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椴法華村史
(アイドマリ)
アイ
ド
マ
リ
アイの風とは北風のことで、東津軽郡及び富山県方面の方言である。,トマ
リ
は船をつなぐところを意味し、アイ
ド
マ
リ
とは、北風の時に船をつなぐ所という意味であって、天明三年( / アイ
ド
マ
リ
函館市史 通説編 第一巻
(リコルドの再航)
リ
コル
ド
の再航
リ
コル
ド
一方、ゴロウニンの救出を誓って去ったディアナ号副艦長
リ
コル
ド
は、文化,9年8月3日、これよ
り
先、文化4年フォストフに捕えらわた五郎次および文化7年漂流した、摂津の商船歓喜丸,を連れて再び国後の泊に来たが、国後在勤調役並太田彦助らがこれを見て厳重な陣固めしてこれを迎えたので、
リ
コル
ド
,五郎次は自ら中川良左衛門と名乗
り
、千島の有力者を装い、5年間ロシア滞留中にロシア語も解するようになっていた,しかし、
リ
コル
ド
はこれを信ぜず、ほかに信頼に足る日本人を捕え、その真相を確かめるため日本船の往来をうかがっていた /
リ
コル
ド
の再航
椴法華村史
(どうだんつつじ祭り)
ど
うだんつつじ祭
り
サラサ
ド
ウダンとツツジの里、椴法華へ
ど
うぞと、村と観光協会共催にて、第一回
ど
うだんつつじまつ
り
が,、昭和五十九年六月、三日間に亘
り
国民宿舎「恵山荘」前公園で実施された。 ,カラオケの
ど
自慢大会 ビール早飲み大会 民謡歌謡ショー きき酒大会 舞踊ショー, なお多勢の観光客が村内外から、
ど
うだんつつじ祭
り
を訪れ、花見客でにぎわいをみせた。,昭和61年7月 華やかな
ど
うだんつつじ祭
り
/
ど
うだんつつじ祭
り
函館市史 通説編 第二巻
(エルドリッジの来函)
エル
ド
リ
ッジの来函 エル
ド
リ
ッジと生徒たち 開拓使の医師の養成についての方針,開拓使は函館病院の外科医長としてアメ
リ
カ人医師エル
ド
リ
ッジを招へいし、明治5年に就任した。,、英語の勉強も必要であったし、本多公敏と章克己が通訳をすることもあった(大西泰久編・著『御雇医師エル
ド
リ
ッジ,田沢謙、村岡格、赤城昌英な
ど
はその後、函館病院の医師として名前をみることができる。,なおこの学校は7年のエル
ド
リ
ッジの退任によ
り
数年間の中断を免れなかったが、11年2月に深瀬鴻堂外2名を / エル
ド
リ
ッジの来函
函館市史 銭亀沢編
(どんど焼き)
ど
ん
ど
焼き 昭和三十年頃からおこなわれるようになった。七日の朝に、お神酒を神棚に供え灯明をともす。,拝んだ後に玄関・神棚・床の間な
ど
の注連縄や注連飾
り
・輪としなな
ど
全部をと
り
はずし、まとめて氏神神社へもっていく,神社では、神職のお祓い後、古い神符・お守
り
な
ど
といっしょに正月飾
り
を焼く、神職のいない神社では、神職に,代わって「別当」や「神社総代」な
ど
の神社役員がその仕事をする。 /
ど
ん
ど
焼き
函館市史 別巻 亀田市編
(総務常任委員長報告どおり可決)
総務常任委員長報告
ど
お
り
可決 四十八年五月十五、六日の二日間の予定で開かれた臨時第一回市議会は、合併問題,この重大な問題を審議するに当
り
、会期の前半においては議事日程や議会運営と審議方法な
ど
が主として論議された,論議が進むうちで二十二日、提出されている合併反対陳情に関し、「市長は
ど
う考えているか。」,調査事項としては学校教育の問題、公営企業な
ど
の実態(水道)、交通事業、病院経営、住民世論な
ど
である。,二十四日、委員長の報告をめぐって質疑後討論が行われ、午後十時五十分採決の結果、賛成一八、反対七で委員長報告
ど
お
り
/ 総務常任委員長報告
ど
お
り
可決
函館市史 通説編 第一巻
