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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (アイドマリ)

アイドマリ アイの風とは北風のことで、東津軽郡及び富山県方面の方言である。,トマリは船をつなぐところを意味し、アイドマリとは、北風の時に船をつなぐ所という意味であって、天明三年( / アイドマリ
函館市史 通説編 第一巻 (リコルドの再航)

リコルドの再航 リコルド  一方、ゴロウニンの救出を誓って去ったディアナ号副艦長リコルドは、文化,9年8月3日、これより先、文化4年フォストフに捕えらわた五郎次および文化7年漂流した、摂津の商船歓喜丸,を連れて再び国後の泊に来たが、国後在勤調役並太田彦助らがこれを見て厳重な陣固めしてこれを迎えたので、リコルド,五郎次は自ら中川良左衛門と名乗り、千島の有力者を装い、5年間ロシア滞留中にロシア語も解するようになっていた,しかし、リコルドはこれを信ぜず、ほかに信頼に足る日本人を捕え、その真相を確かめるため日本船の往来をうかがっていた / リコルドの再航
椴法華村史 (どうだんつつじ祭り)

どうだんつつじ祭り サラサドウダンとツツジの里、椴法華へどうぞと、村と観光協会共催にて、第一回どうだんつつじまつりが,、昭和五十九年六月、三日間に亘り国民宿舎「恵山荘」前公園で実施された。   ,カラオケのど自慢大会   ビール早飲み大会   民謡歌謡ショー   きき酒大会   舞踊ショー, なお多勢の観光客が村内外から、どうだんつつじ祭りを訪れ、花見客でにぎわいをみせた。,昭和61年7月 華やかなどうだんつつじ祭り / どうだんつつじ祭り
函館市史 通説編 第二巻 (エルドリッジの来函)

エルドリッジの来函 エルドリッジと生徒たち    開拓使の医師の養成についての方針,開拓使は函館病院の外科医長としてアメリカ人医師エルドリッジを招へいし、明治5年に就任した。,、英語の勉強も必要であったし、本多公敏と章克己が通訳をすることもあった(大西泰久編・著『御雇医師エルドリッジ,田沢謙、村岡格、赤城昌英などはその後、函館病院の医師として名前をみることができる。,なおこの学校は7年のエルドリッジの退任により数年間の中断を免れなかったが、11年2月に深瀬鴻堂外2名を / エルドリッジの来函
函館市史 銭亀沢編 (どんど焼き)

どんど焼き 昭和三十年頃からおこなわれるようになった。七日の朝に、お神酒を神棚に供え灯明をともす。,拝んだ後に玄関・神棚・床の間などの注連縄や注連飾り・輪としななど全部をとりはずし、まとめて氏神神社へもっていく,神社では、神職のお祓い後、古い神符・お守りなどといっしょに正月飾りを焼く、神職のいない神社では、神職に,代わって「別当」や「神社総代」などの神社役員がその仕事をする。 / どんど焼き
函館市史 別巻 亀田市編 (総務常任委員長報告どおり可決)

総務常任委員長報告どおり可決 四十八年五月十五、六日の二日間の予定で開かれた臨時第一回市議会は、合併問題,この重大な問題を審議するに当り、会期の前半においては議事日程や議会運営と審議方法などが主として論議された,論議が進むうちで二十二日、提出されている合併反対陳情に関し、「市長はどう考えているか。」,調査事項としては学校教育の問題、公営企業などの実態(水道)、交通事業、病院経営、住民世論などである。,二十四日、委員長の報告をめぐって質疑後討論が行われ、午後十時五十分採決の結果、賛成一八、反対七で委員長報告どおり / 総務常任委員長報告どおり可決
函館市史 通説編 第一巻 (エドワード・S・モース)

エドワード・S・モース エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚,大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート / エドワード・S・モース
函館市史 別巻 亀田市編 (地域子ども会)

