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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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恵山町史 ((6) 深海で生まれるドンコ)

(6) 深海で生まれるドンコ 海釣りの外道としてあげられるドンコ(エゾイソアイナメ)、この魚を使った,ドンコ汁の味は格別である。,このドンコ、ごく当り前に沿岸で釣れる魚だが、どれだけたくさんのドンコを調べても成熟した魚は1尾も発見できない,その後、水深1000メートル近くの深海トロール調査でようやく成熟したドンコが採集できた。,沿岸で数年間かけて成長した大型のドンコは、秋深くにいっせいにはるか南の深海の産卵場に移動していくことが / (6) 深海で生まれるドンコ
函館市史 銭亀沢編 (どんど焼き)

どんど焼き 昭和三十年頃からおこなわれるようになった。七日の朝に、お神酒を神棚に供え灯明をともす。,拝んだ後に玄関・神棚・床の間などの注連縄や注連飾り・輪としななど全部をとりはずし、まとめて氏神神社へもっていく,神社では、神職のお祓い後、古い神符・お守りなどといっしょに正月飾りを焼く、神職のいない神社では、神職に,代わって「別当」や「神社総代」などの神社役員がその仕事をする。 / どんど焼き
函館市史 通説編 第一巻 (エドワード・S・モース)

エドワード・S・モース エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚,英文『大森貝塚』と邦文『大森介墟編』の2論文を東京大学理学部の最初の紀要に発表しているが、日本考古学界で初,残した貝塚と考えたのに対して、モースはアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、,大森貝塚人のように土器を作った人種をアイヌ民族以前のものであると考えた。 / エドワード・S・モース
椴法華村史 (アイドマリ)

アイドマリ アイの風とは北風のことで、東津軽郡及び富山県方面の方言である。,トマリは船をつなぐところを意味し、アイドマリとは、北風の時に船をつなぐ所という意味であって、天明三年( / アイドマリ
恵山町史 ([学校ができるまでの教育])

1870年)11月18日生」とあり、尻岸内村に学校が創設された1880年(明治13年)には、10才の子どもである,寺子屋で学んだとされる松本由松については、「商売往来」「國郡村名産手紙之文」「摂津東海道」「國尽し」など,「いろは」や数字などをまず習い覚え次に手本を習うのである。  ,下伊那郡は信州長野県であり、この持ち主からどういう経路で松本家に伝わってきたのかは定かでない。  ,多くの学ぶ意志を持った子どもたちへ、誰がどこでどのように、どの位の規模で学校教育に代わるべき教育活動・ / [学校ができるまでの教育]
函館市史 通説編 第一巻 (ホンドイタチ)

ホンドイタチ 徳川時代の末ころから明治にかけて、ネズミを追って船中に忍び込み、本道へ渡って繁殖したものである,当地域では明治中期から目立ち始め、明治から大正にかけては市街地の周辺、近郊の農村で鶏舎や兎(と)舎の被害,明治40年、函館の毛皮商松下熊槌はロンドン万国博覧会に渡島産としてこの毛皮200枚を出品したが、質の良好,当時に比べると最近では、市街化の進行、捕食小動物の減少、猟具の進歩などにより、当地域の個体数も激減している,模様である。 / ホンドイタチ
戸井町史 (三、子ども会と子ども愛護(育成)会)

これが戸井町子ども会の始めである。,まで約四年間続いたが、運営上のいろいろな障碍があったため、各地域の父母の協力を得て再発足しようということで,これに刺激されて、町内各地区に、子ども愛護会或は子ども育成会の名で、子ども会の後援母体が誕生し、昭和四十五年,までに、全町に十六の子ども愛護(育成)会が結成された。    ,のたのしみ会、かるた会、雪まつり、書初め、節分の豆まき、映画会、新会員を迎える会、お別れの会、総会などである / 三、子ども会と子ども愛護(育成)会
函館市史 銭亀沢編 (子どもを守る会)

