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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (コシャマインの乱)

コシャマインの乱 康正2(1456)年のアイヌの蜂起の発端について『新羅之記録』には、「中比(なかころ,松前氏祖 武田信広  しかも越えて翌長禄元(1457)年5月、東部の酋長コシャマインを陣頭に、いよいよ,時に花沢館の蠣崎季繁の客将武田信広は、敗走した諸館軍を整えて七重浜に戦い、苦戦のすえ武田信広の強弓でコシャマイン / コシャマインの乱
函館市史 銭亀沢編 (コシャマインの戦い)

コシャマインの戦い コシャマインの戦いは、移住和人と先住民たるアイヌとの空前の一大民族戦争であったが,其時上之国の守護信広朝臣惣大将として、狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人を射殺し、侑多利(ウタリ,それは史料が物語るように、長禄元(一四五七)年五月十四日の胡奢魔犬(コシャマイン)の率いる「十二館」の,首長コシャマインの指揮するアイヌの蜂起は、この「十二館」のうち、志苔館・箱館・中野館・脇本館・穏内館・,長禄元年の最大規模の民族戦は、前引のように、武田信広が総大将となり「狄の酋長胡奢魔犬(コシャマイン)父子二人 / コシャマインの戦い
函館市史 銭亀沢編 (戸井館の築造)

戸井館の築造 志苔館の再建は、コシャマインの戦いの脈絡の中で考えなければならないのは当然であるが、今一,千代肇は、戸井館がコシャマインの戦いに登場しないのは、「比較的古い時期の築造」であるためという(「中世,『戸井町史』が伝える戸井館にまつわる伝説によれば、戸井館は岡部某が長禄元(一四五七)年のコシャマインの,最新銭の永楽通宝の初鋳年が一四〇八年であることから、一つの可能性として、戸井館は、一四〇九年以後からコシャマイン
戸井町史 (一、蝦夷時代の概観)

松前家の祖、武田信広が渡島直後に起った道南の大事件コシャマインの乱すら、蝦夷の伝えたものでは何一つうかがい,コシャマインの乱は長禄元年(一四五七)であるが、この時代の事蹟を調べる文献は、松前藩が藩内の学者に命じて,コシャマインの乱或はそれ以前に岡部某が戸井に館を築いていたことも、蝦夷の襲撃を受けて滅びたことも全然と,長禄元年(一四五七)下北から渡島した蠣崎信広が、コシャマインの大乱を平定してからも、和人に対する蝦夷の,コシャマインの乱から数えても百年以上蝦夷の勢力圏であったのである。  
函館市史 別巻 亀田市編 (蝦夷蜂起)

は戦いを起し、東は鵡川から西は余市付近まで進出していた和人勢力を追い払い、翌長禄元(一四五七)年酋長コシャマイン,現上磯町字茂辺地)と花沢(上ノ国町)の二館を残すのみとなったが、この時花沢館にいた武田信広がようやくコシャマイン
椴法華村史 (康正二年、長禄元年の乱)

翌長禄元年(一四五七)雪どけの終った五月十四日、酋長コシャマイン(出身地不詳)の率いるアイヌ人は乱を起,下国家政の守備する下国の館(茂辺地)と蠣崎季繁の守備する花沢館(上の国)が奮戦し、辛うじて反撃に転じ、コシャマイン
戸井町史 (二、和人の館)

長禄元年(一四五七)コシャマインの乱の時の箱館の館主河野政通(まさみち)、相原政胤(まさたね)、蠣崎信広,コシャマインの乱の起ったのは「長禄元年(一四五七)五月十四日」と、安東政季が本州へ帰還した時に報告したという,康正三年(一四五七)五月二十八日に長禄(○○)と改元されているので、コシャマインの乱の起ったのは、正しくは,蠣崎信純等が渡島してから三ケ月後にコシャマインの乱が起ったことになる。
函館市史 通説編 第一巻 (江戸期の生業(なりわい))

江戸期の生業(なりわい) コシャマインなどのアイヌ騒乱によって、和人の生活には空白の一時期を生じたが
函館市史 通説編 第一巻 (随岸寺)

『福山秘府』によると同寺は、長禄3(1459)年松前に移り、文明18(1486)年焼絶したとあり、コシャマイン
函館市史 銭亀沢編 (志苔館の再建)

志苔館の再建 長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦いで、そのアイヌの民族的マジョリティの前に、志苔館,長禄元年のコシャマインの戦いで、一端は陥落した志苔館は、長禄元年から永正九(一五一二)年の約五〇年の間
函館市史 銭亀沢編 (志海苔の鉄)

志海苔の鉄 コシャマインの戦いの戦端が志海苔で開かれたことは、重大である。,とすれば、この鉄をめぐる対立がコシャマインの戦いの直接的な引き金になったことになる。  ,コシャマインの蜂起はその軋轢として始まった、という推測も可能であろう。
戸井町史 (三 蠣崎の錦帯城趾の伝説(川内町))

康正三年の九月二十八日に長禄と改元になり、この年、コシャマインの乱を平定しているので、南部氏の記録が正,しいとすれば、信純(後の信広)は渡島間もなくコシャマインの乱を平定したことになる。  
函館市史 銭亀沢編 (志苔館)

小林太郎左衛門良景(法号妙国院殿良景日鶴居士長禄元年五月十四日戦死)ノ築クトコロニシテ、長禄元年ノ夷乱ニ当リ(コシヤマインノ
函館市史 通説編 第一巻 (乱後の箱館)

乱後の箱館 コシャマインの乱後の箱館地方の状勢を見ると、小林良景の戦死によって、その子、小林弥太郎良定
恵山町史 ([渡島半島“みち”のはじめ])