(エドワード・S・モース)
エ
ド
ワー
ド
・S・モース エ
ド
ワー
ド
・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚,大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して、モースはアイヌ人はエスキモー人やア
リ
ュート / エ
ド
ワー
ド
・S・モース
函館市史 別巻 亀田市編
(地域子ども会)
地域子
ど
も会 社会事情の安定に伴って子
ど
もの幸せを願い、有為の社会人に育つことを望む要請にこたえて、,地域的な子
ど
もの集
り
が、いわゆる子
ど
も会の結成とな
り
、地域における社会行事への参加を通して、その育成が,しかるに単位子
ど
も会数が多くなるにつれ、団体相互の友和、研修結果の交換な
ど
は容易に進まず、連合団体を結成,する必要から、三十八年七月二十四日、各単位団体代表者会議によって、「亀田町地域子
ど
も会連合会」の結成をみた / 地域子
ど
も会
戸井町史
(三、子ども会と子ども愛護(育成)会)
「青空子
ど
も会」は、炊事遠足、写生会、作品展示会野球、
ド
ッジボール大会、模型飛行機大会、サイク
リ
ング、,キャンプ、たこ上げ大会、他町村子
ど
も会との交歓会、ク
リ
スマス楽しみ会等の行事を実施し、これが昭和四十一年,愛護会を結成し、愛護会の手によって「子
ど
も会」の組織づく
り
が行われ、瀬田来地域の子
ど
もたちの生活が一変,野球、ソフトボール、バトミントン、卓球、相撲、水泳、スキー、スケート、ボウ
リ
ング、サイク
リ
ング、ラジオ,体操、キャンプ、炊事遠足、写生会、フェ
リ
ーボートによる遊覧、バスによる見学、発典行事への参加、盆お
ど
り
/ 三、子
ど
も会と子
ど
も愛護(育成)会
函館市史 通説編 第一巻
(ホンドイタチ)
ホン
ド
イタチ 徳川時代の末ころから明治にかけて、ネズミを追って船中に忍び込み、本道へ渡って繁殖したものである,明治40年、函館の毛皮商松下熊槌はロン
ド
ン万国博覧会に渡島産としてこの毛皮200枚を出品したが、質の良好,当時に比べると最近では、市街化の進行、捕食小動物の減少、猟具の進歩な
ど
によ
り
、当地域の個体数も激減している / ホン
ド
イタチ
函館市史 銭亀沢編
(子どもを守る会)
子
ど
もを守る会 現在、銭亀町こ
ど
もを守る会、新湊町こ
ど
もを守る会な
ど
町会ごとに子
ど
もを守る会が活動している,自己中心にな
り
がちな子
ど
もたちを団体活動を通して心身ともに健やかな子
ど
もの育成を念頭に学校、家庭と歩調,時の子
ど
もみこし、節分の豆まき大会な
ど
であった。 ,現在では、函館市子
ど
も会育成連絡協議会の組織の一員になってお
り
、市の子
ど
もの祭典には参加している。,、地区の役員のな
り
手もなくなったことな
ど
から会の活動が以前と比べると低下してきたという(田中勝廣談)。 / 子
ど
もを守る会
椴法華村史
(海馬(とど)岩)
海馬(と
ど
)岩 『北海道蝦夷語地名解』によれば、「アイヌ語で
ド
カ
リ
シヨ、のちこれを和人、海馬岩という,弘化二年よ
り
四年(一八四五-四七)に至る記事をまとめた松浦武四郎の『蝦夷日誌』によれば、「海中に在
り
、 / 海馬(と
ど
)岩
函館市史 銭亀沢編
(ドンジャと刺し子)
ド
ンジャと刺し子
ド
ンジャを仕立てるための刺し縫いは細かい仕事なので、電気が普及する以前は、夜なべで,二枚重ねにして刺し終えた布は一枚の布として単衣仕立てのようにして縫ったが、衿下、袖口、裾な
ど
は三つ折
り
にすると,厚くなるので裁ちめのままにし、別布(黒木綿)で覆輪(五ミ
リ
メートルほ
ど
の玉縁様の縁取
り
)を付けた。,
ド
ンジャの袖の形は鉄砲袖もあったが、たいていは動きやすいムジ
