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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (亀田川水利権)

亀田川水利権 亀田土地改良区は設立以来事業計画に基づき着実な活動を続けてきているが、昭和三十一年函館市中野,ダム着工のころからの問題であった亀田川上流水利権については、亀田川水利の完全確保のため、函館市に対し再三,長年の懸案であった亀田川上流水利権問題に終止符が打たれたわけで、河川からの引き水に伴う灌漑管理関係も容易 / 亀田川水利権
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田川護岸)

亀田川護岸 袴腰岳麓に源を発して流れる亀田川は、亀田村中央部を貫流し、新川から海へ注いでいるが、本村産業発展上大事 / 亀田川護岸
函館市史 通説編 第二巻 (亀田川転注工事)

亀田川転注工事 明治16年の内務省技師モルトルの調査結果に基づいて、積極的に改良されたのが、亀田川の,函館県は亀田川の転注計画を要請、道庁時代になり、明治19年5月に実測、10万1212円の予算で、20年起工,モルトルの意見に従い、亀田川を函館湾ではなく、大森浜に転注したのである。 / 亀田川転注工事
函館市史 通説編 第一巻 ([亀田川西側の扇状地群について])

[亀田川西側の扇状地群について] 亀田川の東側には鈴蘭丘面、中野町面、日吉町段丘、函館段丘、住吉町段丘,が分布するのに対し、亀田川の西側にはこれらの段丘に対比される扇状地や段丘が存在する。  ,川左岸の173.4メートル三角点の乗る緩斜面、その東にある131.7メートル三角点の乗る緩斜面、また、亀田川右岸,このように、ほぼ亀田川を境にして東西で異なった地形をなしているのは、中の沢に見られるように、段丘礫層をはさんで / [亀田川西側の扇状地群について]
函館市史 別巻 亀田市編 (フランス軍艦の入港)

フランス軍艦の入港 亀田川にて異人洗濯の図 市立函館図書館蔵  安政二(一八五五)年六月七日、,箱館入港の仏艦乗組員は、毎日のように亀田川河口に上陸し、洗たくを行い、時には小魚や貝を採ったり、泳いだり,六月十三日   一 辰中刻頃より午上刻頃迄に、追々弐百三拾壱人、亀田川へ漕入、衣類洗濯并蜊(アサリ),六月十九日   一 卯中刻ウヰルギニー船のもの四拾八人、バッテイラ弐艘にて亀田川尻え漕寄、内士官弐人上陸
函館市史 別巻 亀田市編 (灌漑)

灌漑 亀田川  亀田村の水田はなんといっても、亀田川の水を利用して発展した。  ,亀田村内には、亀田川のほか陣川、七五郎沢川、中の川、タタラ沢川、蒜沢川、石川などの小さな川があったが、,明治二十二年に函館市では上水道用に笹流ダムを築造して、亀田川の流水を取水した。  ,この亀田川流域の水田三五〇町あり、反収で六斗の減収で石当り一万円であるから、年間二、一〇〇万円の損失であり,、小野総次郎村長以下三三九名で水田面積五八九町歩に毎秒二九・四七二立方尺の灌漑用水を、河川法に基づき亀田川
函館市史 別巻 亀田市編 (シコツと亀田)

シコツと亀田 文化四(一八〇七)年『松前紀行』(別名蝦夷紀行・陸奥紀行)には、「亀田川を越え万年橋を,渡るこのあたりは志こつといひしが、ゆゆしき名なりとて近頃改めしとぞ」と記されており、亀田川(現在の教育大学裏,『松前紀行』にあるように、「シコツ」という地名は確かに亀田川下流域に付けられた地名であるが、亀田地域一般,『松前紀行』はその文中で亀田の地名を使用しているが、それは単に亀田川下流域の一部を示すものではなく、もっと
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田)

そのため亀田川の入江には停泊する船も多く、戸数も増加したのである。,このようにして寺院などの箱館への移動が始まるが、一方では亀田川流域での居住者も増えていった。,亀田川の川口を現在の万代町あたりと考えると、地図上の亀田村は宮前町から梁川町あたりになる。,亀田川は流路延長約二〇キロメートルに及ぶ川であるが、この図では約八・八キロメートル上流に伸び、この間に,この地図に示された農産物の生産地と、亀田川の水質が飲料に適した良質の水であるとの報告によって、箱館開港
函館市史 別巻 亀田市編 (位置と地勢)

