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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (ゴロウニンの捕縛)

ゴロウニンの捕縛 ゴロウニン  幕府は、文化4年フォストフらロシア人の来襲以降、北門の警備を厳重,にして備えていたところ、同8年に至り、ロシアの軍艦ディアナ号の艦長ゴロウニン少佐以下8名を、国後島で捕,ゴロウニンは、その年の春、ロシア皇帝の勅旨を受けて、千島南部、シヤンタル諸島および北緯53度38分以北,ゴロウニンは、測量の事は口にせず、武兵衛に薪水を得たいと申し出た。,ゴロウニンは通訳として、アレキセイを伴い出帆したが、択捉島内の振別に向わず国後島に向った。 / ゴロウニンの捕縛
函館市史 通説編 第一巻 (ゴロウニン箱館へ護送)

ゴロウニン箱館へ護送 伝ゴロウニンの書  かくてゴロウニンら8名は捕縛された翌4日、ただちに根室,ゴロウニンが箱館在獄中もっとも日本人に悩まされたのは、役人や獄卒に扇面や紙に何か書いてくれと頼まれたことで,現在では市立函館図書館に「ゴロウニンの書」といわれているものが、1枚残っているだけである。 / ゴロウニン箱館へ護送
函館市史 通説編 第一巻 (ゴロウニンの釈放)

ゴロウニンの釈放 以上にして松前奉行は、ロシア側の謝罪を諒とし、文化10年9月26日、リコルドを沖ノ,口番所に招き、ゴロウニンら一同を引渡すとともに、通商は国法で厳しく禁じている旨をさとし、左記の諭書を渡 / ゴロウニンの釈放
函館市史 通説編 第一巻 (ゴロウニン福山から箱館へ)

ゴロウニン福山から箱館へ こうして予備交渉が成立したので、嘉兵衛は福山に戻っていたが、命によって8月,一方、この間松前奉行はゴロウニンらを福山から箱館に移すこととし、8月17日福山を出発して20日箱館に着 / ゴロウニン福山から箱館へ
函館市史 通説編 第一巻 (福山拘禁)

尋問の要旨は、先年ロシア人の樺太、択捉などへの来襲はロシア政府の命令によったものかどうか、ゴロウニンの,これに対しゴロウニンは、フォストフらの行動は、ただ彼らの利益のために行ったもので、決してロシア政府の関知,、アイヌ語を更に日本語に翻訳して通弁するのであるから、意思疎通は困難なものであったが、ともかく奉行はゴロウニン,ところがこのことがゴロウニンらの耳に入ると大いに失望し、3月25日未明ゴロウニンをはじめ6名(ムール、
恵山町史 ([後松前藩時代の道])

まずは、ゴロウニン事件(文化8~10年・1811~13)(注1)が解決して、幕府直轄の最も大きな理由であった,(註1)ゴロウニン事件  文化8年(1811年)ロシアの艦船ディアナ号の艦長・海軍少佐ゴロウニンが、,ゴロウニンらを捕らえたのは、ロシアの元将校フボストフらの北辺襲撃(文化3~4年に繰り返された、番屋や会所,ディアナ号の副長リコルドは、艦長ゴロウニンらを救出するため、本国に帰り日本の漂流民を連れて引き返し、幕府,にゴロウニンらとの交換を申し出るが黙殺され、その上、彼らは皆殺しにあったと伝え聞く。
函館市史 通説編 第一巻 (ディアナ号の箱館出帆)

ディアナ号の箱館出帆 こうして事件は落着し、実に2年2か月と26日の長きに及んだゴロウニンらの監禁生活,ラックスマンの来航の時は警戒も極めて厳重であったが、この度の来航は来意がはっきりしており、かれは謝罪してゴロウニン,8月にゴロウニンらが福山から箱館に移されてからは待遇も改善したといわれ、土民もその旅寓を訪れて帰還の喜,9月27日ゴロウニンらがディアナ号に乗船した時には、市民もロシア船に群がり至り、彼らも快く艦内を案内して,ゴロウニン事件は、これによって平和裡に一切の解決を見た。
函館市史 通説編 第一巻 (幕府の諭書)