リ
袖(平袖の袖付けから袖口を残した下の部分,を三角に折
り
曲げたもの、または、斜めぎれのさしわを入れたもの)であ
り
、着丈は普通の着物丈よ
り
短く、膝丈 /
ド
ンジャと刺し子
函館市史 銭亀沢編
(生育と子どもの衣服)
夏はおぶった上から子
ど
もの着物を掛けた
り
したが、寒くなるとカメノコ(亀の甲羅形で薄く綿を入れたもの)を,昭和五十年代後半くらいからは、子
ど
もを後ろにおぶることをしなくな
り
、おぶい紐と共にママコートも姿を消していった,学童期の子
ど
もの衣服は昭和初期頃まで和服形式であ
り
、夏も冬も着物を着た。,マントな
ど
を着た。,を、足には別珍な
ど
の足袋や毛糸や綿糸を解いて編んだ靴下にゴムの短靴や長靴、下駄な
ど
を履いた。 / 生育と子
ど
もの衣服
戸井町史
([下海岸のクドキ節])
ク
ド
キ節は昔下海岸をワラジがけで歩いた
り
、
ド
サンコ馬の背に乗って歩いた
り
、或は小さな舟で沿岸を漕ぎ渡った,ク
ド
キ節は歌詞が素朴であ
り
、曲が哀調を帯びていて、素朴な漁民の共感を呼び、
ド
サンコ馬の背にゆられながら, いか
り
下(おろ)して 川尻着ける 弁財問屋(べんざい
ど
んや)は
ど
こかと聞けば 音に,行き 胡瓜(きゅう
り
)もいで来て 皮をむきむき
ど
んぶ
り
直す さかなあれ
ど
も 酌取ないが, キ
リ
キ
リ
ねじる 指して行くのは 雄冬(おふゆ)の沖よ (レコー
ド
の歌詞の明瞭に誤
り
だと / [下海岸のク
ド
キ節]
南茅部町史 下巻
(〔方言と子どもたち〕)
日の丸の旗あ
り
、赤いチュー
リ
ップ、積木のような家、船、おかっぱの女の子、ウニのような太陽を二つかくもの,とかく一年生は頼
り
なく、転びやすく、泣きやすい。,早速
リ
ストを作
り
、家庭と連絡をとることにした。,讀みの指導でも、話し学習でも、その中に
ど
のような形で
ど
の程度発音指導をと
り
いれていくかということで心労,女子の方は発音も男子よ
り
ずっとよかったときいている。 / 〔方言と子
ど
もたち〕
恵山町史
(溶岩ドームおよび溶岩流)
溶岩
ド
ームはこの火口原を円状に取
り
囲むように10個程度存在する。,北斜面は標高450メートル〜150メートル付近で開析が進んでお
り
、南東斜面は後述する
ド
ームに覆われている, 外輪山(がい
り
んざん)溶岩
ド
ーム群(456メートル峰、410メートル峰、372メートル,があ
り
、白色に変質した火砕物とともに噴気も認められる最も新しい溶岩
ド
ームである。,がる火砕流堆積物であ
り
、南麓の恵山溶岩
ド
ーム付近を起源とする火砕流堆積物と同じ噴火によって作られた地形 / 溶岩
ド
ームおよび溶岩流
函館市史 別巻 亀田市編
(体育協会などの発足)
体育協会な
ど
の発足 昭和二十四年秋、住民の体位向上を目指し、渡島管内のトップを切って発足した亀田村体育協会,小柳忠三郎 若松 勝蔵 毎年のように各種の競技大会を開催したが、三十年七月、亀田中学校グラウン
ド
における,陸上競技大会に参加した団体は次のとお
り
である。 / 体育協会な
ど
の発足
函館市史 別巻 亀田市編
(掟六か条などによる教化)
掟六か条な
ど
による教化 箱館裁判所が布告した「掟六か条」は次のとお
り
である。 ,二 鰥寡弧独(カンカコ
ド
ク)そのほか身体に傷害ある者は保護し、又役人不行届の事あれば罷免することもあるので,四 殺人火付け窃盗な
ど
の大罪は厳重に処置し、その他は軽重にしたがい夫役を申しつけること。 ,以上は社会生活における倫理綱要ともいうべきものであ
り
、また、開拓使において農民の心得な
ど
を制定して、その / 掟六か条な
ど
による教化
函館市史 通説編 第二巻
(沖之口制運用の変化など)
