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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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椴法華村史 (ウラヤコタンへの襲来)

ウラヤコタンへの襲来 『新室蘭市史第一巻』によれば、      天保二年(一八三一)二月二十日、,一隻の外国船が厚岸場所ウラヤコタンに来航した。,この船はオーストラリアのタスマニア島ホバートタウン港に基地をおくレディ・ロウエナ号であった。,ところが三月三日になると、外国船はこの二人に手紙や食物を持たせて送り返し、翌四日船は東に去った。   / ウラヤコタンへの襲来
函館市史 銭亀沢編 (〈たんきりあめ〉)

〈たんきりあめ〉 正月に、津軽あめが三キログラム入った直径一尺くらい、高さ四寸くらいの樽を肥料と交換,このあめは硬いので、ストーブなどの火のそばにおいて軟らかくしてから、手でとって延ばす。,これを何回かくり返す。延ばしている中に空気が入り白くなる。,この一連の作業は家長の仕事であった。子どもたちは側でじっと眺めて、そのたんきりあめをもらった。,これはとても高級なおやつであった。 / 〈たんきりあめ〉
函館市史 通説編 第一巻 (旗艦ポーハタン号の入港)

旗艦ポーハタン号の入港 提督ペリーの座乗するポーハタン号と、ミシシッピー号の2艦が入港したのは4月21,パウアタン号の舷側に到着するや否や、数人の日本役人が乗込んで来た。,彼等の述べるところによると、アメリカ人と箱館で会見するために選ばれた役人は、江戸からまだ到着していないとのことであり,   この応接で松前藩吏が、箱館で会見する役人が江戸から到着していないと述べたことは事実であったが,、そのことについては後述する。 / 旗艦ポーハタン号の入港
函館市史 銭亀沢編 (江差の繁次郎-木の根っこ)

行ったんだ。,道路ずっと行ったら大きな木の根株があったんだ。やや真ん中辺りにあったんだと。,大したいい根っこの木なんだってね。若い衆がそばに寄って「随分いい根っこだな。,これらの話は日常どこにもありそうな笑い話が誇張され人から人へ、村から村に伝わり、繁次郎話を形成していったものと,この地方では、「繁次郎みたいだ人だ」というたとえ(比喩)があり、これはとんちのいい人をさしている。 / 江差の繁次郎-木の根っこ
函館市史 銭亀沢編 (コラム(大野平野西縁の活断層))

コラム(大野平野西縁の活断層) 平成七年一月十七日早朝に起きた神戸、淡路島を中心とする阪神大震災は、,この断層群は、ここ数百年はさしたる動きをしていない。,それだけにいったん活動すれば、函館にも大きな被害を及ぼす可能性がある。,どのような性質の活断層であるか気になるところである。,昭和十三、十四年には、この活断層北半部付近を震源とする、最大震度ⅢからⅣの有感地震も記録された。 / コラム(大野平野西縁の活断層)
函館市史 銭亀沢編 ([水])

後にはいわゆる「ガッタンコ井戸」に変わった。,「ガッタンコ井戸」は「ツルベ」に比べると水を汲み上げるのがとても楽であった。  ,その貯水用のタンクは縦三メートル、横と高さが二メートルくらいのコンクリート製のものであり、上にトタン屋根,タンクの正面の、下から六〇センチメートルぐらいの所に蛇口がついており、そこから桶に水を流し入れた。,風呂用水もガッタンコ井戸を家に作るまでは母親が担いで運んだ。
南茅部町史 下巻 (義経の飯椀)

『えぞのてぶり』    こゝにイタンギという磯(コタン)の名あり〔天註-イタンギは椀をいひ、シユマイタンキ,そのいにしへ、源九郎義経の水むすび給ひし器の、浪のとりて、こゝに打よせてけるゆへを語れり。,イタンギとは飯椀をいふなり。,判官義経の公をアヰノども、ヲキクルミとて、いまの世までもいやしかしこみ尊めり。,見て、をのがもてる具どもに三巴を彫てけることしかり〕。
恵山町史 ((5)早期の遺跡から出土した動植物遺体)

