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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 銭亀沢編 (浜で働く時の女性の仕事着)

め頃まで、夏は上衣に浴衣地や木綿地のシャツジュバンなどを着て、下衣は腰巻きに脚絆(きゃはん)、股引などであったが,国防婦人会や葬式、タチアシ(嫁迎えの際の祝宴)のご馳走作りの時に掛けるよそいき用であり、家事や浜仕事などでは,イカ干しなどではさらに巾広のメンダレを上に掛けた。,これら洋服仕立ての作業着は、自分で仕立てた人もいたが、函館の大門の商店街などでも売っていた。,古川町などでは漁業協同組合の婦人部が地区の注文を取りまとめて購入した。
函館市史 銭亀沢編 (ソウオロシの食事とコビリ)

普段食べないような刺身、豆腐の魚汁や鱈の吸い物、白玉(白玉団子を作って水で冷やして砂糖をかける)などである,コビリは、一人分おにぎり二個(ごま、梅干し)、焼いた塩鮭一切れとキュウリの漬物がほとんどであった。
南茅部町史 上巻 (早期)

グループは関東以北渡島半島までの全域に広く分布しており、南茅部町でも大船遺跡、臼尻B遺跡、八木遺跡などで,また、臼尻A遺跡、臼尻小学校遺跡などでは広範囲にわたって、後半の撚糸文土器の文化が存在している。  
函館市史 銭亀沢編 (ヨウカ(若者宿))

青年団とは別に、一六、七歳から徴兵検査までの若者が五、六人、仲の良い者同志が集まって雑倉の一部をムシロなどで,昭和初期には「漁師の若者たちは出稼ぎなどで得た収入は全額親に渡し、お盆と正月に小遣い銭をもらうのが通例
椴法華村史 (絵紙山遺跡)

土器片を採集した地点で地層調査したが、表土の下にある黒色土層が三十センチメートルほどで、その下部は黄褐色土層,が三十センチメートルほどで、その下部は黄褐色土層である。
函館市史 銭亀沢編 (山菜・果物の出盛りと利用)

果物の出盛りと利用 春早い頃に採れる山菜はヨモギ、ボンナ、セリ、アザミ、コジャク、シドケ、タラの芽などであり,春、五月過ぎに採れる山菜は、ワラビ、ゼンマイ、タケノコ、ウド、コゴミ、フキ、アズキナなどである。
函館市史 別巻 亀田市編 (果樹)

果樹 亀田村で作っていた、くだものは数量的には多くはないが、梅、日本梨、りんご、ぶどうなどである。
函館市史 銭亀沢編 (正月)

元旦のご馳走は雑煮のほか、鯨汁、煮しめ、ナマス、かまぼこ、子和え、黒豆などであった。,その日のご馳走は切餅入りのおかゆ、正月に作った煮しめ、鮭の焼き物などであった。
函館市史 銭亀沢編 (ス(巣)アガリ)

産後の休養期間はその家の仕来たりやサントの体調によって一様ではないが、二一日(三週間)ほどで日常生活に,なかには一〇日ほどで水仕事をしたサントもいたという。
函館市史 通説編 第一巻 (住居)

円形の竪穴住居で、竪穴の内壁に沿って柱を建てているが、柱穴がなく溝状になっているので、住居壁を割木などで,入口の幅は1メートル、屋外に出ている部分が70センチメートルほどである。
椴法華村史 (昭和二十一年)

高価であることから、小学校などの公共建物のガラスが多数盗まれ、たまりかねた村当事者は、ガラスに水晶などで,その他マッチも不足したため、いろり火などで火種を絶やさないようにすることが良き嫁の仕事などとも云われるようになった
函館市史 銭亀沢編 ([その他の諸集団と相互扶助])

それらは、森林組合、納税組合、衛生組合、消防団、婦人会、青年団、老人会、PTA、子ども会、4Hクラブなどである
函館市史 銭亀沢編 (明神講)

一月十六日か十七日に町会館などでおこなわれる。
函館市史 銭亀沢編 ([明治期のサハリン島への出稼ぎ])

それは、文献に名前をとどめているのは漁場の経営者がほとんどで、その下で働く漁業労働者たちのことは記録される,聞き取り調査では、昭和期には「このあたりは、みんな樺太の漁場へ行った」といわれるほどで、昭和八(一九三三
椴法華村史 (繩とじ船)

