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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 通説編 第一巻 (学術技芸の発達)

学術技芸の発達 また学術技芸に関しては、オランダ語をはじめ英語、ロシア語等いずれも必要にせまられたので、,箱館で始めて洋船を建造した父続豊治を手伝って英語の知識をもっていた福士卯之吉(のち成豊)などは、自ら英米人,にあって英語を習い、山東一郎はロシア領事館員についてロシア語を学び、あるいは栗本匏庵はフランス人宣教師メルメ・デ・カション,の刺激によって創立され、箱館形と称する洋型船舶も、続豊治の苦心によって外国帆船を見学して造られたものであり,その他産業では牛の牧養から馬鈴薯の耕作、貿易のための昆布の増産など、市民の生活の上にも大きな変化を与えている
函館市史 通説編 第一巻 (外国人による語学教育)

ところが樺太境界画定の件でロシアから代理公使が来るというので、浦太郎だけはこれに加わることができなかった,ロシア留学は幕府の財政的理由で1年2か月で文吉だけを残し、他は境界画定談判のため赴いた小出秀実一行とともに,安政6年10月、フランス領事館付書記官としてきたメルメ・デ・カションは、天主公教会の宣教師であるが、『,塩田三郎(のちの公使)や立広作も、彼からフランス語を学んでおり、4年足らずの滞箱であったが、フランス語播種,栗本匏庵も奉行の命で彼から仏語を学び、また逆にカションに日本語を教えるという交換教授を行っている。
函館市史 通説編 第二巻 (居留外国人の家作)

しかしそれを調達できずに身代限りを申し渡されているのである。,、当時の彼には想像できたであろうか。,栄七が在箱フランス人メルメ・カションと先のポーターの居宅を建造した時の見積書である。,なおカションの家は鶴岡町にあった。その他、アメリカ商人フレッチャーも家作をしている。,以上の例のように開港して間もない時期に、箱館ではすでに洋風建築を手掛けた職人たちがいたことは事実である
函館市史 通説編 第一巻 (学術上の調査)

多く、安政6年に着任したイギリス領事ホジソンは、箱館および近郊の植物を採取して、これを本国キューガーデン,至ったことは、特記すべき功績である。,フランス領事館書記メルメ・デ・カションなどはアイヌ語小辞典を編集し、またアイヌに関する論著も発表している,ところがその地方の部落民の訴えがあり、この地方はまた遊歩区域外でもあったので外交問題となり、奉行小出秀実,さきに発送した骨格は大英博物館に送られたが、本国学者の要請によったものであろうと想像される。
函館市史 通説編 第二巻 (函館におけるキリスト教の庶民布教)

あるいはどんな宗派形態で市中布教が展開されていたのであろうか。,天主公教 元 町 安政6年、フランスの宣教師メルメ・デ・カションが来函したのに始まる。,メルメの後、ムニクー、アルムブルェステルの両宣教師の布教活動を背景に函館天主堂を建設。,第一は、安政6年のメルメ・デ・カションの来函に始まった天主公教(カトリック教会)の布教が、函館の近代キリスト,教界を先導したことであり、その営みは明治6年のキリスト教解禁以前からすでに始動していたのである。
函館市史 通説編 第一巻 (ロシア病院)

幸い箱館に来ていた新島襄(同志社創設者)が、元治元年5月に目の治療で同病院に通い、その様子を『函楯紀行,而して銘々の容態書ありて、薬取の時間は午後二時より四時までなり。,、勢い筆誅の形になったものであろう。,また、『函館とカトリック』(J・P・アインシャルト著)によれば、安政6年に来た仏国宣教師メルメ・デ・カション,と栗本匏庵とを教師にする予定であった。
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