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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (ペリーの和親要求)

ペリーの和親要求 一方ペリーと応接掛松前勘解由との話合いはあまり進展していなかった。,アメリカ船が早く着き過ぎたため、和親の実現、藩主とペリーとの応接、遊歩境界の設定、その他入用品の購入などの,これに対しペリーは交渉の進展をせまり、さらに和親の必要性を強調した。,堀、村垣は属僚である安間純之進、平山謙次郎らを箱館へ派遣し、五月五日ペリーと会見させた。,これより以前、箱館滞在中のペリーは、箱館湾内その他の調査を終わり、来航の目的を達し、さらに下田会見の予定日 / ペリーの和親要求
函館市史 通説編 第二巻 (ペリーの新たな思惑)

ペリーの新たな思惑 ところで、松前藩側のペリーに対する回答書の内容が休息所の提供の件を除けば、ペリー,の要望をほぼ受け入れたものであったために、ペリーはこの回答を受け取るや、それを足がかりに、以後松前藩の,しかし、これはペリーの思いちがいであった。,この文は、裏をかえせば、名村の箱館行が不可能となった事情をペリー側に正確に伝えられない場合、ペリーが幕府,の言動をみると、ペリーにはその間の事情が正確に伝わっていなかったとみてよい。 / ペリーの新たな思惑
函館市史 別巻 亀田市編 (ペリー来航)

ペリー来航 ペリー遠征記のさし絵 市立函館図書館蔵  安政元(一八五四)年三月、神奈川条約の締結,により箱館港は翌二年三月から開港される運びとなり、この予備調査のためペリー艦隊が箱館へ入港することを幕府,驚き、直ちに箱館へ応接掛として家老の松前勘解由、用人遠藤又左衛門らを派遣し、四月五日箱館市在に対してペリー,に、四月十五日米国軍艦マセドニアン、ヴァンダリア、サウザンプトンの三艦が入港し、続いて四月二十一日、ペリー / ペリー来航
函館市史 通説編 第二巻 (ペリーの抵抗と要求)

ペリーの抵抗と要求 その後2月19日、横浜応接所で開催された第2回日米会談において、ペリーは早速日本,その内容は、『遠征記』・『遠征日記』に記されているが、ペリー回答の大きな特徴は、薪水・食料・石炭及び欠乏品,同日の会談でペリーは、日本東南に5~6か所、北海に2~3か所(「横浜応接所日米対話書」『大日本維新史料,これによりペリーは、下田については、調査の上良港と判ればとの条件つきでこの提案を受入れ、早速下田を調査,しかもペリーは、これに加え、下田・箱館へのアメリカ人の駐在をも合せて要求したのである。 / ペリーの抵抗と要求
函館市史 通説編 第二巻 (ペリーの再来と幕府の回答)

ペリーの再来と幕府の回答 安政元年1月14日、ペリー艦隊は江戸湾外に姿を現わし、次いで16日には浦賀沖,この時のペリー艦隊は旗艦サスケハナ号をはじめポーハタン号・ミシシッピー号(以上フリゲート艦)、マセドニアン,この点で注目しておきたいことは、今回のペリーの来日は、いうまでもなく大統領親書に対する日本側の回答書の,しかしペリーは、これらの要求と提示を全面的に拒否し、応接場所を江戸ないしは江戸に近い場所にすることを強,つまりペリーは、望厦条約をモデルとして日米通商条約を結ぼうとしていたわけである。   / ペリーの再来と幕府の回答
函館市史 通説編 第二巻 (ペリーから知らされた条約)

ペリーから知らされた条約 ペリー側と松前藩役人との具体的な交渉は、翌4月22日から開始されたが、両者,しかし、この問題をみる上で同時に目を向けておかなければならないことは、ペリーは日米和親条約調印の一方の,さたれごく僅かの情報しか有していなかったばかりか、肝心の日米和親条約についても、幕府からではなく、相手国のペリー,井上富左右は、ペリー艦隊の箱館渡来に備えて箱館に派遣された幕吏であるが、箱館の松前藩役人たちは、その後,箱館奉行工藤茂五郎他応接方が会談した際(ペリーと松前勘解由との最初の会談)、ペリーより応接掛連署の日米和親条約正文 / ペリーから知らされた条約
函館市史 通説編 第二巻 (ペリーの要求と松前藩の回答)

