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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 下巻 (日持上人渡海)

日持上人渡海 日蓮上人の高弟日持上人が永仁二年(一二九四)=正応四年(一二九一)ともいう=蝦夷地に渡海,日持は箱館山の頂上にある鶏冠形の巨石に題目を書きのこし、石崎に庵を結び、この地に在ること四年、のち椴法華,日蓮宗の僧が蝦夷地に渡り□□□年、京に帰って公家に蝦夷地の産物昆布を献上したといわれている。  ,蝦夷地へ僧侶が渡る動機もふくめて、その当時すでに蝦夷地渡海の便もあり、日本人の在住来在の地として僧侶が / 日持上人渡海
函館市史 通説編 第二巻 (海上保険と保任社)

海上保険と保任社 海上保険は横浜の外国商館でその扱いがあり、函館でもイギリスの保険会社の代理業務を扱,明治5年9月ころ開拓使は木村万平に貸与している北海丸に「積荷物ノ非常請合」すなわち海上保険をつけるため,このたび付属船北海丸を購入し、船長や航海士などに熟練した外国人を雇い、函館・東京・大阪間に海上保険を付,北海丸は毎月18日に東京を出帆、21日に函館に到着という定期便として開始されたが、それではこの海上保険,こうして海上保険の実施という画期的な試みは海運業本体の不振もあって廃止されてしまったのである。 / 海上保険と保任社
南茅部町史 上巻 (海産商)

南茅部町史 上巻 / 上海香港南洋台湾  六七・七六 二、七六〇       朝鮮内地一円     阿 部 商 店 阿, 彦 七   〃 明治三一年 乾魚魚肥 内地道内台湾香港  四八・〇〇 二、〇〇〇       上海,五二 六、五二〇 北 出 商 店 北 出 徳太郎   〃 明治四三年 塩乾魚貿易品 内地一円香港上海  ,内地上海香港  二八・三八  一、二四六       魚肥貿易品       山 田 商 店 山 ,内地台湾上海 一三四・五八 五、三三〇       香港     森   商 店 森   大 作 / 海産商
南茅部町史 上巻 (海藻とは)

南茅部町史 上巻 / しかし、水の中の植物―海藻となると、仕事や生活の上でよほど関係の深い人々でもないかぎり、興味を持つことはないようである,したがって、これを更に細かく分けるために、陸上に生活するものと、水中に生活するグループ、というぐあいに,海藻にはコンブのように根、茎、葉がはっきり分かれており、見たところ陸上の植物と変わらないものがある。,しかし、陸上の植物のように根で水や栄養分を吸収し、葉でデンプンを造る、というような仕事の分担をしているわけではない,日本の沿岸には、現在まで一〇〇〇以上の種が知られている。 / 海藻とは
恵山町史 ((1)上昇した海水面)

(1)上昇した海水面 早期末から前期にかけて気候の温暖化が急速に進行し、約6千年前の前期初めには気候温暖化,年平均気温は現在よりも2~3℃高く、温暖化に伴って海水面が上昇し、今よりも2~3メートルほど海水面が高,標高3メートル以下の低地には海が侵入し、海岸線には木の枝状に多数の入江が生まれた。,このように海水面が上昇し、海が内陸に侵入することを海進とよび、この時の海進を縄文海進と呼んでいる。,その頃、函館山はまだ津軽海峡に浮かんだ島であった。 / (1)上昇した海水面
恵山町史 ([海上保安庁の情報])

[海上保安庁の情報] 海洋速報は毎年1カ月、または半月ごとに発行されているが、この資料の作成にあたっては,海上保安庁の巡視船のみならず、道内、および東北各水産試験場、および所属する調査船、海上自衛隊、漁業情報 / [海上保安庁の情報]
南茅部町史 上巻 ((3)海岸段丘)

