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函館市史 通説編 第二巻
(カムチャツカ出漁の始まり)
カムチャツカ
出漁の始まり 明治期における日本人漁業者の露領極東沿岸への進出は、前述のように、サガレン,特に
カムチャツカ
半島では、当初よりロシア人漁業者のみに操業が認められ、日本人漁業者の
カムチャツカ
への進出,まず、日本人が最初に
カムチャツカ
に足跡を残したのは、明治27年、千島列島の北端幌延(ポロムシリ)島を根拠,に
カムチャツカ
半島に渡航した郡司大尉一行であるという。,これは、
カムチャツカ
産のサケ・マスが日本に輸入された最初の記録であるという。 /
カムチャツカ
出漁の始まり
函館市史 通説編 第一巻
(嘉兵衛カムチャツカへ)
嘉兵衛
カムチャツカ
へ 9月29日ついに
カムチャツカ
へ拉致された嘉兵衛は、翌文化10年春まで、ここに冬営 / 嘉兵衛
カムチャツカ
へ
函館市史 通説編 第二巻
(日本人漁業者の出漁形態-契約出漁の展開-)
すなわち、函館の漁業者斉藤豁(カツ)三郎は、明治32年
カムチャツカ
の漁場主ブリーネルと買魚契約を結び、,帆船2艘を
カムチャツカ
漁場に送り、僅か半月間にサケ900石を満載して函館に帰港した。,これは、我が国の漁業者が初めて合法的に
カムチャツカ
へ出漁した最初の事例とされるものであり、この後、このような,またロシア人借区者の経営も、同様の方法によって多数の日本人漁夫を雇用しており、明治33年の
カムチャツカ
,同年の函館税関の『貿易年報』によると、函館港には約4万8000石の鮭鱒が
カムチャツカ
より輸入されている
函館市史 通説編 第二巻
(ロシア当局の規制強化)
ロシア当局の規制強化 このように、ロシア当局の規制下にありながらも、わが邦人の
カムチャツカ
出漁が続き,一方黒龍江下流の日本人漁業者は、ロシア側の圧迫が強まるなかで、
カムチャツカ
へ転出を図るものや、新たに
カムチャツカ
函館市史 通説編 第二巻
(借区漁区と漁区の競売)
以後においても、日本側の漁業者は、それまでと同様、ロシア人漁場主と契約を結び、船員名儀の漁夫によって
カムチャツカ
,翌36年には、外国人の入漁禁止の方針は依然として維持されたが、従来禁漁区域であった
カムチャツカ
半島東海岸,始まり、ロシア側の規制と監視が強められる中で、契約出漁に至る幾多の変遷を遂げつつ、明治40年代以後の
カムチャツカ
函館市史 通説編 第一巻
(嘉兵衛の帰国)
嘉兵衛の帰国 文化10年春、解氷期を待ってディアナ号は
カムチャツカ
を出帆、嘉兵衛、リコルドが国後島に
函館市史 通説編 第一巻
(エゾユキウサギ)
エゾユキウサギ 本州のノウサギは北半球の温帯からアフリカに分布するノウサギ属の一種であるが、北海道のものは、
カムチャツカ
函館市史 銭亀沢編
(ガニ節またはジョコ節(女工節))
「女の仕事は、辛くてもガニサイグ(蟹の缶詰作りの
カムチャツカ
方面への出稼ぎ)しか当時はなかった。,譜例10は彼女の演奏した例だが、
カムチャツカ
数え歌とよく似た旋律である。
函館市史 通説編 第二巻
(猟虎膃肭獣猟法と遠洋漁業奨励法の制定)
10,475 10,413 13,310 10,346 8,309 12,081 本邦東岸、3隻
カムチャツカ
,近海に出猟 同 本邦東岸、4隻
カムチャツカ
近海に出猟 同、
カムチャツカ
、アラスカ近海に出猟 同,同、初めて日本海漁場に出猟 春猟本邦東西岸、夏猟
カムチャツカ
、アラスカ近海に出猟 同 同,同、初めてアメリカ西岸に出猟 春猟本邦東西岸、夏猟主に
カムチャツカ
、アラスカ 同 春猟本邦近海、
函館市史 銭亀沢編
([風俗習慣])
サレド近来樺太「
カムチヤツカ
」ヲ初メ其他ノ漁場ニ出稼スルモノ漸ク多キヲ加フルト同時ニ往々巨万ノ富ヲ博スルモノモアレドモ
南茅部町史 上巻
(鰊場の歩方(ぶかた)(川汲・小板与三郎談・明治二八年生))
二四七 九八 三一五 三七一 樺太 六六 六二 二三
カムチャッカ
, 五、六、八、九、一〇月 道内 同じく四月二八日の函館新聞には、 ○北洋