河川には亀田の中央を流れる亀田川がある。,亀田川は『函館区史』によれば「袴腰岳に発し、白井川赤井川の二溪流相合して赤川となり、亀田村を過ぎ亀田川,河川台帳によると、川上の赤井川に雁皮川、精進川、笹流川を合流して亀田川と称している。,更に五稜郭築造の際も木管によって亀田川の水を引用し、外堀にも注がれていたが、後になって外堀を製氷場に利用,また、亀田川の東方の沢などから流れ出てくる川は鮫川となり、南の低地帯から東に流れ、松倉川と共に大森浜に
函館市史 通説編 第一巻 (元禄の大洪水)

元禄の大洪水 しかるに亀田の港は亀田川の河口にあり、そのため砂や泥が流出して港を埋め、大船の多くは亀田,ことに元禄15年7月の大暴風雨により、亀田川は大洪水を起こし、畑作物が全滅したばかりか、この年は本州の
函館市史 通説編 第一巻 (プロピライト)

安山岩質プロピライトⅠは亀田川上流の庄司山と雁皮山にはさまれた地域、松倉川上流の三森山西方地域に分布している,松倉川のものは粘板岩を不規則に貫いているが、亀田川のものは汐泊川層中に迸入しており、全般に著しく鉱化変質,石英安山岩質プロピライトは松倉川上流と亀田川支流に分布する。
函館市史 通説編 第二巻 (内陸部の埋立と市街整備)

その原因は亀田川の土砂が港内に注流していることが考えられ、北海道庁が亀田川の転注を計画し、明治19年3,願成寺川から函館山を望む  亀田川を外海に転注した結果、願乗寺川は自然廃河となり、塵芥物が堆積して,函館区は亀田川の転注により、願乗寺の埋立が予想された明治19年4月の段階で、北海道庁に対し倉庫地として,これに対し北海道庁側より「一、川敷埋立ノ儀ハ亀田川堀割工事竣功ノ後着手スベシ 一、倉庫ハ煉化或ハ石造等火災予防
函館市史 別巻 亀田市編 (段丘)

亀田における標準となった最も広い段丘面は赤川段丘で、亀田川から東へ汐泊川以東にまで続いている。,亀田川以西では鈴蘭丘面と中野町面に似た段丘が発達しているが、段丘を構成する堆積物が異なり、鈴蘭丘面・中野町面,亀田川をはさんで段丘形成に大きな違いを生じたのは、赤川段丘の増傾斜運動によって北西部が高くなったためであると,亀田川以東の鈴蘭丘面と中野町面は、堆積物から中野町面が海岸堆積物と考えられている。
函館市史 別巻 亀田市編 (認可申請)

隣接函館市とも接渉し同市の一部を含めた亀田川流域一帯の「亀田土地改良」区認可につき、昭和二十七年十二月,は、   現在亀田村内での水田耕作者と函館市深堀町、鮫川町の水田耕作者  ○事業計画は、   亀田川
函館市史 別巻 亀田市編 (馬鈴薯と麦)

になっても水田の水不足は続き、昭和二十七年ころ、富岡の通称「土方の沼」から揚水ポンプで水揚げをしたり、亀田川,後、昭和三十二年に鍛治ダムが完成したり、大野かんぱい事業がおしすすめられたり、昭和三十五年、函館市と亀田川
函館市史 通説編 第二巻 (函館実地明細絵図)

亀田川についても切替工事により大森浜側に流路が変更されたこともわかる。
椴法華村史 (亀田番所の移設)

〇)に家数二百軒余もあった港町亀田の中心であったが、そののち、元禄十五・六年(一七〇二-三)に起きた亀田川
函館市史 銭亀沢編 (海がはるかに退き、扇状地が張りだし、銭亀沢では火山の噴火口を近くに見た時代(図2・1・13、約二万年前))