地域子ども会 社会事情の安定に伴って子どもの幸せを願い、有為の社会人に育つことを望む要請にこたえて、,地域的な子どもの集りが、いわゆる子ども会の結成となり、地域における社会行事への参加を通して、その育成が,しかるに単位子ども会数が多くなるにつれ、団体相互の友和、研修結果の交換などは容易に進まず、連合団体を結成,する必要から、三十八年七月二十四日、各単位団体代表者会議によって、「亀田町地域子ども会連合会」の結成をみた / 地域子ども会
戸井町史 (三、子ども会と子ども愛護(育成)会)

「青空子ども会」は、炊事遠足、写生会、作品展示会野球、ドッジボール大会、模型飛行機大会、サイクリング、,キャンプ、たこ上げ大会、他町村子ども会との交歓会、クリスマス楽しみ会等の行事を実施し、これが昭和四十一年,愛護会を結成し、愛護会の手によって「子ども会」の組織づくりが行われ、瀬田来地域の子どもたちの生活が一変,野球、ソフトボール、バトミントン、卓球、相撲、水泳、スキー、スケート、ボウリング、サイクリング、ラジオ,体操、キャンプ、炊事遠足、写生会、フェリーボートによる遊覧、バスによる見学、発典行事への参加、盆おどり / 三、子ども会と子ども愛護(育成)会
函館市史 通説編 第一巻 (ホンドイタチ)

ホンドイタチ 徳川時代の末ころから明治にかけて、ネズミを追って船中に忍び込み、本道へ渡って繁殖したものである,明治40年、函館の毛皮商松下熊槌はロンドン万国博覧会に渡島産としてこの毛皮200枚を出品したが、質の良好,当時に比べると最近では、市街化の進行、捕食小動物の減少、猟具の進歩などにより、当地域の個体数も激減している / ホンドイタチ
函館市史 銭亀沢編 (子どもを守る会)

子どもを守る会 現在、銭亀町こどもを守る会、新湊町こどもを守る会など町会ごとに子どもを守る会が活動している,自己中心になりがちな子どもたちを団体活動を通して心身ともに健やかな子どもの育成を念頭に学校、家庭と歩調,時の子どもみこし、節分の豆まき大会などであった。  ,現在では、函館市子ども会育成連絡協議会の組織の一員になっており、市の子どもの祭典には参加している。,、地区の役員のなり手もなくなったことなどから会の活動が以前と比べると低下してきたという(田中勝廣談)。 / 子どもを守る会
椴法華村史 (海馬(とど)岩)

海馬(とど)岩 『北海道蝦夷語地名解』によれば、「アイヌ語でドカリシヨ、のちこれを和人、海馬岩という,弘化二年より四年(一八四五-四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、「海中に在り、 / 海馬(とど)岩
函館市史 銭亀沢編 (ドンジャと刺し子)

ドンジャと刺し子 ドンジャを仕立てるための刺し縫いは細かい仕事なので、電気が普及する以前は、夜なべで,二枚重ねにして刺し終えた布は一枚の布として単衣仕立てのようにして縫ったが、衿下、袖口、裾などは三つ折りにすると,厚くなるので裁ちめのままにし、別布(黒木綿)で覆輪(五ミリメートルほどの玉縁様の縁取り)を付けた。,ドンジャの袖の形は鉄砲袖もあったが、たいていは動きやすいムジリ袖(平袖の袖付けから袖口を残した下の部分,を三角に折り曲げたもの、または、斜めぎれのさしわを入れたもの)であり、着丈は普通の着物丈より短く、膝丈 / ドンジャと刺し子
函館市史 銭亀沢編 (生育と子どもの衣服)

