• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

函館市/函館市地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 281件
辞書ファセット
/ 6ページ
南茅部町史 上巻 ([アイヌ])

[アイヌ] アイヌは昔から蝦夷地だけではなく、東北、関東、北陸、山陰地方などの広い地域に住んでいたといわれる,郷土南茅部も、昔はアイヌの村であった。,(臼尻豊崎)、熊泊(大船)、ビロドマリ(双見)、磯谷、ケカチハマ(岩戸)、ボーロ、常路(大岩)などにアイヌ,嘉永七年の六ケ場所書上にもその様子が記録されているし、明治元年から一四年までの茅部山越人口調にもアイヌ,落部から恵山のネタナイまでのアイヌは内浦アイヌと呼ばれ、その乙名はアイコウイン(寛文一〇年 一六七〇  / [アイヌ]
函館市史 通説編 第二巻 (アイヌ学校)

アイヌ学校 ネトルシップ師を囲むアイヌ学校の子どもたち    キリスト教の布教活動,その中で聖公会はアイヌへの伝道活動に力を入れていた。,特に「アイヌの父」といわれた司祭ジョン・バチェラー(John Batchelor)は、当時教育行政から,見捨てられていたアイヌのために、幌別の愛隣学校をはじめとした教育施設を全道に開設した。  ,「札幌には仕事のために一番遠い場所からも、しばしばアイヌがやって来ますが、函館では一年中アイヌを見ることがありません / アイヌ学校
南茅部町史 下巻 (アイヌ神話)

アイヌ神話 南茅部に古くから伝わるいくつかのアイヌ神話や義経伝説ほか民話がある。,① 天の神からもらった火  オキクルミが、人間(アイヌ)のために火をもらいに天上の国造神(くにつかみ,このとき多くのアイヌの神々も殺されたという。  ,『アイヌの神話』更科    ③ 有珠のチャランケの岩  アイヌ神話のオキクルミは、アイヌのいう-,『アイヌの神話』更科 / アイヌ神話
函館市史 通説編 第一巻 (アイヌの抗争)

アイヌの抗争 蠣崎氏が檜山安東氏の代官になることによって、蝦夷島における和人の間に最高の地位を得、各所,していた前述の館主の子孫や豪族の大部分を臣下につけることに成功したが、しかし、いまだ隠然たる力をもつアイヌ,ことに、東部の敗北によって、急激に和人が西部地帯に集中したため、必然これまでこの地帯でアイヌが保有していた / アイヌの抗争
椴法華村史 (アイヌ語起源説)

アイヌ語起源説 椴法華という地名の由来については、アイヌ語とするもの、日蓮宗の日持上人にその起源を求,○北海道蝦夷語地名解 アイヌ語起源説を唱えるものとしては、「北海道蝦夷語地名解」の中で永田方正は次のように,トーポケ、岬陰又ハ岬下トモ、『ト』ハ『エト』ト同ジ鼻、即ち岬ノ義、『エト』ヲ『ト』ト云フハ厚岸及十勝『アイヌ,同じくアイヌ語説をとるものに、著者不詳ではあるが江戸時代に記された「蝦夷地名解」がある。 / アイヌ語起源説
南茅部町史 上巻 ([アイヌの戸口])

[アイヌの戸口] 蝦夷地のアイヌは、二万人ないし四万人であったという。,アイヌの戸口の内訳は、尻岸内領四六軒二〇一人、尾札部領二六軒一三一人、臼尻持三六軒一三二人、鷲ノ木五軒二一人,アイヌの戸口の減少の理由として挙げられているものに、和人の増大に抵抗した抗争で戦死したり処刑されたことと,アイヌが最も恐れたのは、和人の増大によって持ち込まれた痲疹・梅毒・疥癬・天然痘などの伝染病であった。,伝染病に抵抗力のなかったアイヌの人たちは、痲疹や天然痘の蔓延によって激減したといわれる。 / [アイヌの戸口]
函館市史 銭亀沢編 (アイヌの存在形態)

