• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧

函館市/函館市地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 4391件
辞書ファセット
/ 88ページ
函館市史 通説編 第一巻 (マンモスの狩人)

マンモスの狩人 北海道の旧石器時代遺跡の分布には、2つのブロックがあったことは、本節で前に述べた。,すなわち札幌低地帯と勇払原野を結ぶ線で遺跡の分布圏が二分されるが、最近縦長の石刃文化以前の時代で、ナイフ,形石器を伴う文化が十勝の上士幌町と千歳市の三角山で発見され、又、すでに道南では樽岸の石器群にもナイフ形石器,ナイフ形石器は、日本の後期旧石器時代のうちでも古い時代のものであり、およそ2万年前のものと考えられている,8000年前に海峡ができたといわれているので、海峡ができる直前ころに人類の交流があって、当時の函館はマンモス / マンモスの狩人
恵山町史 ((2)マンモス象)

(2)マンモス象 約11万年前頃から気候の寒冷化が徐々に進行し、降った雪が氷河として陸上に固定されたことから,をとおってマンモス象で代表されるマンモス動物群が南下してきた。  ,北海道ではこれまでに9個のマンモス象臼歯化石が段丘堆積物中や海底から発見されている。,北海道で発見されたマンモス象化石の年代は約6万年前から約4万年前のものであったことが明らかになっている,するもので、大陸からマンモス象を追ったマンモスハンターが南下してきたかは不明であった。 / (2)マンモス象
函館市史 銭亀沢編 (禁忌に関するもの)

禁忌に関するもの 「何々してはいけない」という禁止事項をいう。,物忌みや精進することによって利益や幸福が得られる方法、不浄や穢れを避けようとする手段、死や葬式に関するもの,特に漁に対する禁忌が多く、サンビ(産忌み)、シビ(死に日)などのときは、漁に出ることを遠慮してもらう風習,坊が生まれたとき漁師の家で「サンビ嫌う」のは、出るという意味があり、折角来た魚が出るというので嫌ったもの,石崎では、「竜神様に祟られるので、イワシ場にいるとき、スゴモリ(巣籠り)と称して、そこの親父は三日から / 禁忌に関するもの
函館市史 銭亀沢編 (呪術に関するもの)

呪術に関するもの 古川べりの端から悪い風邪がはやると「数珠まわし」がはじまる。,町内をいっぱい見て歩いたあと汐泊の川から流す。「風邪の神さん飛んで行け。鰺ヶ沢さ飛んで行け」という。,「鰺ヶ沢に住んでいる人もいるもの、迷惑だ」と話者は笑った。,子どもたちや年寄りがちょっとでも触れば効き目があるというので各村々で数珠まわしをやったという。 / 呪術に関するもの
函館市史 銭亀沢編 (卜占に関するもの)

卜占に関するもの 卜占とはうらないのことで、予兆にくらべ、目的意識がはっきりしている。,身近にある材料を使って、その年の天候や豊漁不漁、作柄の出来不出来を判断する。  ,天気具合も見た。出稼ぎ行ってるときは漁を見た」という。,新湊では、「節分の豆煎るときものしゃべるな」といって、「オヤカタが節分の豆煎る時、家内中みんな座っていてものをしゃべらなかった,地曳網のとき、信心ある者を送り込んで、お稲荷さんに小豆ご飯と油揚げを上げ、「漁しかせてくれ」とお願いする / 卜占に関するもの
函館市史 銭亀沢編 (天候に関するもの)

天候に関するもの 銭亀沢には、漁業の地域性を反映して、風・雲・波など天候に関することわざが多く見られる,天候は漁業に携わるものにとって、大きな関心事であり、風の方向別に独特の呼び名がある。,人によっても多少違いがあるが、雲の動きを見て何時頃になれば風おりるとわかった。 / 天候に関するもの
函館市史 銭亀沢編 (日常生活に関するもの)

日常生活に関するもの 銭亀沢地区を含めた下海岸に住む人びとを下衆と称しよく稼ぐ者にたとえた。,子どものしつけ、教育にはどの親も一所懸命になる。「手かけないで目かけて」と子育ての秘訣を披瀝する。,家計を考える時「泣く子も鍋の中見てから泣け」と諭すこともある。  ,「嫁さん一人もらえば芋一俵多くいる」といい、嫁の立場からすると「カラスの鳴かない日あっても、嫁の泣かない,生業に関係する言葉になぞらえて表現するところがおもしろい。 / 日常生活に関するもの
函館市史 別巻 亀田市編 (マンモス小学校の代表)