夏はおぶった上から子どもの着物を掛けたりしたが、寒くなるとカメノコ(亀の甲羅形で薄く綿を入れたもの)を,昭和五十年代後半くらいからは、子どもを後ろにおぶることをしなくなり、おぶい紐と共にママコートも姿を消していった,学童期の子どもの衣服は昭和初期頃まで和服形式であり、夏も冬も着物を着た。,マントなどを着た。,を、足には別珍などの足袋や毛糸や綿糸を解いて編んだ靴下にゴムの短靴や長靴、下駄などを履いた。 / 生育と子どもの衣服
戸井町史 ([下海岸のクドキ節])

クドキ節は昔下海岸をワラジがけで歩いたり、ドサンコ馬の背に乗って歩いたり、或は小さな舟で沿岸を漕ぎ渡った,クドキ節は歌詞が素朴であり、曲が哀調を帯びていて、素朴な漁民の共感を呼び、ドサンコ馬の背にゆられながら, いかり下(おろ)して  川尻着ける  弁財問屋(べんざいどんや)は  どこかと聞けば  音に,行き  胡瓜(きゅうり)もいで来て  皮をむきむき  どんぶり直す  さかなあれども  酌取ないが,  キリキリねじる  指して行くのは  雄冬(おふゆ)の沖よ    (レコードの歌詞の明瞭に誤りだと / [下海岸のクドキ節]
南茅部町史 下巻 (〔方言と子どもたち〕)

日の丸の旗あり、赤いチューリップ、積木のような家、船、おかっぱの女の子、ウニのような太陽を二つかくもの,とかく一年生は頼りなく、転びやすく、泣きやすい。,早速リストを作り、家庭と連絡をとることにした。,讀みの指導でも、話し学習でも、その中にどのような形でどの程度発音指導をとりいれていくかということで心労,女子の方は発音も男子よりずっとよかったときいている。         / 〔方言と子どもたち〕
恵山町史 (溶岩ドームおよび溶岩流)

溶岩ドームはこの火口原を円状に取り囲むように10個程度存在する。,北斜面は標高450メートル〜150メートル付近で開析が進んでおり、南東斜面は後述するドームに覆われている,  外輪山(がいりんざん)溶岩ドーム群(456メートル峰、410メートル峰、372メートル,があり、白色に変質した火砕物とともに噴気も認められる最も新しい溶岩ドームである。,がる火砕流堆積物であり、南麓の恵山溶岩ドーム付近を起源とする火砕流堆積物と同じ噴火によって作られた地形 / 溶岩ドームおよび溶岩流
函館市史 別巻 亀田市編 (体育協会などの発足)

体育協会などの発足 昭和二十四年秋、住民の体位向上を目指し、渡島管内のトップを切って発足した亀田村体育協会,小柳忠三郎  若松 勝蔵    毎年のように各種の競技大会を開催したが、三十年七月、亀田中学校グラウンドにおける,陸上競技大会に参加した団体は次のとおりである。     / 体育協会などの発足
函館市史 別巻 亀田市編 (掟六か条などによる教化)

掟六か条などによる教化 箱館裁判所が布告した「掟六か条」は次のとおりである。     ,二 鰥寡弧独(カンカコドク)そのほか身体に傷害ある者は保護し、又役人不行届の事あれば罷免することもあるので,四 殺人火付け窃盗などの大罪は厳重に処置し、その他は軽重にしたがい夫役を申しつけること。   ,以上は社会生活における倫理綱要ともいうべきものであり、また、開拓使において農民の心得などを制定して、その / 掟六か条などによる教化
函館市史 通説編 第二巻 (沖之口制運用の変化など)

文右衛門は、従来どおりの積出し方式を箱館奉行へ出願したが、箱館奉行の態度は、次の如くであった。,実際には、様々な緩和措置もあったが、従来どおりの方式がすべてみとめられるのは、慶応2(1866)年になってからであった,」が課されることになり、箱館では、積荷の3割ほどが、免税のような扱いとなるわけである。,沖之口御番所」道文蔵)-幕領になっても従来どおりの扱いということであったが、開拓促進を重視するために、,大網1統に付き金3両づつを上納させ、その使用をみとめる、大網は500統ほどあるので1500両ほどがあつまり / 沖之口制運用の変化など
恵山町史 ((6) 深海で生まれるドンコ)