今のところ渡島半島ではヒエ属以外には澱粉質に富んだ植物遺体は発見されていない。  ,ドングリの子葉にはタンニンが含まれていて、タンニンを除去する前処理なしには食用しにくい堅果である。,タンニン含有量が多い落葉性のミズナラ・カシワ・コナラのドングリからタンニンを除去するためには、加熱処理,必要があり、土器に堅果皮を剥いたドングリと水を入れて煮沸する作業を、1日ないしは2日間繰り返さなければタンニン,、縄文時代の初めには北海道でもドングリの堅果からタンニンを除去する処理技術が確立していたと考えられる。
函館市史 銭亀沢編 (弘法様の水)

一人のお爺さんが「水飲ませてけれ」つて家に入ったんだと。,水汲みがムジナ沢川まで行ったどこで時間かかってさ、なかなか帰ってこなかったんだって。,「どこまで行ったんだ」つていうので、「冷っこい水汲みにずっとムジナ沢川まで行った。,ここにいい水ねえんだ」といったと。「したら水授けてける」つて杖突いたっけ水湧き出たって。,*志海苔の大量の古銭出土(昭和四十三年七月十六日付「道新」)は、「銭亀沢の名の起こりが昔土中より甕を掘出
函館市史 銭亀沢編 (秋~冬、その他)

秋~冬、その他 大寒すぎれば寒凪                【根崎】   アイタンバは波つける,【根崎】   ダシ風吹けば鍋の魚もいなくなる         【石崎】    最初のことわざは,アイタンバは北北西風と思われるが、銭亀沢地域にとっては陸から海に向かって吹くいわゆる「ダシ風」で、海岸付近
函館市史 銭亀沢編 (片足違い)

片足違い 夜、オドサンが荷物いっぱい背負って黒岩に来たんだって。,そのオドサンは左足わるく、歩くのにどうしてもビッコひいて歩くんだって。,ムジナにもあわてものがいるとみえて、向かいで右足と見て、オドサンの前に行って、一足先に家に着いたんだって,(『通観』№368)    失踪は狐の仕業と考えることが多く、家族や村人が捜索活動をする。
函館市史 銭亀沢編 (石崎火葬場)

石崎火葬場 戦前の記録が残っていないので正確なことは判らないが、古老からの聞き取りによると、石崎では,昭和九年の函館大火の時に漂着した遺体を荼毘に付したのもこの火葬場であろう。,平トタンで屋根を覆い、回りを土手で囲った簡素な火葬場が作られていた。,風の強い時はトタンで回りを囲った。  ,倒して埋め、新に煉瓦製煙突を建てる)がおこなわれて、以後昭和六十一年まで使用されたが、施設の老朽化やヤキコ
函館市史 銭亀沢編 (畑仕事や柴とり時の衣服)

背負子(しょいこ)を使う人もいた。,頭には三角にたたんだ風呂敷をかぶり、上衣はウワッパリを着、腕には腕ぬき(腕カバー)をして軍手をはめた。,びまですべておこない、いろいろなものを植え、自家用食料は、たいていこれで賄ったという。,手には軍手をはめたが傷むとタブ刺し(タンブ刺しともいう)をして大事に使った。,をたおしたものを使い、身頃は腰丈、袖には身頃と違う布地を使い、袖口は二センチメートルくらいのカフスを付けボタン
函館市史 通説編 第一巻 (アイヌ蜂起の底流)

アイヌ蜂起の底流 しかもこうした交易の増大と発展に伴い、和人の渡来も一層多くなり、アイヌと和人の社会的格差,の社会形態も、もちろん生活は漁猟経済を主体としながらも、一定の階級分化が進み、旧来の血族を中心としたコタン,といわれる共同体から、地域的社会の共同体に変化し、更に地理的条件から地縁的な共同体の連合も形成されて、酋長(コタンコロクル,)から連合の大酋長という、支配・被支配関係が成立するようになっていたとみることが出来る。,そしてこうした階級的な社会構造の形成を促した要因は、とりもなおさず民族的な力の結集であり、あえてこれを
函館市史 銭亀沢編 (イカいっぱい)