海面の大低下に呼応して、亀田川や松倉川、汐泊川など諸河川は支流も含めてかなり深い谷を刻み、狭い谷の中を,横津岳という一〇〇〇メートル以上の山に発する亀田川において扇状地の張り出しは顕著であり、この時期に昭和
函館市史 別巻 亀田市編 (市内高校の研究協力)

市内高校の研究協力 亀田は平野と丘陵が発達し、亀田川を始め、多くの川に恵まれ、水利、水質の良い地域である,早くから開拓の進められた亀田川流域にも遺跡があって、乳白色に赤味の差すメノウやフリント(火打石)、黒く
函館市史 銭亀沢編 (〈日吉町Ⅱ面〉)

一方、亀田川の西には、桔梗の日本たばこ(株)工場一帯の標高三二から三〇メートル部分にまとまった平坦面がある
函館市史 銭亀沢編 (〈日吉町Ⅰ面〉)

亀田川より西ではこの段丘を覆って、中位開析扇状地が各河川の下流部に大きく張り出している。
函館市史 銭亀沢編 (〈函館面〉)

その崖線の延長は、亀田川の沖積低地を挟み北側に追うことができる。
函館市史 通説編 第一巻 (郭の規模)

周囲の濠には亀田川の水を引いて注ぎ、郭内には縦横に水道を通じて飲料水とした。
函館市史 別巻 亀田市編 (日鉄鉱業株式会社赤沼鉱山)

日鉄鉱業株式会社赤沼鉱山 この鉱山は亀田川の上流(赤川町の奥)に昭和十九年四月開山し、翌二十年から生産
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田番所)

寛文十(一六七〇)年には家数二〇〇軒もあり、繁栄していた亀田の地は、元禄十六・七(一七〇三・四)年亀田川
函館市史 別巻 亀田市編 (赤かぶ)

特に多く栽培していたのは亀田川流域の赤川、神山、鍛治方面であった。
函館市史 別巻 亀田市編 (昭和四十三年全国遺跡地図)

これらの遺跡は亀田川、鮫川の上流域の丘陵上に分布し、その九〇パーセントが縄文時代の遺跡である。
函館市史 別巻 亀田市編 (村道の修理)

亀田村内の道路は降雨ごとに車馬の往来が激しいので泥濘脛を没する悪路となるので、先年人道が設けられたが村内亀田川
函館市史 別巻 亀田市編 (本村農業の特質)

(四) 地力は亀田川流域以外は、心土は礬(ばん)土層のため反当り生産力低く、かつ施肥は函館市の人糞尿に
函館市史 通説編 第二巻 (箱館開港への対処)

              (沖之口番所前波止場之外出入ヲ許サヽル事)   一此港ニ入船々ハ、沖の口番所前并亀田川尻波戸場,沖之口波戸場之外より上陸不二相成一旨、兼而伺済之上、掟書相示し候…波戸場一个所ニ而ハ事実差支、…以後ハ箱館沖之口并亀田川尻両所江波戸場定置候旨,それにしても、『幕末外国関係文書』8-49の「掟」第1条の文言がなぜ「沖の口番所前并亀田川尻波戸場」となったのか
函館市史 通説編 第一巻 (築造の予算)

#160; 一金二万五千両 役所、役宅普請入用 一金九万八千両 役所構五稜郭惣堀入用 一金二万両 亀田川堀割水門浚堰船入堀並外囲土塁苗木植付其外入用
函館市史 通説編 第一巻 (願乗寺川の開削)

そこで願乗寺(いまの西別院)の堀川乗経はこれを慨嘆し、安政6年本山の許可を受けて官に出願して新渠を開き、亀田川
函館市史 通説編 第二巻 (開港による市街の二分化)

つまり、函館山の傾斜地から平地へ、そして、亀田川の隣接地に位置しており飲料水をも意識してのことと思われる,このことを裏付けるように亀田川より上水道を敷き郭内に引水していたことが発掘調査などからも確認されている
函館市史 銭亀沢編 (函館市街地・銭亀沢の海岸段丘面)