カムチャッカ
函館市史 通説編 第一巻
(エゾシマリス)
エゾシマリス
カムチャツカ
、樺太、アムールなど東シベリアに広く分布するシマリスの1亜種で、エゾリス同様
函館市史 通説編 第一巻
(漁業の発展)
正確な産額はつまびらかでないが、享和3年11月難船した奥州牛滝村の船が臼尻村の塩鱈を3万本積込んで、
カムチャツカ
函館市史 通説編 第一巻
(密約の発覚)
そもそもこの旗合せというのは、これより19年前の文化9(1812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられ
カムチャツカ
椴法華村史
(昭和三十年)
・五月 西
カムチャッカ
戦後初出漁の船団、函館を出航する。
函館市史 通説編 第二巻
(函館の海獣猟業者)
の増加とともに太平洋日本近海の猟獲頭数は急減し、猟獲の中心は北朝鮮、沿海州沖合の日本海に移り、更には
カムチャッカ
,その後は沿海州や
カムチャッカ
、コマンドルスキー近海の猟獲の増加で、37年には553頭に挽回したが39年,7.15~9.22 犬吠崎~金華山~宮古~79恵山~地球岬沖合 コマンドルスキー諸島近海~南
カムチャツカ
,沖合 金華山~三陸~恵山沖合 沿海州沖合 南
カムチャツカ
沖合 日本海中部海域、樺太西岸沖合,
カムチャツカ
、北千島沖合 ?
南茅部町史 上巻
(漁民の出稼ぎで薪炭払底か)
日露戦争で一時中断はするものの明治の末から大正にかけて、日本の漁業資本は、
カムチャツカ
からアラスカへ、
函館市史 通説編 第一巻
(縄文文化と地域性)
文化渡来経路を、(1)津軽海峡を通じての本州との交流、(2)宗谷海峡を通じての樺太との交流、(3)千島を経て
カムチャツカ
椴法華村史
(明治四十年)
この年露国との漁業協約がないまま、露領
カムチャッカ
に鮭鱒を求めて出漁する。
函館市史 銭亀沢編
(津軽海峡圏の中での笑い話の位置づけ)
かつて銭亀沢地区から増毛、千島、樺太、
カムチャツカ
などへ多くの人々が出稼ぎに出た。
恵山町史
([戦後の漁業])
これら出稼者の中には正月以外は帰村せず、収入のよい沿海州や
カムチャツカ
(ソ連領土)の鮭マス・カニの漁業
函館市史 通説編 第二巻
(ロシア側の規制強化)
められるなかで、我が国漁業者の沿海州出漁は、次第に困難になるが、明治33年頃から、後に述べるように、
カムチャッカ
,東海岸の一部がロシア人に開放されることになり、買魚、あるいは名義借りの形の共同経営として
カムチャッカ
方面
函館市史 銭亀沢編
(コラム(女の仕事4))
樺太の出稼人が歸る頃になれば、そろそろオホーツク海
カムチャッカ
方面に出掛ける。,オホーツク海では春は鯨を獲って夏は鮭、昆布採り等をするが、
カムチャッカ
では種々のものを獲り其の主なものでは
函館市史 通説編 第二巻
(博物場第二館と水産陳列場)
この第二館には、千島及び
カムチャツカ
など北方民族の衣類、漁具、生活用具など民俗関係資料ほか400点余りが
函館市史 別巻 亀田市編
(乳肉)
彼は東京や
カムチヤツカ
などでハム・ソーセージやかんづめの指導をした後、大正十四年に函館駅前へ、十二坪の
函館市史 銭亀沢編
(家族と世帯構成)
また、青年や中年の男性は、戦前には、道内や
カムチャツカ
・樺太の鰊場や漁場へ、戦後は北洋漁業の乗組員や首都圏
函館市史 通説編 第一巻
(人物と衣装)
カムチャツカ
など北方原住民の衣服は夏冬共に皮製の服で、夏はなめし皮の薄手のものでフード付きのガウンのような
椴法華村史
(大正三年)
以後村内より日魯漁業に雇われ
カムチャツカ
方面に出稼に行く者が出る。 ・第一次世界大戦の勃発。
椴法華村史
(昭和初期の商業)
九月 満州事変勃発 この年凶漁のため村内不景気 (昭和七年) 五月 不漁不景気のため
カムチャツカ
函館市史 銭亀沢編
([銭亀沢の生産労働])
コンブ漁に従事しない人の中には、
カムチャツカ
方面のアキアジ(サケ)場やカニ(タラバ)場に行く場合もあったが
椴法華村史
(昭和七年)
・五月十五日 東京で五・一五事件発生する この月椴法華村ではまたもや不漁・不景気のため、