(6) 深海で生まれるドンコ 海釣りの外道としてあげられるドンコ(エゾイソアイナメ)、この魚を使った,ドンコ汁の味は格別である。,身は柔らかく肝臓はタラよりもきれいな脂を含んでいる。三陸地方ではスケソより人気があるらしい。,このドンコ、ごく当り前に沿岸で釣れる魚だが、どれだけたくさんのドンコを調べても成熟した魚は1尾も発見できない,その後、水深1000メートル近くの深海トロール調査でようやく成熟したドンコが採集できた。 / (6) 深海で生まれるドンコ
椴法華村史 (英国船ラフォルド号の沈没)

英国船ラフォルド号の沈没 大正四年十月五日、室蘭を出港した英国船ラフォルド・ホール号五千五百五十二屯,、濃霧のため恵山沖で針路を誤り十月八日大間弁天島付近に座礁、沈没、大正四年十月十日現在の生存者八十六名 / 英国船ラフォルド号の沈没
函館市史 銭亀沢編 (ハシワタシ・ナカドとキメザケ)

ハシワタシ・ナカドとキメザケ 結婚相手を探しだし両家の仲立ちをする世話人をハシワタシといって、世話好,ナカド(仲人)には、このハシワタシがそのまま務める場合と、改めてほかの人に依頼するタノマレナカド(サカヅキナカド,仲人は夫婦で務めるのが仕来たりになっているが、昭和のはじめ頃までは男二人で仲人を務めることがあり、そのときは,結婚の話し合いは一回では決まらず、ハシワタシやナカドが何回も両者の間を往復してまとめた。,、嫁の家に挨拶に出掛け、一杯飲みながら結納の日取りなどを決めた。 / ハシワタシ・ナカドとキメザケ
函館市史 別巻 亀田市編 (教師心得などによる管理行政)

教師心得などによる管理行政 教師心得は明治十二年二月、函館支庁において定めたもので、教師としての態度,、在り方、生徒の教導法、教場・学校内の管理法など二十七か条にわたって詳しく述べたが、文部省からは二年おくれて,、『小学校教員心得』により教師としての心構えを明示した。,このようにして、学校教育が発足して間もなく、種々な規定により、教師の在り方について詳細にわたる事項が明示 / 教師心得などによる管理行政
南茅部町史 上巻 (尻戸廻(しどまわし)網漁)

尻戸廻(しどまわし)網漁 尻戸廻は、尻戸間差(しどまさし)ともいわれ、鰮の地曳網の操業のとき、大網から,水分とともに油をしぼりぬき、〆粕をつくる。,魚油はブリキの石油缶に入れて検査をうけ、函館の海産商に送った。  ,函館へ送り、委託販売の仕切り(精算書)がくると、歩方の総精算となる期間の長いものである。     ,合図の方法で、どこの漁場が魚群を見つけたか互いに分かる。   / 尻戸廻(しどまわし)網漁
函館市史 別巻 亀田市編 (小学生心得などによる修身教育)

小学生心得などによる修身教育 「函館県小学校則」 (明治十六年)の第二章は生徒心得であり、二十五か条,につとめる、労苦、洗顔、髪をすく、あいさつ、車馬に注意、忘れものをしない、時間を守る、落書をしないなど具体的,「小学生心得 全一冊定価金五銭八厘   右は本県教科書にて著色の密画を挿み、各生徒必携の書なり出版仕,り候間御購求あらんことを乞う」(明治十七年十二月七日)    また、「小学校則」(明治十三年一月本庁布達 / 小学生心得などによる修身教育
函館市史 銭亀沢編 (年とり)