イカいっぱい 弟の福年というのはね、小さい頃、耳遠かったんだね。,耳聞こえないから、みんなホンズねえ(うすのろ)と思ったんだね。,らした話「ニシン潰し」、みんなが出稼ぎ帰り、身欠きニシンをタデで一本もらってくるのに繁次郎はもらってこないで,脇道にそれて用を足し、シャッポの中に黄色い鳥こ入っているとごまかす「黄色い鳥こ」。
函館市史 通説編 第一巻 (帰化植物)

これらは、園地や牧野から逸(いつ)生したもの、綿花、羊毛その他の輸入品に付着して渡来したものなどが主であるが,、シラケガヤ、エゾムギ、オオスズメノテッポウ、ヒロハウシノケグサ、アオビエ、ヒメスイバ、コニシキソウ、,オオハンゴンソウ、エゾノキツネアザミ、オニノゲシ、ハルノノゲシ、オオアワダチソウ、ユウゼンギク、ハキダメギク、コウリンタンポポ,、セイヨウタンポポ、タンポポモドキ   などである。,これら帰化植物の原産地は欧州が最も多く、北米がこれに次ぎ、その他、アフリカ、南米、地中海沿岸、シベリア
函館市史 別巻 亀田市編 (整備強化)

の消防発展の推移をみたのであるが、昭和三十年以降になっては村も急激に人口、住宅の増加する状況となり、これに,このため町制施行後は特に消防職員の増員、施設の整備強化を図る一方、昭和四十年には函館市と、また四十一年,消防車六台(ポンプ車三、タンク車三)  動カポンプ 六台  望樓 一  火見櫓 四  貯水槽 七二  , 市制施行になってからはいよいよ消防力の充実が望まれ、市民の生命と財産を守るため、消防自動車(タンク,四十七年七月には近代的な消防本部庁舎の完成をみ、無線通信指令室、逆探知機、自家発電装置などが設備されたことにより
戸井町史 ([参考資料])

 完成   昭和四三年  請負総工費  五八九五九四千円  付属施設    船舶用補給施設(コンルーフタンク,標準五〇キロリットルタンク、防油堤一式      乙種危険特倉庫一棟、配管工事四五メートル     
函館市史 通説編 第二巻 (巨大な艦船)

」は、ヴァンダリア号・マセドニアン号・サザンプトン号をともに「凡三千石積位」(約300トン)、ポーハタン,帆船でも千石積弁財船の5~13倍強、「火輪船」たるポーハタン号・ミシシッピー号にあっては、17~24倍強,史料編第3巻)、ヴァンダリア号・マセドニアン号・サザンプトン号は、下田から箱館に僅か5日で到着し、ポーハタン,4月21日、ポーハタン号とミシシッピー号の「火輪船」が入港した際、ウイリアムズと広東人羅森を介して両船,艦船名 種別 建造(再建)年 トン数 乗組員数 積載砲数 艦長名 砲撃用 その他   ○ポーハタン
南茅部町史 上巻 (寛政三年五月)

=ここから遠い海岸に夏浦(シャコタン)といって斑竹を出すところがある。,=イタンギとは椀のことをいい、シュマイタンキとは茶碗のことをいうのだという=  むかし、源九郎義経が,イタンギとは飯椀のことである。  ,このコタンからはメノコ(アイヌの婦人)二人に漕がせて舟を出すことになる。,和人(シヤモ)はこのコタンをシカベ(鹿部)とだけいうのである。  
函館市史 銭亀沢編 (口説節)