カムチャツカ
函館市史 銭亀沢編
(歴史的変遷と現状)
明治時代に入ると、地元での冬の鰯漁と夏の昆布漁、それに春から夏にかけての道内の鰊場や樺太(サハリン)、
カムチャツカ
恵山町史
([後松前藩時代の道])
ゴロウニンらの無事を聞き、また、その律義な人柄に傾倒し、この事件の調停者として適任であることを確信し、
カムチャツカ
函館市史 通説編 第一巻
(北海道大学農場の土器)
特色ある突瘤文は、すでに述ぺた江別式土器にみられないので、その源流を
カムチャツカ
や北方ユーラシアに求める
函館市史 銭亀沢編
(漁に携わる時の男性の仕事着)
漁に携わる時の男性の仕事着 かつて春は千島、樺太、
カムチャツカ
などへの出稼ぎ漁、夏は昆布、夏から秋は
椴法華村史
(昭和三十年)
昭和三十年 ・五月二十九日 函館から西
カムチャッカ
船団戦後初出漁、八月中旬帰途につく、この時の漁獲物
函館市史 通説編 第一巻
(熊と海獣の文化)
海獣や大形の魚を捕る骨角製の銛(もり)や魚杈(やす)は
カムチャツカ
、アリューシャンなどのものと類似している
恵山町史
([日本の自然])
サハリンを経て、北海道、本州へと移動していったグループと、同じく北極圏の太平洋側、アリューシャン列島から、
カムチャツカ
恵山町史
([恵山町の鳥相])
旧樺太)があり、東方には、北方領土の国後、択捉の大きな2島を含む歯舞、色丹の諸島にロシア領のクリル諸島が
カムチャツカ
函館市史 通説編 第二巻
(函館港の外国ラッコ・オットセイ猟船)
そして捕獲した毛皮の積荷を降ろし、再び食糧、資材などを積み込み、千島列島から
カムチャツカ
半島沿いに猟を
函館市史 銭亀沢編
(コラム (宇賀漁業協同組合長藤谷作太郎と北洋漁業))
しかし藤谷はこれにひるまずこの組合を守り続け、さらにオホーツク、西
カムチャッカ
海域開放を機会に出漁していた
椴法華村史
(戦後椴法華漁協の歩み)
月 8日 農林漁業協同組合連合会整備促進法公布 昭和30年 5月 ※西
カムチャッカ
函館市史 通説編 第二巻
(外国貿易の新たな展開)
このような状況は、第9章第4節に述べているように露領沿海州、
カムチャッカ
半島へ出漁船が、函館から多数の
恵山町史
(3、龍穏山『高聖寺』)
中村三太郎三三才、新出新太郎三五才、越後谷喜一郎三四才右三名は、昭和八年六月十五日露領
カムチャッカ
東海岸
函館市史 通説編 第一巻
(縄文文化の起源)
フィリピンの原住民であるイゴロット族やオーストラリアの土人などの使用法や製作法も調査されたし、シベリアや
カムチャツカ
椴法華村史
(現在の地形)
北東に頭を向けたと仮定すると頭の先にエトロフ島など千島列島が点々と伸びて
カムチャッカ
半島に続いている。
戸井町史
(一、武井の島の伝説)
東部太平洋岸ではベーリング海・アラスカから、北米カリフォルニヤに及び、西部太平洋岸では、アリューシャン列島、
カムチャツカ
函館市史 通説編 第二巻
(「一時居住」の解釈)
159人(他の270人は残留)を乗せて下田を出帆し、3月4日箱館に寄港して薪水食料等を補給し、彼等を無事
カムチャツカ
恵山町史
(6、郷土と高田屋嘉兵衛)
島からの帰途、クナシリ島沖でディアナ号に捕らえられ、水主の吉三郎・平蔵・文治・吉蔵・アイヌ1人と共に
カムチャツカ
,暦同月7日)、択捉島から観世丸で箱館に帰る途中、国後島沖でロシア軍艦ディアナ号に捕えられ、水夫4人と共に
カムチャツカ
,
カムチャツカ
滞在し数か月、少しはロシア語も分るようになった嘉兵衛はリコルドに、「日本がゴロウニンを捕えて,昼夜走り候時は三日三夜にてハ江戸にも乗込候よし也」とある)であったが、まかり間違えば海の藻屑と消えるか、
カムチャツカ
函館市史 通説編 第二巻
([目次])
経営収支 四 露領沿海州への進出…1166 沿海州への出漁/ロシア側の規制強化 五
カムチャッカ
,半島への進出…1170
カムチャッカ
出漁の始まり/日本人漁業者の出漁形態-契約出漁の展開-/ロシア
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