アイヌの存在形態 この頃の和人地における和人人口およびアイヌ人口の変化をみてみると享保元(一七一六),年から天明七(一七八七)年の約七〇年の間に和人は一万五五三〇人から二万六五六四人に増え、アイヌは一五二人,とあるように和人の増加にともないアイヌが後退していく様子が描かれている。  ,共同体の首長である乙名を中心に汐泊川の周辺には、まだアイヌが居住していた。,一六六九)年の段階では、「上ノ国-知内間の初期和人地内では、両端におけるごく少数の存在を除き、もはやアイヌ / アイヌの存在形態
函館市史 通説編 第一巻 (アイヌ蜂起の底流)

アイヌ蜂起の底流 しかもこうした交易の増大と発展に伴い、和人の渡来も一層多くなり、アイヌと和人の社会的格差,一方アイヌ民族の社会形態も、もちろん生活は漁猟経済を主体としながらも、一定の階級分化が進み、旧来の血族,康正2(1456)年志海苔におけるアイヌ民族の蜂起は、まさにそうした永い間蓄積した憤懣(まん)の爆発であった / アイヌ蜂起の底流
椴法華村史 (下海岸アイヌの蜂起)

下海岸アイヌの蜂起 前にも記したように、十四世紀後半、蝦夷地南部に居住するアイヌ人は、自ら漁業を営み,、交易のため十三湊方面へ行き、あるいは本州より来航する和人船と交易を行っており、これらのことは、アイヌ,しかし十五世紀初頭より蝦夷地南部に進出し館を構築した和人勢力は、次第にアイヌ人が古くから持っていた漁業権,このことは、アイヌ人の存亡に関わる大問題であり、何かの切っ掛けがあれば、和人勢と大衝突を起こす要因となっていた,下海岸地域のアイヌ人の蜂起について次のように記している。      / 下海岸アイヌの蜂起
椴法華村史 (アイヌ人勢力の実態)

アイヌ人勢力の実態 箱館の旧家である榊家の『家譜附録』(北大図書館蔵)は、シャクシャインの乱における,下海岸、茅部海岸のアイヌ人の動静を次のように記している。        ,備等に日夜奔走勤勞せり    右の文に記されているように、寛文八年(一六六八)東蝦夷地シブチャリのアイヌ,人達が蜂起し、亀田、松前方面へ攻登ってくることを戸井、尻岸内、尾札部のアイヌ人達が、亀田番所(和人側),戸井、尻岸内、尾札部のアイヌ人が東部シブチャリのアイヌ人達とともに立ちあがらず、逆に蜂起を亀田番所に通報 / アイヌ人勢力の実態
椴法華村史 (アイヌ語か日持か)

アイヌ語か日持か 永田方正は『北海道蝦夷語地名解』の中で、「今椴法華村と云フ日蓮宗ノ僧侶始テ此処ニ来航,大椴     現小平町(昭和十年から三十一年使用)    中でも「ボッケ」のつく地名は、いずれもアイヌ,語又はアイヌ語と日本語が結びついたものと考えられ、而もこの種の地名は、現在椴法華村以外に町村名あるいは,以上のような史料の考察から「トドホッケ」という地名は、アイヌ語に由来するものであろうと考えられる。 / アイヌ語か日持か
椴法華村史 (津軽一統志とアイヌ人)

津軽一統志とアイヌ人 次に『津軽一統志』の寛文十年(一六七〇)の記録から、和人とアイヌ人の関係について,二十軒以下の小集落であり、しかも記録の処々に狄おとな誰々持分などと記されていることからしても、当時和人とアイヌ,おとなアイツライ持分   と記されているが、おそらく寛文十年(一六七〇)頃までは、これらの地域をアイヌ,人のおとな(アイヌ人の酋長)が治めていたことを示しているものと思われる。   / 津軽一統志とアイヌ人
恵山町史 (3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村)