 親父の譲り/上手くないのは シショ(師匠)ないや故に/(合いの手)ドドドッコイ ドーダネ コラ コッコロカラタンマラノッコラ, タンマラノッコラ 一族内から しくじるハイ/ドコドッコ ドーダネッコラおちょこちょいは何処にいたウッ,わしゃカマウダ(鎌歌)よ/(合いの手)コラコラコラコラ タンマラノッコラ/テンテコシャンシャン テンテコシャンシャン, タンマラノッコラ 一族内から しくじるハイ/ヨッ/9番 あがるお客は 皆としとしと 年っこ一九で その,三匹捕まれる/その癖アブラコ タントタント/ほんとに今だら おっきたもんだども/その時われわれがホント
函館市史 別巻 亀田市編 (フランス軍艦の入港)

和親条約を締結していないフランスの軍艦シビル号が入港し、食料、水の供給及び病人の上陸養生を求め、最初はこの,さらに両船出港後、一息つく暇もなく七月二十九日にはコンスタンティーン号が入港し、シビル号と同じ処置を求,め、奉行はこれを許可した。  ,またシビル号、ウヰルギニー号、コンスタンティーン号及び実行寺に設けられた養生所では毎日多量の野菜、米、,鶏卵、魚などの食料を入用とし、これらは箱館奉行所によって、近在から調達され、提供されていたが、この中には
南茅部町史 上巻 (運上屋)

寛政年間までは尻岸内から椴法華、そして尾札部、臼尻、鹿部辺は、まだアイヌの集落(コタン)があって、和人,漁の時期には、入稼ぎの者も来住して昆布や秋味などの漁業がおこなわれていた。
函館市史 銭亀沢編 (馬の糞団子)

晩になっても帰ってこないので、「イソやどんどん、イソやどんどん」と古川町の消防団がみんなして太鼓叩いて,「お前、何食べてたんだ」と尋ねたらね、「オレ、ボタ餅もらって食った」といったと。
函館市史 銭亀沢編 (衣類の収納・保管)

昭和初期には、タンスの中によい香りのするマルメロを入れたこともある。,寝具は押入に新聞紙やすのこを敷き、湿気を防ぐ工夫をしたりして収納した。,これら収納具類で使えるものは現在でも使用しているが、家の建て直しを機に使わなくなった衣類収納などの家具
函館市史 通説編 第二巻 (フランス軍艦病人の上陸・養生)

上陸と箱館での養生を要請し、箱館奉行がこれを独自の判断で特別に許可したことである。,シビル号が出帆してから約1か月余後の7月29日、フランス軍艦コンスタンチーヌ号が入港し、同艦もまた箱館奉行,収容することができなかったところから、とりあえず6~7名ずつ収容することとしたが(『幕外』12-105,し、8月11日出帆するまでの間に全快の船員25名が同艦に戻ったために、シビル号出帆後は、その残留者とコンスタンチーヌ,これらのフランス人が全員実行寺を引払ったのは9月3日のことであり(『幕外』13-3)、コンスタンチーヌ
南茅部町史 上巻 ([帰化植物])

セイヨウタンポポ、オニノゲシ、オオアワダチソウ、ノボロギク、オオハンゴンソウ、トゲジシャ、ブタナ、コウリンタンポポ,、カキネガラシ、タチオランダゲンゲ、キバナツメクサ、コメツブウマゴヤシ、セイヨウミヤコグサ、ハリエンジュ,アカミタンポポ、セイタカアワダチソウ、キヌガサギク、ハナガサギク、イヌカミツレ、キクイモ、ハキダメギク,、ヘラバヒメジョオン、キクニガナ、セイヨウノコギリなど。    ,また、キク科植物が最も多く、イネ科がこれに次いでいることは全国的傾向と同様である。
函館市史 通説編 第二巻 (営業網の縮少)

は、まず各店の地域別管轄制度を廃止して、全店を本店の直轄に改め、また分店・出張店の等級を廃止していったん,閉鎖を決定したものに対しては、官金取扱返上の済みしだい、順次にこれを実行させることとした。,こうして中上川副長の在住10年間のうち閉鎖された店舗は、北海道関係では次のようになった(同前)。
函館市史 銭亀沢編 (狐に憑かれた話)