年とりの前に、一年間のお礼参りに氏神様にお神酒・供え餅・ミカンなどを供えお参りする家もある。  ,年とり料理の準備は、材料などを二十五日頃からとり揃えておいて三十日にとりかかる。,煮しめ・数の子・黒豆・酢の物・茶碗蒸しなど海の幸・山の幸のたくさんのご馳走が並べられる。  ,年とりにはどの家でも必ず作ったのが「くじら汁」である。大きな鍋に鯨肉と野菜・山菜・豆腐を入れて作る。,現在は材料の鯨肉の入手が困難なので以前ほど大量には作らないが、少量でも欠かさず作る家が多い。   / 年とり
函館市史 銭亀沢編 (盆踊り)

盆踊り 盆の期間中、盆踊りは盛んにおこなわれた。,「やぐら」を組み、舞台を作り、歌好きののど自慢の人が交替で、盆踊り歌や民謡を歌い、人びとはそれに合わせて,が夜遅くまで踊りを楽しんだ。,今でもなにかの祝い事や、懇親の会合などで、余興の際には誰となくいい出し、年輩の人も気軽に加わり、二つの,踊りをみんなで踊ることがあるという。 / 盆踊り
恵山町史 (土地資源としての土壌(どじょう))

噴気孔より約150〜200メートル隔たった、pH2.8の未熟土に至り初めてオオイタドリ・ウラジロタデ・エゾイソツツジ,などが散生するが、植被率(しょくひりつ)は5%前後にすぎない。,植群は、全体としてはウラジオタデ群と呼ばれ、上記の「硫気孔原植物」(根来、1943)のほか、オオイタドリ・コメススキ・ノリウツギ・サラサドウダン・ヤマハハコ・ウド,面積647ヘクタール、B−Ⅱ土壌統群に比し、人工造林(主にトドマツ・カラマツ・スギ)の進んだ地域となっており,林地は傾斜15度〜30度の地帯が4類地に区分されており、土壌はほとんど褐色森林土Ⅱである。   / 土地資源としての土壌(どじょう)
函館市史 銭亀沢編 (正月飾り)

長く綯った注連縄にコンブ・スルメ・松・ゆずり葉・御幣をはさみ、神棚・床の間・船・倉庫・納屋などに飾る。,輪状に丸めたのは「輪としな」で台所・風呂場・便所などに飾る。,餅の代わりに最近は、赤・青・黄などに色づけした模型が市販されている。  ,昭和三十年代までは、どこの家でも神棚のそばや家の大黒柱に飾ってあるのがよく見られたが、今はあまり飾る家,赤川町は古くから注連飾り、まゆ玉など、正月飾りの生産が盛んで、ほとんどの家で副業として作っている。 / 正月飾り
函館市史 銭亀沢編 (年とり)

神様にはお膳にのせた年とりのご馳走を二膳供えたが、これらは年とりをする時に下げ、一膳は主人、残りの一膳,仏前の供物は、仏壇の上段に直径二寸・三つ重ねのお供えを五組、次の段には果物やお菓子など、手前の段の中央,煮しめは一週間分くらいを一度に作り、年とりにも正月中にも、鯨汁と交互に食べた。  ,年とりの晩の座り方はその家により決まっており、ほとんどの場合、主人を中心に両脇に年寄の席と子どもの席がとられていた,ご馳走を食べ終えた後は、母親が後片付けをし、子どもたちは新年を迎える嬉しさに騒ぎ回り、くたくたに疲れて / 年とり
函館市史 銭亀沢編 (墓参り)

墓参り 迎え盆。十三日は家の仏壇に、赤飯・煮しめ・団子・テン・菓子・季節の果物などを供える。,またキュウリやナスに割りばしで四本の足をつけた「馬や牛」をつくって飾る。,水塔婆は木のまさでできていて、盆の前に菩提寺から受け、盆の期間中、仏前に花びんなどに入れて供えておく。,この日は家族揃って墓参りをする。,墓参りは親戚の墓や親しい家、世話になっている家の墓にも、水・花・線香・ろうそくをともしお参りする。 / 墓参り
函館市史 銭亀沢編 (送り盆)

送り盆 十六日には祖先の霊が帰っていくといわれ、各家庭では朝、仏壇に白玉・そうめんなどを供える。,午前中に盆の期間中の供えものを海へ流していたが、昭和五十年代からほとんど流すのを自粛しているが、数は少 / 送り盆
南茅部町史 上巻 (渡り・移動)

生息しているが、ほとんどの鳥は渡り鳥で、南茅部町でも繁殖するホオジロ、アオジロ、キジバト、アオバト、ハクセキレイ,、モズ、ノビタキ、イソヒヨドリ、オオルリ、ホオジロ、アオジなど多くいるが、さらに北のサハリンあるいはアラスカ,、シベリアなどの北方圈に繁殖地をもつウミスズメ、アカエリヒレアシシギ、ワシカモメ、シロカモメなどが繁殖期,地方で繁殖する鳥は繁殖が終わって南下するものが多いが、ハシボソミズナギドリなどのようにオーストラリアで,鳥は渡りあるいは移動の方法により、繁殖のために飛来する夏鳥、春秋の渡りのときに立ち寄る旅鳥、越冬のためなどに / 渡り・移動
南茅部町史 下巻 (〔方言のうつり変わり〕)

〔方言のうつり変わり〕 方言に変化がおこった。  ,こども達の言語感覚にも大きな影響をあたえた。  ,これが永年のイエ、シス、チツなどの「かなちがい」といわれた方言の泣きどころを一挙に改革する、大きな教育効果,ことばは変化するものであるから方言もうつりかわる。,使われなくなって死語となるもの、新しく流行したり、転意したり、方言は一層共通語の中に姿を消そうとしている / 〔方言のうつり変わり〕
函館市史 別巻 亀田市編 (商工まつり)

自治制施行70周年 市制施行1周年記念 商工まつり   ・九月十四日(木) 商工おどり  午後六時三十分,商工おどり ・九月十六日(土)商工まつりパレード  午後一時―三時三十分、昭和小学校より五稜郭駅前,このたびは、商工会横に特設舞台を設け「ミス商工まつり」の発表会、商工踊り、亀田万年太鼓などの披露、最終日,には華やかな市中パレードが繰りひろげられ、昨年に劣らぬ盛況裡に終わっている。,商工まつり発表会 素人のど自慢 亀田万年太鼓披露   午後六時商工会横特設舞台 ・八月十五日(水) / 商工まつり
函館市史 別巻 亀田市編 (米づくり)

肥料は元肥として堆肥を多く使っていたが、人によっては人糞も使用し、それにカリ肥料や硫安なども混ぜて使用,こうした作業の後は田に水を入れ、代かき用のすき(馬ぐわ)を馬に引かせて、更に土を砕き、どろどろにしながら,水平にして行き、更に幅一五センチ、長さ二メートルほどの板に柄をつけたエンブリで泥を水平にしていく。,これを引いて歩いて、どろどろにした田の表面に縦だけのすじをつけるのである。  ,「かまによ」などの方法によって稲をよく干す。 / 米づくり
南茅部町史 下巻 (安浦駒踊り)

渋谷道夫は、「盆におどることをふくめて」「駒おどりが一般化し風流化しても宗教的な意味を保持して」いること,、「駒おどりが、念仏おどりの一種であったことを示す」ものとして、三戸郡階上村赤保内茨島の念仏を紹介している,道内で駒踊りとよぶ郷土芸能は一一(うち荒馬踊二、駿馬おどり一)をかぞえる。,手おどり 七種類1庭入り  (扇おどり)  2二本扇(祓い)サンバ         3しなおどり(,手おどり)         4まわりおどり(引返し)         5甚句おどり(手おどり) / 安浦駒踊り
函館市史 銭亀沢編 (イワノリとフノリ)

イワノリとフノリ 銭亀沢付近に分布するイワノリ類はウップルイノリとスサビノリの二種、フノリ類はフクロフノリ,特にこの季節は干満差が大きく、大潮の干潮時には近郊の住民がイワノリやフノリを摘み採る姿が見られる。,漁業者はイワノリ類を区別し、大型で岩盤上に付くものを「べたのり」、イガイの貝殻上に付く小型のものを「いわのり,イワノリ、フノリ類の用途は、現在では生産量が少ないので、生鮮ものとして少量は市場に出されるが、漁業者が,で好漁場の平磯が少なくなったことや漁港内やその周辺の油汚染で油臭がつくなど、人為的影響も大きいようである / イワノリとフノリ
南茅部町史 上巻 (網造り)

(2)網仕立  鮪一方(専門)の網で、メン糸のない明治の頃は手網も胴(どう)網も藁(わら)網で仕立てた,ヨドリ引きは網の目にすれば三寸目で、それより細い目は機(はた)で主に建揚(たてあげ)に使った。,ヤツ胴は楢の柴か漆の柴を山採りした。ヤツドウ柴を組んで二〇間位の大きさのものをつくる。  ,捕った鮪はどんどん陸へ運び、かならず八木川に一日は入れておく。,オンバ鮫であればドンジャを揚げて陸に合図をする。 / 網造り
南茅部町史 上巻 (鱈釣り漁)

そして漁期を前に、乗組み仲間(なかば)の主婦達は、秋の野山に出かけ、萱(かや)・ドンゲ(いたどり)を刈,鱈釣り漁は、一番鶏(どり)が鳴くと(午前二時ごろ)起きて飯を炊き、身仕度をして船出する。  ,一時間に四、五枚しか引きあげられないから、夜どおし繩をとり続ける。,タラ釣り漁を語る    豊崎  二本柳文平(明治二一年生)談   タラ釣りは、一〇里ほど沖へ出た。,船長が高いブリッジの上から、船は駄目なんだけど、と叫んだ。 / 鱈釣り漁
函館市史 銭亀沢編 (里帰り)

里帰り 里帰りについては家の実情に応じてさまざまであった。,婚礼の済んだ翌日の里帰りが多かったが、一週間目、一〇日目ということもあった。,婿の両親が同伴することもあり、酒一升に酒の肴あるいは菓子・赤飯などを持参した。,大方は日帰りもしくは一泊であった。,里帰りの際親戚が集まって飲食を共にすることはあるが、近所への挨拶回りはやらなかったようだ。 / 里帰り
恵山町史 (ハザードマップ(火山災害危険区域予測図))

今回作成された荒井(1998)のハザードマップは、この中で学術マップに属するものであり、住民啓発型マップ,例えば、1983年のチョロ山(インドネシア)噴火は、火山観測所もない島でありながら、わずか4年前に作成,事前に流路も危険範囲も実際の災害にほぼ一致した、精度の高いハザードマップが作られており、直前に避難命令,することに成功しており、ハザードマップの有効性が示されている。  ,そこで、災害予測に用いる資料としては、時代的にあまり古くなり過ぎない範囲で、噴火規模や噴火現象に時間空間的 / ハザードマップ(火山災害危険区域予測図)
函館市史 銭亀沢編 (祭りの衣服)

を着たりした。,祭りでは、男性が社殿に入って参拝し、女性と子どもたちは外で社殿を囲むようにして神楽や獅子舞を見物した。,女性は普段着より若干改まった簡単服や浴衣を着、子どもには新調した衣類を着せた。,簡単服や華やかなワンピースドレス、男の子にも新しい浴衣や新しい洋服を着せた。,祭りの時に子どもたちの衣類を新調する風潮は、戦時中を除き、戦後も物資が出回り始めた頃から昭和三十年頃までみられた / 祭りの衣服
椴法華村史 (サマーフェスティバル・イン・トドホッケ)

