだにもう沢山頂きましたの
で
」と云ったが、強いて押しつけた。,リコル
ド
もこの点につき、ゴロウニンらの釈放が決定した時の手記にも、「正直に云って、この多幸な場合において,、多くの点
で
与って力あったのは、大量
で
開けた高田屋嘉兵衛
で
あると云わねばならない。 /
デ
ィアナ号の箱館出帆
函館市史 別巻 亀田市編
(縄文早期から室町時代までの遺物)
)にもいたが、サイベ沢は海岸に近かったの
で
、オットセイ、アザラシな
ど
の海獣がイワシな
ど
の魚を追って湾内,貝塚から現在
で
は見られない大形のハマグリ、アサリ、カガミガイな
ど
が出土していることからこの付近は砂浜
で
あったと,貝層から出土した日常品の針や釣針な
ど
が鹿角製
で
あることから、エゾシカは食糧としてばかり
で
なく、生活用具,縄文時代前期になると大形土器
で
、口径と底径がさほ
ど
違わない安定した形の土器が造られるが、この時期の土器,胴部の縄文は衣服を表現したもの
で
、割礼な
ど
の儀式に用いたもの
で
あろう。 / 縄文早期から室町時代ま
で
の遺物
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