3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村 『松前島郷帳』と『松前蝦夷図』  1697年,までは和人居住地を示す「村」とあるが、はらき(戸井町字原木)からは、「従レ是蝦夷地」これより蝦夷地とアイヌ,松前藩は成立以来、松前島郷帳に記した通り、和人とアイヌの居住地については明確な線引きをしていた。,乙名の統治を認めつつ、この地を家臣に知行地として与え、アイヌたちや入稼の漁師たちの漁獲物から莫大な収入,すなわち、この頃の郷土沿岸一帯は、先住者のアイヌの人々、松前城下の村からの入稼、津軽や下北半島からやってきて / 3、松前島郷帳・松前蝦夷図にみるアイヌ居住地と和人村
函館市史 通説編 第一巻 (日本人人種論)

日本石器時代人種論が活発になったのは明治時代以降で、アイヌの伝説にあったコロポックル説とアイヌ説に端を,大森貝塚人についてミルンはアイヌ説をとり、モースはアイヌより前にいた人種、すなわちプレアイヌ説をとった,バチェラーは明治34年に『アイヌ人及其説話』の中で「アイヌは始め日本全国に居住す。,河野は、「本島アイヌは竪穴に住せり」、「本島アイヌはチャシを使用せり」、「本島アイヌは石器、土器を使用,せり」、「本島アイヌ、樺太アイヌ、北千島アイヌは同人種なり」、「実地調査せる人々は多くコロポックル説を
椴法華村史 (運上屋と番屋)

このためこの頃まで曲がりなりにもアイヌ人の手中にあった自治権は次第に知行主の手に渡るようになっていった,なお運上屋には責任者として支配人がおり、その下に通辞(アイヌ人の通訳)、帳役(帳簿係)などがいた。,○乙名   アイヌ人酋長(アイヌ人集団をたばねる役)  ○脇乙名  アイヌ人酋長を補佐する役  ○,小使   アイヌ人酋長を補佐する役  ○土産取(みやげどり)  アイヌ人の長老格の者をいう。,この乙名・脇乙名・小使はいずれも、松前藩がアイヌ人を治めるために、アイヌ人に与えた役職である。
恵山町史 (1、古い記録にみる、郷土のようす)

これに呼応し、1669年(寛文9)6月、東は白糠、西は増毛(石狩アイヌは参加せず)に至る東西蝦夷地のアイヌ,シャクシャインの蜂起は、アイヌ民族内部(メナシクル対シュムクル)の争いに絡んだ、松前藩の、アイヌ(シュムクル,第2は、アイヌ共同体発達過程の内包する矛盾と、アイヌ民族の松前藩との権力関係に対する共通認識・行動にある,差、アイヌ勢の分断策などが功を奏して、アイヌ軍の勢力は国縫(くんぬい)で阻まれて次第に弱まっていった。,その後、アイヌ軍の降伏が続出し、翌、1670年(寛文10)松前軍は西蝦夷地余市まで出陣し、大方のアイヌ
函館市史 通説編 第一巻 (その他の外国人研究家)

ロマイン・ヒッチコックが北海道を訪れ、根室、別海、斜里、網走、常呂、択捉、色丹、浦河、平取、遊楽部の各アイヌ,彼は1890年の国立博物館報告に「エゾのアイヌ民族」と「エゾの竪穴住居民」という2つの論文を書いているが,彼は2つの論文に同じ写真を用いているが、それらはアイヌの祖先のものとして、ミルンと同じような考え方をしている,明治10年に来函してアイヌ民族を研究し、著書も多いが、明治34年の『アイヌ人及其説話』に函館公園から発見,彼は石器時代の遺物についてアイヌ説をとっているが、シーボルトに始まるこれらの外国人研究家のアイヌ説は、
函館市史 通説編 第一巻 (講和と夷役)

講和と夷役 以上のような推移のなかに、その後、アイヌ民族の動静も比較的平穏が続いた。,の子季広の時代に至り、いたずらに彼らと事を構えることの不得策なのを悟り、懐柔よろしきを得るとともに、アイヌ,民族の珍重する宝器を与えて歓心を買い、天文20年東西のアイヌ酋長と講和を結び、勢田内(瀬棚)の酋長ハシタイン,往来の商船から役銭を徴し、その一部を「夷役(いやく)」と称して、東西の両酋長に与え、東西蝦夷地から来るアイヌ,船の停泊地を一定し、それによってアイヌ産物を自家の手に独占する方策をとった。
南茅部町史 下巻 (オキクルミの飯椀)