マンモス小学校の代表 昭和小学校  マンモス小学校の代表的な学校として、亀田市の象徴的存在となった,ただこの巨大な学校が、児童、教師、父母の三者一体となって醸し出した教育効果には驚嘆すべきことが多い。,マンモス学校の欠点を大きく取り上げることが常識化されているが、昭和小学校の現況は、むしろ大きな力を誇っているかのような,しかし、それは苦しい理事者の立場を援護するためでもなく、また、昭和小学校の大きな努力におんぶしようというわけでもない,マンモス化した昭和小学校の増築を認めようとしない北海道教育委員会と文部省に対し、関係各位の熱烈な努力によって / マンモス小学校の代表
函館市史 通説編 第一巻 (エドワード・S・モース)

エドワード・S・モース エドワード・シュベスター・モースは、函館に来遊する前年の明治10年に東京の大森貝塚,人の研究を読み比べると、ミルンは大森貝塚をアイヌ民族が北海道に来る前に残した貝塚と考えたのに対して、モース,はアイヌ人はエスキモー人やアリュート人と同じく土器を作らない人種で、大森貝塚人のように土器を作った人種,をアイヌ民族以前のものであると考えた。 / エドワード・S・モース
函館市史 銭亀沢編 (予兆・前兆に関するもの)

予兆・前兆に関するもの 動物の動作や鳴き声、草木の変異、自然現象の変化などから将来のできごとを予兆するもの,、卜占めくもの、禁忌から呪術といったものまでに及んでいる。,普通であるが、ことわざ・俗信は思いのほか世間では信じられ、根深いものをもっている。,その土地の風土が住む人びとの思考・行動様式に影響を及ぼすものと考えられる。  ,する。 / 予兆・前兆に関するもの
函館市史 銭亀沢編 (初もうで)

初もうで 除夜の鐘が鳴り終わり、新しい年を迎えると氏神様へその年の幸福を祈願するため、「初もうで」に,お神酒や一重ねの供え餅を供えて参拝する人もいる。  ,これは声を出すと「福が逃げる」と信じてみんなが守っていたからといわれる。  ,稲荷神社は漁業の神として信仰を集め、参拝する人も多い。  ,元旦の朝に供えた油揚げをとり下げて、そのようすをみて、その年の漁の豊凶を判断したという。 / 初もうで
函館市史 銭亀沢編 (ウガノモクは宇賀の「たつも」)

銭亀沢にはウガノモク、フシスジモクなど、長さ数メートル以上に達する大型ホンダワラ類が分布している。,ウガノモクは枝の上部末端にできる気泡が三から六個連続した念珠状となっているが、フシスジモクの気泡はほぼ,そのため「たつも」の発生が多い年には、冬から春のウニ漁、夏のコンブ漁の直前に、「たつも刈り」と称するホンダワラ,しかしながら、ホンダワラ類は葉体を取り除いても盤状の根が岩盤に残り、完全に除去することは難しい。,ウガノモクのウガは「宇賀」、つまり函館から東の汐首岬までの海岸を指すようで、学名の『ロメンタリア ハコダテンシス / ウガノモクは宇賀の「たつも」
函館市史 通説編 第一巻 (コウモリ類)

コウモリ類 函館山海岸線の洞窟(くつ)、港付近の倉庫街などには若干種のコウモリが生息している。,最近は量的に減少している模様であるが、種名、生態に関する精確な調査記録がない。 / コウモリ類
函館市史 別巻 亀田市編 (地域子ども会)

地域子ども会 社会事情の安定に伴って子どもの幸せを願い、有為の社会人に育つことを望む要請にこたえて、,地域的な子どもの集りが、いわゆる子ども会の結成となり、地域における社会行事への参加を通して、その育成が,当町でもこれら団体の善良なる成長を念願し、活動を高めるための助成として、昭和三十七年度から補助金を交付,する必要から、三十八年七月二十四日、各単位団体代表者会議によって、「亀田町地域子ども会連合会」の結成をみた,その後単位団体数も四〇を越す連合会に成長しているが、町はこれが育成のために、毎年度補助金の交付を行って / 地域子ども会
戸井町史 (三、子ども会と子ども愛護(育成)会)