文右衛門は、従来
ど
お
り
の積出し方式を箱館奉行へ出願したが、箱館奉行の態度は、次の如くであった。,実際には、様々な緩和措置もあったが、従来
ど
お
り
の方式がすべてみとめられるのは、慶応2(1866)年になってからであった,」が課されることにな
り
、箱館では、積荷の3割ほ
ど
が、免税のような扱いとなるわけである。,沖之口御番所」道文蔵)-幕領になっても従来
ど
お
り
の扱いということであったが、開拓促進を重視するために、,大網1統に付き金3両づつを上納させ、その使用をみとめる、大網は500統ほ
ど
あるので1500両ほ
ど
があつま
り
/ 沖之口制運用の変化な
ど
恵山町史
((6) 深海で生まれるドンコ)
(6) 深海で生まれる
ド
ンコ 海釣
り
の外道としてあげられる
ド
ンコ(エゾイソアイナメ)、この魚を使った,
ド
ンコ汁の味は格別である。,身は柔らかく肝臓はタラよ
り
もきれいな脂を含んでいる。三陸地方ではスケソよ
り
人気があるらしい。,この
ド
ンコ、ごく当
り
前に沿岸で釣れる魚だが、
ど
れだけたくさんの
ド
ンコを調べても成熟した魚は1尾も発見できない,その後、水深1000メートル近くの深海トロール調査でようやく成熟した
ド
ンコが採集できた。 / (6) 深海で生まれる
ド
ンコ
椴法華村史
(英国船ラフォルド号の沈没)
英国船ラフォル
ド
号の沈没 大正四年十月五日、室蘭を出港した英国船ラフォル
ド
・ホール号五千五百五十二屯,、濃霧のため恵山沖で針路を誤
り
十月八日大間弁天島付近に座礁、沈没、大正四年十月十日現在の生存者八十六名 / 英国船ラフォル
ド
号の沈没
函館市史 銭亀沢編
(ハシワタシ・ナカドとキメザケ)
ハシワタシ・ナカ
ド
とキメザケ 結婚相手を探しだし両家の仲立ちをする世話人をハシワタシといって、世話好,ナカ
ド
(仲人)には、このハシワタシがそのまま務める場合と、改めてほかの人に依頼するタノマレナカ
ド
(サカヅキナカ
ド
,仲人は夫婦で務めるのが仕来た
り
になっているが、昭和のはじめ頃までは男二人で仲人を務めることがあ
り
、そのときは,結婚の話し合いは一回では決まらず、ハシワタシやナカ
ド
が何回も両者の間を往復してまとめた。,、嫁の家に挨拶に出掛け、一杯飲みながら結納の日取
り
な
ど
を決めた。 / ハシワタシ・ナカ
ド
とキメザケ
函館市史 別巻 亀田市編
(教師心得などによる管理行政)
教師心得な
ど
による管理行政 教師心得は明治十二年二月、函館支庁において定めたもので、教師としての態度,、在
り
方、生徒の教導法、教場・学校内の管理法な
ど
二十七か条にわたって詳しく述べたが、文部省からは二年おくれて,、『小学校教員心得』によ
り
教師としての心構えを明示した。,このようにして、学校教育が発足して間もなく、種々な規定によ
り
、教師の在
り
方について詳細にわたる事項が明示 / 教師心得な
ど
による管理行政
南茅部町史 上巻
(尻戸廻(しどまわし)網漁)
尻戸廻(し
ど
まわし)網漁 尻戸廻は、尻戸間差(し
ど
まさし)ともいわれ、鰮の地曳網の操業のとき、大網から,水分とともに油をしぼ
り
ぬき、〆粕をつくる。,魚油はブ
リ
キの石油缶に入れて検査をうけ、函館の海産商に送った。 ,函館へ送
り
、委託販売の仕切
り
(精算書)がくると、歩方の総精算となる期間の長いものである。 ,合図の方法で、
ど
この漁場が魚群を見つけたか互いに分かる。 / 尻戸廻(し
ど
まわし)網漁
函館市史 別巻 亀田市編
(小学生心得などによる修身教育)
小学生心得な
ど
による修身教育 「函館県小学校則」 (明治十六年)の第二章は生徒心得であ
り
、二十五か条,につとめる、労苦、洗顔、髪をすく、あいさつ、車馬に注意、忘れものをしない、時間を守る、落書をしないな