はほぼ消滅した砂丘、いわゆる陸繋砂州と、そこから大野平野に向けて幅を広げる浜堤群、その間にある後背湿地、亀田川
函館市史 銭亀沢編 (広い海域が占めていた高海面期の函館・銭亀沢(図2・1・11、約一二万年前‥最終間氷期))

この時期の亀田川が作っていた扇状地はまだ小さく、現在の神山、美原付近に少しせり出ていたに過ぎなかったであろう
函館市史 別巻 亀田市編 (松前藩の蝦夷地統一と番所の設置)

一五一二)年のアイヌ人の蜂起により、宇須岸(函館の古名)は、全く荒廃し、戦後世の中が落ち着くにつれ、人々は亀田川河口付近
函館市史 通説編 第二巻 (浅くなった港)

、函館山は樹々の濫伐、石材の掘採により、土砂を捍止すること能わず、降雨融雪に際し土砂を港内に流出し、亀田川,それと同時に、港湾区域の北西部への拡大が亀田川移注による願乗寺川の新設を必要ならしめたが、この川が今や
函館市史 銭亀沢編 (遺跡立地の類似性と相違点)

これに対して、常盤川と石川、さらには亀田川流域の河岸段丘上では、縄文時代前期後半から中期の集落跡が多く
函館市史 銭亀沢編 (古砂州が張り出し、新しい海岸段丘や海岸低地が出現した時代(図2・1・12、約八万年前))

亀田川や横津岳から流れ出す川々は、海面低下に伴って沖合いに退いた海に向け、幾らか扇状地を拡大し、一部は
函館市史 通説編 第二巻 (水道事業にみる自治意識)

その後仮水道は、第3回起業が明治20年4月に不許可となり、同年6月には亀田川転注工事の着工が予定されていたので,この仮水道の計画は亀田川から願乗寺川沿いに木樋による本管を布設し、その先からさらに木樋をもって各町に分水
函館市史 別巻 亀田市編 (渡島平野土地改良区新設)

亀田川水利調整施設整備、鍛治ダムの運用、水田合理化整備、大野かんぱい事業などを抱え、これら諸事業を完成
函館市史 別巻 亀田市編 (箱館への移動)

箱館への移動 以上によって知られるように、何度かの亀田川の洪水により亀田港に土砂が流入し、港として使用
函館市史 別巻 亀田市編 (終日の戦闘)

然レドモ新道ハ亀田川ヲ隔テ伝習隊、陸軍隊、彰義隊、遊撃隊各々勇ヲ振フテ防戦ス。
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田港の発展)

中心とする水産物の集荷に都合がよく、また亀田港は本州裏日本諸港より来港する交易船の停泊地として、更に亀田川
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭築造の内容)

  金 九万八千両 役所構築及五稜郭堀割   金 二万五千両 役所及役宅建築   金 二万両   亀田川堀割外囲土塁苗木植付
函館市史 銭亀沢編 (現在の海岸環境)

五稜郭が今の場所に設置されたのは、その位置が、地形的に見れば大森浜の砂丘や函館段丘に隠され、しかも亀田川扇状地
函館市史 別巻 亀田市編 (小作料)

鍛治・神山地区は亀田川が運んできた肥沃(ひよく)な赤土に覆われて、良質の赤かぶ、ごほう、にんじん、ほうれん
函館市史 通説編 第二巻 (五稜郭の採氷)

しをその濫觴としており、また『函館区史』には慶応年間に居留英国人のブラキストンや新潟出身の平野某らによって亀田川,にしてようやく輸入氷に対抗しうる商品化に成功したわけであるが、五稜郭の成功に至るまで数々の辛酸をなめたあげく亀田川
函館市史 通説編 第二巻 (当初の五稜郭プラン)

五稜郭御備筒御入用(24ポンド筒50挺)」金4万両、「御役所・御役宅、役々役宅向御普請御入用」金2万5000両、「亀田川掘割
函館市史 銭亀沢編 (周辺地区の遺跡の立地)

市内中央部を北から南へ流れる亀田川流域では、標高五〇から九〇メートルとやや小高い丘陵上に、縄文時代中期後半
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