この会は、銭亀沢地区を構成する八つの町から構成される「銭亀沢地区子どもを守る会連絡協議会」である。,昭和四十年代に活動が活発であった石崎町子どもを守る会の場合をみてみる。  ,時の子どもみこし、節分の豆まき大会などであった。  ,現在では、函館市子ども会育成連絡協議会の組織の一員になっており、市の子どもの祭典には参加している。,また、会費も全戸から徴収していたが、子どものいない世帯から苦情がでて、子ども単位の会費徴収に変化した。 / 子どもを守る会
函館市史 別巻 亀田市編 (地域子ども会)

地域子ども会 社会事情の安定に伴って子どもの幸せを願い、有為の社会人に育つことを望む要請にこたえて、,地域的な子どもの集りが、いわゆる子ども会の結成となり、地域における社会行事への参加を通して、その育成が,当町でもこれら団体の善良なる成長を念願し、活動を高めるための助成として、昭和三十七年度から補助金を交付,しかるに単位子ども会数が多くなるにつれ、団体相互の友和、研修結果の交換などは容易に進まず、連合団体を結成,する必要から、三十八年七月二十四日、各単位団体代表者会議によって、「亀田町地域子ども会連合会」の結成をみた / 地域子ども会
函館市史 通説編 第一巻 (リコルドの再航)

リコルドの再航 リコルド  一方、ゴロウニンの救出を誓って去ったディアナ号副艦長リコルドは、文化,5名を連れて再び国後の泊に来たが、国後在勤調役並太田彦助らがこれを見て厳重な陣固めしてこれを迎えたので、,リコルドはこれを遠望して近づきかね、翌日歓喜丸船頭1名を上陸させて会見を求め、拒絶されると五郎次を派遣,しかし、リコルドはこれを信ぜず、ほかに信頼に足る日本人を捕え、その真相を確かめるため日本船の往来をうかがっていた / リコルドの再航
函館市史 銭亀沢編 (ドンジャと刺し子)

ドンジャと刺し子 ドンジャを仕立てるための刺し縫いは細かい仕事なので、電気が普及する以前は、夜なべで,刺し子をするとランプがすぐ曇るのでランプ掃除も含め大変だったそうである。,ドンジャを作るときは、刺しやすいようにあらかじめ布を洗い、おむつのように柔らかくした紺または黒の木綿地,手の速い人は三筋おきで一週間くらい、四筋おきで四日間ほどで刺し終えたという。,厚くなるので裁ちめのままにし、別布(黒木綿)で覆輪(五ミリメートルほどの玉縁様の縁取り)を付けた。 / ドンジャと刺し子
椴法華村史 (海馬(とど)岩)

海馬(とど)岩 『北海道蝦夷語地名解』によれば、「アイヌ語でドカリシヨ、のちこれを和人、海馬岩という / 海馬(とど)岩
函館市史 銭亀沢編 (生育と子どもの衣服)

生育と子どもの衣服 生後一年くらいまでの赤ん坊はイズコに入れて育てたが、誕生過ぎくらいからはおぶって,布地は主に銘仙で、着物をたおしたものなどを使い、衿には黒い繻子を掛けた。,就学前の子どもには男女とも、昭和三十年くらいまでは、着物を着せて育てることがあった。,学童期の子どもの衣服は昭和初期頃まで和服形式であり、夏も冬も着物を着た。,昭和初期から昭和十年代中頃までが、子どもたちの日常着が和服から洋服へと変わっていく過渡期であった。 / 生育と子どもの衣服
椴法華村史 (どうだんつつじ祭り)