オキクルミの飯椀 オキクルミの飯椀が安浦の海辺に流れついて岩になったというアイヌ伝説がある。,安浦のむかしの地名は板木といい、アイヌ語の飯椀イタンキという地名に和人が漢字を当てはめたのである。,「アイヌの神話」更科
南茅部町史 下巻 (石神(シュマカムイ)と義経)

アイヌの立っている姿によく似た一丈五尺ばかりの立岩がある。  ,アイヌたちは、この立岩をアイヌの神(カムイ)として崇(あが)め、恐れて近づかなかった。  ,アイヌの恐れるカムイの岩に近づいた義経を見て、アイヌ達は大いに驚いて弓矢を舟に投げ捨て、身をふるわせて
南茅部町史 上巻 ([その他の時代])

この文化はアイヌ文化の祖形と考えられ、その後、アイヌ民族は土器の代わりに、本州から移入された内耳土器や,南茅部町において、明治期までにアイヌ民族が生活していたことは記録により明らかであるが、それも江戸時代中期以前,に関しては不明であり、わずかにアイヌ墳墓がその存在を物語る。  ,現在のところ、アイヌ墳墓は数例の調査例があるが、ほとんどが男性墳墓であり、副葬品は刀、タシロ、マキリ、,実態はまだ解明されてはいないが、渡島半島における館跡の調査が進められている今日、それらを中心として、アイヌ
函館市史 通説編 第一巻 (シーボルト父子)

幕末に来日したドイツ人の医師フイリップ・フォン・シーボルトは、英文誌『日本』の中で、日本の先住民をアイヌ,日本駐在のオーストリア公使館秘書官であったヘンリー・フォン・シーボルトもまた明治11年の夏、日高の平取などアイヌ,部落を調査して、翌年英文誌『日本考古学』と邦文誌『考古略説』を著し、父シーボルトのアイヌ先住民族説を補稿,先史学の先駆者エドワード・シュベスター・モースが貝塚の採集をかねて函館、小樽、札幌、白老などの貝塚やアイヌ
椴法華村史 (北海道の時代区分)

時代は、北海道に関する資料が少なく、松前藩となる以前は別な北海道特有の時代があって、それは記録にないアイヌ,北海道ではアイヌの人達がながい間、生活していたところであるが、その起源がいつであったのかさだかではない,蝦夷がアイヌであったとすると記録の上で奈良時代には東北地方にもアイヌが定住していたことになる。,アイヌという呼び名は十七世紀になってからであるが、明治から昭和初期までは、道南地方の各地にアイヌが住んでいた,もっとも江戸時代から和人と同化して、アイヌ文化は本来的文化が変化してしまうが、アイヌ文化の変化は、鎌倉
函館市史 銭亀沢編 (コシャマインの戦い)

コシャマインの戦い コシャマインの戦いは、移住和人と先住民たるアイヌとの空前の一大民族戦争であったが,しかし志海苔に端を発したアイヌと移住和人との衝突は、その乙孩と鍛冶職人との対立をはるかに越え、民族戦争,首長コシャマインの指揮するアイヌの蜂起は、この「十二館」のうち、志苔館・箱館・中野館・脇本館・穏内館・,これほどまでにすさまじいアイヌと移住和人との民族的正面衝突は、いったい何に因るのであろうか。,踏まえたアイヌへの差別と抑圧の強化とか、和人によるアイヌの漁業権の侵害などをその衝突原因に挙げることが
椴法華村史 (康正二年、長禄元年の乱)

康正二年、長禄元年の乱 『新羅之記録』によれば、康正二年(一四五六)アイヌ人乙孩(オツカイ)は、当時志及利鍛冶屋村,この事を切っ掛けにしてかねて和人勢力の進出に不満を感じていたアイヌ人は一斉に蜂起し、東は鵡川から西は余市付近,翌長禄元年(一四五七)雪どけの終った五月十四日、酋長コシャマイン(出身地不詳)の率いるアイヌ人は乱を起,(茂辺地)と蠣崎季繁の守備する花沢館(上の国)が奮戦し、辛うじて反撃に転じ、コシャマイン父子と多数のアイヌ,この時アイヌ人を鎮圧した武田信広は、蠣崎季繁の嗣子となり、上の国に州崎の館を構築し、次第に諸館の館主達
椴法華村史 (カムイ岩)