当たり前の人間ならすることでない。狐に憑かれたんだ。てっぺんさのぼっていくのだからね。,現在でも狐に化かされた話を語ることのできる人は少なからずいるが、あるはずがないと疑問に思って信じる人は,ましてや日常こうした話が取りざたされることは稀である。
南茅部町史 下巻 (見日飲料水供給施設)

確保のために水道組合を結成し、一戸九千余円の負担金を拠出して年次計画で自主財源をつくり、自主運営をすることになった,しかし、渇水期や使用水量の多い季節には水圧の弱いこともあって苦情が相次いだ。,そこで、補助タンクとして見日川の上流に第二水源池を築設した。  ,この施設は、昭和五〇年、尾札部上水道の完成とともに見日水道組合の施設を買収して、尾札部上水道に吸収連結
函館市史 通説編 第一巻 (旗合せの糾問)

旗合せの糾問 それがどういうことからか、折から厚岸のウラヤコタンの外国船乱暴事件の調査のため、蝦夷地,しかし、重蔵らは異国船との関係は何もなかったと申し述べたものの、再応の取調べで、ここで真実を申し述べれば,何もないが、万一乗合せの儀を隠しおくならば、やがて江戸に引かれて糾問されるであろうということなので、それを,恐れ、重蔵らは前記のごとく風がなく漂っていたところロシア船に行き逢い、印の小旗を出して通過したが、異人,は小船で乗込み有合せの酒を奪い取って去ったということを申し述べたのである
函館市史 銭亀沢編 (誕生・生育と食べ物)

各儀礼とも現在は、誕生祝いにケーキ、唐揚げ、エビグラタンなど子どもの好む物を用いる家庭が多くなってきている,また、昭和初期にはおこなわれていなかった七五三も行事としておこなわれ、すしなどで祝うようになってきた。,このほか「入学」「卒業」「成人式」などを祝う家庭もふえてきた。
函館市史 銭亀沢編 (修理と古着類の活用の仕方)

修理と古着類の活用の仕方 衣類はすり切れたり穴があくとタンブ・タブ(つぎ)刺しをした。  ,これは、船の櫓を漕ぐ時にも使ったので幾つも作っておいた。  
椴法華村史 (村史発刊に寄せて)

歴史は、知ることに始まり、考えることで終るといわれます。,この村史は、たんなる過去の出来事や懐古のために扱うのではなく、先人たちが村づくりのため何をなしたかを学,び、未来の歴史の創造者である私達の「生きた参考書」となることを願うものであります。  
函館市史 別巻 亀田市編 (下肥)

しかし、これに対抗して、時の亀田村長中島有郷を組合長に、鍵谷元道会議員を専務とする利用組合が作られ、道,木製のタンクに樽から詰替えていっぱいになると畑の片すみのこえだめにあける。,そこで完全に下肥を腐らせるのである。木製のタンクが使用される以前は大きな樽を馬車に八個積んで行った。,汲んで樽がいっぱいになると、わらをかぶせ、つけもの樽のふたをかたくしめ、こぼれないように運んだ。,木製のタンクが使われるようになると便利にもなり、能率もあがった。
函館市史 通説編 第一巻 (絵画・刀剣)

絵画・刀剣 寛政3(1791)年に渡来した、筑後柳川藩医淡輪(たんなわ)元朔の『東奥遊記』によれば、,函館(ママ)の旅亭に帰り、画人玄竜の画く所の、許由巣父之図を観る」などとあるから、寛政年間に画家のいたことがわかるが,また同書には、箱館の町年寄白鳥家の優雅な生活ぶりが散見され、「主人蔵するところの剣数十を出して示す。
恵山町史 (〈徒歩で函館へ〉)