どうだんつつじ祭り サラサドウダンとツツジの里、椴法華へどうぞと、村と観光協会共催にて、第一回どうだんつつじまつりが,、昭和五十九年六月、三日間に亘り国民宿舎「恵山荘」前公園で実施された。   ,カラオケのど自慢大会   ビール早飲み大会   民謡歌謡ショー   きき酒大会   舞踊ショー, なお多勢の観光客が村内外から、どうだんつつじ祭りを訪れ、花見客でにぎわいをみせた。,昭和61年7月 華やかなどうだんつつじ祭り / どうだんつつじ祭り
恵山町史 (〈徒歩で函館へ〉)

函館の街でお祭りがあると聞き、どうしても見物したくなってね、仲良しの女友達2人と連れだって出かけたんです,恵山からは船便があったし、戸井まで行けば自動車もあったらしいけど、お金は相当かかるし、函館まで歩くのは,、それほど珍しくはなかったのです。  ,その頃は、大人の足で1里1時間と言われていたけど、女の足でしょう、それに、赤ん坊をおんぶしているんだもの,恵山、古武井の辺りはまあまあだけど、おっつけでは鼻コグリ(註)と呼んでいる坂をおり、磯伝いの道を歩いたの / 〈徒歩で函館へ〉
函館市史 通説編 第二巻 (エルドリッジの来函)

エルドリッジの来函 エルドリッジと生徒たち    開拓使の医師の養成についての方針,開拓使は函館病院の外科医長としてアメリカ人医師エルドリッジを招へいし、明治5年に就任した。,講義の内容は、治療学、生理学、外科学、解剖学、薬剤学、産科学及婦人病論などであった。,・著『御雇医師エルドリッジの手紙』)。,田沢謙、村岡格、赤城昌英などはその後、函館病院の医師として名前をみることができる。 / エルドリッジの来函
函館市史 別巻 亀田市編 (最近までの歩み)

最近までの歩み 本道では歴史の古い亀田市ではあるが、文化財については、特別関心を示さないまま過ごしていた,五稜郭は函館市に所属したので、その他のものは比較的認識されなかった。  ,サイベ沢、四稜郭、東照宮跡などのことも、一部の人によってその重要性を指摘されるにとどまっていた。  ,昭和十年、鍛神小学校訓導服部安正が、『四稜郭史』を発表するにおよんで、村民に貴重な参考文献として喜ばれ,しかし、戦争が長期化するにつれ、食糧増産などの必要もあって、四稜郭は土塁の下まで畑として耕作され、史跡 / 最近までの歩み
戸井町史 ([下海岸のクドキ節])

このクドキ節は、椴法華から函館までの村々の地名、地形、地物、名所、社寺、伝説などを歌い込んだものである,クドキ節は昔下海岸をワラジがけで歩いたり、ドサンコ馬の背に乗って歩いたり、或は小さな舟で沿岸を漕ぎ渡った,クドキ節は下海岸の無形文化財である。  ,クドキ節は歌詞が素朴であり、曲が哀調を帯びていて、素朴な漁民の共感を呼び、ドサンコ馬の背にゆられながら,レコードに吹き込まれているクドキ節  最近コロンビヤ社でこの歌をレコードに吹き込んでいる。 / [下海岸のクドキ節]
函館市史 通説編 第二巻 (函館から森村まで)

たとえば蔬菜にしても、従来は青森、新潟、東京などから移入して、近村のものは甚だ少なかったのだが、この道路,T.)とワーフィールド(Warfield,A.G.)の2名に、明治4年9月、函館・札幌間の地形、港湾を,J.R.)を「測量長」に任じ、人夫は東京の政田嘉兵衛外3名に受負を命じ、東京、伊豆、木曽、日光、南部などで,ところが3月3日東京丸は尻屋岬沖で難破沈没し、米、塩、器具などはほとんど全部流失し、ようやく乗組員だけは,工事は亀田村一本木を基線と定め測量に着手し、遂次各所に人夫小屋などを建築した。 / 函館から森村まで
南茅部町史 下巻 (〔方言と子どもたち〕)