南茅部町史 上巻 / (3)海岸段丘 南茅部町の海岸段丘は大きく、上位段丘と下位段丘に分けられる。,したがって、南茅部町上位海岸段丘はリス氷期とウルム氷期の間の温暖で高海水準時代に形成された海岸段丘と考,上位段丘堆積物は臼尻地域においては海岸段丘を形成した段丘礫層の上に、火山灰、火山砂礫、泥炭、火山砂などが,段丘礫層の上面高度は約二五メートルであるから、かつての高海水準に地盤運動が加わって、このような高位置を,段丘礫層の上にのる火山灰、火山砂や火山礫は駒ヶ岳由来のものと考えられる。 / (3)海岸段丘
南茅部町史 上巻 (浅海増殖)

南茅部町史 上巻 / 浅海増殖 昭和四年、駒ヶ岳爆発による沿岸の昆布礁被害に対し、国費の大きな災害復旧事業が実施されて以来,戦後、沿岸漁業の所得向上策として、各漁協では国の助成をうけ浅海増殖として岩礁爆破・投石などを始める。,増殖方法の積極策として、投石は早く、文久年間(一八六一~六四)、山田文右衛門が勇払から新冠までの海中に / 浅海増殖
椴法華村史 (消防団と海上保安部の協定)

消防団と海上保安部の協定 昭和四十四年一月の函館海上保安部・椴法華分室長と椴法華村消防長との間に、取,り交わされた船舶消防に関する業務協定書(要約)により、消防団と海上保安部との業務協定について記すことにする,函館海上保安部椴法華分室と椴法華村消防長との船舶消防に関する業務協定書    この協定は、領海内における,の火災について、昭和四十三年三月二十九日海上保安庁と消防庁との間に締結された覚書に基づき函館海上保安部椴法華分室,1、   (1)巡視船艇による消火活動、海上輸送及び警戒   (2)船舶火災のため、船舶又は陸上施設 / 消防団と海上保安部の協定
函館市史 通説編 第二巻 (運上会所設置と海岸道路普請)

運上会所設置と海岸道路普請 東浜町海岸より税関を望む 北海道立文書館  これまでは、函館の都市形態,具体的には、外国商人による貿易の取締りにあたる運上会所の設置と、海岸線の連絡上の道路の整備が考えられる,この頃になると、外国人居留地と運上会所あるいは町家地区と沖の口役所などを結ぶ海岸道路が必要となってきた,その後、海岸道路に関連しての大町海面の埋立は明治3年3月18日付の「右は海岸地尻の地自分入費を以埋立皆出来,以上から、海岸道路の普請は開港後の安政期より個々の商人や町会所などの埋立にはじまり、大町築出地や地蔵町築出地 / 運上会所設置と海岸道路普請
椴法華村史 (高田屋嘉兵衛建立海上安全碑)

高田屋嘉兵衛建立海上安全碑 賽の河原の中央よりやや北に高田屋嘉兵衛建立の祈願碑がある。,御影石の碑面には、「海上安全文化六年己巳正日高田屋船中」と刻まれている。,高田屋嘉兵衛建立海上安全碑 / 高田屋嘉兵衛建立海上安全碑
南茅部町史 上巻 (北海道漁業図絵)

南茅部町史 上巻 / 北海道漁業図絵 函館図書館所蔵の北海道漁業図絵の上巻の河野常吉の添え書きによれば、明治一二年、開拓使函館支庁,掛員渡辺章三ほか二名と画工三名は管内三か所に派遣され海産物を採集し、漁業の状況を調査して、漁具・船法を,いと広き青海原にえをかひて殖えゆく人のたべものにせよ  いみじくも大切に後世にその史料を伝え、明治初期,の北海道の漁業を誇示して余りあるものである。 / 北海道漁業図絵
函館市史 通説編 第二巻 (上海における日本昆布会社の営業)

上海における日本昆布会社の営業 他方、昆布の輸出先となる上海の営業状況をみると、初めて輸出する明治22,しかし、交渉に失敗して、三井物産の援助を受けることになり、同社の資金の提供と上海における販売業務の委託,(2)昆布の商談には日本昆布会社の主任が当たるが、その際必ず三井物産上海支配人に協議すること。,こうして上海における日本昆布会社の昆布販売の独占体制は一応出来上がり、昆布相場に大きな影響をもつようになったが,、このことについて当時の新聞は、「上海昆布景気上向き釧路、浜中二両三匁五分、上物は殆ど日本昆布会社の占有 / 上海における日本昆布会社の営業
函館市史 通説編 第二巻 (函館店開業と上海支店・開通洋行)

函館店開業と上海支店・開通洋行 一方北海道の輸出海産物を集荷するための函館店は翌6年5月に開業した。,函館店の開業の準備を終えて、次に上海に売り捌き機関を設置することにした。,翌6月に袴塚次郎兵衛ら3名を社中名代として上海に派遣することを決めた(「開公」5740)。,彼ら名代は7月に日本を立ったが、10月10日付けで笠野から開拓使にあてて上海フランス公司路46番の地に,船シーベル号を雇船して上海へ輸出するために願書を函館支庁民事課に提出した。 / 函館店開業と上海支店・開通洋行
南茅部町史 上巻 ([海区漁業調整委員会])

南茅部町史 上巻 / [海区漁業調整委員会] 昭和二五年九月一〇日、北海道知事田中敏文は、漁業法施行令(昭和二十五年政令第三十号,)第二条第一項の規定により、海区漁業調整委員会の事務所の所在地を次のように定めた。     ,名 称                       事務所所在地   松前西部海区漁業調整委員会  ,        (福島・知内・木古内)    木古内町   函館湾   〃        (茂別・上磯,から渡島海区(現行)となった。 / [海区漁業調整委員会]
南茅部町史 上巻 (北海道大謀網発祥の碑)

南茅部町史 上巻 / から解放せらるゝに至ったのでありますが、漁業制度改革の意義と重要性は単に漁業権の切換えとか漁獲高を向上させると,じますので何卒右趣旨に御賛同下され絶大なる御後援を御願い申上げるものであります。        ,この定置漁業史上画期的なる改革を機会として道水産部の後援を得並に北海道漁業関係者各位の御協力を希がい「,次にこの創始之地である尾札部村黒鷲岬について新撰北海道史及び尾札部村郷土史年表により御紹介を申し上げることに,刻苦改良に努力して遂に 本邦漁業史上空前の豊漁 を得た。   / 北海道大謀網発祥の碑
南茅部町史 上巻 (御上り昆布)

南茅部町史 上巻 / 御上り昆布 秦檍丸は、村上島之允という。,天下昆布は汐首から東蝦夷地シカヘまでの海浜に産するとある。  ,昆布 一曰 天下昆布          汐首崎より東シカヘ          海濱迄産セリ 長壹丈,是昆布の          絶品とす        一 シノリ昆布は箱館東          海に,         長壹丈はかり 味至て          甘美 汐首岬よりシカヘ          海底 / 御上り昆布
南茅部町史 上巻 ([渡海])

南茅部町史 上巻 / [渡海] 津軽の海峡を命がけで蝦夷地へ渡った人たちの目的や動機は、人それぞれにさまざまであっただろう / [渡海]
南茅部町史 上巻 ([北海道の大謀網])

南茅部町史 上巻 / この功績が認められて、明治一六年、東京上野で開催された第一回水産博覧会において、北海道漁業功労者として,このときの開拓使へ上申した功績の内容をまとめた北海道漁業功労者事蹟が、市立函館図書館に所蔵されている。,小川幸吉の文書に、幸吉が万延二年(一八六一)二月、奉行所へ差し出した願上の控え書がある。,(共同網・境界争に詳述)        乍恐以書附奉願上候    私網取建之義ハ、天保十三寅年、,嘉永七年箱館在六箇場所の書上(市立函館図書館蔵)には、鮪の魚獲高を次のように記している。     / [北海道の大謀網]
函館市史 通説編 第二巻 (昆布の過剰輸出と上海での滞貨)

昆布の過剰輸出と上海での滞貨 広業商会による昆布輸出は前述したとおり10年以降は逐年増加し、在留清商,ところが、輸出量の増加が、上海市場での販路渋滞をもたらしてくるようになった。,それが広業商会上海支店での在庫高の急増という形をとるようになった。,1月には9300石、14年1月には3万4000石、15年1月2万2000石と増加の一途をたどった(「上海領事館報告,こういった供給過剰と、それに追い打ちをかけるような生産者の粗製乱造よって生じた上海市場での信用喪失が原因 / 昆布の過剰輸出と上海での滞貨
南茅部町史 上巻 (昭和の献上昆布)

南茅部町史 上巻 / 昭和の献上昆布 昭和一一年秋、天皇陛下の北海道行幸をお迎えすることになった。,すべての家庭用排水が海に注いでいることから、一切の汚物を海に投棄しないように厳達した。  ,謹製採取の日は七月五日と定め、この日午前七時、尾札部村役場上席書記上村浩太郎、尾札部中央青年団長山中熊一,実に謹厳壮観な献上昆布採取の状況であった。  ,のち、天皇北海道行幸のときには、献納品として謹製して上納している。 / 昭和の献上昆布
南茅部町史 上巻 ((6)海底地形)

南茅部町史 上巻 / (6)海底地形 南茅部町付近の海底地形は〇―二〇メートルと、六〇―一四〇メートルの二段丘が見出される,〇―二〇メートル面は現海成面である。,南茅部町沿岸の潮海流は、年間を通して海岸線に平行した南東方向の流れが多い(大谷清隆・噴火湾の物理環境) / (6)海底地形
南茅部町史 上巻 (北海道漁具図説)

南茅部町史 上巻 / 北海道漁具図説 明治一四年になる日渉園「北海道漁具図説」(函館図書館蔵)は、漁具・漁法の解説書として,この絵図の中で二七丁めに描かれる「鮪立網・尾札部村辺ニテ用ルモノナリ」は、市立函館図書館所蔵の「北海道漁業図絵,」や道立図書館所蔵の「北海道漁業図譜」と同一の資料が使われたことを示す。   / 北海道漁具図説
南茅部町史 上巻 (志海苔で古銭の大甕出土)

南茅部町史 上巻 / 志海苔で古銭の大甕出土 昭和四三年七月一六日、国道二七八号線志海苔地区の改良工事中に、古銭がザクザク,海保嶺夫「近世の北海道」参考  出土した大甕と古銭は、市立函館博物館に運ばれて学芸員千代肇らおおぜいの,出土の地は函館市志海苔町二四七番地の国道で、史蹟志海苔館と約一〇〇メートルの至近の海岸通りであった。,志海苔の砂浜に誰が、いつ、どんな目的で、莫大な銭貨をいれた大甕を埋めたのか。,枚献上すると記されている。   / 志海苔で古銭の大甕出土
椴法華村史 (函館海上保安部椴法華分室の歩み)

函館海上保安部椴法華分室の歩み ・昭和二十三年五月一日、函館海上保安部発足 ・昭和二十六年九月五日,昭和二十六年九月六日、救助艇あかし配属 ・昭和二十六年十月一日、事務所及び艇庫を椴法華村から無償借上げ,椴法華村から寄附採納 ・昭和二十九年七月九日、恵山岬燈台敷地内にあった旧丘舎を椴法華分室見張所として北海道財務局 / 函館海上保安部椴法華分室の歩み
函館市史 通説編 第二巻 (海産税・海関税)

海産税・海関税 海産税、海関税は海関所(沖ノ口を明治2年10月に海官所と改称、翌3年12月更に海関所,特に海産税は北海道の正租といえるもので、北海道における収税の大半を占めている。,また海関税は、箱館戦争被害の復興が思うにまかせないとの伺書(「開日」)を受けて出され明治4年12月27,その後海関税免除期間が終了したとき、政府はすでに港湾等での収税金徴収廃止を決めていたため、開拓使は開拓途上,)、海関税に代えた。 / 海産税・海関税
恵山町史 ((1) 海峡内の海流)

/秒以上の東向きの流れとなり、沿岸近くでは流れが弱く反流が生じている場所もある。,   ③海峡内の潮汐・潮流  海洋物理では潮汐現象の解釈の便宜上、1日2回満干のある半日周潮,低気圧の通過に伴い海面が吸い上げられ(1ヘクトパスカルの気圧低下で約1センチメートルの水位上昇)、異常,な水位上昇が起こる。,台風が海峡の東西のいずれのコースをとった場合にも函館で大きな水位上昇が起こることから、気圧低下が海峡内 / (1) 海峡内の海流
恵山町史 (3、日本近海の海洋)

3、日本近海の海洋 日本海は対馬海峡、津軽海峡、宗谷海峡の3海峡によって仕切られ、これらの海峡を経てそれぞれ,、東シナ海、太平洋、オホーツク海に通じている。  ,が対馬暖流として日本海に流入し、日本海の東側を北東に流れながら河川水などを含んだ沿岸水、及び日本海固有水,そのあと一部は北海道西海岸沿いに北上してオホーツク海に注ぐが、7割以上は津軽暖流として津軽海峡を東流して,このため北海道沿岸はその地理的位置から予想される以上に、遠く東シナ海を源とする暖水の影響を季節的に強く / 3、日本近海の海洋
南茅部町史 上巻 ([海藻の生育場所を決める条件])

南茅部町史 上巻 / 海の場合は水温であるが、日本のように南北に長く、その上、暖流と寒流の影響を受ける条件下では、種類の変動,北海道だけにかぎってみても、各地域の生育種に顕著な違いが見うけられる。,たとえば、北海道周辺のコンブ類の分布はこれをよく現わしている(第一図)。,以上のように、生育する海藻の種類はこれを取りまくいろいろな条件により異なるものである。,したがって、このような事柄を念頭に置きながらその土地の植物を眺めると、海域の特徴がおのずから浮び上ってくるものである / [海藻の生育場所を決める条件]
南茅部町史 上巻 (北海道大小区画)

南茅部町史 上巻 / 北海道大小区画 明治九年九月八日、開拓使は、本庁支庁ごとの大小区画を全道一本にまとめ、北海道大小区画 / 北海道大小区画
南茅部町史 上巻 (北海道漁業図譜)

南茅部町史 上巻 / 北海道漁業図譜 道立図書館所蔵の「北海道漁業図譜」は、朝春の画になるもので、図絵と寸分違わぬ内容である / 北海道漁業図譜
函館市史 通説編 第二巻 (北海新聞)

ほかに和田元右衛門・平出喜三郎・田村力三郎・石坂嘉蔵(以上出資額200円)、相馬哲平(出資額150円),、工藤弥兵衛・林宇三郎(以上出資額100円)など99名が出資していたが、この解散にあたり巴港社は新田派,この時期巴港社を離れたのが、主筆の平田久、村上政亮(のち「報知新聞」編集長)そして前出の工藤忠兵衛である,彼らは一時函館新聞の記者となるがまもなく平田と村上は函館を離れた(前掲「二十年前の思出」)。   ,の紙上殆んど四段を商業記事物価等を以て填充し、機敏に且つ精確に商業社会の案内者たらんと欲す」とあり、20 / 北海新聞
南茅部町史 上巻 ([南茅部町沿岸の海藻の分布])

南茅部町史 上巻 / [南茅部町沿岸の海藻の分布] 海藻の水平分布を左右する条件は、主として水温の相違であることは先にも述,ただ、マコンブを例にとると、浜格差と呼ばれる品質上の差違があることからも分かるように、地先ごとの環境条件 / [南茅部町沿岸の海藻の分布]
南茅部町史 上巻 ([南茅部町沿岸の環境条件―海流と水温])

南茅部町史 上巻 / [南茅部町沿岸の環境条件―海流と水温] 前述のように、海藻の地域分布(水平分布)を決める主な条件は水温,日本海を北上した対馬暖流は津軽海峡西口付近で二分し、その一つが海峡を東へ進む。,今、津軽海峡北海道側の海藻を例にとって海流の影響を見ると、次のようになっている。  ,しかし、一〇メートル層、二〇メートル層では、四月下旬から八月上旬頃にかけてかなり低目に経過していることに,海藻が実際に生育している水深の水温を把握することは、海藻の生態を知るうえでも有用海藻の増養殖管理の点からも / [南茅部町沿岸の環境条件―海流と水温]
南茅部町史 上巻 (南茅部町の海藻)

南茅部町史 上巻 / 南茅部町の海藻 ヒトヒグサの類 アナアオサ エゾイシゲ チガイソ / 南茅部町の海藻
恵山町史 ([北日本(北海道周辺)の海洋])

[北日本(北海道周辺)の海洋] ところで日本近海の海象の情報については海上保安庁が調査・集約している,海上保安庁の目的は、捜索・救助業務を行うために必要な業務情報の基礎資料を得ることにある。,具体的には北海道近海の海流、および水温の水平分布(表面、50メートル層、100メートル層、200メートル,層)について、第一管区海上保安庁本部水路部水路課海象係から海洋速報として発表されている。  ,北海道周辺の海洋を、これら海上保安庁の海洋速報、およびNOAAの資料を約1年間にわたって利用し、比較・ / [北日本(北海道周辺)の海洋]
南茅部町史 上巻 (海区漁業調整委員会名簿)

南茅部町史 上巻 / 海区漁業調整委員会名簿 ●茅部郡南部      茅部郡南部     ●渡島北部     渡島北部,鶴松         鈴木 良一      渡島北部     渡島北部         ●渡島海区,          渡島海区  昭和三三年八月   昭和三五年八月      昭和三七年八月       ,                                             一五名      渡島海区,         渡島海区         渡島海区         渡島海区  昭和四三年八月       / 海区漁業調整委員会名簿
恵山町史 (開拓使の北海道経営と海運)

、開拓使は明治5年2月、旧斗南藩の所有船であった安渡丸(スクネール型帆船・110トン)と下田の造船師上田虎吉,「乗船賃、上等3円、中等2円、並等1円50銭、等外1円、食事代、上等5銭、中等並等3銭」、食事代と比べ,権利もほぼ手中に納め三菱汽船王国を築き上げる。  ,この三菱の独占企業化にともない運賃の値上げや、旅客・貨物に対するサービスの低下、商工業の発達阻害等、その,この命令航路は、明治33年(1900)北海道拓殖10年計画により航路補助金186万円が計上され航路の拡大 / 開拓使の北海道経営と海運
椴法華村史 (一七〇〇年代の椴法華近海の海運)

一七〇〇年代の椴法華近海の海運 このころの椴法華近海の海運はどのような様子であったろうか。  ,トホホッネゟ(ヨリ)ヲサ(ツ)ベ迠十里ハカリ、此間蝦夷村沢山ニ有リ、昆布大出所也、新井田兵内殿御預リ、運上金壱,ケ年ニ四拾両宛箱館者共運上ニ申請、二百石ハカリ之小船ニ而度々箱館江通江申候    と記されており、,休むまもなく舟に乗り、蝦夷の家七八軒ある矢尻浜をすぎ、銚子の碕・フルベ大滝・ピルカ浜・尾札部に着き運上屋,以上記してきたように繩とじ船や手こぎの船で貨物の輸送や人の移動が行われたが、これはいずれも旧暦の三月から / 一七〇〇年代の椴法華近海の海運
恵山町史 ((3) 海面水位が高い日本海)

(3) 海面水位が高い日本海 日本海の平均海面水位は季節的あるいは経年変化が大きく、太平洋との水位差,  ①海面水位の経年変化  津軽海峡、および北海道周辺の月平均海面水位の統計値を図3−3,それぞれの統計値は、少なくても10年間以上の1983年頃までの平均値である。,このことが対馬暖流の7割以上が津軽海峡に流入する根拠にもなるのであろう。,次に、図3−4は津軽海峡を挟んだ日本海岸の深浦と太平洋岸の室蘭の水位を上図に示し、深浦−室蘭、函館−室蘭 / (3) 海面水位が高い日本海
函館市史 銭亀沢編 (氷河性海面変化と海岸段丘)

氷河性海面変化と海岸段丘 銭亀沢から函館市街地にかけては、まとまった複数段の海岸段丘が発達し、この地域,中野町、石倉町、古川町、鶴野町、白石町などや函館市街地の千代台町、本町、柏木町、駒場町、山の手、日吉町、上野町,しかし、後述のように銭亀沢の低位の段丘上には火砕流堆積物が厚く堆積しており、その形成は単純ではない。,ここでは、比較的によく調べられている函館市街地の海岸段丘とあわせて銭亀沢の海岸段丘についてみたい。,そして、それぞれの段丘構成物の層序から海進海退のサイクルを見い出し、「日吉町」面を下末吉海進時(リス・ヴュルム / 氷河性海面変化と海岸段丘
南茅部町史 上巻 (尾札部学校生徒「昆布献上」)

南茅部町史 上巻 / 尾札部学校生徒「昆布献上」 明治一四年、明治天皇の北海道行幸を迎え、前年創立したばかりの尾札部学校生徒,は、尾札部元揃昆布を謹製して献上した。     ,  殊ノ外ノ御意ヲ賜リ 特ニ御持帰品中ニ入ルノ光栄ニ浴セリ    九月六日、明治天皇、室蘭から海路,を森に行幸なさり森上陸のとき、漁民の昆布採取をご覧になる。,そして、近在からの献上の品目記録の中に、「昆布ヲ上(タテマツ)リタル尾札部生徒へ、一金三円御下賜アリ」 / 尾札部学校生徒「昆布献上」
函館市史 通説編 第二巻 (北海公論)

北海公論 政党新聞としての性格の強い北海はしばしば発刊停止処分を受けた。,日の新聞が「治安に妨害あり」として翌8月7日~21日まで発刊が停止されたが、再刊された8月22日の北海は,この発刊停止処分の間の8月11日、巴港社の株主大懇談会が開催された(8月12日付「北海」)。,その席上、目的・性質は「北海」と同じ別の1紙発刊の声が上がり、にわかに発刊が決まったのが「北海公論」であった,一日も欠く可らざるは固より論を俟たざる所なり」(9月1日付「北海公論」社説)として、北海の代替紙「北海公論 / 北海公論
函館市史 通説編 第一巻 (北海道の自然)

北海道の自然 先史時代の自然環境は文化の上でも大きな影響を与える。,狩猟と漁労生活が生業であったから、動物や魚などの狩猟、漁労用具の変化もあったが、人種や民族の移動は陸上よりも,海上で行われた。,十勝、釧路、根室は千島海流の影響を受けるが、西側の日高、胆振、渡島の東海岸は対馬海流と千島海流の影響を,太平洋沿岸、日本海沿岸、オホーツク海沿岸では海流と高、低気圧の状況で気温の差も著しい。 / 北海道の自然
南茅部町史 上巻 ([嘉永七年六箇場所書上])

南茅部町史 上巻 / 一 鯡差網   弐百三拾放 一 村中川     但川幅弐間仮橋御座候 一 木直しゟ尾札部迄海岸通極難所,一   人 別   拾五人      男 九 人    内      女 六 人 一 煎海鼠,人 別  廿壱人      男 拾人     内      女 拾壱人       鱈布苔煎海鼠産物,前同断 但壱束ニ付直段八百文 一 布 苔  七拾〆匁   前同断 但壱〆匁ニ付直段百五十文 一 船海鼠,前同断 但壱駄ニ付 直段七拾五文 一 鱈     千七百束 前同断 但壱束ニ付直段八百文 一 煎海鼠 / [嘉永七年六箇場所書上]
南茅部町史 上巻 ([幕軍上陸])

南茅部町史 上巻 / [幕軍上陸] 明治元年、榎本武揚に率いられた幕府脱走軍は、東北諸藩の同志を合流して一〇月一九、二〇日,、風雨の中、鷲ノ木(森町)に上陸した。  ,徳川海軍、開陽、回天、蟠龍、長鯨、神速、大江、回春、鳳凰     右船之内壱艘、当村着三十人計揚陸致,急使ヲ以テ申上候、一昨日徳川軍艦入艘致シ程ナク上陸、人数七八百人程御座候。,若シ万一騒動ニ相成候ハゞ、市中迷惑ニ御座候哉ト御知ラセ申上候。当所一同混雑仕候。 / [幕軍上陸]
恵山町史 ([海底の地形])

東側の海底は、下北半島の海岸線に沿うように大間海釜・下北海隙・汐首海釜が連なって200メートル以深の細長,い凹地を形成しているが、最深部は汐首海釜の中の恵山と下北の下風呂を結ぶ南北線上付近で400メートルにも,[海釜]すり鉢上にくぼんだ海底の凹地。,[海脚]海岸山地や海嶺などの大きな高まりから、海中で外へ突きだしている尾根状の高まり。  ,一方西側の海底は、半分以上が津軽海盆と呼ばれる凹地になっていて水深は200メートル位である。 / [海底の地形]
戸井町史 ([戸井の海棲動物と海藻類])

[戸井の海棲動物と海藻類] 戸井海域は、暖流と寒流の接触するところで、魚類や海藻類の豊富な海である。,赤道附近の海域で発生して、太平洋を北上する暖流黒潮の一部が、対馬海峡から日本海にはいって対馬海流となり,、それが更に北上して、一部が分れて津軽海峡の西口松前沖からはいって津軽海流となり、東に流れて戸井沖、恵山沖,又、ベーリング海から千島沖を通過して、太平洋を南下する寒流親潮は、その一部が分れて、津軽海峡の東口恵山沖,戸井近海でとれる魚は、潮流が激しく、海水がきれいなせいか(・・・)、同じ魚の種類でも、内海でとれた魚よりも / [戸井の海棲動物と海藻類]
函館市史 通説編 第二巻 (北海朝日新聞)

北海朝日新聞 34年8月23日「北海朝日新聞」と改題、紙面構成も2面のトップに論説が入り、時評″眼前口上,主筆は青木清治郎、社長川上嘉吉、発行所は北海朝日新聞社で、社屋は翌35年4月末に末広町80へ移転した。,また500号から1部2銭に値上げしたが、35年7月2日から次の改題のために紙面数を再び4面に変更し、1,  「北海朝日新聞」と社屋 「北海朝日新聞」と社屋  社屋写真は明治35 / 北海朝日新聞
函館市史 通説編 第一巻 (志海苔古銭)

窯印は井桁に「上」の字を組合せた押印で、越前古窯第Ⅲ期、室町時代前期に作られた甕である。, 古銭は1・2号甕に37万7,449枚、3号甕に6万6,987枚、合計37万4,000枚以上あったが,銭種は94種類で不明銭が1万枚以上あるが、最も多いのが北宋銭で88.1パーセントを占めている。,)元宝3万4,897枚、元祐通宝3万3,904枚、天聖元宝1万7,924枚などと、同一銭貨で1万枚以上のものが,推定45万枚以上にのぼる量は、全国的に見て長野県中野の15万枚、福岡県久原の9万3,800枚、静岡県北山 / 志海苔古銭
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