ど
具体的,「小学生心得 全一冊定価金五銭八厘 右は本県教科書にて著色の密画を挿み、各生徒必携の書な
り
出版仕,
り
候間御購求あらんことを乞う」(明治十七年十二月七日) また、「小学校則」(明治十三年一月本庁布達 / 小学生心得な
ど
による修身教育
函館市史 銭亀沢編
(年とり)
年と
り
の前に、一年間のお礼参
り
に氏神様にお神酒・供え餅・ミカンな
ど
を供えお参
り
する家もある。 ,年と
り
料理の準備は、材料な
ど
を二十五日頃からと
り
揃えておいて三十日にと
り
かかる。,煮しめ・数の子・黒豆・酢の物・茶碗蒸しな
ど
海の幸・山の幸のたくさんのご馳走が並べられる。 ,年と
り
には
ど
の家でも必ず作ったのが「くじら汁」である。大きな鍋に鯨肉と野菜・山菜・豆腐を入れて作る。,現在は材料の鯨肉の入手が困難なので以前ほ
ど
大量には作らないが、少量でも欠かさず作る家が多い。 / 年と
り
函館市史 銭亀沢編
(盆踊り)
盆踊
り
盆の期間中、盆踊
り
は盛んにおこなわれた。,「やぐら」を組み、舞台を作
り
、歌好きのの
ど
自慢の人が交替で、盆踊
り
歌や民謡を歌い、人びとはそれに合わせて,が夜遅くまで踊
り
を楽しんだ。,今でもなにかの祝い事や、懇親の会合な
ど
で、余興の際には誰となくいい出し、年輩の人も気軽に加わ
り
、二つの,踊
り
をみんなで踊ることがあるという。 / 盆踊
り
恵山町史
(土地資源としての土壌(どじょう))
噴気孔よ
り
約150〜200メートル隔たった、pH2.8の未熟土に至
り
初めてオオイタ
ド
リ
・ウラジロタデ・エゾイソツツジ,な
ど
が散生するが、植被率(しょくひ
り
つ)は5%前後にすぎない。,植群は、全体としてはウラジオタデ群と呼ばれ、上記の「硫気孔原植物」(根来、1943)のほか、オオイタ
ド
リ
・コメススキ・ノ
リ
ウツギ・サラサ
ド
ウダン・ヤマハハコ・ウ
ド
,面積647ヘクタール、B−Ⅱ土壌統群に比し、人工造林(主にト
ド
マツ・カラマツ・スギ)の進んだ地域となってお
り
,林地は傾斜15度〜30度の地帯が4類地に区分されてお
り
、土壌はほとん
ど
褐色森林土Ⅱである。 / 土地資源としての土壌(
ど
じょう)
函館市史 銭亀沢編
(正月飾り)
長く綯った注連縄にコンブ・スルメ・松・ゆず
り
葉・御幣をはさみ、神棚・床の間・船・倉庫・納屋な
ど
に飾る。,輪状に丸めたのは「輪としな」で台所・風呂場・便所な
ど
に飾る。,餅の代わ
り
に最近は、赤・青・黄な
ど
に色づけした模型が市販されている。 ,昭和三十年代までは、
ど
この家でも神棚のそばや家の大黒柱に飾ってあるのがよく見られたが、今はあま
り
飾る家,赤川町は古くから注連飾
り
、まゆ玉な
ど
、正月飾
り
の生産が盛んで、ほとん
ど
の家で副業として作っている。 / 正月飾
り
函館市史 銭亀沢編
(年とり)
神様にはお膳にのせた年と
り
のご馳走を二膳供えたが、これらは年と
り
をする時に下げ、一膳は主人、残
り
の一膳,仏前の供物は、仏壇の上段に直径二寸・三つ重ねのお供えを五組、次の段には果物やお菓子な
ど
、手前の段の中央,煮しめは一週間分くらいを一度に作
り
、年と
り
にも正月中にも、鯨汁と交互に食べた。 ,年と
り
の晩の座
り
方はその家によ
り
決まってお
り
、ほとん
ど
の場合、主人を中心に両脇に年寄の席と子
ど
もの席がとられていた,ご馳走を食べ終えた後は、母親が後片付けをし、子
ど
もたちは新年を迎える嬉しさに騒ぎ回
り
、くたくたに疲れて / 年と
り
函館市史 銭亀沢編
(墓参り)
墓参
り
迎え盆。十三日は家の仏壇に、赤飯・煮しめ・団子・テン・菓子・季節の果物な
ど
を供える。,またキュウ
リ
やナスに割
り