10年3月、この「魯西亜船え相渡候諭書」を、時の松前奉行服部備後守貞勝が携えて福山に来任し、その旨をゴロウニン,に通じ、別に一書をゴロウニンの筆による訳文をつくって、国後島に送りロシア人が来たら渡すことにしていた。,リコルドらはゴロウニンらの生存の証拠を得て喜んで同意したので、ただちに福山に急報した。
函館市史 通説編 第一巻 (リコルドの再航)

リコルドの再航 リコルド  一方、ゴロウニンの救出を誓って去ったディアナ号副艦長リコルドは、文化,ところが彦助は五郎次に、ゴロウニンら捕虜はみな殺しにされた旨を答えさせた。
函館市史 通説編 第一巻 (嘉兵衛カムチャツカへ)

そしてゴロウニンが捕えられた原因は、前年フォストフの理不尽な暴挙にあることを責め、リコルドはそれに対し,こうして結局、シベリア総督からフォストフの暴挙の弁明書、ならびにゴロウニン放還願書を日本政府に差し出すこととし
函館市史 通説編 第一巻 (箱館に本店を置く)

支店を大坂、兵庫に置いて巨富を得たばかりか、ことにこの間、第8節に後述するように、ロシア船に捕えられ、ゴロウニン
函館市史 通説編 第一巻 (密約の発覚)

の文化9(1812)年、高田屋嘉兵衛がロシア人に捕えられカムチャツカに至った際、日本に幽閉されていたゴロウニン
恵山町史 (6、郷土と高田屋嘉兵衛)

1811年(文化 8)・6月4日「ゴロウニン事件」発生する。,世にいう「ゴロウニン事件」である。,もまた事件の認識がなかった)嘉兵衛にゴロウニン釈放の斡旋を求めた。  ,ゴロウニンは帰国後、この事件を「日本幽囚記」として1816年に出版する。,先に述べたが、ゴロウニン事件(ゴロウニンの放還)での嘉兵衛の尽力に感謝したロシア側は、高田屋の船に次のような
函館市史 通説編 第一巻 (観世丸の拿捕)

しかし、リコルドは嘉兵衛が捕虜のなかのムールの名をあげてゴロウニンのことに触れなかったため、これをも容易,また甲比丹モオルとあるのは、ゴロウニンの部下のムール少尉をさしたものと思われるが、この点も前に述べたように,嘉兵衛がゴロウニンのことに触れなかったため、その生死について疑いを強くしたのであったが、こうした彼我の
函館市史 通説編 第一巻 (種痘の先駆)

をしていた文化4年、ロシア人に捕えられてシベリアに拘引された者であるが、たまたま文化9年、リコルドがゴロウニン
恵山町史 (5、松前藩の復領)

この時代、ゴロウニン事件の解決で国際情勢の不穏な動きも一段落したとはいえ、幕府が去った後、松前藩は北辺防備
恵山町史 (3、奉行所の設置)

動静については、1806~7年のロシア船(フヴォストフ大尉ら)来冦、1811~13年(文化8~9年)のゴロウニン
恵山町史 (1、異国船の来航)

1、異国船の来航 ゴロウニン事件が平和裡に解決(1813年・文化10年)した以降、表面的には平静を保
函館市史 通説編 第一巻 ([目次])

復活 二 箱館商人の動向 三 問屋株仲間と市中商人の対立 四 当代の諸税及び問屋口銭   第八節 ゴロウニン
函館市史 通説編 第一巻 (幕吏の文人)

間宮林蔵はそのまな弟子であり、ゴロウニンが感心したという通訳村上貞助(秦貞廉)は、彼の養子である。
函館市史 通説編 第一巻 (釈放の交渉会見)

ゴロウニン艦長以下もう直ぐに帰艦されるのです。
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港の背景)

なお、ペリーが箱館来航以前のこの段階で箱館の有利性を判断できたのも、シーボルトの『日本』やゴロウニンの
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の町勢)

馬追いや日雇い、場所稼ぎの人びとが住み、その下の方に牢屋があって、かつてロシア人ゴロウニンもここに入れられたといい
恵山町史 ([五稜郭と古武井熔鉱炉])

領土問題や、1807年(文化4)のロシア人の利尻島侵入、中川五郎治のオホーツク連行、1811年(同8)のゴロウニン
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