銚子崎の岩の上に、アイヌ人の立っているように見える岩があり、これをアイヌ人達はシュマカムイ(石の神様),昔九郎判官義経が此岩かげに、かくれていたのを追って来たアイヌ人達が発見し驚きあわて、弓矢を投げすて身をふるわせて,ひたすら、シュマカムイに祈願すれば、カムイ岩の岩上に火柱が立ち針路を示してくれると、真澄の乗った舟を漕ぐアイヌ
函館市史 通説編 第一巻 (コシャマインの乱)

コシャマインの乱 康正2(1456)年のアイヌの蜂起の発端について『新羅之記録』には、「中比(なかころ,   志濃里の鍛冶屋村に家数百有り、康正二年春、乙孩(おっかい、アイヌの男)来て、鍛冶に,  とあり、この騒動の直接の動機は、あるアイヌが和人の鍛冶屋に打たせた小刀の利鈍や価格について,口論となり、ついに無法にも鍛冶屋がその小刀でアイヌを刺し殺したことが原因であるとするところから考えると,が相呼応して一時に蹶(けっ)起し、アイヌ民族と日本人の最初の民族闘争が展開されたのである。
函館市史 銭亀沢編 (志海苔の鉄)

『新羅之記録』が伝えるように、その当時、「志濃里の鍛冶屋村に家数百」もあり、その鍛冶屋村にアイヌの乙孩,劘刀の「善悪」と価格について乙孩と鍛冶とが対立したということは、アイヌの乙孩が鉄に対して一定の知識・評価能力,先住民のアイヌにとって、鉄とは何であったのか、また「志濃里の鍛冶屋村に家数百有」とは、どんな意味があるのか,それゆえ文化系譜上でいえば、中世アイヌは、その母胎たる擦文文化の時代に、鉄製造に何らかの形で、関係を持,中世の時代は、先住民のアイヌが、まだまだ民族的マジョリティ(民族的優越)を誇っていた時代である。
函館市史 別巻 亀田市編 (蝦夷蜂起)

蝦夷蜂起 『新羅之記録』によれば康正二(一四五六)年志苔の鍛冶屋村でアイヌ人が和人の鍛冶屋に小刀(マキリ,)を作らせたが、その小刀の切れ味や価格の問題から口論となり、アイヌ人が殺害されるという事件が発生した。,この事件がきっかけとなり、かねて和人勢力の侵略に不満をもつアイヌ人は戦いを起し、東は鵡川から西は余市付近,まで進出していた和人勢力を追い払い、翌長禄元(一四五七)年酋長コシャマイン(出身地不詳)の率いるアイヌ
函館市史 銭亀沢編 (志苔館の再建)

志苔館の再建 長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦いで、そのアイヌの民族的マジョリティの前に、志苔館,この戦いに先立つ一五世紀前半、アイヌと居住空間として最も隣接する戸井館も崩壊していた。,アイヌと直接的に接することになった志苔館は、石崎の「宗教ゾーン」を持つ城館でもあり、その前線的機能をより,しかし、永正九年には、またも康正二(一四五六)年に次ぐ大規模なアイヌの蜂起が起こり、それにより箱館(宇須岸,翌永正十年六月二十七日、またもアイヌの蜂起が発生した。
函館市史 通説編 第一巻 (エドワード・S・モース)

この2人の研究を読み比べると、ミルンは大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して,、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、大森貝塚人のように土器を作,った人種をアイヌ民族以前のものであると考えた。
恵山町史 ([幕府の蝦夷地直轄と道路行政])