ばしで四本の足をつけた「馬や牛」をつくって飾る。,水塔婆は木のまさでできていて、盆の前に菩提寺から受け、盆の期間中、仏前に花びんな
ど
に入れて供えておく。,この日は家族揃って墓参
り
をする。,墓参
り
は親戚の墓や親しい家、世話になっている家の墓にも、水・花・線香・ろうそくをともしお参
り
する。 / 墓参
り
函館市史 銭亀沢編
(送り盆)
送
り
盆 十六日には祖先の霊が帰っていくといわれ、各家庭では朝、仏壇に白玉・そうめんな
ど
を供える。,午前中に盆の期間中の供えものを海へ流していたが、昭和五十年代からほとん
ど
流すのを自粛しているが、数は少 / 送
り
盆
南茅部町史 上巻
(渡り・移動)
生息しているが、ほとん
ど
の鳥は渡
り
鳥で、南茅部町でも繁殖するホオジロ、アオジロ、キジバト、アオバト、ハクセキレイ,、モズ、ノビタキ、イソヒヨ
ド
リ
、オオル
リ
、ホオジロ、アオジな
ど
多くいるが、さらに北のサハ
リ
ンあるいはアラスカ,、シベ
リ
アな
ど
の北方圈に繁殖地をもつウミスズメ、アカエ
リ
ヒレアシシギ、ワシカモメ、シロカモメな
ど
が繁殖期,地方で繁殖する鳥は繁殖が終わって南下するものが多いが、ハシボソミズナギ
ド
リ
な
ど
のようにオーストラ
リ
アで,鳥は渡
り
あるいは移動の方法によ
り
、繁殖のために飛来する夏鳥、春秋の渡
り
のときに立ち寄る旅鳥、越冬のためな
ど
に / 渡
り
・移動
南茅部町史 下巻
(〔方言のうつり変わり〕)
〔方言のうつ
り
変わ
り
〕 方言に変化がおこった。 ,こ
ど
も達の言語感覚にも大きな影響をあたえた。 ,これが永年のイエ、シス、チツな
ど
の「かなちがい」といわれた方言の泣き
ど
ころを一挙に改革する、大きな教育効果,ことばは変化するものであるから方言もうつ
り
かわる。,使われなくなって死語となるもの、新しく流行した
り
、転意した
り
、方言は一層共通語の中に姿を消そうとしている / 〔方言のうつ
り
変わ
り
〕
函館市史 別巻 亀田市編
(商工まつり)
自治制施行70周年 市制施行1周年記念 商工まつ
り
・九月十四日(木) 商工お
ど
り
午後六時三十分,商工お
ど
り
・九月十六日(土)商工まつ
り
パレー
ド
午後一時―三時三十分、昭和小学校よ
り
五稜郭駅前,このたびは、商工会横に特設舞台を設け「ミス商工まつ
り
」の発表会、商工踊
り
、亀田万年太鼓な
ど
の披露、最終日,には華やかな市中パレー
ド
が繰
り
ひろげられ、昨年に劣らぬ盛況裡に終わっている。,商工まつ
り
発表会 素人の
ど
自慢 亀田万年太鼓披露 午後六時商工会横特設舞台 ・八月十五日(水) / 商工まつ
り
函館市史 別巻 亀田市編
(米づくり)
肥料は元肥として堆肥を多く使っていたが、人によっては人糞も使用し、それにカ
リ
肥料や硫安な
ど
も混ぜて使用,こうした作業の後は田に水を入れ、代かき用のすき(馬ぐわ)を馬に引かせて、更に土を砕き、
ど
ろ
ど
ろにしながら,水平にして行き、更に幅一五センチ、長さ二メートルほ
ど
の板に柄をつけたエンブ
リ
で泥を水平にしていく。,これを引いて歩いて、
ど
ろ
ど
ろにした田の表面に縦だけのすじをつけるのである。 ,「かまによ」な
ど
の方法によって稲をよく干す。 / 米づく
り
南茅部町史 下巻
(安浦駒踊り)
渋谷道夫は、「盆にお
ど
ることをふくめて」「駒お
ど
り
が一般化し風流化しても宗教的な意味を保持して」いること,、「駒お
ど
り
が、念仏お
ど
り
の一種であったことを示す」ものとして、三戸郡階上村赤保内茨島の念仏を紹介している,道内で駒踊
り
とよぶ郷土芸能は一一(うち荒馬踊二、駿馬お
ど
り
一)をかぞえる。,手お
ど
り
七種類1庭入
り
(扇お
ど
り
) 2二本扇(祓い)サンバ 3しなお