サマーフェスティバル・イン・トドホッケ 全道各地から観光客が来村、村では若者が過疎の沈滞ムードを吹き,飛ばそうと、サマーフェスティバル・イン・トドホッケが開催された。,メインのサーフィン大会には、札幌、室蘭、苫小牧などから多数の選手が参加し、各クラス別に波間に漂い妙技を,椴法華村のこれからの発展の主要になるであろう観光は、自然景観的土地利用とともにサーフィン大会、どうだんつつじ,祭り、日持聖人祭など若いエネルギーの発動と、先人の道程を兼ね合いされた、新しい観光として進まれるものと / サマーフェスティバル・イン・トドホッケ
南茅部町史 下巻 (〔三五年ぶり中国より帰国〕)

半年ほどで日本へ帰る予定であったのが戦争が激しくなり、ついに敗戦となり身を隠すような、危険な日々を過ごしていた,まもなく結婚して子どもも四人生まれた。日本人であることを隠し台湾人であるとして暮らした。  ,子ども達もつらい思いをしたが、主人の姉が守ってくれた。  ,八月三一日、「母死す」の電報があり、ようやく帰国が許されて一一月、夫と子どもたちを中国に残して単身帰国,翌昭和五五年八月二六日、三人の子ども長男朱鈞〓・二男朱鈞暟・二女朱雅瑾も母の国日本へ移住の許可をえてやってきた / 〔三五年ぶり中国より帰国〕
函館市史 通説編 第一巻 (エゾリス)

エゾリス 欧亜に広く分布しているリス(ユーラシアリス)の2亜種が日本に分布し、本州にはホンドリス、北海道,にはエゾリスが生息している。,当地域のもエゾリスで、亀田山脈の森林地帯に住んでいる。 / エゾリス
南茅部町史 下巻 (鱈釣り口説節)

 時にわが身は船頭となりて  それは誰よど尋ねできけば    〽それは誰よどナ尋ねできけば,をどんとやって繩うつ仕度  二百余りの瀬(せ)繩をまいて    〽二百余りもナ瀬(せ)繩をまいて,見れば  西が南西(ヒカダ)が南の雲が  昔年寄(としより)のたどいごどきけば    〽昔年寄,の源平(げんべ)の疲れ    〽眠りすごせば弟(おどと)が起(おご)し  恵山お山のナ煙りを見れば,アリヤ恐ろしい  昔年寄のたどいごどきけば  シカダ風とは人とる風よ  サーサこれから繩とる仕度 / 鱈釣り口説節
函館市史 別巻 亀田市編 (とり入れ)

とり入れ いもの収穫  馬鈴薯のとり入れは八月上旬から始められた。,農家では、薯の掘り終わったところからすぐ大根の種まきを始めた。,ほとんどの農家では、秋に収穫したらすぐ畑に通称薯穴を掘って貯蔵した。,朝鮮、満州などへ送った。  ,中位の大きさの薯は翌年の種子薯に残したり、小さなくず薯は澱粉用原料、家畜の飼料に回した。 / とり入れ
函館市史 銭亀沢編 ([おわりに])

、津軽海峡を挟む対岸の漁業地域との関わりが深いことなどから、風俗、習慣はもとより衣生活にも出身地の形態,が引き継がれていたり、出身地のものをこの地区に合わせて改良して活用するなど、これらの地域との類似性、関連性,袖口、裾、ウマノリなどに別布で覆輪を付けて擦り切れを防ぐとともに、損傷すると覆輪部分だけを取り替える。,ドンジャの膝が擦り切れると細かくタンブ刺しをしたり、丈を短くして着用したが最後は雑巾にしたり、網を引くとき,されるようになり、戦中、戦後にかけては、国民服、標準服制定などの影響も受け、婦人のウワッパリにモンペスタイル / [おわりに]
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