(註1)場所請負人制度  「場所」とは、アイヌとの交易のために和人が所定した地点を中心とした一定の領域,(註2)運上屋(運上家)  松前藩主・知行主のアイヌ交易所、場所請負人制度が整ってからは、その請負場所,商場経営が商人による請負形式に変化し、経営内容もアイヌ交易から漁業経営へと発展することにより、運上屋も,まずは、漁業経営の拠点として、和人およびアイヌの労働力を管理する場となった。,に対しては、アイヌ社会固有の階級関係(乙名−脇乙名−小使−土産取−平アイヌなど)を介して使役した。
南茅部町史 上巻 (寛政三年五月)

、運上屋の役人がきてアイヌの言葉で「今日は浪が高いようだなあ」といいかけると、アイヌは「ピルカ・レプタノトアン,アイヌが巴を尊敬すると早のみこみをして、和人はここの島のアイヌ達へ渡す道具類に何かに三頭の巴を印して渡,達なので、またこちらもアイヌの言葉を知らないので、通じあう方法もなく、アイヌも私たち和人もみなおし黙ったままで,またはサハラというアイヌ語であろうか。,またアイヌ語だとかいうことである。
南茅部町史 下巻 (カビラ川)

この川上に、カビラというアイヌが住んでいたことからカビラ川と呼ばれたという。,また、この川は、一夜に大水が出るというアイヌ語の意であるというが、訳語については定かではない。        
椴法華村史 (松前藩の対蝦夷政策)

すなわち前にも記したように、従来から和人地に居住しているアイヌ人は別として、和人は蝦夷地へ、アイヌ人は,求めた和人達は、なんとかこれらの地に進出しようとしており、またこの地方は極く和人地に近いため、居住のアイヌ
南茅部町史 下巻 (鹿射ちの名人 イソングル)

アイヌのイソングルは鹿射ちの名人で、川の上流から鹿を追いおとして河口近くの峡谷で捕獲した。,双見・岩戸の旧字名磯谷はアイヌ語の磯岩のおおい海浜の意ともいわれるが、鹿射ちの名人イソングルの名に因(
函館市史 銭亀沢編 (戸井館の築造)

されたのは、前にみたように、一四世紀末の頃と推定されるので、この志苔館に遅れること程なくして、戸井館が、アイヌ,しかし、和人の最前線基地として設けられたこの戸井館も、アイヌとの抗争に耐えきれず、一四五七年以前のある,アイヌとの交戦の結果、戸井館が陥落すれば、そのアイヌと隣接するのは、いうまでもなく志苔館となる。,志苔館には、東部アイヌに対する防衛的ないし最前線基地としての役割がどうしても求められてくる。
函館市史 通説編 第一巻 (漁業の発展)

漁業の発展 このような直轄下の経済機構のもとに、一方蝦夷地の生産状況は、在勤官吏の指揮監督によって、アイヌ,との交易ならびにアイヌ使役に不正の行為をなくし、また物品交易は幣害が多いので鉄銭の通用をはかり、秤量を,正しくし、物資の供給も請負人の時に比べれば、極めて潤沢となり、撫恤も普及したので、山地に住むアイヌも海浜
函館市史 通説編 第一巻 (蠣崎氏の独立)

蠣崎氏の独立 蠣崎氏が各館主やその子孫を臣下につけ、原住民アイヌと地域協定を結び「和人地」を確定、渡島半島西部,しかもその政権は、あくまで和人地における和人に限定されたものであり、アイヌ民族に関しては、商品流通機構,こうした和人政権とアイヌ民族との関係を根底から変えていったのは、幕藩制国家の成立と展開であった。  
函館市史 通説編 第一巻 (衣服)

アツシはアイヌの織物でオヒョウ樹の皮を温泉に浸して裂き、その織維で織ったもので間々アイヌ模様の刺繍(ぬいとり
南茅部町史 上巻 (運上屋)

寛政年間までは尻岸内から椴法華、そして尾札部、臼尻、鹿部辺は、まだアイヌの集落(コタン)があって、和人,アイヌの村に和人の家が建ち、雑居地といわれた。  
函館市史 通説編 第一巻 (ジョン・ミルン)