、泣きの一手の何人かの一年生にとって、この泣きどころを上手に聞きとってもらうまでは、教師の言葉は耳に入,十日ほどで、五十六人の一年生は全員正しく自分の名前を書くことができた。  ,讀みの指導でも、話し学習でも、その中にどのような形でどの程度発音指導をとりいれていくかということで心労,、日々の学習がどうしても展開していかないようであった。  ,尾札部方言がもっている音色盲(音痴)をどのように共通語音に矯正していくか。 / 〔方言と子どもたち〕
恵山町史 (溶岩ドームおよび溶岩流)

の大きなドームである。,北斜面は標高450メートル〜150メートル付近で開析が進んでおり、南東斜面は後述するドームに覆われている,この溶岩流の噴出が570メートルのピークをもつ溶岩ドームの噴出と同時期の産物かどうかは判断できない。,)溶岩ドーム(428メートル)  椴山は海向山の南方に位置する開析の進んだ溶岩ドームである。,しかし、実際には内側が後発の火砕流などによって埋められて標高が高くなっているだけで、外側が特に急傾であるという / 溶岩ドームおよび溶岩流
函館市史 別巻 亀田市編 (掟六か条などによる教化)

掟六か条などによる教化 箱館裁判所が布告した「掟六か条」は次のとおりである。     ,二 鰥寡弧独(カンカコドク)そのほか身体に傷害ある者は保護し、又役人不行届の事あれば罷免することもあるので,四 殺人火付け窃盗などの大罪は厳重に処置し、その他は軽重にしたがい夫役を申しつけること。   ,六 御上の沙汰でも悪しきことは改めるので申し出るべきこと。    ,以上は社会生活における倫理綱要ともいうべきものであり、また、開拓使において農民の心得などを制定して、その / 掟六か条などによる教化
函館市史 別巻 亀田市編 (体育協会などの発足)

体育協会などの発足 昭和二十四年秋、住民の体位向上を目指し、渡島管内のトップを切って発足した亀田村体育協会,小柳忠三郎  若松 勝蔵    毎年のように各種の競技大会を開催したが、三十年七月、亀田中学校グラウンドにおける,陸上競技大会に参加した団体は次のとおりである。     / 体育協会などの発足
函館市史 通説編 第一巻 (ディアナ号箱館入港)

ディアナ号箱館入港 ディアナ号 「北夷談」付図 (文化9年松田伝十郎著)  ディアナ号は9月11,16日夜ディアナ号が箱館港外に停泊した時などは、対岸一帯のかがり火の光が海波に映じてすさまじい情景であったという,リコルドの上陸に先だち、嘉兵衛が官命を帯びてディアナ号を訪問、オホーツク長官の書を受領、9月19日正午,12時、奉行所差し回しの飾船(儀礼艇)で、嘉兵衛が先導し、リコルドは陸岸に向かった。,近々とロシア人を見たいという好奇心から、嘉兵衛に頼んで引受けたものであった。 / ディアナ号箱館入港
函館市史 通説編 第二巻 (沖之口制運用の変化など)

税率の引下げなど、次のような点で緩和策がとられていた。  ,、積荷の3割ほどが、免税のような扱いとなるわけである。,大網1統に付き金3両づつを上納させ、その使用をみとめる、大網は500統ほどあるので1500両ほどがあつまり,、その金で小漁民保護のための備米を設け、凶漁などのときの救助をする、という方法であった。,番家ではほとんど増加していないことがわかる。   / 沖之口制運用の変化など
函館市史 通説編 第一巻 (森林隈界以内での生育)