ペリーの要求と松前藩の回答 次に箱館における日米会談・交渉の内容について若干触れておこう。,が行われたが、この時のアメリカ側の代表は、旗艦付参謀大尉ベント、同主席通訳官ウイリアムズ、同提督秘書ペリー,(ペリーの子息)同提督書記兼オランダ語通訳官ポートマン、同衛兵伍長代理助手兼画家ブラウン(「御用記写」,ペリー及び松前勘解由とも出席していない点で、この会談は予備的会談であったといってよいが、両国代表が所定,のいう「横浜條約」については未だ幕府より通知がないなかで、幕府の指示なしに1大名がみだりにペリーの要求 / ペリーの要求と松前藩の回答
函館市史 通説編 第一巻 (ペリー提督上陸会談)

ペリー提督上陸会談 会見の図 「ペルリ提督日本遠征記」より  ペリー提督が会談のため上陸したのは / ペリー提督上陸会談
函館市史 通説編 第二巻 (遊歩区域をめぐって)

すなわちペリーは、松前勘解由が藩主より全権を委任されている旨ペリーに告げるや、幕府徒目付平山謙二郎、通詞名村五八郎,上記のペリーの主張には、いくつかの重大な虚言が含まれていた。,まず第一に、ペリーは「江戸」で林と協議した如く主張しているが、ペリーは江戸には行っていない。,なおペリーが、「五十日」という日数をもちだしてきたのは、おそらく、3月3日の林・ペリー会談で下田の即時開港,ペリー側の記録である『遠征記』・『遠征日記』・『随行記』に右のペリーの主張の具体的な内容が一切記されていないのもそのためであろう
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港の背景)

ペリーが松前開港を要求して以来10数日後のことであった。,ペリーが日本北方の松前に1港の開港を強く要求したのは、北太平洋上で操業するアメリカの捕鯨船の寄港地を必要,このことは、すでに大統領親書の内容からも窺い知れるが、ペリー自身松前開港を要求した件について、「わが捕鯨船,なお、ペリーが箱館来航以前のこの段階で箱館の有利性を判断できたのも、シーボルトの『日本』やゴロウニンの,なおペリーは、この条約調印日の3月3日、応接掛に箱館へ向う旨告げていた(同前)。
函館市史 通説編 第二巻 ([1 箱館開港への途])

[1 箱館開港への途] 安政元(1854)年3月3日、神奈川(横浜)でペリーと幕府との間で日米和親条約,前年ペリー艦隊が浦賀に来航し、幕府に開国を求めて以来8か月、安政元年1月ペリーが再び浦賀に来航し、神奈川,寛永16(1639)年以来約215年間、幕府の祖法として維持されてきた鎖国体制は、ペリーの来航を大きな,とはいえ、この鎖国から開国への途は、ひとりアメリカを代表したペリーの対日交渉のみでつくられたわけではない
函館市史 通説編 第二巻 (市中での買物とバザー)

(2)の要求は、当初ペリーが提出した、箱館市中の商人にアメリカ人と商品を売買することを許し、そのための,まず第一に、松前藩側はペリーの要求を了承はしたものの、その真意は、市中商店における商品の自由な売買を許可,への返書で、箱館は僻地故、ペリー側が望むような商品がないことをあえて強調したのも(「御用記写」)、右の,かくしてペリーは、4月24日、松前藩の役人に対し、(2)と(3)の件を強く要求するに至った。,から知らされた漢文条約文をたてにペリーに反論していることは注目されてよい。
函館市史 通説編 第二巻 (幕府の苦悶)

幕府の苦悶 ペリー艦隊が退去するや、幕府は翌年春のペリーの再来までに具体的な対応策を練る必要に迫られた,などの上級譜代大名)に、7月1日にはそれ以外の諸大名に、同3日には高家以下布衣以上の諸有司に、それぞれペリー,するにあたって、広く諸大名の意見を求めたのは、幕藩制社会成立以来これが最初であり、それだけにこのことは、ペリー,こんな曖味な方針でペリーの再渡に対応しきれないことはいうまでもないが、こうした対外政策での無策こそこの,こうして幕府は、新たな国際情勢に対応しきれる具体的対外政策を何一つ持ち得ないまま、翌年1月ペリー艦隊の
函館市史 通説編 第二巻 (アメリカ大統領の親書)

アメリカ大統領の親書 嘉永6(1853)年6月9日、ペリーは、浦賀の久里浜に急設された応接所で、浦賀奉行,にあり、「わが国の蒸気船舶は、カリフォルニアから日本へは一八日間で行くことができる」との文言の他に、ペリー,船舶の停泊港として、「帝国南部の地」に「一港」を指定すること、などが記されていた(ピノオ編・金井圓訳『ペリー,日本へは蒸気船で僅か18日で行けると記していることからも窺えるように、アメリカの軍事力を誇示しつつ(ペリー,これには色々な理由があるが、その最大の理由は、当時アメリカ側(ぺリー)は、日本の諸港湾に関する詳細な情報
椴法華村史 (箱館の繁栄)