〈徒歩で函館へ〉 この話は、平成9年(1997)に、字恵山にお住まいの山田きせさんからお聞きした話である,函館の街でお祭りがあると聞き、どうしても見物したくなってね、仲良しの女友達2人と連れだって出かけたんです,函館まで片道12里(約47キロ)、往きも帰りも歩いて行ったんです。  ,あそこは時化(しけ)ている時は波にさらわれてしまうことだってあるし、とても危なかったんですよ。,、不便なところ”のイメージが払拭しきれていない。
函館市史 通説編 第一巻 (疫病)

寛永元(1624)年初夏から2、3年にわたって蔓(まん)延し、藩公の子息までも死に巻きこみ、また万治元,こうした天然痘の流行は、処女地である蝦夷地に入り、猛威を振い、蝦夷の人口に大打撃を与えた。  ,天然痘のほか、寛政3(1791)年に渡来した、筑後柳川藩医淡輪(たんわな)元朔の『東奥遊記』によると、,このころ和人地にあった病気は血毒、湿痺、梅毒、脚気、気積などの病名が見られ、また菅江真澄の紀行文には疝気
南茅部町史 上巻 (菅江真澄紀行)

二七日 同じ舟で尻岸内に着き、ここからアイヌの舟で根田内にゆき泊る。,六月三日 フルシベコタンよりアイヌの舟にのり、山越内でおり陸路をゆきシラリカに泊る。   ,五日、六日 滞留   七日 舟で出発、アブタのコタンに泊る。   ,地形や風土のこと、地名やそのいわれを書きとめ、昆布漁のこと、運上屋の様子、アイヌの生活やたべもののこと,、鳥や昆虫のことなど語りかけるようにこと細かにしるされている。
函館市史 銭亀沢編 (黒岩さん)

黒岩は一つが高くて一つが低くてめおと岩といわれたこともある。道路拡張する時岩を崩した。,あの岩を崩すようになってからこの浜から漁もなんもなくなったんだとよくいっていた(飯田由枝談)。  ,漁師はそこを目印にして魚釣りとか航海をした。どだい海の縁を渡れなかったので山道の裏側を通った。,道路工事のときに削り取らなければならないというので抜いて、そこにある祠に納めた(吉田正明談)。
函館市史 通説編 第二巻 (フランスの思惑)

フランスの思惑 ところで、コンスタンチーヌ号にはロシア人の捕虜30余人が乗船しており、また第1回のシビル,このことは、基本的にはフランスが条約未締結国であるのに対し、ロシアが条約締結国であるという両国の対日関係,の相違に起因しているが、それにしても、捕虜であるロシア人が物品の購入に専念しているところをみると、これはおそらく,さらにフランス軍艦、とりわけコンスタンチーヌ号の行動で注目しておきたいのは、箱館港碇泊中に、箱館奉行他,養生を許可したことに対する謝意の表示であったことは確かとしても、コンスタンチーヌ号の「船将」が竹内に対
函館市史 通説編 第一巻 (嘉兵衛カムチャツカへ)

嘉兵衛カムチャツカへ 9月29日ついにカムチャツカへ拉致された嘉兵衛は、翌文化10年春まで、ここに冬営,したリコルドと同じ家、同じ部屋に起居を共にした。,そしてゴロウニンが捕えられた原因は、前年フォストフの理不尽な暴挙にあることを責め、リコルドはそれに対し,こうして結局、シベリア総督からフォストフの暴挙の弁明書、ならびにゴロウニン放還願書を日本政府に差し出すこととし,暗たんたるものがあった。
函館市史 別巻 亀田市編 (第一期工事はじまる)

木造トタン葺二階建 三八九・七五坪  一階 教室二 校長室一 職員室一 その他で二一九・二五坪  ,三月議会における村長の説明では、屋内体育館も建設したい意向であったが、補助起債の関係で屋体を分離することになり
椴法華村史 (一七〇〇年代の椴法華近海の海運)