・志濃里館までに、いわゆる道南12の館を築き経済活動を行うが、下海岸の石崎に端を発したアイヌの蜂起・コシャマイン,和人豪族側は、上ノ国花沢館の客将武田信廣を総指揮官に、態勢を立て直し反撃に移り、長祿元年(1457)コシャマイン
函館市史 銭亀沢編 (志海苔古銭をめぐって)

これまでの諸説のうち、コシャマインの戦いにかかわる軍資金説は、前の館と古銭の埋納年代から考えて、妥当性,しかし、この第一期創建の志苔館は、コシャマインの戦いによって一時陥落し、のち再建(第二期築造)されるのである
戸井町史 (四、戸井から六万枚の古銭と宝物出土(文政四年))

古銭を入れた大瓶は何れも室町時代前期未のものと推定され、志海苔館と関連づけ、埋められた時代はコシャマイン,岡部季澄は「新羅之記録」にコシャマインの乱の頃の原口の館主と記録されている人である。  ,こういうことから、戸井にあった岡部館は『新羅之記録』に書かれているコシャマインの乱以前に蝦夷の襲撃を受
函館市史 銭亀沢編 (館主たちの支配版図)

康正二(一四五六)年から始まるコシャマインの戦いがそれである。
戸井町史 (一、和人渡来の始め)

げた藤原泰衡(やすひら)が比内(ひない)で部下河田次郎に殺され、その従者が蝦夷地に逃れたという伝説と、コシャマイン
戸井町史 ([下北半島の景勝地と伝説])

略図  北海道の和人の歴史の始りは、下国安東盛季やその肉親、親戚、従臣等の渡島からであり、それはコシャマイン
戸井町史 (一、戸井の館とその伝説)

一、戸井の館とその伝説 コシャマインの乱の頃、戸井の館鼻(たてはな)に和人の館があったという言い伝えがあるが,「コシャマインの乱の頃、館鼻の旧役場の背後の高台に、岡部某(岡部六弥太、岡部六郎左衛門と書いたものもある,この館がコシャマインの襲撃を受け、館主岡部は浜中に蝦夷の軍を迎え討ったが、衆寡敵せず、更に蝦夷の放つブス
戸井町史 (二、戸井への和人の定着)

まれていたという『松風夷談』の記録と対照して見ると、「岡部某は戸井館で自刃した」という伝説は誤りで、コシヤマイン,長禄元年(一四五五)のコシャマインの乱から数えて五一七年である。  
戸井町史 (五、旧銭亀沢村志海苔(しのり)から出土した古銭(昭和四十三年))

室町中期の製品であることから、古銭の埋められたのは、室町時代中期の頃と推定され、長禄元年(一四五七)のコシャマイン
函館市史 通説編 第一巻 (汐泊川チャシ)

最初の東部のコシャマインがどこを根城としたか明らかでないが、東部とは、箱館や志海苔の東であったであろう
戸井町史 (二、戸井の板碑(いたび)と発見の経緯)

長禄元年(一四五七)五月の蝦夷の大乱以前に、戸井館がコシャマインの挑戦を受けた。,戸井に館を築いていた和人は、康正、長禄のコシャマインの大乱以前に亡び、それ以来和人の居ない時代が永く続
戸井町史 (年表の序)

年表の序 長禄元年(一四五七)のコシャマインの乱の頃か、或はそれ以前に、戸井に和人の豪族が館を築いて,和人がコシャマインの乱以前に道南へ来たのは、戦乱に敗れた者、盗賊、海賊の首領で本土から放遂された者などであったが
戸井町史 ((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)

コシャマインの乱以前の下北の村々の名、下北地方の城、館、柵(さく)などの名や領主、館主などの名が細かく
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田)

長禄元(一四五七)年のコシャマインとの戦いに次いで起った永正九(一五一二)年の蝦夷蜂(ほう)起のころ、
函館市史 銭亀沢編 (短冊状地割と境界について)

岡部氏はコシャマインの蜂起以前に原口へ退転し、トヰの館は「新羅之記録」が書かれた一六世紀初期にはすでに
戸井町史 ([石器時代の戸井])

道南の人々が、神代の昔のことと考えているコシャマインの乱は僅か五百年以前の事件であったことを考えれば、,二千年、三千年の昔、或は数千年昔に、戸井を含めた道南一帯に住んでいた人類が、コシャマイン時代と同じような
函館市史 銭亀沢編 (志苔館と渡党)

そのため、館の築造と長禄元(一四五七)年のコシャマインの戦いの勃発が、ほぼ同時に発生するのはなぜかという
函館市史 銭亀沢編 (安藤康季の渡道と「道南の十二館」)

戸井館の崩落後からコシャマインの戦いが勃発する長禄元(一四五七)年までの時期とは、志苔館にとって、石崎地区
戸井町史 (三、『新発見の板碑(いたび)(戸井町)』  須藤 隆仙)

昔蝦夷の酋長コシャマインが原木と日浦の境にある御殿山に居を構え、付近の蝦夷を統率していた。,蝦夷の大乱の起る前、或事から戸井の和人と蝦夷との間に軋轢を生じ、コシャマインが館を攻撃してきた。
戸井町史 ([旧家の系図])

然し戸井館はコシャマインの乱以前に蝦夷の襲撃を受け、敗れて和人無住の地になり、天正十八年(一五九〇)松前藩
函館市史 銭亀沢編 (目次)

をめぐって/     戸井館の築造/安藤康季の渡道と「道南の十二館」/館主たちの支配版図/     コシャマイン
戸井町史 ([昆布漁])

(1)元弘四年(一三三四)即ちコシャマインの乱より一二〇年も前に書かれた『庭訓往来(ていきんおうらい)
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