貝塚などの遺跡を発掘し、8月に開拓使委員や通弁官らと玄武丸に乗船して、千島のシュムシュ島に至り、千島アイヌ,、北海道にも同種の土器が出土することから、日本国中に石器時代の遺跡が存在することを確認し、これを基にアイヌ,曲玉と管玉は現在市立函館博物館に所蔵されているが、これはアイヌの人たちが造ったものではなく、日本本土から,や遺物を比較して、函館の石器時代は小樽のそれよりも古く、先住民族が函館から北の小樽に移動し、その後にアイヌ,考え、日本全般については南の九州から北の蝦夷(北海道)に至る貝塚、古墳、洞窟、竪穴住居について述べ、アイヌ
函館市史 通説編 第一巻 (絵画)

いて糊口をしのいでいたが、福島屋杉浦嘉七に見いだされ、嘉七の請負場所である日高や十勝へつれて行かれ、アイヌ,彼はアイヌの家に住み、起居をともにしてその生活や風俗を写生したので、やがてアイヌ絵の第一人者といわれるようになった,市立函館博物館所蔵の『アイヌ風俗絵屏風』(一部分模写)などは有名である。  
函館市史 通説編 第一巻 (オホーツク文化)

オホーツク文化 北海道の先住民族は、前に述べたようにアイヌ民族か又はそれ以前の民族でないかと考えられていたが,これがオホーツク文化で、網走モヨロ貝塚からはアイヌ人と全く異なるアリューシャン列島の原住民に似た骨格を,貝塚の埋葬人骨と竪穴住居址などが発見されてオホーツク文化が北海道に定着していたこと、その性格がアイヌ民族
函館市史 通説編 第一巻 (藩財政の窮乏)

すなわち、藩財政は、基本的には大名知行権の主軸をなす、アイヌ交易の独占権を効果的に実現する中で確立することにあるが,従って流通商品も少なく、アイヌ交易品もわずかに獣皮・干鮭・蝦夷錦などという特産物に限定されている中では,そのため、寛文・延享期以降、この肝心のアイヌ交易が不振に陥り、かつ砂金・鷹の生産が減少するに至って、藩財政
函館市史 通説編 第一巻 (藩財政と俸禄制度)

なお、アイヌ住民からの貢税の制はなかった。,における交易の独占権を分与した場所制度を設け、知行主である場所持の家臣は、年々交易船を場所に派遣してアイヌ,政治的末端組織を蝦夷地全体に及ぼし、家臣が直接その生産地に深く侵入し、藩の封建性を根底から支える生産者としてアイヌ
南茅部町史 上巻 ([津軽一統志])

[津軽一統志] 寛文九年(一六六九)から同一二年(一六七二)にかけて、蝦夷地におきたアイヌの和人への,狄はアイヌのことであり、ここではアイヌの村の長であろう。,狄おとなは、アイヌの乙名(おとな)(役職名)のことであり、アイツラインは、広大な地域をとりまとめていた,アイヌであったのである。
函館市史 別巻 亀田市編 (館構築の年代)

した『十三往来』や『諏訪大明神絵詞』の記録からも知られるごとく、十四世紀ころすでに道南地方に居住するアイヌ,かねてより交易を通じ知識を得ていた道南地方の海岸線に移り住み、館を中心に和人勢力をまとめ、漁業権や交易権をアイヌ,このことはアイヌ人にとっては生存上の大問題であり、やがて蝦夷大乱発生の原因となった。
函館市史 通説編 第一巻 (領土の確定)

蝦夷地侵略に歯止めをかけ、渡島半島知内川の以西天ノ川までの境域を、正式に和人地と定め、和人の領土として、アイヌ,なお、騒乱時箱館に居住していた和人のうち、零細な住民が若干亀田にとどまり、アイヌと雑居していた者もあると
椴法華村史 (箱館奉行所と村々の行政)

またこのほかにアイヌ人の居住者がいる所では、前松前藩時代から引続き乙(おと)名や小使のアイヌ人役人の制度,しかし乙(おと)名は酋長格として、小使はこれを補佐する者として和人村役人の指揮のもとで、アイヌ人の監督
/ 6ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました