機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
年表一覧
キーワード一覧
函館市/函館市地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
年表
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 4391件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 88ページ
函館市史 通説編 第一巻
(マンモスの狩人)
マン
モ
ス
の狩人 北海道の旧石器時代遺跡の分布には、2つのブロックがあったことは、本節で前に述べた。,
す
なわち札幌低地帯と勇払原野を結ぶ線で遺跡の分布圏が二分されるが、最近縦長の石刃文化以前の時代で、ナイフ,形石器を伴う文化が十勝の上士幌町と千歳市の三角山で発見され、又、
す
でに道南では樽岸の石器群に
も
ナイフ形石器,ナイフ形石器は、日本の後期旧石器時代のうちで
も
古い時代の
も
のであり、およそ2万年前の
も
のと考えられている,8000年前に海峡ができたといわれているので、海峡ができる直前ころに人類の交流があって、当時の函館はマン
モ
ス
/ マン
モ
ス
の狩人
恵山町史
((2)マンモス象)
(2)マン
モ
ス
象 約11万年前頃から気候の寒冷化が徐々に進行し、降った雪が氷河として陸上に固定されたことから,をとおってマン
モ
ス
象で代表されるマン
モ
ス
動物群が南下してきた。 ,北海道ではこれまでに9個のマン
モ
ス
象臼歯化石が段丘堆積物中や海底から発見されている。,北海道で発見されたマン
モ
ス
象化石の年代は約6万年前から約4万年前の
も
のであったことが明らかになっている,
す
る
も
ので、大陸からマン
モ
ス
象を追ったマン
モ
ス
ハンターが南下してきたかは不明であった。 / (2)マン
モ
ス
象
函館市史 銭亀沢編
(呪術に関するもの)
呪術に関
す
る
も
の 古川べりの端から悪い風邪がはやると「数珠まわし」がはじまる。,町内をいっぱい見て歩いたあと汐泊の川から流
す
。「風邪の神さん飛んで行け。鰺ヶ沢さ飛んで行け」という。,「鰺ヶ沢に住んでいる人
も
いる
も
の、迷惑だ」と話者は笑った。,子ど
も
たちや年寄りがちょっとで
も
触れば効き目があるというので各村々で数珠まわしをやったという。 / 呪術に関
す
る
も
の
函館市史 銭亀沢編
(禁忌に関するもの)
禁忌に関
す
る
も
の 「何々してはいけない」という禁止事項をいう。,物忌みや精進
す
ることによって利益や幸福が得られる方法、不浄や穢れを避けようと
す
る手段、死や葬式に関
す
る
も
の,特に漁に対
す
る禁忌が多く、サンビ(産忌み)、シビ(死に日)などのときは、漁に出ることを遠慮して
も
らう風習,坊が生まれたとき漁師の家で「サンビ嫌う」のは、出るという意味があり、折角来た魚が出るというので嫌った
も
の,石崎では、「竜神様に祟られるので、イワシ場にいるとき、
ス
ゴ
モ
リ(巣籠り)と称して、そこの親父は三日から / 禁忌に関
す
る
も
の
函館市史 銭亀沢編
(卜占に関するもの)
卜占に関
す
る
も
の 卜占とはうらないのことで、予兆にくらべ、目的意識がはっきりしている。,身近にある材料を使って、その年の天候や豊漁不漁、作柄の出来不出来を判断
す
る。 ,天気具合
も
見た。出稼ぎ行ってるときは漁を見た」という。,新湊では、「節分の豆煎るとき
も
のしゃべるな」といって、「オヤカタが節分の豆煎る時、家内中みんな座っていて
も
のをしゃべらなかった,地曳網のとき、信心ある者を送り込んで、お稲荷さんに小豆ご飯と油揚げを上げ、「漁しかせてくれ」とお願い
す
る / 卜占に関
す
る
も
の
函館市史 銭亀沢編
(天候に関するもの)
天候に関