森林隈界以内での生育 日本の高山植物とは、中部山岳帯の垂直分布でいうところの高山帯(森林限界以上のハイマツ,)、これに次ぐ渡島山脈の最高峰狩場山(1520メートル)にしても森林限界は1200~1300メートルであり,、シロバナハクサンチドリ、シラオイハコベ、タカネミミナグサ、タカネナデシコ、ミツバオウレン、ミヤマオダマキ,イワキンバイ、ミヤマキンパイ、オオタカネバラ、チシマザクラ、チシマゲンゲ、チシマフウロ、ミヤマタニタデ、,オオバノヨツバムグラ、クロミノウグイスカグラ、マルバキンレイカ、エゾトウヒレン   などである / 森林隈界以内での生育
恵山町史 ([学校の創設まで])

新たな教育制度は、教える者も、子どもを学ばせる親も、自らの体験もなく、模範となるべきモデルさえ求めることができない,しかし、現実の生活の中からそのために必要な経費、授業料などの経済的負担を考えると、学校の建設はその実態,」を提出するなど、慌ただしく動き出さざるをえなかった。  ,ともその年内の届け出から4ヶ月もたたないうちに開校されていることからも、認可以前に学校施設や運営方法など、, 且粗略ナルヲ免レズ   大正三年十一月            更生者 溝江留吉 識ス    どの / [学校の創設まで]
函館市史 別巻 亀田市編 (設置までの経過)

設置までの経過 鍛神小学校東山分校 昭和三〇・六・二四  開拓予算による分校設置について渡島支庁,           実地調査の結果、学校敷地は横川隼人所有農地にほぼ決定     一〇・二六  開拓農業協同組合で理事会開催,           竣工  三一年三月二六日  付属住宅 一七・五坪     一二・二一―二三  ブルドーザー,により引水七六間      五・ 一  鍛神小学校東山分校として開校式挙行 児童数二七名(四年生まで) / 設置までの経過
函館市史 銭亀沢編 (浜で働く時の女性の仕事着)

浜で働く時の女性の仕事着 女性は漁を待って浜での網引っ張りや魚類のモッコ担ぎ、昆布干し、磯草取りなどに,股引などであったが、冬は上衣にネルの襦袢、ドンジャ、チャンチャン、ハンチャ、チャンチャンコ、袖ナシ、袷,のシャツジュバンなどに、下衣は袷の股開きの股引や膝までの袷の脚絆などを組み合わせて着た。,、家事や浜仕事などでは色物や柄物が使われた。,イカ干しなどではさらに巾広のメンダレを上に掛けた。 / 浜で働く時の女性の仕事着
函館市史 通説編 第二巻 (市中での買物とバザー)

商品がないことをあえて強調したのも(「御用記写」)、右の問題と深くかかわっていたこと、などである。,しかし第三に、未だ市中商人とアメリカ人との商品売買にかかわる正式な通貨協定が行なわれていなかったこと、などである,次いで翌4月25日には、洋銀1枚=2朱金6枚との通貨比を決めた(同前、『随行記』では1ドル=銭4800,その粗暴は殆んど狂人の如し、という意味のことが記されていた(「御用記写」)。,傘類236本、剃刀279丁、砥石205丁、柳行李113、矢立89丁、雪駄下駄類82足、印籠72他、などであった / 市中での買物とバザー
函館市史 別巻 亀田市編 (小学校監督などによる指導)

小学校監督などによる指導 小学校監督は学校管理について、明治十一年六月おいたが、弊害があったため、同十二年一月函館区内,ではこれを廃止した。  ,巡回教員は伝習所教員が一か月交替で区内各校巡視、また支庁直轄各郡は三か月ごとに交番巡回して指導した。,、教員の勤務、規則、学事奨励、就学督励、試験、教員集会、学事年報、施設設備、巡回授業法、教員の任免など多,また函館県では明治十六年三月、「教育事務要領」において、教育奨励監督のため、学務課員及び小学校、師範学校 / 小学校監督などによる指導
函館市史 銭亀沢編 (ハシワタシ・ナカドとキメザケ)

きの年配者で、地域の事情に精通している人があたった。,ナカド(仲人)には、このハシワタシがそのまま務める場合と、改めてほかの人に依頼するタノマレナカド(サカヅキナカド,仲人は夫婦で務めるのが仕来たりになっているが、昭和のはじめ頃までは男二人で仲人を務めることがあり、そのときは,結婚の話し合いは一回では決まらず、ハシワタシやナカドが何回も両者の間を往復してまとめた。,何回かの交渉の結果、これでよしとなるとナカドが羽織・袴に婿の家の家印のついた提灯を下げ、一升瓶を持って / ハシワタシ・ナカドとキメザケ
戸井町史 ([石崎まで来た巡見使])

これに対して松前藩からは、案内役、接待役、運搬役、その外に熊の害に備える鉄砲隊などの藩士、人夫などをつけ,通り過ぎるまで、家々の前に土下座(どげざ)して迎えたのである。  ,諸国の商船がたくさん入港して交易するので、売女などもたくさんいて大いに繁昌している。  ,男は丈の低い者でも五尺七、八寸高い者はみな六尺以上で、口髭を左右にはやし、色は赤黒く、眼光するどく、絵,然し紅毛人などとは違い日本人の大丈夫に髭をはやさせたようなもので、異体の者には見えない。   / [石崎まで来た巡見使]
椴法華村史 (英国船ラフォルド号の沈没)

英国船ラフォルド号の沈没 大正四年十月五日、室蘭を出港した英国船ラフォルド・ホール号五千五百五十二屯,、濃霧のため恵山沖で針路を誤り十月八日大間弁天島付近に座礁、沈没、大正四年十月十日現在の生存者八十六名 / 英国船ラフォルド号の沈没
恵山町史 (1、地球規模で循環する海洋)

世界の三大洋である大西洋、インド洋、そして太平洋をつないでまるで1本のベルトコンベアに乗っているかのように,大西洋の北にあるグリーンランド沖では、氷山で冷やされて重くなった高塩分の海水が沈み、深層水が形成される,グリーンランド沖で形成された深層水が、最後に表層に戻ってくるのは北太平洋である。,海の動物が死ぬと沈降し、深層で分解されてケイ酸塩やリン酸塩などの栄養塩類となる。,最近では栄養に富んだ深層水をくみ上げて、養殖などに利用できないかとの計画も進んでいるとのことである。 / 1、地球規模で循環する海洋
南茅部町史 上巻 (尻戸廻(しどまわし)網漁)

尻戸廻(しどまわし)網漁 尻戸廻は、尻戸間差(しどまさし)ともいわれ、鰮の地曳網の操業のとき、大網から,)で肩に担(かつ)いで運んだ。,鰮釜と呼ぶ大きな釜で鰮を煮て、金胴(昔は木胴)に入れ、ジャッキで圧搾する。,胴で圧縮した円筒型の魚粕は、玉粕ともいう。晩秋から冬中、春までかけて粕干(かすほ)しをした。,合図の方法で、どこの漁場が魚群を見つけたか互いに分かる。   / 尻戸廻(しどまわし)網漁
函館市史 別巻 亀田市編 (教師心得などによる管理行政)

教師心得などによる管理行政 教師心得は明治十二年二月、函館支庁において定めたもので、教師としての態度,、在り方、生徒の教導法、教場・学校内の管理法など二十七か条にわたって詳しく述べたが、文部省からは二年おくれて,なお、函館県では明治十六年三月、「小学校職員規則」を定め、免許、任免、給与、職務心得に関することを規定,規定により、教師の在り方について詳細にわたる事項が明示されたが、当時としては、すべて遵守することが第一であった / 教師心得などによる管理行政
南茅部町史 上巻 (合併決議までの経過)

合併決議までの経過 昭和三三年一二月一五日、三村議長協議会が開かれたが、一挙に合併することは困難であることから,未合併町村に対する国の最終処理方針などに対して、道はここで結論を出す時期と判断した。  ,であれば、段階合併も止むなしとの了解を得ることができた。  ,、二六日まで延期することとなった。,理事者側は、さらに「三村合併は捨てたのではない。 / 合併決議までの経過
函館市史 別巻 亀田市編 (総務常任委員長報告どおり可決)