時代の蝦夷地では、本州からの入港船には自然港が多く利用されていたが、その数は少なく特に奥地では数えるほどであった,五百石積みぐらいの大きさで、鉄釘を一切使用せず、つた繩で板をからみ、繩穴その他の小さな穴は山の苔、水草などで
函館市史 別巻 亀田市編 (青年会の組織)

仏教求道会亀田支部の六団体があり、事業および目的として、会員相互の親睦、知識の交換、村発展に努力することなどであった
函館市史 別巻 亀田市編 (消防訓練大会)

消防訓練大会 昭和三十七年度秋季消防訓練大会は九月十七日午前十時から亀田中学校グラウンドで実施された
函館市史 通説編 第一巻 (石器)

狩猟用石器である石鏃は、石槍と共に形態などでいくらかの変化を示すものもある。,青龍刀形石器は煉瓦台貝塚、戸井貝塚などで出土しているが、一種の磨製石器で実用品とは思われない石器である,石質は安山岩などで、刀部が半月形、刃部が溝(みぞ)状になっている。
函館市史 通説編 第一巻 (平底土器の出現)

北海道の平底土器の出現は道東地方と道南地方では様相が異なり、釧路などでは縄文早期の初めに下頃部式土器や,下北半島の物見台遺跡や住吉町遺跡などでは尖底土器しか出土しないと考えられていたが、資料を注意深く見ると,函館や青森などでも縄文時代の初めに貝殻文の尖底土器が出現し、わずかながらも底の小さい平底の土器が作られていた,小さな平底の底部にもその質の変化は見られるが、尖底土器ほどではない。
函館市史 別巻 亀田市編 (大正十四年の加入状況)

この番号簿に新しく登場してくるのは、亀田村役場や第二附属小(現亀田小)などであるが、加入数は次のとおりである
函館市史 別巻 亀田市編 (市制施行(過密の街))

市制施行(過密の街) 人口数からいえば、終戦前に町制を施行してもよかったほどであるが、村から町になったのが
函館市史 銭亀沢編 (〈鰈手繰網漁業〉)

たとえば、鰈手繰網、鰈手釣り、鱒落網、さより縄・地曳網、蛸いさり漁業などである。
函館市史 別巻 亀田市編 (体育祭)

この日晴天に恵まれた会場には朝早く多数の観衆がつめかけ、大会は鼓笛隊のパレードで開始され、各地域対抗競技
函館市史 通説編 第一巻 (津軽船の活躍)

するとともに、鎌倉幕府から「関東御免船」として、安東氏の支配する回船は、湊役免除の特権を与えられていたほどであった,越前坪江庄下郷の三ヶ浦に漂到したという記録もあり(『大乗院文書』)、蝦夷地産の鮭や山丹方面からの織物などであったことを
函館市史 銭亀沢編 (夏の例大祭)

のために作られた料理の代表的なものは、赤飯、刺身、煮魚、焼き魚、なます、トコロテン、南瓜の煮物、白玉などである
函館市史 銭亀沢編 (結婚と食べ物)

現在は、ホテルなどでの結婚式が多くなってきている。 表4・2・4 結婚と食べ物
函館市史 別巻 亀田市編 (桔梗野攻撃)

五月十一日には、榎本軍はここに大川正次郎を頭とする伝習歩兵隊、長禄三郎を長とする遊撃隊、それに器械局などで
函館市史 通説編 第一巻 (観測回数と項目)

決められ、観測回数は7回、観測種目も気圧、気温、湿度、風、雲、雨、雪(雨雪量、降雪日数、積雪日数)などで
函館市史 別巻 亀田市編 (生産量の増加)

大正五年の亀田村の主な工業製品は、澱粉をはじめとして、煉瓦(れんが)、瓦(かわら)、天然氷、竹細工、土管などであって
椴法華村史 (例言)

二 引用文の旧漢字はそのままにし、虫食い損亡などで判読不能のところを、□で表示したほかは、出来るだけ原文
函館市史 銭亀沢編 (誕生・生育と食べ物)

また、昭和初期にはおこなわれていなかった七五三も行事としておこなわれ、すしなどで祝うようになってきた。
函館市史 銭亀沢編 (わらべ唄の伝承)

伝承遊びとして、老人クラブなどで自らあやこを作り、孫やひ孫に与えても遊び方を知らないし相手にされないのが
椴法華村史 (椴法華郵便局開設の頃)

また、村人は同人をお役所様と同列に見ており、大変に威張っており、一つの例として今日のように切手販売などではなく
函館市史 銭亀沢編 (津波災害)