ど
り
(,手お
ど
り
) 4まわ
り
お
ど
り
(引返し) 5甚句お
ど
り
(手お
ど
り
) / 安浦駒踊
り
函館市史 銭亀沢編
(イワノリとフノリ)
イワノ
リ
とフノ
リ
銭亀沢付近に分布するイワノ
リ
類はウップルイノ
リ
とスサビノ
リ
の二種、フノ
リ
類はフクロフノ
リ
,特にこの季節は干満差が大きく、大潮の干潮時には近郊の住民がイワノ
リ
やフノ
リ
を摘み採る姿が見られる。,漁業者はイワノ
リ
類を区別し、大型で岩盤上に付くものを「べたの
り
」、イガイの貝殻上に付く小型のものを「いわの
り
,イワノ
リ
、フノ
リ
類の用途は、現在では生産量が少ないので、生鮮ものとして少量は市場に出されるが、漁業者が,で好漁場の平磯が少なくなったことや漁港内やその周辺の油汚染で油臭がつくな
ど
、人為的影響も大きいようである / イワノ
リ
とフノ
リ
南茅部町史 上巻
(網造り)
(2)網仕立 鮪一方(専門)の網で、メン糸のない明治の頃は手網も胴(
ど
う)網も藁(わら)網で仕立てた,ヨ
ド
リ
引きは網の目にすれば三寸目で、それよ
り
細い目は機(はた)で主に建揚(たてあげ)に使った。,ヤツ胴は楢の柴か漆の柴を山採
り
した。ヤツ
ド
ウ柴を組んで二〇間位の大きさのものをつくる。 ,捕った鮪は
ど
ん
ど
ん陸へ運び、かならず八木川に一日は入れておく。,オンバ鮫であれば
ド
ンジャを揚げて陸に合図をする。 / 網造
り
南茅部町史 上巻
(鱈釣り漁)
そして漁期を前に、乗組み仲間(なかば)の主婦達は、秋の野山に出かけ、萱(かや)・
ド
ンゲ(いた
ど
り
)を刈,鱈釣
り
漁は、一番鶏(
ど
り
)が鳴くと(午前二時ごろ)起きて飯を炊き、身仕度をして船出する。 ,一時間に四、五枚しか引きあげられないから、夜
ど
おし繩をと
り
続ける。,タラ釣
り
漁を語る 豊崎 二本柳文平(明治二一年生)談 タラ釣
り
は、一〇里ほ
ど
沖へ出た。,船長が高いブ
リ
ッジの上から、船は駄目なんだけ
ど
、と叫んだ。 / 鱈釣
り
漁
函館市史 銭亀沢編
(里帰り)
里帰
り
里帰
り
については家の実情に応じてさまざまであった。,婚礼の済んだ翌日の里帰
り
が多かったが、一週間目、一〇日目ということもあった。,婿の両親が同伴することもあ
り
、酒一升に酒の肴あるいは菓子・赤飯な
ど
を持参した。,大方は日帰
り
もしくは一泊であった。,里帰
り
の際親戚が集まって飲食を共にすることはあるが、近所への挨拶回
り
はやらなかったようだ。 / 里帰
り
恵山町史
(ハザードマップ(火山災害危険区域予測図))
今回作成された荒井(1998)のハザー
ド
マップは、この中で学術マップに属するものであ
り
、住民啓発型マップ,例えば、1983年のチョロ山(イン
ド
ネシア)噴火は、火山観測所もない島であ
り
ながら、わずか4年前に作成,事前に流路も危険範囲も実際の災害にほぼ一致した、精度の高いハザー
ド
マップが作られてお
り
、直前に避難命令,することに成功してお
り
、ハザー
ド
マップの有効性が示されている。 ,そこで、災害予測に用いる資料としては、時代的にあま
り
古くな
り
過ぎない範囲で、噴火規模や噴火現象に時間空間的 / ハザー
ド
マップ(火山災害危険区域予測図)
函館市史 銭亀沢編
(祭りの衣服)
を着た
り
した。,祭
り
では、男性が社殿に入って参拝し、女性と子
ど
もたちは外で社殿を囲むようにして神楽や獅子舞を見物した。,女性は普段着よ
り
若干改まった簡単服や浴衣を着、子
ど
もには新調した衣類を着せた。,簡単服や華やかなワンピース
ド
レス、男の子にも新しい浴衣や新しい洋服を着せた。,祭
り
の時に子
ど
もたちの衣類を新調する風潮は、戦時中を除き、戦後も物資が出回
り