総務常任委員長報告どおり可決 四十八年五月十五、六日の二日間の予定で開かれた臨時第一回市議会は、合併問題,論議が進むうちで二十二日、提出されている合併反対陳情に関し、「市長はどう考えているか。」,調査事項としては学校教育の問題、公営企業などの実態(水道)、交通事業、病院経営、住民世論などである。,では亀田市が先んじた政策であること、広域的視野の行政が必要であることなどの理由によって陳情書を採択することとした,どおり可決され合併促進の陳情を採択することになった。   / 総務常任委員長報告どおり可決
函館市史 銭亀沢編 (松前藩の出先機関できる)

であった。,へ他国から直に来る船の監視、昆布採取時分より早く新昆布を商売することを停止するなど、昆布に関する規則に,この地方の土地には早くから松前藩の支配が及んでおり、昆布は古くから重要海産物であったわけである。,なお、この昆布場などの土地所有関係については一章四節に詳細に記述されている。  ,現在銭亀沢地区から東の海岸線の地域をさして「下海岸」と呼んでいるのは、この「下モ」からきたものであろう / 松前藩の出先機関できる
南茅部町史 上巻 (志海苔で古銭の大甕出土)

出土直後四散したものや欠損破片のものなどをふくめ、およそ五〇万枚が収蔵されていたものと推定された。,出土の地は函館市志海苔町二四七番地の国道で、史蹟志海苔館と約一〇〇メートルの至近の海岸通りであった。,鋳造年代は約一五〇〇年間にわたるもので、最も新しい鋳貨は、明の洪武通宝(正平二二年 一三六八)発行のものであった,志海苔の砂浜に誰が、いつ、どんな目的で、莫大な銭貨をいれた大甕を埋めたのか。,志海苔の砂浜に、ある人びとによって大量の中国銭貨が何かのために集まっていたことは、さまざまな歴史ドラマ / 志海苔で古銭の大甕出土
恵山町史 ([学校が創設されるまで])

(4)子どもも家計を助ける労働の担い手である。(5)良い教師を得る事が難しい。,などのほか、教育そのものの効果を実際に住民に示すことが困難であったことがあげられよう。,と改称される)を1876年(明治9年)函館に開設するなど、学校の設置に対して少しずつではあるが諸条件を,パリでは、生徒の衣服が意外に質素である。ロンドンも同様である。,当時は、教員免許保有者も少なく、神官、僧侶、士族など寺子屋の師匠でもあった読み書きのできるものが、教員 / [学校が創設されるまで]
函館市史 別巻 亀田市編 (緊急動議で村長不信任)

に問うべきでなかろうか。」,、あるいは「世論不明のまま合併の話し合いを進めるのは議会のあり方ではない。」,、あるいは「このままでは村政運営に支障をきたす。」,などの意見が多く、一挙に総辞職に持って行こうと協議を進めたが、一部の反対があり、まとまらないまま再開した,、まことに遺憾とするところであるが、一方的な不信任議決は納得ができないので、やむを得ず地方自治法第百七十八条 / 緊急動議で村長不信任
戸井町史 (二、就航までの経過)

二、就航までの経過 戸井・大間間のフェリーボート 昭和四四、一一、一三 大函丸試験就航    ,出迎えの地元漁船約十隻が満船飾の大漁旗を風になびかせ、五段雷の花火が打ち上げられる歓迎ムードの中を大函丸,一日四往復、往路は約一時間、帰路は潮流の関係で一時間を要しないといわれる。,本年は七月から九月までの三ヶ月間の就業であったが、昭和四七年度からは六月に就業し、九月までの四ヶ月間就航,の予定である。  / 二、就航までの経過
恵山町史 ((1)山麓の林地(火口原まで))