ただし、同じ場所で地震が発生しても、地震の規模や震源の深さなどで、津波の高さや到達範囲が異なるから一概,太平洋側では十勝沖から三陸はるか沖にかけて一時間ほどで到達している。,床上浸水一一四五戸、床下浸水二九〇戸、全壊一軒、非住居被害一七六棟、堤防被害一か所、木材流出三〇石、護岸の倒壊などであった
南茅部町史 下巻 (〔遭難犠牲者慰霊碑建立〕)

〔遭難犠牲者慰霊碑建立〕 経過  昭和四八年九月二四日の大雨災害は、土砂流出などで住宅・校舎・河川など,町民課(課長小板宇佐夫)が事務所をひきうけて五月二日、町内に趣意書を配付し、明治以来、災害や事故などで
函館市史 通説編 第一巻 (貝殻文のない尖底土器)

しているので、貝殻文尖底土器の時代が続き、そのあとに竹管の押引文尖底土器が、函館山の麓や対岸の千代台町などで,縄文尖底土器は胆振、日高などでも出土例があるが、北海道特有なものに静内中野式尖底土器と綱文土器がある。
南茅部町史 下巻 (〔郷土の仏教〕)

漂流などで流れついた和人が住みついたこともあったであろう。
函館市史 銭亀沢編 (盆踊り)

今でもなにかの祝い事や、懇親の会合などで、余興の際には誰となくいい出し、年輩の人も気軽に加わり、二つの
函館市史 別巻 亀田市編 (函館大火応援)

大火の翌日、亀田村消防組は食糧などを荷馬車で搬送して被災者を救護したり、また新川などで焼死した人々を川
函館市史 別巻 亀田市編 ([函館市側との懇談会])

固定資産税について   カ 市村合併の時期、予算編成に合わせる   キ 農業物加工振興策について などであった
椴法華村史 (椴法華村一般電話の設置)

市外電話の使用が一般化されたが、その主な用途は役場事務用・漁業関係の連絡業務用・商店及び旅館営業用などであった
戸井町史 ([戸井の海棲動物と海藻類])

   ○かれい類では、ババガレイ(バッコ) マガレイ、ソウハチガレイ、オヘョウ、ヒラメ(テックイ)などであり,ヤナギノマイ、エゾメバル(ガヤ)、オオサガ、バラメヌケ、クロゾイ(ビッキゾイ) ムラソイ(モンキゾイ)などである,魚類以外で産額の多い海産物は    ○イカ(スルメイカ)、タコ、ウニ、アワビなどであり、海藻類では, ○コンブ(マコンブ)、トロロコンブ(ガゴメ)、ワカメ、チガイソ(サルメン)、テングサなどである。
函館市史 銭亀沢編 (海藻類の利用と地方名)

水コンブは大時化(しけ)や二年コンブとの混獲などで一部は失われるが、二年目の春先には先端の枯れ落ちた根元,ウップルイノリなどのイワノリ類、フクロフノリ(ふのり)、マツモ(まつも・まつぶ)、エゾツノマタ(みみ)などである
函館市史 銭亀沢編 (銭亀沢村酪農協同組合)

牛乳の販売、牛の飼料、米・酒・タバコ以外の味噌や醤油など食品の購買、資金の貸付けや、乳牛の斡旋、購買などであった
函館市史 通説編 第一巻 (駒ヶ岳噴火)

日辰の刻(午前8時ごろ)やや晴れたが、なお降灰はやまず、その灰は遠く越後方面にまで及ぼし、津軽地方などでは
南茅部町史 下巻 (〔東海岸道〕)

普通、エトモ(室蘭)から渡海し砂原から大沼を経て大野村に出、亀田村・箱館への行程をとるのがほとんどであった
南茅部町史 下巻 (〔戦時中の商業〕)

戦時中は、配給物資の取扱いがほとんどであり、米穀も遅配など苦しい情勢の中で営業は多難な時期であった。
函館市史 別巻 亀田市編 (牛馬市)

亀田牛馬組合が主催し、来賓には、警察署長、函館競馬組合長、亀田農会長、各村長などであった。
函館市史 銭亀沢編 (婚礼と衣服)

花嫁は黒留め袖に角隠しが一般的であったが、金持ちの家などでは、振り袖を着ることもあった。,昭和二十七、八年頃より函館の八幡宮や共愛会館、東照宮などでおこなうことが流行り始めたが、昭和四十年頃でも
函館市史 別巻 亀田市編 (職員組合の反対)

市職組は四十六年の定期大会で合併反対決議をしているため、その後も反対の運動を進め、ビラ作戦などで市民に
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