キャンプ、たこ上げ大会、他町村子ども会との交歓会、クリスマス楽しみ会等の行事を実施し、これが昭和四十一年,野球、ソフトボール、バトミントン、卓球、相撲、水泳、スキー、スケート、ボウリング、サイクリング、ラジオ,体操、キャンプ、炊事遠足、写生会、フェリーボートによる遊覧、バスによる見学、発典行事への参加、盆おどり,、交通教室、クリスマスのたのしみ会、かるた会、雪まつり、書初め、節分の豆まき、映画会、新会員を迎える会,結成当初は各地域とも年度始めに、盛り沢山の行事のスケジュールを決め、その消化に苦労したが、経験を積み重 / 三、子ども会と子ども愛護(育成)会
函館市史 銭亀沢編 (すす払い)

すす払い 十二月二十五日頃から始められるが、二十七日・二十八日頃にすす払いをする家が多い。,腐らないごみは、以前は海へ流したこともあったが、最近は環境保護の面からも海への投棄を自粛している。,お神酒を供え、仏壇には水・花を供え灯明をともし、お参りする。  ,昭和三十年代から家庭電化製品が普及し始め、どの家でも電気掃除機を使用するようになった。,電化が進んで大がかりなすす払いはなくなったが、年末のすす払いだけは、日常の掃除よりも心をこめて丁寧にして / すす払い
函館市史 銭亀沢編 (子どもを守る会)

当時、中学校に教頭として赴任してきた鈴木先生が中心になって、このような状況を改善すべく会の結成を父母に,この会は、銭亀沢地区を構成する八つの町から構成される「銭亀沢地区子どもを守る会連絡協議会」である。,石崎には、七つの分団、すなわち崎分団、石崎分団、中村分団、白石分団、目名町分団、谷地分団および鶴野分団,スポーツ大会としてドッジボール、野球、ソフトボール、ハイキング、夏の早起きラジオ体操、八幡神社の祭典の,また子どもたちの関心が変化してきたこと、塾に通う生徒が増加し、日曜の行事に参加する学生数が減少したこと / 子どもを守る会
函館市史 銭亀沢編 (生育と子どもの衣服)

明治、大正、昭和を通じて使われたネンネコも、昭和三十五、六年頃にママコートが流行りだすとしだいに使われなくなっていった,これをスミスカッパといった。  ,やモンベ、ズボンなどを履いた スカートの下は足首から下のない毛糸の靴下を履き、毛糸のソックスを履きかえる,寒い時はこれらの上から綿入れ袖ナシやチャンチャンコなどを重ね着することもあった。,女の子は花柄のメリンス地で作った袂(たもと)袖の着物や襲、羽織にエンジの袴をはきエンジのキヌテンや別珍 / 生育と子どもの衣服
函館市史 通説編 第二巻 (町と町に準ずるもの)

町と町に準ずるもの 幕末期には箱館市街の町名として沢山の町名が登場するが、箱館奉行が所管したと思われる,)にはその存在が確認できる弁天町、大町、内澗町、仲町、神明町、大黒町、山ノ上町、地蔵町の8町と、そのすぐ,なお、この11町を基礎とする最後の統計と思われるものが、明治5年の開拓使の記録中に「函館并近在六箇場所共人口戸数租税調大略,函館市中の最も北東に位置する海岸町、富沢町、大縄町の3町で、うち海岸町は明治6年3月に「亀田郡亀田村地内海岸町,他の2町も編入を確認できる文書は発見できなかったが、両町とも海岸町の横に並列する町で、明治9年の調査でも / 町と町に準ずるもの
南茅部町史 下巻 (〔方言と子どもたち〕)

かあさん・えね」「え(家)さ・え(行)ぐ」「くつ・ね(ない)」はてはランドセルに本が入らないと泣きだすもの,とかく一年生は頼りなく、転びやすく、泣きやすい。,だから尾札部方言の中で育った子にとって、もし「かなちがい」をしないように表記するには、電信がな讀みに「,からす」の「す」は「すずめのす」式に覚えるか、結んだ「す」と覚えていかなければならないという笑話にもなる,方言のもつ語彙・表現上の重要性以上に、五十音を正しく読み書きする基本的な力だけはどうしても身につけてもらわなくては / 〔方言と子どもたち〕
恵山町史 ([尻岸内村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)])