(1)山麓の林地(火口原まで) 標高400メートル付近までの山麓は、広葉樹林地でミズナラ、エゾイタヤ,、ノブドウ、コクワ、ミヤママタタビ、などと多種である。  ,点在していることからみて、過去に伐採など人手が入り、その後に成立してきた林地(二次的林地)であるとみることができる,この林地を過ぎる付近から火口原台地の周辺にかけて、北海道では道南に限られるサラサドウダンが多くなり、数十本,このサラサドウダンが多いことも恵山の植生特質の1つである。 / (1)山麓の林地(火口原まで)
南茅部町史 上巻 (漁民の出稼ぎで薪炭払底か)

漁民の出稼ぎで薪炭払底か 明治一四年三月三一日の函館新聞(三九五号)は、「今年の漁業雇夫の給金は非常,又此近在各村よりも同じく雇夫に出掛けるゆゑ、薪(たきぎ)や炭を当港へ売出るものが不足になり、為める薪などハ,鱈漁が不振であった年は、男達が多く鰊漁場へ出稼ぎするので、山から伐り出す薪が少なくなったほどであるという,明治二〇年代からは樺太、千島への漁業進出にともなって出稼ぎ地も北へと進んでいった。,それを支えていったのは、北海道沿岸からの出稼漁民であり、東北・北陸からの出稼農民が主流であった。   / 漁民の出稼ぎで薪炭払底か
函館市史 別巻 亀田市編 (小学生心得などによる修身教育)

小学生心得などによる修身教育 「函館県小学校則」 (明治十六年)の第二章は生徒心得であり、二十五か条,につとめる、労苦、洗顔、髪をすく、あいさつ、車馬に注意、忘れものをしない、時間を守る、落書をしないなど具体的,に基本的生活習慣について諭したものである。   / 小学生心得などによる修身教育
恵山町史 (土地資源としての土壌(どじょう))

面積160ヘクタール、ほとんど未利用地であるが、砂鉄採掘、土地造成などで地形改変を受けたところが多い。,腐植に乏しいA層の厚さは20センチメートル未満で、土壌層位の分化はほとんど進んでいない。  ,などの低地性の種類も多く含んでいる(石塚、1951)。,面積は、5,535ヘクタール、ほとんど天然林(ブナ林)からなるが、人工造林はトドマツ・カラマツ・スギなどで,面積35ヘクタール、かってほとんどが水田として利用されたが、明渠・暗渠などの排水改良が不十分で、水稲の / 土地資源としての土壌(どじょう)
函館市史 通説編 第一巻 (ディアナ号の箱館出帆)

このディアナ号来航事件は、箱館港にとっては、寛政5年ラックスマン来航以来の大きな事件であった。,に包んで懐に入れる風景も見られたということである。  ,向うでは「さなきだにもう沢山頂きましたので」と云ったが、強いて押しつけた。,リコルドもこの点につき、ゴロウニンらの釈放が決定した時の手記にも、「正直に云って、この多幸な場合において,、多くの点で与って力あったのは、大量で開けた高田屋嘉兵衛であると云わねばならない。 / ディアナ号の箱館出帆
函館市史 別巻 亀田市編 (縄文早期から室町時代までの遺物)

)にもいたが、サイベ沢は海岸に近かったので、オットセイ、アザラシなどの海獣がイワシなどの魚を追って湾内,貝塚から現在では見られない大形のハマグリ、アサリ、カガミガイなどが出土していることからこの付近は砂浜であったと,貝層から出土した日常品の針や釣針などが鹿角製であることから、エゾシカは食糧としてばかりでなく、生活用具,縄文時代前期になると大形土器で、口径と底径がさほど違わない安定した形の土器が造られるが、この時期の土器,胴部の縄文は衣服を表現したもので、割礼などの儀式に用いたものであろう。 / 縄文早期から室町時代までの遺物
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