一七〇〇年代の椴法華近海の海運 このころの椴法華近海の海運はどのような様子であったろうか。  ,元文四年(一七三九)ごろの『蝦夷商〓聞書』によってこれを見ることにする。       ,前にも記したようにこのころ、貨物の運送は繩とじ船が主力であったが、一般旅行者の中には手こぎの小船で、こぎ,に着き宿泊   二十八日 蝦夷船にて跠山(恵山)の麓をすぎ、トドホッケのコタンにつき休むまもなく舟に,・フルベ大滝・ピルカ浜・尾札部に着き運上屋に泊す   二十九日 同舟にて出発ツキヤンゲ・カツクミ・イタンギ・ウツジリ
椴法華村史 (ロシアの襲来)

ロシアの襲来 文化三年(一八〇六)九月、フォストフ等は樺太クシュコタンを掠奪し、運上屋を焼く。,この時は冬期に向うため交通が杜絶え、事件について松前に連絡できなかった。,文化四年(一八〇七)春箱館奉行はこの報に接し、直ちにこの事件について幕府に報告したが、幕府はすみやかに,このため箱館奉行羽太正養は、この報を知るや直ちに幕府に報告した。,ちょうどこのような事件が頻発していた時、我が椴法華の沖合にも外国船らしき船が出現したわけであるから、大騒動
函館市史 通説編 第二巻 (函館開港とキリスト教)

そうしたことに少しく思いを致すなら、函館におけるキリスト教の受容とその定着も決して容易ではなかったことが,上記の一文は、明治元年5月24日に米国公使がキリシタン禁制高札に対して開陳した1節であるが、それは日本人,事実、明治5年1月の頃、井上馨は長崎のキリシタンに対して、「今般不軋ノ輩スラ寛典ニ被処候儀ニ付、格別ノ,開港場函館においては当然のことながら、明治6年の解禁にさきがけて、隠れキリシタン的信仰の営みが厳存していた,明治2年に一旦は母国ロシアに帰還したニコライが再び来函して布教の礎を固めるのは、明治4年のことである。
戸井町史 ([戸井と近隣の変遷])

ここでまたコタンの蝦夷舟に乗りかえてコブイのコタンを経て、ネタナイというコタンにつきここに宿泊した。,遠いコタンにシヤクコタン(夏浦)といって班竹(シャコタン竹)を出すところがある。,シヤクコタンは鱒の網引きをして、夏季だけ住居のあるコタンの名である。,和人はここをシャコタン(積丹)といっている。  ,ここにイタンギというコタンがある。イタンギは飯椀(めしわん)をいう。
戸井町史 (八、むじなと自転車競走をした男)

床屋のおやじは、自転車競走の選手で、どこへ行くにも自転車へ乗って歩いていた。  ,或る年のことこのおやじが、日浦の婚礼に行き、祝い酒にしたたか酔っての帰り道、カラスガタにさしかかった。,この頃海岸道路が開かれ、カラスガタの海岸縁にもコンクリートの防波堤が造られていた。,「床屋一体どうしたんだ」というと、床屋は「自転車競走をしたんだ」と答えた。,このことを聞いた村人たちは「いくら床屋が自転車競走の選手でも、巾一尺五寸くらいの堤防の上を自転車で走るなどという
恵山町史 (4、村政のはじまり)

原  〃  掛澗(かかりま) 鷲ノ木  〃  尾白内(おしろない)森       蛯谷古丹(えびやこたん,第7の宗門改めのこと  「宗門改め」とは、幕府がキリシタン禁制令を徹底するため、あるいは隠れキリシタン,この宗門人別帳には、家主を筆頭に家族全員の名前・続柄・年齢を記載させ、それぞれがキリシタン宗徒ではなく,また、松前藩のキリシタン宗徒処刑という歴史からみて、この宗門改め・宗門人別帳は形式的なものではなく相当厳,この組織は隣近所5戸を基準に1組とし、地域の火災、盗賊、キリシタン宗徒の摘発など犯罪行為の取締や自衛活動
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田村公民館の建設)

については、戦後多くの人たちから要望されていたが、ようやく二十七年十一月に至って、その建築に着手することになった,旧役場庁舎の材料を利用して、新庁舎の隣りに木造トタン葺平家建四九坪の公民館が十二月に竣工した。
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