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函館市史 別巻 亀田市編
(亀田川護岸)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
川
護岸 袴腰岳麓に源を発して流れる
亀
田
川
は、
亀
田
村中央部を貫流し、新
川
から海へ注いでいるが、本村産業発展上大事,にもかかわらず終戦後は特に河
川
沿岸の被害増加が目立ってきたことにより、これが対策として函館市との境界( /
亀
田
川
護岸
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田川水利権)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
川
水利権
亀
田
土地改良区は設立以来事業計画に基づき着実な活動を続けてきているが、昭和三十一年函館市中野,ダム着工のころからの問題であった
亀
田
川
上流水利権については、
亀
田
川
水利の完全確保のため、函館市に対し再三,しかし、この問題の結論を見ないまま昭和三十五年まで持越されてきていたところ、同年四月二十六日
亀
田
村青年研修所,において函館市、
亀
田
土地改良区との合同協議会がもたれ、両者互いに条件譲歩の了解となり、同五月十二日函館市役所,長年の懸案であった
亀
田
川
上流水利権問題に終止符が打たれたわけで、河
川
からの引き水に伴う灌漑管理関係も容易 /
亀
田
川
水利権
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / このころの
亀
田
の位置について『津軽一統志』によれば、あるう
川
、
亀
田
、箱館、弁才天、
亀
田
崎、しりさつふ、,そのため
亀
田
川
の入江には停泊する船も多く、戸数も増加したのである。,戸数には多少の誤りもあるが、カミダクラ(
亀
田
村)は函館湾に注ぐ
亀
田
川
の
川
口から約八キロメートルさかのぼったところにあって,
亀
田
川
の
川
口を現在の万代町あたりと考えると、地図上の
亀
田
村は宮前町から梁
川
町あたりになる。,
亀
田
川
は流路延長約二〇キロメートルに及ぶ
川
であるが、この図では約八・八キロメートル上流に伸び、この間に /
亀
田
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田番所)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
番所 寛政年間筥館市中之図 蝦夷島奇観所載 市立函館図書館蔵(箱館移転後の
亀
田
番所)
亀
田
番所,の位置は現在の
亀
田
八幡宮付近と推定されるが、確かな位置は不明である。,寛文十(一六七〇)年には家数二〇〇軒もあり、繁栄していた
亀
田
の地は、元禄十六・七(一七〇三・四)年
亀
田
川
,
亀
田
番所は寛保元(一七四一)年箱館へ移ってからも、
亀
田
番所または
亀
田
箱館番所と呼ばれていた。 ,また文化元(一八〇四)年には
亀
田
にあった奉行役宅(旧
亀
田
番所)を廃し、箱館に移して奉行交代屋敷を造ったが /
亀
田
番所
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田八幡宮)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
八幡宮
亀
田
八幡宮 『
亀
田
八幡宮紀元書』の最初に「
亀
田
郷惣鎮守、正八幡宮建立、慶長八年癸卯十月,明治五年、菊池重賢の「巡回御用神社取調」の際は、
亀
田
村の八幡宮として、詳細に調査が行われた。 ,『
亀
田
村郷土誌』(大正初期)には「明徳元年に函館の館主河野加賀守森幸が越前国敦賀気比神社より分霊を奉じて,明治三十二年函館区との合併後も、
亀
田
村民は氏子として、函館市と一体となり、この神社を尊崇している。,
亀
田
市における桔梗町の比遅理神社、鍛治町の稲荷神社、神山町の稲荷神社、赤
川
町の三嶋神社、石
川
町の
川
上神社 /
亀
田
八幡宮
函館市史 別巻 亀田市編
(シコツと亀田)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / シコツと
亀
田
文化四(一八〇七)年『松前紀行』(別名蝦夷紀行・陸奥紀行)には、「
亀
田
川
を越え万年橋を,渡るこのあたりは志こつといひしが、ゆゆしき名なりとて近頃改めしとぞ」と記されており、
亀
田
川
(現在の教育大学裏,、シコツの音が「死骨」と同じなのをきらい、縁起のよい
亀
と、水
田
があったのでこれに
田
の字を付け、
亀
田
としたといわれるようになった,『松前紀行』にあるように、「シコツ」という地名は確かに
亀
田
川