ペリーはその著書『ペリー提督日本遠征記』の中で、安政元年(一八五四)の箱館港の様子について次のように記,ペリー来函の様子 亜墨利加一条写 嘉永7年(1854) ペリー箱館入港の図 「ペリー遠征記」
函館市史 通説編 第二巻 (幕吏との会談と退帆)

たちは、横浜における日米交渉の具体的内容については幕府より何一つ知らされていなかっただけに、前記のようなペリー,井上の指示をめぐって松前藩役人と井上との間に若干の意思のくいちがいがみられたが(松前藩役人の意見は、ペリー,に伝えるべきだと主張したため、松前藩役人側もついに井上の指示に従い、翌4月27日、ペリーに対しその旨を,この会談でペリーが主張した主な点は、(1)遊歩区域を官舎を中心に7里四方とし、そのことを今日決定すること,翌5月7日も応接所で両者の会談が予定されていたが、ペリーはこれ以上会談を続けたところで新たな回答を得る
函館市史 通説編 第二巻 (幕府の条約草案)

幕府の条約草案 ともあれ、こうして第1回の日米会談は終了したが、その後2月17日、応接掛は、先にペリー,日米修交通商条約草案に対する日本側の対策ともいうべき条約草案(漢文)とその主意を記した書簡(漢文)をペリー,また、上記の条約草案に添付されたペリー宛応接掛書簡(和解)には、「十日対談之折心得之為被二差出一候貴国,このペリー宛応接掛書簡が端的に示している如く、日本側の条約草案は、基本的には大統領親書に対する回答書の,『ペリー日本遠征随行記』、以下『随行記』と略す)とあることからすれば、2月17日以前に既に5港の開港を
函館市史 通説編 第二巻 (筆談から生じた誤解)

その理由は、ペリー側が提出した書類中の(6)の文で、家屋のことを「公館」と記していたところにあった。,「公館」は、地方官の役所、官舎の意であるから、ペリー側の要求は、「三軒の役所ないしは官舎を我々に提供せよ,松前藩側の拒否にあい、それが誤訳から生じたことを知ったペリー側(ベント、及びウィリアムズ等)は、改めて,こうして松前藩側は、ペリー側が「公館」・「廟堂」・「廟」なる漢字で伝えようとした本来の意味を漸く理解するに,それにしても、ペリー側に羅森がいながら、なぜこのような問題が生じるに至ったのか、その原因は定かでない。
函館市史 通説編 第二巻 (条約附録と遊歩区域)

な限り縮小すべしとの海防掛勘定奉行等の意見(『幕外』6-230)もあって、翌年3月までに決定したい旨ペリー,に伝えたが、ペリーはこれを拒否し、即刻決定すべきことを強く主張したため、応接掛がやむなく3里四方を提案,」と脅しをかけたうえで、「若又此度五里与定候ハゝ、如何様ニも使節引受政府江申立」と主張したため、このペリー,まさに、文字どおりペリーの威圧的な要求におしきられて決定したものだったのである。  ,われ、かつ条約文も英文、中文(漢文)、和文、蘭文(及び蘭文和訳)の4種類が作成され、しかも調印の際、ペリー
函館市史 通説編 第一巻 (地誌・風俗書)

このほか米国使節ペリー提督来航時の『ペルリ提督日本遠征記』や、英国公使オールコックの『大君の都』なども,また名主小島又次郎はペリー行入港の模様を詳細に記録し、図画まで挿入して『亜墨利加一条写』としているが、
函館市史 通説編 第一巻 (士官らの市中見物)

(『ペリー日本遠征日誌』)    とあって、ウイリアムズら一行は弁天社から高龍寺や実行寺辺,文中に「護国の丘」とあるのは、あるいは国華山高龍寺の国華山を護国山の意味に誤解したのではないかと、『ペリー,ペリー買い物の図 「亜墨利加一条写」より[1] ペリー買い物の図 「亜墨利加一条写」より[2,] ペリー艦隊乗組員の図 「亜墨利加一条写」より
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の来箱)

堀らの任務は蝦夷地検分にあり、ペリー応接は本務とするところではなかったが、2人は、松前藩の要請により、,安間らの属僚は5月5日朝箱館に到着し、ペリー提督らと会見、アメリカ例の書面を受取り、翌日返書を届けたのである,箱館訪問は単に視察であるという、神奈川での彼らの言明をたてに、アメリカ側の要求は不当であることを指摘し、ペリー
函館市史 通説編 第一巻 (日米和親条約締結)

日米和親条約締結 ペリー提督  嘉永6(1853)年6月3日、アメリカ合衆国水師提督ペリーが、,そこで幕府は第3の交易を拒否するほかは、その要求を入れることを決し、港は長崎1港に限ろうとしたが、ペリー,ペリーは、琉球は断念しても、松前には自ら赴いて領主に談判すると主張して譲らなかったので、相互譲歩の結果
函館市史 通説編 第二巻 (松前藩への幕府の達)

事実同年正月江戸藩邸にあった用人遠藤又衛門は、ペリー艦隊の江戸湾来航から2日後の正月18日、「弐駄早便,この遠藤又左衛門の慌しい帰藩がペリー艦隊の江戸湾来航を告げるためのものであったことは想像に難くない。,ところが、右の老中達は、こともあろうに、そのペリー艦隊が松前辺に行くやもしれないので、もし同艦隊が松前辺,しかし、この達には、ペリー艦隊がなぜ松前に行くのかという肝心のことは何一つ記されていなかった。
函館市史 通説編 第二巻 (巨大な艦船)

巨大な艦船 こうして、以後ペリーと松前藩役人との間で具体的な交渉が行われることとなるが、その過程をみる,前にここで注目しておきたいのは、ペリーの率いる5艘の艦船は、いずれも当時の日本の廻船よりもはるかに巨大,こうしてペリーは、以後これら5艘の艦隊とその軍事力を背景にして、まさに「大威張り」で松前藩役人との交渉,一日本遠征日記』(新異国叢書、第Ⅰ輯1)所収「付録B,マシュー・C・ペリー提督を指令官とする合衆国極東艦隊,※印は嘉永6年6月3日、ペリーが初めて浦賀へ来航した時の艦船、○印は安政元年4月15日~21日、箱館来航
南茅部町史 下巻 (〔アメリカ鉱山技士来村〕)

文久元年(一八六一)  幕府が招聘した米国(アメリカ)地質鉱山学士ウイリアム・ブレイクとラフアエル・パンペリー,文久二年(一八六一)四月  ブレイクとパンペリーは、箱館奉行と打合せのうえ、川汲・古武井・市渡・遊楽部,このときブレイク、パンペリーらが、利別川上流で水銀を用いて砂金を採取したことや、遊楽部では、火薬を使って
函館市史 通説編 第二巻 (街の目隠し)

でそれなりの役割を果たしたことは確かとしても、箱館市街の地理的特性や後述のような米艦の巨大さからして、ペリー,ましてや、ペリーはいうまでもなく、多くの船員たちが市中を徘徊するにいたっておやである。,したがって、市中の木戸は別として、この板塀は、松前藩のペリー艦隊の実態に対する認識の甘さを象徴するようなものであったといっても
恵山町史 (2、開国・蝦夷地の再直轄)

・一八五三年(嘉永六年)六月、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが四隻の軍艦を率い浦賀に来航、大統領親書,幕府は浦賀奉行に命じ、ペリーを久里浜の仮館で引見、アメリカ国書を受理させるが、返答は翌年に引き伸ばす。,ペリーは再来を約し浦賀を退去する。,横浜応接所でのペリーとの交渉は20日間にもおよぶものであった。  ,林は譲歩案として5年後、できなければ3年後の秘密訓令をうけていたがペリーはあっさりと引っ込めた。
函館市史 通説編 第二巻 ([口絵])

[口絵]   ペリー渡来絵図貼交屏風 東京大学史料編纂所蔵 箱館戦争図 市立函館博物館蔵
函館市史 通説編 第一巻 (松前藩役人に対する批判)

(『ペリー日本遠征日誌』)と、極めて厳しい批判をしている。
函館市史 通説編 第一巻 (勘解由の米艦訪問)

ミシシッピー号に移されたので、同艦に漕ぎ寄せると、べンテやウイリアムズの案内で一同乗込み、船室に至るとペリー,通弁をもって一応の挨拶を交わした後着座したが、提督をはじめベンテ、ペリー(息子で提督秘書官)、ウイリアムズ
函館市史 通説編 第一巻 (遊歩区域の確定と批准)

遊歩区域の確定と批准 なお、ペリー提督が下田において再び林大学頭らと会談した結果、5月22日和親条約付録
函館市史 通説編 第一巻 (写真撮影)

と、『ペリー日本遠征日誌』に記され、写真については4月28日、「朝に遠藤と石塚官蔵は肖像写真をとってもらった,(前同)とあるが、これはペリーに随行したブラウンが撮影したもので、現存するものでは、この2人の外に松前勘解由
椴法華村史 (昭和四年)

ばかり書いてきたが、この年の明るいニュースをあげてみると、八月十九日世界一周途上のドイツ飛行船ツェッペリン,ツェッペリン伯号LZ-一二七は、エッケナーの指導のもとに世界一周のため昭和四年八月十五日出発し、八月十九日午後五時東京上空
椴法華村史 (国内航路と箱館)

と本州との交易は前にも記したように、この時代になっても東廻り航路が西廻り航路より多かったが、前掲の『ペリー,弁才船の図 「ペリー遠征記」さし絵より
恵山町史 (1、主要道路の整備)

1、主要道路の整備 安政元年(1854年)4月15日ペリー率いるアメリカ艦隊が箱館港入港、以来、外国船
恵山町史 (箱館港の盛衰)

しかし、嘉永7−安政元年(1854)、日米和親条約が締結調印され箱館・下田開港にペリーの率いるアメリカ
函館市史 別巻 亀田市編 (開港後の様子)

開港後の様子 ペリーがはじめて来航した安政元年四月には前記のような布達が出され、官民ともに不安な毎日,、老人婦女子は近在へ避難し、船舶の出入りが禁止されるなど、市在はあたかも火の消えたごとき状態となり、ペリー
函館市史 通説編 第一巻 (箱館住民との接触)

ペリーは、はじめは彼我の折衝がうまく運ばないことに不満の意をもらしたこともあったが、しかし調査の結果、
函館市史 通説編 第一巻 (外国文化の吸収)

外国文化の吸収 ペリー来航の時は、松前藩の詳細な触書によって、みな恐怖して店を閉じ、婦女や子供を隠した
恵山町史 (3、尻岸内村の馬)

恵山町ふるさと民話の会編)の『外人と村役人の問答』には、尻岸内村の会所に馬を借りにきた3人のアメリカ人(ペリー,二つの港が開かれると、早速、アメリカの使節ペリー提督が軍艦ポーハタン号で箱館にやってきました。,ペリーの『日本遠征記』には、ポーハタン号の乗組員が、北海道の火山の調査や植物の採集を行ったと記されているし
函館市史 通説編 第一巻 (気象観測)

観測は外人によっても行われ、ペリー一行もこれを行い、ロシア人医師アルブレヒトも、安政6年から2年間にわたって
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田)

安政元(一八五四)年四月に、アメリカのペリー提督一行が箱館に滞在し、各種の調査を行ったが、『ペリー提督日本遠征記,ペリー遠征記の地図  亀田の農業の発達は、江戸時代になってから居住者が増加し、土地条件に恵まれていたために
函館市史 通説編 第二巻 (黒船渡来)

この巨大な「火輪船」こそペリー艦隊の旗艦ポーハタン号とミシシッピー号であった。,まさにペリーらしい入港のしかたであった。,3艘が碇泊するや、ただちに応接方藤原主馬・関央・代嶋剛平・蛯子次郎が橋船でポーハタン号に赴き、ペリー付通訳
函館市史 通説編 第一巻 (2水兵の埋葬)

故国を遠くはるかにした、若者の死に暖かい同情を示して、提督邸の丁度上の新桟橋にあげるよう指示し」(『ペリー,しかしこれは当時直ちに実現されなかったが、昭和29年7月17日、ペリー来港100年記念式当日ようやくこれが
函館市史 通説編 第一巻 (写真)

写真 写真術については、本章第4節にも若干述べたが、安政元年のペリー一行のなかに写真師ブラウンがおり
函館市史 通説編 第一巻 (旗艦ポーハタン号の入港)

旗艦ポーハタン号の入港 提督ペリーの座乗するポーハタン号と、ミシシッピー号の2艦が入港したのは4月21,なお、蝦夷地検分のため北上中であった目付堀利熙、勘定吟味役村垣範正が、松前藩の依頼によりペリー応接のため
函館市史 通説編 第一巻 (諸術調所)

また安政元年堀、村垣両名に随行して蝦夷地巡回の途中、たまたまペリーの箱館来航に際会し、安間純之進らとともに,設計築設し、また尻岸内に溶鉱炉を造っているが、文久2年には幕府から招かれた米国の地質学者ブレークやパンペリー
函館市史 通説編 第一巻 (松前藩への通達)

松前藩への通達 日米和親条約を締結すると、ペリーは開港に先立って下田・箱館両港の視察を申し出た。
函館市史 通説編 第一巻 (アメリカ人の見た箱館)

(『ペリー日本遠征日誌』)ともいっている。
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