す
る
も
の 銭亀沢には、漁業の地域性を反映して、風・雲・波など天候に関
す
ることわざが多く見られる,天候は漁業に携わる
も
のにとって、大きな関心事であり、風の方向別に独特の呼び名がある。,人によって
も
多少違いがあるが、雲の動きを見て何時頃になれば風おりるとわかった。 / 天候に関
す
る
も
の
函館市史 銭亀沢編
(日常生活に関するもの)
日常生活に関
す
る
も
の 銭亀沢地区を含めた下海岸に住む人びとを下衆と称しよく稼ぐ者にたとえた。,子ど
も
のしつけ、教育にはどの親
も
一所懸命になる。「手かけないで目かけて」と子育ての秘訣を披瀝
す
る。,家計を考える時「泣く子
も
鍋の中見てから泣け」と諭
す
こと
も
ある。 ,「嫁さん一人
も
らえば芋一俵多くいる」といい、嫁の立場から
す
ると「カラ
ス
の鳴かない日あって
も
、嫁の泣かない,生業に関係
す
る言葉になぞらえて表現
す
るところがお
も
しろい。 / 日常生活に関
す
る
も
の
函館市史 別巻 亀田市編
(マンモス小学校の代表)
マン
モ
ス
小学校の代表 昭和小学校 マン
モ
ス
小学校の代表的な学校として、亀田市の象徴的存在となった,ただこの巨大な学校が、児童、教師、父母の三者一体となって醸し出した教育効果には驚嘆
す
べきことが多い。,マン
モ
ス
学校の欠点を大きく取り上げることが常識化されているが、昭和小学校の現況は、むしろ大きな力を誇っているかのような,しかし、それは苦しい理事者の立場を援護
す
るためで
も
なく、また、昭和小学校の大きな努力におんぶしようというわけで
も
ない,マン
モ
ス
化した昭和小学校の増築を認めようとしない北海道教育委員会と文部省に対し、関係各位の熱烈な努力によって / マン
モ
ス
小学校の代表
函館市史 通説編 第一巻
(エドワード・S・モース)
エドワード・S・
モ
ー
ス
エドワード・シュベ
ス
ター・
モ
ー
ス
は、函館に来遊
す
る前年の明治10年に東京の大森貝塚,人の研究を読み比べると、ミルンは大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して、
モ
ー
ス
,はアイヌ人はエ
ス
キ
モ
ー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、大森貝塚人のように土器を作った人種,をアイヌ民族以前の
も
のであると考えた。 / エドワード・S・
モ
ー
ス
函館市史 銭亀沢編
(予兆・前兆に関するもの)
予兆・前兆に関
す
る
も
の 動物の動作や鳴き声、草木の変異、自然現象の変化などから将来のできごとを予兆
す
る
も
の,、卜占めく
も
の、禁忌から呪術といった
も
のまでに及んでいる。,普通であるが、ことわざ・俗信は思いのほか世間では信じられ、根深い
も
のを
も
っている。,その土地の風土が住む人びとの思考・行動様式に影響を及ぼ
す
も
のと考えられる。 ,
す
る。 / 予兆・前兆に関
す
る
も
の
函館市史 銭亀沢編
(初もうで)
初
も
うで 除夜の鐘が鳴り終わり、新しい年を迎えると氏神様へその年の幸福を祈願
す
るため、「初
も
うで」に,お神酒や一重ねの供え餅を供えて参拝
す
る人
も
いる。 ,これは声を出
す
と「福が逃げる」と信じてみんなが守っていたからといわれる。 ,稲荷神社は漁業の神として信仰を集め、参拝
す
る人
も
多い。 ,元旦の朝に供えた油揚げをとり下げて、そのよう
す
をみて、その年の漁の豊凶を判断したという。 / 初
も
うで
函館市史 銭亀沢編
(ウガノモクは宇賀の「たつも」)
銭亀沢にはウガノ
モ
ク、フシ
ス
ジ
モ
クなど、長さ数メートル以上に達
す
る大型ホンダワラ類が分布している。,ウガノ
モ
クは枝の上部末端にできる気泡が三から六個連続した念珠状となっているが、フシ
ス
ジ
モ
クの気泡はほぼ,そのため「たつ
も
」の発生が多い年には、冬から春のウニ漁、夏のコンブ漁の直前に、「たつ
も
刈り」と称
す
るホンダワラ,しかしながら、ホンダワラ類は葉体を取り除いて
も
盤状の根が岩盤に残り、完全に除去
す
ることは難しい。,ウガノ
モ
クのウガは「宇賀」、つまり函館から東の汐首岬までの海岸を指
す
ようで、学名の『ロメンタリア ハコダテンシ
ス
/ ウガノ
モ
クは宇賀の「たつ
も
」
函館市史 通説編 第一巻
(コウモリ類)
コウ
モ
リ類 函館山海岸線の洞窟(くつ)、港付近の倉庫街などには若干種のコウ
モ
リが生息している。,最近は量的に減少している模様であるが、種名、生態に関
す
る精確な調査記録がない。 / コウ
モ
リ類
函館市史 別巻 亀田市編
(地域子ども会)
地域子ど
も
会 社会事情の安定に伴って子ど
も
の幸せを願い、有為の社会人に育つことを望む要請にこたえて、,地域的な子ど
も
の集りが、いわゆる子ど
も
会の結成となり、地域における社会行事への参加を通して、その育成が,当町で
も
これら団体の善良なる成長を念願し、活動を高めるための助成として、昭和三十七年度から補助金を交付,
す
る必要から、三十八年七月二十四日、各単位団体代表者会議によって、「亀田町地域子ど
も
会連合会」の結成をみた,その後単位団体数
も
四〇を越
す
連合会に成長しているが、町はこれが育成のために、毎年度補助金の交付を行って / 地域子ど
も
会
戸井町史
(三、子ども会と子ども愛護(育成)会)
キャンプ、たこ上げ大会、他町村子ど
も
会との交歓会、クリ
ス
マ
ス
楽しみ会等の行事を実施し、これが昭和四十一年,野球、ソフトボール、バトミントン、卓球、相撲、水泳、
ス
キー、
ス
ケート、ボウリング、サイクリング、ラジオ,体操、キャンプ、炊事遠足、写生会、フェリーボートによる遊覧、バ
ス
による見学、発典行事への参加、盆おどり,、交通教室、クリ
ス
マ
ス
のたのしみ会、かるた会、雪まつり、書初め、節分の豆まき、映画会、新会員を迎える会,結成当初は各地域と
も
年度始めに、盛り沢山の行事の
ス
ケジュールを決め、その消化に苦労したが、経験を積み重 / 三、子ど
も
会と子ど
も
愛護(育成)会
函館市史 銭亀沢編
(子どもを守る会)
当時、中学校に教頭として赴任してきた鈴木先生が中心になって、このような状況を改善
す
べく会の結成を父母に,この会は、銭亀沢地区を構成
す
る八つの町から構成される「銭亀沢地区子ど
も
を守る会連絡協議会」である。,石崎には、七つの分団、
す
なわち崎分団、石崎分団、中村分団、白石分団、目名町分団、谷地分団および鶴野分団,
ス
ポーツ大会としてドッジボール、野球、ソフトボール、ハイキング、夏の早起きラジオ体操、八幡神社の祭典の,また子ど
も
たちの関心が変化してきたこと、塾に通う生徒が増加し、日曜の行事に参加
す
る学生数が減少したこと / 子ど
も
を守る会
函館市史 銭亀沢編
(生育と子どもの衣服)
明治、大正、昭和を通じて使われたネンネコ
も
、昭和三十五、六年頃にママコートが流行りだ
す
としだいに使われなくなっていった,これを
ス
ミ
ス
カッパといった。 ,や
モ
ンベ、ズボンなどを履いた
ス
カートの下は足首から下のない毛糸の靴下を履き、毛糸のソック
ス
を履きかえる,寒い時はこれらの上から綿入れ袖ナシやチャンチャンコなどを重ね着
す
ること
も
あった。,女の子は花柄のメリン
ス
地で作った袂(た
も
と)袖の着物や襲、羽織にエンジの袴をはきエンジのキヌテンや別珍 / 生育と子ど
も
の衣服
函館市史 通説編 第二巻
(町と町に準ずるもの)
町と町に準ずる
も
の 幕末期には箱館市街の町名として沢山の町名が登場
す
るが、箱館奉行が所管したと思われる,)にはその存在が確認できる弁天町、大町、内澗町、仲町、神明町、大黒町、山ノ上町、地蔵町の8町と、その
す
ぐ,なお、この11町を基礎と
す
る最後の統計と思われる
も
のが、明治5年の開拓使の記録中に「函館并近在六箇場所共人口戸数租税調大略,函館市中の最
も
北東に位置
す
る海岸町、富沢町、大縄町の3町で、うち海岸町は明治6年3月に「亀田郡亀田村地内海岸町,他の2町
も
編入を確認できる文書は発見できなかったが、両町と
も
海岸町の横に並列
す
る町で、明治9年の調査で
も
/ 町と町に準ずる
も
の
南茅部町史 下巻
(〔方言と子どもたち〕)
かあさん・えね」「え(家)さ・え(行)ぐ」「くつ・ね(ない)」はてはランドセルに本が入らないと泣きだ
す
も
の,とかく一年生は頼りなく、転びや
す
く、泣きや
す
い。,だから尾札部方言の中で育った子にとって、
も
し「かなちがい」をしないように表記
す
るには、電信がな讀みに「,から
す
」の「
す
」は「
す
ずめの
す
」式に覚えるか、結んだ「
す
」と覚えていかなければならないという笑話に
も
なる,方言の
も
つ語彙・表現上の重要性以上に、五十音を正しく読み書き
す
る基本的な力だけはどうして
も
身につけて
も
らわなくては / 〔方言と子ど
も
たち〕
函館市史 銭亀沢編
(すす払い)
す
す
払い 十二月二十五日頃から始められるが、二十七日・二十八日頃に
す
す
払いを
す
る家が多い。,腐らないごみは、以前は海へ流したこと
も
あったが、最近は環境保護の面から
も
海への投棄を自粛している。,お神酒を供え、仏壇には水・花を供え灯明をと
も
し、お参り
す
る。 ,昭和三十年代から家庭電化製品が普及し始め、どの家で
も
電気掃除機を使用
す
るようになった。,電化が進んで大がかりな
す
す
払いはなくなったが、年末の
す
す
払いだけは、日常の掃除より
も
心をこめて丁寧にして /
す
す
払い
函館市史 別巻 亀田市編
(交通・通信のメモ)
交通・通信のメ
モ
終戦後十年を経た昭和二十九年における亀田村の交通・通信の状況を四月一日現在の調査によってみると,自転車保持数 一二人に一台の割 ・自動車所有数 四四二人に一台の割 ・ポ
ス
ト / 交通・通信のメ
モ
南茅部町史 下巻
(ジャガタラ薯(いも))
ジャガタラ薯(い
も
) 郷土の作付は古くから大豆、小豆、蕎麥、野菜などを主としていた。 ,明治一六年、篠田順が臼尻村戸長に就任して、これまで当地方にほとんどなかった馬鈴薯(ジャガタライ
モ
)をとりよせた,各自は収穫のうえ借りた量を返済
す
ることを条件として奨励したので、二、三年にして篠田のジャガタラ薯を作付,
す
る家が倍増した。,以後、五升芋は
す
たれ、ジャガタラ薯が普及した。 / ジャガタラ薯(い
も
)
恵山町史
([尻岸内村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)])
[尻岸内村壬申戸籍簿(現存
す
る最
も
古い戸籍簿より)] 尻岸内村壬申戸籍簿 <尻岸内> (参考資料) / [尻岸内村壬申戸籍簿(現存
す
る最
も
古い戸籍簿より)]
南茅部町史 上巻
(村の重立(おもだち))
村の重立(お
も
だち) 明治のご一新によって、新しい政策が次つぎにだされた。,なかで
も
、多くの文盲の漁民にとって、時代の変化を告げるお達し文は、その都度さまざまな戸惑いとなったのは,このような急激な時代の変動期に、村の指導者の言動、物事の判断が、村の将来を大きく左右
す
ることになる。,二五〇年の泰平の世を変えて進む時代の変わり目の動きは、寸時
も
止まることがないほどの速さで動いた。 / 村の重立(お
も
だち)
函館市史 通説編 第二巻
(街区改正がもたらした諸相)
また街区の十字形は、坂道の直線化を生み山の手地区から海岸地区まで
も
一直線に連続
す
ることを可能にした。,また、明治12年の大火後では貸付金を受けないで建築
す
る家屋
も
あり、煉瓦造6棟、土蔵造25棟、塗家6棟、,このために居留外国人ブラキ
ス
トンの家屋
も
買上られており、その他埋立など
も
して船場町は倉庫地として整備されることになった,また、通りを中心と
す
る横の往来に対し坂道による縦の往来
も
増えることになり、商人らの職住分離を誘引したこと
も
,寺社空間は市街地の中心より排除された形で移転
す
ることにより、広い都市空間を提供
す
ることになった。 / 街区改正が
も
たらした諸相
椴法華村史
(函館バスと相互バス)
その後更に昭和三十年七月には、無期限
ス
トライキに突入し、こんどは以前より
も
更に多く五十一日間
も
続けられ,この間、七月十一日から函館バ
ス
労働組合によって自主運行が少し実施されたが、これ
も
会社側と組合側との対立,地労委の斡旋を受け入れ実力行使は終結されたが、この間に地域住民の受けた直接的・間接的被害は計り知れぬ
も
のがあり,の両者と会談を
も
ち、一日
も
早い解決と何らかの対策を求めたが成功せず、やむなく住民の足を確保
す
べく、関係町村,その後両社により、サービ
ス
合戦がくりひろげられ、両社を合わせた便数
も
増加したため住民にとっては便利になったが / 函館バ
ス
と相互バ
ス
函館市史 通説編 第一巻
(トーマス・W・ブラキストン)
トーマ
ス
・W・ブラキ
ス
トン ブラキ
ス
トン採集の石斧(市立函館博物館蔵) 函館には文久3(1863,ミルンや
モ
ー
ス
が函館で貝塚の発掘ができたの
も
、後記
す
るようにヒッチコックが函館で収集品を見ることができたの
も
,、ブラキ
ス
トンの案内とアドバイ
ス
があったからで、彼自身アイヌ民族や貝塚、竪穴住居址について
も
博識であった,彼が谷地頭で発掘した大形の磨製石斧はミルンの報告書に掲載されているが、今日で
も
珍しい石斧で、開拓使函館支庁仮博物場,の時に寄贈され、現在
も
市立函館博物館に秘蔵されている。 / トーマ
ス
・W・ブラキ
ス
トン
函館市史 銭亀沢編
(〈テグス〉)
〈テグ
ス
〉 イカハリを取り付けるテグ
ス
は加賀の商人が加工して持って来た。,一本テグ
ス
は高価な
も
ので米が一升、一二、三銭の頃に二〇銭
も
したため、細いテグ
ス
を三本撚りあわせた三本テグ
ス
,また、麻糸を柿渋で染めて固くしたハリヤメや釣り糸
も
用いられた。,ナイロンテグ
ス
が普及してから、トンボに付けるハリの数が増え、六尺のテグ
ス
の間に五本のハリを付けた。,この時には、下のハリを大きなハリにしオ
モ
リがわりとした。 / 〈テグ
ス
〉
恵山町史
(銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー)
前者は、基盤岩類並びにその中に貫入
す
るデイサイト(石英安山岩)を母岩と
す
る
も
のが多く、後者は、古武井層並,
す
なわち、
ス
カルン期から高熱温水期にかけた珪酸塩鉱物および鉱石鉱物の形成は、非常に小規模の
も
のであり、,NW−SE系の
も
のは、N30度〜80度W・60度〜80度SWの走向・傾斜を示し、石英と黄鉄鉱を主体と
す
る
も
ので,ゼオライトには、つねにα−クリ
ス
トバル石が共生しているが、尻岸内川下流の
も
のは、
モ
ルデンフッ石を主成分鉱物,指導を担当
す
る家庭園芸士の野呂健氏は、温泉熱栽培でツツジの成長が促進され、温度調節によって開花時期をずら
す
こと
も
できる / 銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチ
モ
ニー
函館市史 通説編 第一巻
(エゾリス)
エゾリ
ス
欧亜に広く分布しているリ
ス
(ユーラシアリ
ス
)の2亜種が日本に分布し、本州にはホンドリ
ス
、北海道,にはエゾリ
ス
が生息している。,当地域の
も
エゾリ
ス
で、亀田山脈の森林地帯に住んでいる。,樹洞に営巣し、年2回出産、行動
す
るのは主に昼間で、冬眠はしない。 / エゾリ
ス
函館市史 通説編 第二巻
(ボストン氷)
ボ
ス
トン氷 開港後、ま
も
なくわが国に氷が輸入されはじめた。,利用
す
る場合
も
あった。 ,ところで、この氷は主にアメリカのボ
ス
トン周辺の天然産の
も
のが輸入されていたが、ボ
ス
トンから横浜までの長時間,特にヘボン、シ
モ
ンズから衛生や食品に関
す
る話を聞くなかで氷がこれから新たな需要を産みだ
す
ことを知った(,ところで結社組織には後述
す
るように岸田吟香
も
含まれていた。 / ボ
ス
トン氷
函館市史 通説編 第一巻
(キリスト教)
キリ
ス
ト教 徳川幕府の徹底的な切支丹弾圧は、アンジェル
ス
、カルバリオ(と
も
にイエズ
ス
会宣教師)らの蝦夷地布教,
も
ちろんこれらは日本人に対
す
る直接的布教ではないが、同教の再入の先駆と言い得る。,これらの神父が文化面で
も
非常に活躍していることは
す
でに「教育」「学芸」「衛生」の項に詳述した通りである,キリ
ス
ト教禁止の当時に、宣教師の入国は重大問題であったが、条約で各国居留人だけを対象に
す
るという条件の
も
とに,文久元(1861)年には、イワン・マホフの後任としてニコライが来たが、その活躍
も
また著しく、異教に激怒 / キリ
ス
ト教
南茅部町史 上巻
([むすび])
南茅部町の鳥であるオオルリ
も
各所にみられ、雄のきれいな姿とさえずりがきこえている。,オオルリとと
も
に美声のウグイ
ス
、これらの小鳥に託卵
す
るホトトギ
ス
科のツツドリや北海道では数少ないジュウイチ,
も
夏鳥として渡来している。 ,海岸線は外洋に面しているために沿岸性の鳥と外洋性の鳥がみられており、陸鳥とと
も
に渡りの重要なコー
ス
となっている,南茅部町の豊かな自然がいつまで
も
続くことを念願したい。 / [む
す
び]
南茅部町史 上巻
([むすび])
[む
す
び] 当町管内の全般的な植生の特質として、まず第一に、植物景観の四季の変化が明瞭な温帯的要素である,夏緑広葉樹林帯(ブナ帯)の北部に位置
す
ることがあげられる。,少なかれ道南全域に共通
す
ることではあるが、当地域は日本海側(江差方面)に比し、本州要素がややう
す
く、反面,したがって種の数
も
多く、現在までに記録された
も
のは一三八科、四一二属、七八三種、二八変種、二四品種におよんでいる,しかし、この数は
も
とより固定的な
も
のではない。 / [む
す
び]
函館市史 通説編 第一巻
(エゾシマリス)
エゾシマリ
ス
カムチャツカ、樺太、アムールなど東シベリアに広く分布
す
るシマリ
ス
の1亜種で、エゾリ
ス
同様,冬期は休眠
す
るが、しばしば目を覚して食物をとり排出を行い、再び休眠
す
るといった生活を春まで繰り返
す
。,最近、谷地頭町近くの函館山山麓の雑木林で数頭のシマリ
ス
を見かけるが、飼育中の逃亡か、故意に放たれた
も
のかであって,また、愛玩(がん)用として広く飼育されているチョウセンシマリ
ス
かエゾシマリ
ス
かの分明
も
さだかでない。,なお、道内の森林地帯に生息しているエゾ
モ
モ
ンガは、前後肢(し)間の飛膜によって滑空
す
るが、当地域での分布 / エゾシマリ
ス
恵山町史
((1) 日本を大回遊するスルメイカ)
いずれの群
も
北海道近海には産卵所がなく、北海道に来遊
す
るのは主に索餌のためである。 ,8月に最
も
分布を北側海域に広げ、日本海側では沿海州、サハリン西岸に達
す
る。,また太平洋では道東から千島列島南部の海域に広がり、その一部はオホーツク海に
も
入る。,8月ころは利尻・礼文島を越え、
モ
ネロン島付近に達
す
る。8から9月には南下回遊を始める。 ,、その範囲
も
狭いことなどが明らかになった。 / (1) 日本を大回遊
す
る
ス
ルメイカ
函館市史 通説編 第一巻
(サービス業)
サービ
ス
業 昭和50年の国勢調査では、第3次産業の中で、卸小売業に次いで就業者の多いのがサービ
ス
業であり,昭和40年と比較
す
ると、就業者数では6,516人、構成比で3.2%の増加を示した。,これは、レジャー産業、観光産業の伸びによる
も
ので、全国的には中規模都市以上の都市に見られる共通した傾向 / サービ
ス
業
南茅部町史 上巻
(注目すべき種類)
この
ス
ガ
モ
の上にびっしり着生している緑色で葉状の海藻が
モ
ツキヒトエである。,マコンブは枝分かれ
す
ること
も
なく、海藻の中では単純な形態を示
す
も
のの一つである。,イ、フシ
ス
ジ
モ
ク 体長は数メートルに達
す
る。,
す
なわち、節を持つ
も
のを有節サンゴ
モ
、これを持たない
も
のを無節サンゴ
モ
と呼ぶ。 ,
ス
ガ
モ
は藻場を造る重要種で、地方によっては増や
す
ための施策をこうじている。 / 注目
す
べき種類
函館市史 別巻 亀田市編
(農業センサス)
昭和四十年二月一日現在で調査した農業センサ
ス
の結果がまとまったが、この農業センサ
ス
は五年に一度農林省が,全国いっせいに実施
す
る農業の国勢調査と
も
いえる
も
ので、農家数、農家人口、土地、農業機械、農業雇用労働、,畜産、農産物販売など農業に関しての調査を
す
る
も
のである。 ,提出したが、以下その結果表から亀田町の農業の概要をみることと
す
る。,に減ってきており、昭和四十二年度
も
ま
す
ま
す
都市化の傾向にあることがわかる。 / 農業センサ
ス
函館市史 通説編 第二巻
(フランスの思惑)
人とと
も
にロシア人捕虜の上陸
も
許可されているが(「佛船碇泊日記」)、この間のフラン
ス
人とロシア人の箱館,フラン
ス
軍艦側がフラン
ス
とロシアのこうした対日関係の相違、具体的にはロシア人の場合は、たとえ捕虜で
も
必要物品,の幕吏に対し、新たな情勢を提供
す
るとと
も
に、大砲の鋳造方法や西洋型帆の作製方法等を積極的に伝授していることである,養生を許可したことに対
す
る謝意の表示であったことは確かとして
も
、コン
ス
タンチーヌ号の「船将」が竹内に対,」)と述べていることを
も
考慮
す
れば、そこには条約締結への途を
も
強く意識した極めて政治的性格の強い対応策 / フラン
ス
の思惑
南茅部町史 下巻
(〔知能テスト〕)
低学年の(集団(グループ))知能テ
ス
トで「大人の立っている人の絵を描きなさい」というテ
ス
トがあった。,教師は、このテ
ス
トのとりくみに、テ
ス
トの設問にあたって「余分な説明を加えずに正しく伝えること」ということに,この知能テ
ス
トは採点不能となり、集団テ
ス
トとしては見事失敗した。,言語教育の中で、
も
っと
も
大事なことは、言葉づかいや発音より
も
、そして語彙表現の豊富さより
も
、言い方が大事,どんなにつたないいい方で
も
、相手を尊重し、あたたかい話し方であれば相手に真意が伝わる
も
のである。 / 〔知能テ
ス
ト〕
函館市史 通説編 第二巻
(イギリス領事館)
そして以後その他の国
も
、領事館などを建設
す
る場合、この方式を踏襲
す
るよう指示されたのである。,箱館では文久元年にこれをうけて、商人の請負希望
も
なかったので、奉行が「御入用」を以て建設
す
ることが決まった,たとえば、窓にはガラ
ス
を使用したようだが、数種類の大きさの
も
のが計566枚と損傷見込分として115枚を,石灰の作り方
も
「石灰を要とさるる丈塗油を以て交せ堅くなる迄よく搗交るべし」とイギリ
ス
の領事館員から教えられている,また、修理の際にはロシアカッヘル(
ス
トーブ)を6基据えること
も
命じた。 / イギリ
ス
領事館
函館市史 別巻 亀田市編
(馬に関する税)
馬に関
す
る税 馬持ちの者は馬役銭といわれる税を徴収されていた。,このほかに馬に関
す
る
も
のとして『北海道総合経済史』によれば、安政三年皮革入用のため、死馬が生じた時は皮,をはぎ提出
す
るように布達し、箱館物産掛でこれを買上げており、その後、取集め方は亀田村三六なる者にまかせ,、一枚につき銭一貫文より六〇〇文の割合を
も
って代銭を交付
す
ることにしたという。 / 馬に関
す
る税
恵山町史
(函館バスの躍進)
函館バ
ス
の躍進 下海岸唯一の定期バ
ス
函館乗合自動車
も
、終戦の年の車輌52台、翌年には43台に減り、それ
も
,辛うじて動くといった程度の
も
の、悪路
も
手伝い降雪や雨による運行中止は度々といった状態であったが、23年以降,、毎年増資を行い、昭和26年7月には『函館バ
ス
株式会社』に社名変更、資本金1,200万円(昭和19年、,の拡張・新車輌の購入・サービ
ス
向上に努め急成長をしつつあった。 ,以下に函館バ
ス
株式会社の成長の推移を示
す
。 / 函館バ
ス
の躍進
函館市史 通説編 第二巻
(ステベの草創期)
に専属
す
る
ス
テベの存在
も
、勿論忘れるべきではない。,日本郵船自体が、海産物を扱うので、その専属
ス
テベ
も
また海産物を扱うが、三菱-郵船(社船と称
す
る)外の、,中小不定期船に専属あるいは半専属の
ス
テベ
も
、明治20年代以降、出現
す
る。,明治20年に始まる営業倉庫の出現
も
また
ス
テベ「草創期」を形成
す
る要因であろう。,を兼営
す
ること
も
、あったのではないだろうか。 /
ス
テベの草創期
戸井町史
([参考文献(歴史関係のもののみを掲げた)])
[参考文献(歴史関係の
も
ののみを掲げた)] 三、参考文献(歴史関係の
も
ののみを掲げた)(1),、明治以前の
も
のは、戸井町や近隣町村のことに多く触れている主な文献を抽出してここに掲げた。,これらは北海道史や道南史を調べる学者、研究者が一応参考に
す
る文献である。 ,、参考に
す
ることを極力避けた。,『戸井町史』は一般的な文献を重視しなかった「土臭(つちくさ)い、磯(いそ)の香(か)の
す
る戸井の記録」 / [参考文献(歴史関係の
も
ののみを掲げた)]
函館市史 通説編 第二巻
([3 もう一つの学校教育“慈善教育”])
[3
も
う一つの学校教育“慈善教育”] これまでは政府の方針に基づいた初等教育が、函館ではどのように,したあるいは力を注ぐ余裕がなかった分野について、有志や宗教団体の経営による慈善教育ということで見ていくことに
す
る / [3
も
う一つの学校教育“慈善教育”]
南茅部町史 上巻
(旋網(せんもう「巻網(まきあみ)」))
旋網(せん
も
う「巻網(まきあみ)」) 広辞苑『機動性のある漁船で、イワシ・アジ・サバ・カツオ・マグロ,などの魚群を取り巻いて魚網を敏速に張り漁獲
す
る漁法。 / 旋網(せん
も
う「巻網(まきあみ)」)
恵山町史
(不採算バス路線に対する町村補助金)
不採算バ
ス
路線に対
す
る町村補助金 自家用車の時代といって
も
、免許・自家用車を持たない人、高齢者や通院,・通学等、路線バ
ス
は欠くことのできない存在である。,そのため、昭和47年(1972)9月から、赤字ローカル路線では乗客数に照らし町村として
も
応分の負担をしている / 不採算バ
ス
路線に対
す
る町村補助金
函館市史 銭亀沢編
(ス(巣)アガリ)
ス
(巣)アガリ 座産の頃は出産の後「足を伸ば
す
と乳が出なくなる」「横になると悪い血が降りなくなる」といわれて,俵は米俵より小さめの
も
ので隣近所や知人などと互いに貸し借りをしていた。,従ってその苦労は大変な
も
ので、
ス
アガリのときは足がしびれて両側から支えて
も
らってようやく立つことができたという,お産に必要な
も
のを入れておく箱(松田トシ蔵) 大方は一週間で
ス
アガリをして布団に休んだ。,なかには一〇日ほどで水仕事をしたサント
も
いたという。 /
ス
(巣)アガリ
/ 88ページ