始めた頃から昭和三十年頃までみられた / 祭
り
の衣服
椴法華村史
(サマーフェスティバル・イン・トドホッケ)
サマーフェスティバル・イン・ト
ド
ホッケ 全道各地から観光客が来村、村では若者が過疎の沈滞ムー
ド
を吹き,飛ばそうと、サマーフェスティバル・イン・ト
ド
ホッケが開催された。,メインのサーフィン大会には、札幌、室蘭、苫小牧な
ど
から多数の選手が参加し、各クラス別に波間に漂い妙技を,椴法華村のこれからの発展の主要になるであろう観光は、自然景観的土地利用とともにサーフィン大会、
ど
うだんつつじ,祭
り
、日持聖人祭な
ど
若いエネルギーの発動と、先人の道程を兼ね合いされた、新しい観光として進まれるものと / サマーフェスティバル・イン・ト
ド
ホッケ
南茅部町史 下巻
(〔三五年ぶり中国より帰国〕)
半年ほ
ど
で日本へ帰る予定であったのが戦争が激しくな
り
、ついに敗戦とな
り
身を隠すような、危険な日々を過ごしていた,まもなく結婚して子
ど
もも四人生まれた。日本人であることを隠し台湾人であるとして暮らした。 ,子
ど
も達もつらい思いをしたが、主人の姉が守ってくれた。 ,八月三一日、「母死す」の電報があ
り
、ようやく帰国が許されて一一月、夫と子
ど
もたちを中国に残して単身帰国,翌昭和五五年八月二六日、三人の子
ど
も長男朱鈞〓・二男朱鈞暟・二女朱雅瑾も母の国日本へ移住の許可をえてやってきた / 〔三五年ぶ
り
中国よ
り
帰国〕
函館市史 通説編 第一巻
(エゾリス)
エゾ
リ
ス 欧亜に広く分布している
リ
ス(ユーラシア
リ
ス)の2亜種が日本に分布し、本州にはホン
ド
リ
ス、北海道,にはエゾ
リ
スが生息している。,当地域のもエゾ
リ
スで、亀田山脈の森林地帯に住んでいる。 / エゾ
リ
ス
南茅部町史 下巻
(鱈釣り口説節)
時にわが身は船頭とな
り
て それは誰よ
ど
尋ねできけば 〽それは誰よ
ど
ナ尋ねできけば,を
ど
んとやって繩うつ仕度 二百余
り
の瀬(せ)繩をまいて 〽二百余
り
もナ瀬(せ)繩をまいて,見れば 西が南西(ヒカダ)が南の雲が 昔年寄(としよ
り
)のた
ど
いご
ど
きけば 〽昔年寄,の源平(げんべ)の疲れ 〽眠
り
すごせば弟(お
ど
と)が起(おご)し 恵山お山のナ煙
り
を見れば,ア
リ
ヤ恐ろしい 昔年寄のた
ど
いご
ど
きけば シカダ風とは人とる風よ サーサこれから繩とる仕度 / 鱈釣
り
口説節
函館市史 別巻 亀田市編
(とり入れ)
と
り
入れ いもの収穫 馬鈴薯のと
り
入れは八月上旬から始められた。,農家では、薯の掘
り
終わったところからすぐ大根の種まきを始めた。,ほとん
ど
の農家では、秋に収穫したらすぐ畑に通称薯穴を掘って貯蔵した。,朝鮮、満州な
ど
へ送った。 ,中位の大きさの薯は翌年の種子薯に残した
り
、小さなくず薯は澱粉用原料、家畜の飼料に回した。 / と
り
入れ
函館市史 銭亀沢編
([おわりに])
、津軽海峡を挟む対岸の漁業地域との関わ
り
が深いことな
ど
から、風俗、習慣はもとよ
り
衣生活にも出身地の形態,が引き継がれていた
り
、出身地のものをこの地区に合わせて改良して活用するな
ど
、これらの地域との類似性、関連性,袖口、裾、ウマノ
リ
な
ど
に別布で覆輪を付けて擦
り
切れを防ぐとともに、損傷すると覆輪部分だけを取
り
替える。,
ド
ンジャの膝が擦
り
切れると細かくタンブ刺しをした
り
、丈を短くして着用したが最後は雑巾にした
り
、網を引くとき,されるようにな
り
、戦中、戦後にかけては、国民服、標準服制定な
ど
の影響も受け、婦人のウワッパ
リ
にモンペスタイル / [おわ
り
に]
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