下流域に付けられた地名であるが、
亀
田
地域一般,『松前紀行』はその文中で
亀
田
の地名を使用しているが、それは単に
亀
田
川
下流域の一部を示すものではなく、もっと / シコツと
亀
田
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田港の発展)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / より来港する交易船の停泊地として、更に
亀
田
川
の豊かな飲料水や、農業に適する広い平野があるなどの理由により,、慶長年間に
亀
田
番所が設けられ、
亀
田
郷を治め、
亀
田
港に入港する交易船や往来の旅人などから税を徴収した。,但
川
内、横浜、佐井泊五月朔日より七月九日迄着岸。,、五月より七月十五日までに松前船七六艘が
田
名部、
川
内、横浜、佐井などの港に入港していることがわかる。,当時蝦夷地では
亀
田
港、江差港、松前港が栄えていた時代であり、これら
田
名部浦に入港した松前船の中には
亀
田
港 /
亀
田
港の発展
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田郷の範囲)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
郷の範囲
亀
田
郷の範囲は時代によって多少の違いはあるものと考えられるが、
亀
田
八幡宮の旧記、享保九,(一七二四)年の記事に、「右神楽料留(富カ)
川
村ヨリ
亀
田
郷ト唱、箱館市中小安村迄」とあることや、『東蝦夷地道中記,と記されているところから、
亀
田
郷は東は富
川
村(現上磯町字富
川
)、南は箱館市街、東は戸井町小安、北は大野町 /
亀
田
郷の範囲
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田の木材)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
の木材 山から木材を切り出すことが最初のころの林業であり、
亀
田
地域においていつころからこれが始められたものかつまびらかではないが,聞取書 一 正徳四甲午年中当郡神山村居住喜左衛門 覚左衛門、金ノ丞ノ三名、赤
川
沢エ 当時
亀
田
郡赤
川
村,このように
亀
田
地域においては、雑木などについては、村人が自由に伐採し、薪や炭として、また小屋掛けなどの,近年山伐からし材木纔斗(ワズカバカリ)出申候故只今ハ志摩守用木斗伐セ申候よし とあり、当時
亀
田
奉行所, この法令から知られるように、茂辺地、留
川
村(上磯町字富
川
町)では檜木は大小によらず伐採も皮 /
亀
田
の木材
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村の電話)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
村の電話 函館市内でも交換電話以前には官庁の直通電話や漁場の私設電話などがあったように、
亀
田
村にも,それは明治二十一年九月二十三日に架設された函館区役所-元町水道事務所-赤
川
水源地事務所間九・六二キロの,官庁電話であり、これが
亀
田
村の電話のはじまりであろう。 ,
亀
田
村の交換電話に関する資料は乏しく、詳細は不明であるが、『
亀
田
村誌』によれば、大正六年には会社、工場,から普通加入区域に変更され、
亀
田
村にも電話が拡大普及した。 /
亀
田
村の電話
函館市史 別巻 亀田市編
([亀田村音頭])
函館市史 別巻
亀
田
市編 / [
亀
田
村音頭]
亀
田
村音頭 作詩 佐々木善松 作曲
田
中 佐吉 (一)ハアー港函館前(みなとはこだてまえ, 馬鈴薯畠(ばれいしょばたけ)の花(はな)の波(なみ) ヨイトナ サーサ住(す)みよい
亀
田
村,めよと 国立海洋気象台(こくりつかいようきしょうだい) ヨイトナ サーサ住(す)みよい
亀
田
村,く 桜(さくら)眺(なが)めて笑(わら)い顔(がお) ヨイトナ サーサ住(す)みよい
亀
田
村, 秋(あき)は花(はな)咲(さ)く桔梗野(ききょうの)に ヨイトナ サーサ住(す)みよい
亀
田
村 / [
亀
田
村音頭]
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田小学校)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
小学校
亀
田
小学校 一 港地域合併後 昭和二十四年四月、港分校は函館市に合併したので、,その地域は
亀
田
小学校から離れることになった。,二 研究の歩み(要項)
亀
田
小学校は伝統的に教育の研究実践において有名であるが、戦後も新たな研究主題,「(前略)
亀
田
小の場合、長い歴史の上にたったものである。,(旭
川
市立学校教員道内教育視察報告―四七・一二―の中、
亀
田
小学校の参観の部より抜粋) 四 歴代学校長 /
亀
田
小学校
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村の大半を割愛)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
村の大半を割愛 明治三十二年の合併については『函館区史』を中心として、「
亀
田
村の一部」という表現,[合併略図] 函館市が昭和六年町名改正の際、大字
亀
田
村の十九字が、万代町、新
川
町、松
川
町、宮前町,、吉
川
町、北浜町、追分町
亀
田
町、八幡町、白鳥町、大
川
町、
田
家町、高盛町、砂山町、金堀町、堀
川
町、的場町,以上によって、
亀
田
村の一部というよりは、「
亀
田
村のおよそ二分の一」と考えてもよいと思う。 ,函館区を重点的に把握した区制実施に当って、
亀
田
村は戸長役場、
亀
田
小学校、
亀
田
八幡宮および五稜郭を中心とした /
亀
田
村の大半を割愛
函館市史 別巻 亀田市編
(公立亀田村消防組)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
村においても以前各村ごとに消防組が組織され、互いに協力体制にあったが、これによって
亀
田
地域各村を統合,し、公立
亀
田
村消防組を組織し、この制度は以後明治、大正、昭和の三十六年間にわたって続けられた。,なお明治三十四年四月、
亀
田
村の一部を当時の函館区に編入したが、これに伴い
亀
田
消防組の一部を函館消防組に,、二部を鍛冶、三部を赤
川
地域として分担、初代組頭に寺島紋太郎が就任した。,を七〇名より一〇九名に増員し、消防器具置場四か所(桔梗、鍛冶、赤
川
、本町)、火の見梯子八基(前記器具置場 / 公立
亀
田
村消防組
函館市史 別巻 亀田市編
(カンメテと亀田)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / カンメテと
亀
田
『東北太平記』に、 諸国の兵集北部并中津
川
七郎右衛門帰降之事 却説,、蛎崎蔵人信純は南方の両将を語らい、殊に十ケ年以前より金銀を夥しく与えて召抱、北洲
亀
田
の城に密に隠せし,六月中旬迄津々浦々に馳集、和漢の兵こそ夥しけれ(中略) 一 蔵人十ケ年前より北洲カンメテ〔今云
亀
田
,は
亀
田
に一城を構えたことがあるとも記されている。 ,同書の記すように「カンメテ」から「
亀
田
」に変化したものであろうか。 / カンメテと
亀
田
函館市史 別巻 亀田市編
(函館区制と亀田小学校)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 従来の函館区の外、
亀
田
村の東南部の広大な地域(字村内 字大
川
通内 字五稜郭通 字陣屋通 字千代ケ岱 字湯
川
通, 字柏野 字十文字 字村内
川
東 字万年橋 字ゴミ
川
ノ内 字有
川
通内 字札幌通 字八幡社後手 字
田
家ノ内,と称し、昭和六年町名を改めるまで、
亀
田
郡
亀
田
村と函館区
亀
田
村が共存していた。 ,
亀
田
村は明治三十五年二級町村制施行に当り、
亀
田
村外五か村(鍛冶村 神山村 赤
川
村 桔梗村 石
川
村)戸長役場,を廃止し、従来の村名を大字として合併、
亀
田
村と改称したことにより、新しい村の誕生となり、その後、
亀
田
町 / 函館区制と
亀
田
小学校
函館市史 別巻 亀田市編
(道道上磯・亀田・湯川線改良工事完成)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 道道上磯・
亀
田
・湯
川
線改良工事完成 道道上磯・
亀
田
・湯
川
線改良工事は、二か年継続事業として昭和二十八年,この道道路線は延長一五キロメートル余で上磯町字七重浜を起点として、
亀
田
村のほぼ中央部を西東に横断し、函館市湯
川
町,に至るもので、上磯町・
亀
田
村・函館市を結ぶ環状幹線道路として大いに利用されてきていた。 / 道道上磯・
亀
田
・湯
川
線改良工事完成
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田巡査派出所の設置)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 基づき
亀
田
村総代と不動産所有者総代は、明治十五年八月十八日次のように
亀
田
村巡査派出所設置願いを函館県令, 位 置 渡島国
亀
田
郡
亀
田
村 距 離 県 庁 一里五丁三十間 警察署, 二十五丁三十間 管轄地名 渡島国
亀
田
郡 村二十九
亀
田
村 上湯
川
村 下湯
川
村 根崎村, 志苔村 銭
亀
沢村 石崎村 小安村 戸井村 尻岸内村 椴法華村
亀
尾村 鍛冶村 神山村 赤
川
村 石
川
村, 桔梗村 大中山村 一本木村 千代
田
村 鶴野村 大野村 本郷村 文月村 峠下村 市渡村 藤城村 軍
川
村 /
亀
田
巡査派出所の設置
函館市史 別巻 亀田市編
([亀田町の字名称変更書])
函館市史 別巻
亀
田
市編 / [
亀
田
町の字名称変更書] (写二)
亀
田
町の字名称変更書
亀
総庶号 昭和四十六年九月十一日,
亀
田
郡
亀
田
町長 吉
田
政雄印 北海道知事 堂垣内尚弘 ,から
亀
田
町の字の名称を別紙のとおり変更したいのでお届け致します。 ,
川
本 町(ほんちょう) 字本 町 (添付書類) 議案第二号
亀
田
町,昭和四十六年九月七日提出
亀
田
町長 吉
田
政雄 / [
亀
田
町の字名称変更書]
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田郡下の合併例)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
郡下の合併例 地理的、歴史的に必然な合併は、官制によることなく、古くから行われていた。,から開拓使長官黒
田
清隆あてに、次のとおり提出された。 ,合併ヲ要スル各村左ノ通 渡島国
亀
田
郡 七重村飯
田
村合併改七飯村 中島村大
川
村合併改大中山村, 深堀村下湯
川
村合併改下湯
川
村 鷲巣村上湯
川
村合併改上湯
川
村 また、飯
田
村百姓一同からは、合併,地租創定という事情もあったけれども、この時に前記のように深堀村と下湯
川
村、鷲巣村と上湯
川
村の合併も成立 /
亀
田
郡下の合併例
函館市史 別巻 亀田市編
(函館駅と亀田駅)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 函館駅と
亀
田
駅 『函館駅開駅概史』によれば、函館市若松町の現在位置に函館駅を建設しようとしたが、鉄道,その後明治三十七年七月一日、若松町に函館駅が設けられ海岸町にあった旧函館駅は
亀
田
駅と改称されたが、残念,なお、
亀
田
停車場に組立工場が設置されていたが、明治三十九年三月より函館工場と改称され、後に五稜郭に移った,北海道鉄道開通当時の時刻表(北海道鉄道株式会社の路線は函館・小樽間のみ、他は他社線) ○下り列車 上野・旭
川
間連絡時刻表 / 函館駅と
亀
田
駅
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田地域の馬と競馬)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
地域の馬と競馬 『明治十九年 各村創立聞取書
亀
田
外七ヶ村』によれば、 渡島国
亀
田
郡赤
川
村起源沿革,石
川
村 一 馬ノ蕃殖及ヒ即今蕃殖景況改養(善)ノ方法 安政四年岩城国相馬播摩守殿当村開墾,赤
川
村 一 正徳四甲午年中当郡神山村居住喜左衛門、覚左衛門金ノ丞ノ三名、赤
川
沢エ 当時
亀
田
郡赤
川
村,匏菴遺稿』(函館市史史料編第二巻所収)には、 年々端午なりしやと覚へたれど、今聢と記せざるが、
亀
田
村八幡宮祭礼,と記されており、
亀
田
八幡宮の祭礼に競馬会があり、これに出場する馬の中には「随分高価を捐て良馬を購ふ者あり /
亀
田
地域の馬と競馬
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田地域の稲作)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
地域の稲作
亀
田
地方においても文化初年水
田
は鍛冶村に七町歩、神山村に六町歩も存在するほどであったが,『各村創立聞取書』(明治十九年)によれば、 桔梗村 明治元年ノ頃ヨリ村中協義之上、旧
田
ノ形,チアル故二ケ所再墾水
田
ヲ開キ漸次三反歩出来、即今本年ニ至リ六町七反七畝十四歩開懇ス。 ,石
川
村 明治七年ヨリ村民共旧
田
之是アルケ所水
田
開キ漸次九反歩程出来、即今ノ(明治十三年)水
田
反別ハ本年,、急速に水
田
面積は増加しているが、米の生産量は少なく、
亀
田
地域住民の需要量をまかなうまでには至らない状態 /
亀
田
地域の稲作
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田地域駐在所の沿革)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
地域駐在所の沿革 〔桔梗駐在所〕明治三十三年の『函館新聞』には、「桔梗村駐在所の新設 函館区の佐藤署長,当時桔梗村は
亀
田
分署の区域に属していたが、分署より遠く、何かと不便でもあり、地元有志の木下作太郎、寺島紋次郎,、藤谷栄吉、守
田
岩雄、佐々木久松らが設置運動を行い許可を受け、旧桔梗小学校の古材で桔梗巡査駐在所を設置,〔赤
川
駐在所〕明治十四年地元民の要望により、
亀
田
村大字赤
川
村に草ぶきの民家を改造し、赤
川
巡査駐在所を設置,その後明治二十年赤
川
小学校の古材をもって赤
川
三四五番地に建築移転した。(函館中央署百年史) /
亀
田
地域駐在所の沿革
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村農業協同組合)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
村農業協同組合 この
亀
田
農協は昭和二十三年一月二十日創立総会を開催、組合員数八五四名、出資金七八万円,その後、昭和二十六年に藤谷久三郎が二代目、同三十一年に
川
井藤五郎が三代目組合長となって組合の発展に尽力 /
亀
田
村農業協同組合
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村並びに渡島地区共進会)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 優勝大野村 二位
亀
田
村 三位上磯町 四位森町 五位銭
亀
沢村 六位函館市 七位七飯村 ,○和種馬全道共進会 昭和三十二年九月十日より三日間苫小牧市において開催 出陳 道南生産連推薦による
亀
田
村字赤
川
在住, 福
田
健吉所有 第五春姫号 第二位
亀
田
村字昭和在住 鈴木 勇所有 新栄号 ○
亀
田
村第八回畜産品評会,○
亀
田
町第十四回家畜共進会 昭和三十九年七月二十二日、
亀
田
中学校グランドで開催 家畜共進会,○
亀
田
町第二十回畜産共進会 昭和四十五年七月九日、
亀
田
町農業協同組合本部裏で開催 出陳 乳牛、馬、豚等五 /
亀
田
村並びに渡島地区共進会
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田警察分署の改革と所轄地域)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
郡役所の所在地となった七飯村に警察署が移されることになり、従来函館警察署
亀
田
分署として存在していたものが,七飯警察署
亀
田
分署と改称された。,このため
亀
田
分署長は
亀
田
村戸長が兼務することになり、このほかにも郡書記と警部補が併任され、巡査も行政事務,『明治二十五年北海道
亀
田
上磯茅部山越郡統計概表』にはその所轄区域が
亀
田
鍛冶 神山 赤
川
桔梗 石
川
,下湯の
川
上湯の
川
亀
尾 根崎 志苔 銭
亀
沢 石崎の十三か村と記されている。 /
亀
田
警察分署の改革と所轄地域
函館市史 別巻 亀田市編
(一 亀田村の郷土史について)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / しかし、調査項目は
田
畑、山林、秣(まぐさ)場、畑作の状況、箱館・江戸・三厩などへの道のり、
川
、橋の状況,馬車、水車などの項目から気象状況、風土病、職業、貧富の家屋、飲水、産物、村落状況、駅路、衢(ちまた)、
川
、,金融機関 納税成績 村有財産 公経済 第三章 特殊の事項 第一節 本村に関する区町村 函館区 湯
川
村,として、村役場ではその内容に一部修正を加え、更に村内の小学校、神社、寺院、赤
川
水道沈澱池、国道、煉瓦工場,一 わたしたちの
亀
田
市 まちのようす
亀
田
市の気候 二
亀
田
市の人びとのしごと / 一
亀
田
村の郷土史について
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田町農協と鍛神農協合併)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
町農協と鍛神農協合併
亀
田
町農業協同組合と鍛神農業協同組合(両組合とも昭和二十三年設立)との合併問題,これによって、町長、町議会議長、農業委員会会長が世話役となり、七月二十五日
亀
田
町農協、鍛神農協、開拓農協,この基本線に基づき、
亀
田
町農協と鍛神農協が正式に合併を決議し、「
亀
田
町農業協同組合」として一本化されたのは,
亀
田
町農業協同組合役員 組合長理事
川
井藤五郎 理事 横山 巌 土井 勝雄 佐々木 ,正 紫前 政蔵 上村長兵衛 浅間 重三 前
川
清 佐藤 金蔵 湊 与四三 /
亀
田
町農協と鍛神農協合併
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田諸村の馬数減少)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
諸村の馬数減少
亀
田
地域においては、前記のように明治初年より十五、六年までは馬の飼育に非常に熱心,駅馬ノ儲ナク、其逓伝スルコトアレバ区中ノ馬持ヨリ順番ヲ以テシ、其多数ノ逓伝ヲ要スルトキハ、本駅近郷乃チ
亀
田
,、鍛冶、神山、赤
川
ノ数村ヨリ交番ヲ立テ、人馬ヲ聚集シ、以テ逓伝ヲ為ス。,古くより
亀
田
地域の村々では自由に山野に放牧し、比較的飼育は容易であったが、開発の進展とともに耕作地に害,『渡島国状況報文
亀
田
村外六ケ村』によると、 「昔時運搬業ノ多カリシ頃ハ一戸ニ付少キモ四、五頭 /
亀
田
諸村の馬数減少
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田村社会教育委員会)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
村社会教育委員会 昭和二十一年十一月五日、北海道教育委員会の告示により、「市町村社会教育委員規程,社会教育に関し市町村並びに各種団体その他関係方面の連携協力を図ること 以上の諸点であって、
亀
田
村,武藤 霊真(僧侶) 井上 忠三(村議会議員) 大沼 保徳(
亀
田
小学校長) 泉 耕助(農業,) 竹部 三郎(赤
川
小学校長) 横山 タカ(主婦) 三上 ノブ(主婦) なお、公民館 /
亀
田
村社会教育委員会
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田小学校の教育)
函館市史 別巻
亀
田
市編 /
亀
田
小学校の教育
亀
田
小学校は前述のように、函館師範学校の代用附属として、教育実習生の指導とともに教育研究,について努力を続けてきたが、昭和の前期における概略を「自治展覧会出陳品控」(
亀
田
村役場)の中に掲載された,「
亀
田
小学校教育の実際」から引用することにしたい。 ,また、札幌、旭
川
、函館の三師範学校附属合同研究会開催にも常時参加して、教育の研究実践に努力を続けた。 /
亀
田
小学校の教育
函館市史 別巻 亀田市編
(函館市史 別巻 亀田市編 目次)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / の
亀
田
三
亀
田
の館 第二節 蝦夷の戦いと
亀
田
………………………………………………… 73, 一
亀
田
の地名由来 二 鍛冶村の発達 三 上山村(神山村)の発達 四 赤
川
村の発達 ,五 蝦夷地の幕府直轄と
亀
田
六
亀
田
の開発と御手作場 七 石
川
村の開拓 八 桔梗村の開拓,き 第九節 戦争の影響 …………………………………………………………489 一 函館(赤
川
),………………………………………………………………585 一 住宅 二 上・下水道 三 河
川
・ / 函館市史 別巻
亀
田
市編 目次
函館市史 別巻 亀田市編
(飛行場関係書類(亀田中学校関係)とその後)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 飛行場関係書類(
亀
田
中学校関係)とその後 ア 在
亀
田
村赤
川
旧陸軍函館飛行場開放後の措置について指示摘録,(昭和二三・五・二五) イ
亀
田
村字赤
川
飛行場の利用についての打合摘録(マーザート少佐、ウェイリー,大尉と支庁長森
田
主事ら二三・五・二八) ウ
亀
田
村字赤
川
旧陸軍函館飛行場開放後の措置について(二三,・五・二六) エ 在
亀
田
村字赤
川
飛行場の開放に関する文書について(二三・五・二六) オ 新制中学校敷地,
亀
田
中学校開校式の日
亀
田
中学校は道南一、全道的にも有数のマンモス中学校となり、生徒収容の限界 / 飛行場関係書類(
亀
田
中学校関係)とその後
函館市史 通説編 第二巻
(亀田川転注工事)
亀
田
川
転注工事 明治16年の内務省技師モルトルの調査結果に基づいて、積極的に改良されたのが、
亀
田
川
の,函館県は
亀
田
川
の転注計画を要請、道庁時代になり、明治19年5月に実測、10万1212円の予算で、20年起工,モルトルの意見に従い、
亀
田
川
を函館湾ではなく、大森浜に転注したのである。,モルトルの設計により、新
川
路1571間(旧河
川
部の拡幅延長666間、新規掘削延長905間)の予定のところ,また願乗寺
川
は21年埋立開始、22年埋了した。 /
亀
田
川
転注工事
函館市史 通説編 第一巻
(亀田)
亀
田
旧
亀
田
市は、横津岳および袴腰岳を背にして函館山と函館港を望み、南東部で函館市と相接し、西は上磯町,に、北西は蒜沢(にんにくざわ)
川
を境として七飯町に、北は鹿部村、南茅部町と接していた。,歴史に出てくる
亀
田
の地名、所在地は今日の旧
亀
田
市の範囲とは一致しないが、17世紀ころからすでに開拓農民,が今日の旧
亀
田
市内の地域において村落を形成していたことが知られている。,人口の増加に伴って小売店・卸売店の進出も目立ち、工場の一部も用地を
亀
田
に移すものが増(ふ)え、工場数は /
亀
田
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢村)
函館市史 銭
亀
沢編 / 字本村(九三筆)、古
川
尻(四七筆)、湊(二七筆)、埜広場(六筆)、および隣村の
亀
尾村字
川
原続(一筆)、,野
田
辺(二筆)、嘴止鷲(一筆)の全部で一七七筆である。,次に村内で耕地を持つ者は八五戸あり、その筆数は畑一七二筆、
田
八筆である。,六筆ある
田
地は一等から四等である。,銭
亀
沢村に一〇筆ある鰯漁場は、字古
川
尻および湊にあり、その割渡年次は明和三年(一筆)、天明二年(八筆) / 銭
亀
沢村
函館市史 別巻 亀田市編
(赤川沢から赤川村へ)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 赤
川
沢から赤
川
村へ 赤
川
村の名が初めて資料に見られるのは、天明元(一七八一)年の『松前志』である。,七重村
亀
田
村 昔時の番所也。, 三十戸不レ足 百二十余人 下湯
川
村 五十戸不レ足 二百余人
亀
田
村 三十余戸 百四十余人,一 正徳四(一七一四)甲午年中当郡神山村居住喜右衛門、覚右衛門、金ノ丞ノ三名赤
川
沢エ 当時
亀
田
郡赤
川
村,イタシ、則赤
川
沢ヲ赤
川
村ト称シ候由。 / 赤
川
沢から赤
川
村へ
函館市史 別巻 亀田市編
(吉田政雄)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 昭和二年函館師範学校専攻科を卒業し、釧路市第二小学校訓導、昭和三年には
亀
田
小学校訓導と函館師範学校訓導,昭和四十二年
亀
田
町長に当選、革新町政を標榜し、町政刷新に努力した。 ,
亀
田
小、昭和小、鍛神小、
亀
田
中の増築、本通小の新築、
亀
田
高校と函館商業高校の統合、北海道教育大附属函館小中学校,の函館市よりの移転、昭和小や
亀
田
中の屋内体育館新築、昭和小、鍛神小、
亀
田
小、桐花中のプール新設のほか児童館,、赤
川
通保育所、福祉センター、港福祉会館、母子健康センター、青少年会館の新設、
亀
田
町町民交通傷害保険制度 / 吉
田
政雄
函館市史 別巻 亀田市編
(赤川巡査駐在所)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 赤
川
巡査駐在所 赤
川
巡査駐在所 明治十三年ころ、今の赤
川
町は
亀
田
郡赤
川
村と呼ばれ、戸数は一〇〇,従って巡査駐在所設置の気運が村民の間に台頭したために、翌明治十四年、七飯警察署
亀
田
分署赤
川
巡査駐在所として,はじめの建物は明治十四年、当時の
亀
田
村大字赤
川
村(赤
川
小学校敷地内、旧御真影奉安所のあった所)に、坪数,同三十五年四月一日、旧赤
川
村より
亀
田
村有財産として
亀
田
村役場に寄付され、以来四〇有余年同番地に在ったが,しかし、赤
川
の住民は水道貯水池の存する重要性を主張して譲らず、結局その中間点である神山・赤
川
の境界となる / 赤
川
巡査駐在所
函館市史 別巻 亀田市編
(赤川村の植林)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 赤
川
村の植林
亀
田
地域における林業の記録は、わずかに次のようなものが残されているのみである。 ,嘉永年間(一八四八―五三)赤
川
村において「近江新三郎ナルモノ杉ヲ栽培セシニ始リ、尓後同人ハ殆ント年々栽植,明治八九年頃ヨリ栽植スルモノ数名アリ」(『渡島国状況報文』)とあるのと、『小林重吉事蹟概略』に、「嘉永二年赤
川
村字
亀
/ 赤
川
村の植林
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢周辺の地名)
函館市史 銭
亀
沢編 / 「松前より下狄地所付」として記録された地名を
亀
田
から小安までを抄録すると次のとおりである。, 一
亀
田
川
有 澗あり 古城有 一重堀あり 家二百軒余 一 箱館 澗有 古城有 ,から家あり 一 辨才天 一
亀
田
崎 一 しりさつふ 小船 澗あり 家七軒, 一 大森 家十軒但から家有 一 湯の
川
小
川
有 ,するや、泰衡の残党逃れて津軽に奔り後蝦夷地に入る、是れ渡党の初めにして、更に下って文暦時代に至り北条氏和
田
の / 銭
亀
沢周辺の地名
函館市史 別巻 亀田市編
(赤川学校の誕生)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / の諸氏其他郡長広
田
千秋郡書記坂本信近学事取締素木等の諸氏が出張され、午後一時各々席定まりて、先づ小貫氏,当村は
亀
田
村につぐべき大村なれば、当日の参観人無慮二百余人にて近頃の盛式なりし由、本校は新築に係り前口六間奥行四間,第一回卒業証書を手にした人は三人(高瀬忠太郎、近江孫作、永
田
三次郎)で、明治十九年四月七日となっている,明治二十年秋には、
亀
田
、鍛冶、神山、赤
川
、桔梗の各校から
亀
田
小学校に集合して、テストを受け、パスした者,二十七年、
亀
田
、赤
川
、鍛冶、神山の各校の連合運動会を七重浜で行うなど、各校の親睦及び協力を考えていた。 / 赤
川
学校の誕生
函館市史 別巻 亀田市編
(神山・鍛冶・赤川地区の電燈)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 神山・鍛冶・赤
川
地区の電燈 神山・鍛冶・赤
川
地区に電燈がついたのは、桔梗地区に遅れること二年、大正十二年八月,、赤
川
通り一八〇円、同本通り一五〇円、合計三、四九三円と
亀
田
村の拠出金などによってまかなった。 ,この点燈を祝って翌大正十三年八月十七日、鍛神小学校において
亀
田
村電燈点火祝賀会が開催された。, 増
川
朝一郎 池
田
音右衛門 永
田
弥助 荒
川
三太郎 伊藤 弁吉 名和徳兵衛 永
田
, 仙吉 小熊
亀
蔵 水島玉太郎 ついで越
田
副委員長の工事経過報告、関崎支庁長、岡本水電専務 / 神山・鍛冶・赤
川
地区の電燈
函館市史 別巻 亀田市編
(小田島川護岸)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 小
田
島
川
護岸 港中央部を流れる小
田
島
川
は増水のたびに決壊するので地域住民に不安を与えていたが、護岸災害復旧工事 / 小
田
島
川
護岸
函館市史 通説編 第一巻
([亀田川西側の扇状地群について])
[
亀
田
川
西側の扇状地群について]
亀
田
川
の東側には鈴蘭丘面、中野町面、日吉町段丘、函館段丘、住吉町段丘,が分布するのに対し、
亀
田
川
の西側にはこれらの段丘に対比される扇状地や段丘が存在する。 ,の乗る緩斜面、また、
亀
田
川
右岸の180~160メートルに傾斜変換線を有する緩斜面は、いずれも古火山性扇状地,に相当し、これらを切って七飯、大中山、大
川
、桔梗、赤
川
等の新火山性扇状地が分布している。,このように、ほぼ
亀
田
川
を境にして東西で異なった地形をなしているのは、中の沢に見られるように、段丘礫層をはさんで / [
亀
田
川
西側の扇状地群について]
椴法華村史
(亀田番所の移設)
亀
田
番所の移設
亀
田
番所は寛文十年(一六七〇)に家数二百軒余もあった港町
亀
田
の中心であったが、そののち,、元禄十五・六年(一七〇二-三)に起きた
亀
田
川
の大洪水により、
亀
田
港の使用が出来にくくなった。,このような理由によって当時
亀
田
村に在った海産物問屋、運送業者、宿屋、小商人などは、船の出入りする箱館のほうへ,移動してしまい、これに伴ってこれらの監督、徴税に当っていた
亀
田
番所もまた寛保元年(一七四一)には箱館へ,しかし土地の人々は箱館へ移動してからもなお旧名を使用し、
亀
田
番所あるいは「
亀
田
箱館番所」と呼んでいた。 /
亀
田
番所の移設
函館市史 別巻 亀田市編
(永田徳松)
函館市史 別巻
亀
田
市編 / 永
田
徳松 (文政六年九月十九日生)
亀
田
村大字赤
川
村字山下三〇六番地 明治三十年以来二反歩 / 永
田
徳松
函館市史 銭亀沢編
(銭亀沢地域の産物)
函館市史 銭
亀
沢編 / 銭
亀
沢地域の産物 まず、銭
亀
沢地域の集落の変遷をおおまかに戸口の推移よりみてみたのが表1・4・1である,また、その約一〇〇年後の明治十三(一八八〇)年の「
亀
田
郡各村物産表」(北海道立文書館蔵 簿書番号四〇六八,「
亀
田
郡各村物産表」によれば、石崎、下湯
川
村の概況欄に「漁業ハ現今、至テ薄漁ナリ」「漁業ハ薄漁ナリ」〈,・石崎各村職業戸数(明治13年) 単位:戸 「
亀
田
郡各村物産表」明治十三年前季・後季(北海道立文書館蔵,・石崎各村物産一覧(明治13年) 「
亀
田
郡各村物産表」明治十三年前季・後季(北海道立文書館蔵 / 銭
亀
沢地域の産物
函館市史 銭亀沢編
(〈銭亀沢農業協同組合〉)
函館市史 銭
亀
沢編 / 〈銭
亀
沢農業協同組合〉 銭
亀
沢村一円を地区として、創設時には七〇〇名余りの組合員を有していたが、昭和二十八年度,また、銭
亀
沢村が、昭和四十一年十二月に函館市と併合したことを契機に、昭和四十三年度から、銭
亀
沢村農業協同組合,歴代の組合長は、九島喜三造(銭
亀
、昭和二十三年度~二十六年度)、
川
村弘(石崎、昭和二十七年度~二十八年度,)、中宮徳次郎(志海苔、昭和二十九年度~三十三年度)、引間真平(瀬戸
川
、昭和三十四年度~四十一年度)、,石
田
仙吉(中野、昭和四十二年度~合併の昭和五十年まで)であった。 / 〈銭
亀
沢農業協同組合〉
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