[尻岸内村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)] 尻岸内村壬申戸籍簿 <尻岸内> (参考資料) / [尻岸内村壬申戸籍簿(現存する最も古い戸籍簿より)]
椴法華村史 (函館バスと相互バス)

その後更に昭和三十年七月には、無期限ストライキに突入し、こんどは以前よりも更に多く五十一日間も続けられ,この間、七月十一日から函館バス労働組合によって自主運行が少し実施されたが、これも会社側と組合側との対立,地労委の斡旋を受け入れ実力行使は終結されたが、この間に地域住民の受けた直接的・間接的被害は計り知れぬものがあり,の両者と会談をもち、一日も早い解決と何らかの対策を求めたが成功せず、やむなく住民の足を確保すべく、関係町村,その後両社により、サービス合戦がくりひろげられ、両社を合わせた便数も増加したため住民にとっては便利になったが / 函館バスと相互バス
函館市史 別巻 亀田市編 (交通・通信のメモ)

交通・通信のメモ 終戦後十年を経た昭和二十九年における亀田村の交通・通信の状況を四月一日現在の調査によってみると,自転車保持数      一二人に一台の割  ・自動車所有数      四四二人に一台の割  ・ポスト / 交通・通信のメモ
南茅部町史 下巻 (ジャガタラ薯(いも))

ジャガタラ薯(いも) 郷土の作付は古くから大豆、小豆、蕎麥、野菜などを主としていた。  ,明治一六年、篠田順が臼尻村戸長に就任して、これまで当地方にほとんどなかった馬鈴薯(ジャガタライモ)をとりよせた,各自は収穫のうえ借りた量を返済することを条件として奨励したので、二、三年にして篠田のジャガタラ薯を作付,する家が倍増した。,以後、五升芋はすたれ、ジャガタラ薯が普及した。                                       / ジャガタラ薯(いも)
南茅部町史 上巻 (村の重立(おもだち))

村の重立(おもだち) 明治のご一新によって、新しい政策が次つぎにだされた。,なかでも、多くの文盲の漁民にとって、時代の変化を告げるお達し文は、その都度さまざまな戸惑いとなったのは,このような急激な時代の変動期に、村の指導者の言動、物事の判断が、村の将来を大きく左右することになる。,二五〇年の泰平の世を変えて進む時代の変わり目の動きは、寸時も止まることがないほどの速さで動いた。 / 村の重立(おもだち)
函館市史 通説編 第二巻 (街区改正がもたらした諸相)

また街区の十字形は、坂道の直線化を生み山の手地区から海岸地区までも一直線に連続することを可能にした。,また、明治12年の大火後では貸付金を受けないで建築する家屋もあり、煉瓦造6棟、土蔵造25棟、塗家6棟、,このために居留外国人ブラキストンの家屋も買上られており、その他埋立などもして船場町は倉庫地として整備されることになった,また、通りを中心とする横の往来に対し坂道による縦の往来も増えることになり、商人らの職住分離を誘引したことも,寺社空間は市街地の中心より排除された形で移転することにより、広い都市空間を提供することになった。 / 街区改正がもたらした諸相
函館市史 通説編 第一巻 (トーマス・W・ブラキストン)

トーマス・W・ブラキストン ブラキストン採集の石斧(市立函館博物館蔵)  函館には文久3(1863,ミルンやモースが函館で貝塚の発掘ができたのも、後記するようにヒッチコックが函館で収集品を見ることができたのも,、ブラキストンの案内とアドバイスがあったからで、彼自身アイヌ民族や貝塚、竪穴住居址についても博識であった,彼が谷地頭で発掘した大形の磨製石斧はミルンの報告書に掲載されているが、今日でも珍しい石斧で、開拓使函館支庁仮博物場,の時に寄贈され、現在も市立函館博物館に秘蔵されている。 / トーマス・W・ブラキストン
函館市史 通説編 第一巻 (エゾリス)

エゾリス 欧亜に広く分布しているリス(ユーラシアリス)の2亜種が日本に分布し、本州にはホンドリス、北海道,にはエゾリスが生息している。,当地域のもエゾリスで、亀田山脈の森林地帯に住んでいる。,樹洞に営巣し、年2回出産、行動するのは主に昼間で、冬眠はしない。 / エゾリス
函館市史 銭亀沢編 (〈テグス〉)

〈テグス〉 イカハリを取り付けるテグスは加賀の商人が加工して持って来た。,一本テグスは高価なもので米が一升、一二、三銭の頃に二〇銭もしたため、細いテグスを三本撚りあわせた三本テグス,また、麻糸を柿渋で染めて固くしたハリヤメや釣り糸も用いられた。,ナイロンテグスが普及してから、トンボに付けるハリの数が増え、六尺のテグスの間に五本のハリを付けた。,この時には、下のハリを大きなハリにしオモリがわりとした。 / 〈テグス〉
函館市史 通説編 第二巻 (ボストン氷)

ボストン氷 開港後、まもなくわが国に氷が輸入されはじめた。,利用する場合もあった。  ,ところで、この氷は主にアメリカのボストン周辺の天然産のものが輸入されていたが、ボストンから横浜までの長時間,特にヘボン、シモンズから衛生や食品に関する話を聞くなかで氷がこれから新たな需要を産みだすことを知った(,ところで結社組織には後述するように岸田吟香も含まれていた。 / ボストン氷
函館市史 通説編 第一巻 (キリスト教)

キリスト教 徳川幕府の徹底的な切支丹弾圧は、アンジェルス、カルバリオ(ともにイエズス会宣教師)らの蝦夷地布教,もちろんこれらは日本人に対する直接的布教ではないが、同教の再入の先駆と言い得る。,これらの神父が文化面でも非常に活躍していることはすでに「教育」「学芸」「衛生」の項に詳述した通りである,キリスト教禁止の当時に、宣教師の入国は重大問題であったが、条約で各国居留人だけを対象にするという条件のもとに,文久元(1861)年には、イワン・マホフの後任としてニコライが来たが、その活躍もまた著しく、異教に激怒 / キリスト教
南茅部町史 上巻 ([むすび])

南茅部町の鳥であるオオルリも各所にみられ、雄のきれいな姿とさえずりがきこえている。,オオルリとともに美声のウグイス、これらの小鳥に託卵するホトトギス科のツツドリや北海道では数少ないジュウイチ,も夏鳥として渡来している。  ,海岸線は外洋に面しているために沿岸性の鳥と外洋性の鳥がみられており、陸鳥とともに渡りの重要なコースとなっている,南茅部町の豊かな自然がいつまでも続くことを念願したい。 / [むすび]
南茅部町史 上巻 ([むすび])

[むすび] 当町管内の全般的な植生の特質として、まず第一に、植物景観の四季の変化が明瞭な温帯的要素である,夏緑広葉樹林帯(ブナ帯)の北部に位置することがあげられる。,少なかれ道南全域に共通することではあるが、当地域は日本海側(江差方面)に比し、本州要素がややうすく、反面,したがって種の数も多く、現在までに記録されたものは一三八科、四一二属、七八三種、二八変種、二四品種におよんでいる,しかし、この数はもとより固定的なものではない。 / [むすび]
函館市史 通説編 第一巻 (エゾシマリス)

エゾシマリス カムチャツカ、樺太、アムールなど東シベリアに広く分布するシマリスの1亜種で、エゾリス同様,冬期は休眠するが、しばしば目を覚して食物をとり排出を行い、再び休眠するといった生活を春まで繰り返す。,最近、谷地頭町近くの函館山山麓の雑木林で数頭のシマリスを見かけるが、飼育中の逃亡か、故意に放たれたものかであって,また、愛玩(がん)用として広く飼育されているチョウセンシマリスかエゾシマリスかの分明もさだかでない。,なお、道内の森林地帯に生息しているエゾモモンガは、前後肢(し)間の飛膜によって滑空するが、当地域での分布 / エゾシマリス
函館市史 通説編 第一巻 (サービス業)

サービス業 昭和50年の国勢調査では、第3次産業の中で、卸小売業に次いで就業者の多いのがサービス業であり,昭和40年と比較すると、就業者数では6,516人、構成比で3.2%の増加を示した。,これは、レジャー産業、観光産業の伸びによるもので、全国的には中規模都市以上の都市に見られる共通した傾向 / サービス業
恵山町史 ((1) 日本を大回遊するスルメイカ)

いずれの群も北海道近海には産卵所がなく、北海道に来遊するのは主に索餌のためである。  ,8月に最も分布を北側海域に広げ、日本海側では沿海州、サハリン西岸に達する。,また太平洋では道東から千島列島南部の海域に広がり、その一部はオホーツク海にも入る。,8月ころは利尻・礼文島を越え、モネロン島付近に達する。8から9月には南下回遊を始める。  ,、その範囲も狭いことなどが明らかになった。 / (1) 日本を大回遊するスルメイカ
函館市史 別巻 亀田市編 (農業センサス)

昭和四十年二月一日現在で調査した農業センサスの結果がまとまったが、この農業センサスは五年に一度農林省が,全国いっせいに実施する農業の国勢調査ともいえるもので、農家数、農家人口、土地、農業機械、農業雇用労働、,畜産、農産物販売など農業に関しての調査をするものである。  ,提出したが、以下その結果表から亀田町の農業の概要をみることとする。,に減ってきており、昭和四十二年度もますます都市化の傾向にあることがわかる。   / 農業センサス
南茅部町史 上巻 (注目すべき種類)

このスガモの上にびっしり着生している緑色で葉状の海藻がモツキヒトエである。,マコンブは枝分かれすることもなく、海藻の中では単純な形態を示すものの一つである。,イ、フシスジモク  体長は数メートルに達する。,すなわち、節を持つものを有節サンゴモ、これを持たないものを無節サンゴモと呼ぶ。  ,スガモは藻場を造る重要種で、地方によっては増やすための施策をこうじている。 / 注目すべき種類
函館市史 別巻 亀田市編 (馬に関する税)

馬に関する税 馬持ちの者は馬役銭といわれる税を徴収されていた。,このほかに馬に関するものとして『北海道総合経済史』によれば、安政三年皮革入用のため、死馬が生じた時は皮,をはぎ提出するように布達し、箱館物産掛でこれを買上げており、その後、取集め方は亀田村三六なる者にまかせ,、一枚につき銭一貫文より六〇〇文の割合をもって代銭を交付することにしたという。 / 馬に関する税
函館市史 通説編 第二巻 (フランスの思惑)

人とともにロシア人捕虜の上陸も許可されているが(「佛船碇泊日記」)、この間のフランス人とロシア人の箱館,フランス軍艦側がフランスとロシアのこうした対日関係の相違、具体的にはロシア人の場合は、たとえ捕虜でも必要物品,の幕吏に対し、新たな情勢を提供するとともに、大砲の鋳造方法や西洋型帆の作製方法等を積極的に伝授していることである,養生を許可したことに対する謝意の表示であったことは確かとしても、コンスタンチーヌ号の「船将」が竹内に対,」)と述べていることをも考慮すれば、そこには条約締結への途をも強く意識した極めて政治的性格の強い対応策 / フランスの思惑
南茅部町史 下巻 (〔知能テスト〕)

低学年の(集団(グループ))知能テストで「大人の立っている人の絵を描きなさい」というテストがあった。,教師は、このテストのとりくみに、テストの設問にあたって「余分な説明を加えずに正しく伝えること」ということに,この知能テストは採点不能となり、集団テストとしては見事失敗した。,言語教育の中で、もっとも大事なことは、言葉づかいや発音よりも、そして語彙表現の豊富さよりも、言い方が大事,どんなにつたないいい方でも、相手を尊重し、あたたかい話し方であれば相手に真意が伝わるものである。 / 〔知能テスト〕
函館市史 通説編 第二巻 (イギリス領事館)

そして以後その他の国も、領事館などを建設する場合、この方式を踏襲するよう指示されたのである。,箱館では文久元年にこれをうけて、商人の請負希望もなかったので、奉行が「御入用」を以て建設することが決まった,たとえば、窓にはガラスを使用したようだが、数種類の大きさのものが計566枚と損傷見込分として115枚を,石灰の作り方も「石灰を要とさるる丈塗油を以て交せ堅くなる迄よく搗交るべし」とイギリスの領事館員から教えられている,また、修理の際にはロシアカッヘル(ストーブ)を6基据えることも命じた。 / イギリス領事館
恵山町史 (函館バスの躍進)

函館バスの躍進 下海岸唯一の定期バス函館乗合自動車も、終戦の年の車輌52台、翌年には43台に減り、それも,辛うじて動くといった程度のもの、悪路も手伝い降雪や雨による運行中止は度々といった状態であったが、23年以降,、毎年増資を行い、昭和26年7月には『函館バス株式会社』に社名変更、資本金1,200万円(昭和19年、,の拡張・新車輌の購入・サービス向上に努め急成長をしつつあった。  ,以下に函館バス株式会社の成長の推移を示す。 / 函館バスの躍進
函館市史 通説編 第二巻 (ステベの草創期)

に専属するステベの存在も、勿論忘れるべきではない。,日本郵船自体が、海産物を扱うので、その専属ステベもまた海産物を扱うが、三菱-郵船(社船と称する)外の、,中小不定期船に専属あるいは半専属のステベも、明治20年代以降、出現する。,明治20年に始まる営業倉庫の出現もまたステベ「草創期」を形成する要因であろう。,を兼営することも、あったのではないだろうか。 / ステベの草創期
恵山町史 (不採算バス路線に対する町村補助金)

不採算バス路線に対する町村補助金 自家用車の時代といっても、免許・自家用車を持たない人、高齢者や通院,・通学等、路線バスは欠くことのできない存在である。,そのため、昭和47年(1972)9月から、赤字ローカル路線では乗客数に照らし町村としても応分の負担をしている / 不採算バス路線に対する町村補助金
函館市史 銭亀沢編 (ス(巣)アガリ)

ス(巣)アガリ 座産の頃は出産の後「足を伸ばすと乳が出なくなる」「横になると悪い血が降りなくなる」といわれて,俵は米俵より小さめのもので隣近所や知人などと互いに貸し借りをしていた。,従ってその苦労は大変なもので、スアガリのときは足がしびれて両側から支えてもらってようやく立つことができたという,お産に必要なものを入れておく箱(松田トシ蔵)  大方は一週間でスアガリをして布団に休んだ。,なかには一〇日ほどで水仕事をしたサントもいたという。 / ス(巣)アガリ
函館市史 通説編 第二巻 (函館氷売り出す)

ちなみにこの年の移出量は670トンで翌5年には1061トンと産出量もほぼ倍増している(『イギリス領事報告,これらはいずれもイギリス、アメリカの外国商船で横浜に輸送されているが、開港場という函館の特質、つまり頻繁,こうして函館氷は横浜や東京にも販売されはじめた。,などからも評価され、輸入氷に比べて良質でかつ低廉な函館氷が京浜市場で評価されて、ついに「ボストン社中伏帰,明治6年にはボルベッキ商会へ500トン、そして太平洋郵船会社とも1000トンの売買約定が成立するまでになり / 函館氷売り出す
恵山町史 (国鉄バスの誘致を)

国鉄バスの誘致を 尻岸内村としても、民営バスにばかり頼っているわけにもいかず、この打開策として、昭和,、陳情ヲ要スルモノト思料ス。    ,自動車・トラックなど車輌生産については、軍事産業からの転用がもっともスムースに行われた分野である。,そして、バスは車体もエンジンの出力に併せて大型化していった。  ,は新車購入のサービス改善など整備を着々と進め運行距離・輸送量ともに急成長し国鉄を脅かすまでに到った。 / 国鉄バスの誘致を
恵山町史 (銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー)

前者は、基盤岩類並びにその中に貫入するデイサイト(石英安山岩)を母岩とするものが多く、後者は、古武井層並,すなわち、スカルン期から高熱温水期にかけた珪酸塩鉱物および鉱石鉱物の形成は、非常に小規模のものであり、,NW−SE系のものは、N30度〜80度W・60度〜80度SWの走向・傾斜を示し、石英と黄鉄鉱を主体とするもので,ゼオライトには、つねにα−クリストバル石が共生しているが、尻岸内川下流のものは、モルデンフッ石を主成分鉱物,指導を担当する家庭園芸士の野呂健氏は、温泉熱栽培でツツジの成長が促進され、温度調節によって開花時期をずらすこともできる / 銅・鉛・亜鉛・硫化鉄・アンチモニー
椴法華村史 (するめ烏賊の回遊)

、個体も成長し大型であり良質のするめが生産できる。,・恵山漁場  十月から十二月の烏賊の最も成長し良質のするめに生産できる時期、恵山沖は日本海へ移動するむれと,太平洋を南下するむれとが混合し、暖・寒の海流のぶつかる海況上からも汐目が多く、烏賊の群は長い期間この地域,を変更するなどして出漁する船さえもでてきた。  ,その後一時的には、恵山漁場での烏賊の大大漁もあったが、次第に漁獲高が減少する傾向にあった。 / するめ烏賊の回遊
/ 88ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • 年表一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました