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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭駅)

五稜郭駅 明治三十七年七月一日、函館駅は現在地に移設され、海岸町にあった旧函館駅を亀田駅と改称したが,その後、駅舎の必要が生じ、三年後の明治四十四年九月、現在地に史跡五稜郭の名前をとった五稜郭駅が開業した,桔梗駅が大根、馬鈴薯など農作物の輸送駅であったのに対し、五稜郭駅は付近の工場と密接な関係を持っていた。,大正九年、車両整備の五稜郭鉄道工場が開設されるとともに、函館倉庫(後の用品庫)も設けられるにいたり、付近 / 五稜郭駅
南茅部町史 上巻 (五稜郭進発)

五稜郭進発 この報せは諸隊に飛び、諸隊は五稜郭の外堀に続々集まり宿陣して榎本の指令を待った。  ,翌一〇月二六日、「本道口の味方が勝利し、ついに五稜郭と箱館の町々を手中におさめ、五稜郭城に繰込んだ。,額兵隊陸軍隊も、速かに五稜郭に繰込むように」との使いが飛んで来た。  ,土方は全軍の五稜郭進発を督したので額兵隊も上湯の川村を出発し、下湯川に至って民家を探索させると官軍の小銃一 / 五稜郭進発
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭の築造)

五稜郭の築造 五稜郭庁舎 市立函館図書館蔵  このあと安政三(一八五六)年五月竹内、堀の両奉行,は更に伺書を幕府に提出し砲台の築造その他について上申したのであるが、幕府は台場の建設と五稜郭の築造を許可,五稜郭は、はじめ柳野と呼ばれていた所に築造するため柳野御陣営とか亀田役所土塁などと呼ばれているが、箱館奉行所,なお郭外には安政三(一八五六)年から同心長屋、定役・組頭などの役宅が建てられ、その外に五稜郭の鬼門(北東 / 五稜郭の築造
函館市史 通説編 第二巻 (五稜郭の築造)

五稜郭の築造 五稜郭関係の工事は、堀割・土塁(いわゆる五稜郭)の築造工事、五稜郭北側の一画への役宅の,新築工事、五稜郭内への御役所(工事中は「亀田御役所」と称す)の新築工事の3つに分かれるが、このうち最初,まず堀割・土塁の築造についてみると、当初の予定では、「五稜郭惣堀両岸二重土塁穴堀等悉石垣築立」となっていたが,その後の五稜郭の工事は、基本的にはこの線に沿って進められたのである。,ところで、現存する関係史料を見る限りでは、五稜郭に大砲を設置したという事実を知ることはできない。 / 五稜郭の築造
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭駅の発展)

五稜郭駅の発展 大正初期の五稜郭駅  太平洋戦争が始まり、国をあげての増産増送に貨物の取扱いも,増えてきたため、昭和十八年から十九年にかけて五稜郭駅は次のような発展を遂げた。  ,昭和十八年一月九日  五稜郭操車場開設(下り作業開始) 昭和十八年十月一日  駅本屋建物移設改築、同時,航送作業を開始) 昭和十九年九月三十日 操車場内線路拡張(下り関係を増強) 昭和十九年九月三十日 五稜郭,更に戦後は、全国的な輸送力の増強に対応し、北海道の経済発展を担う貨車輸送の玄関口として、五稜郭駅は重要 / 五稜郭駅の発展
函館市史 通説編 第一巻 (五稜郭の築造)

五稜郭の築造 五稜郭設計図  亀田役所土塁(五稜郭)は、安政4年から工事を起こし、その堀割は松川弁之助 / 五稜郭の築造
函館市史 通説編 第二巻 (五稜郭開城)

五稜郭開城 千代ヶ岱の戦闘後、新政府軍海軍参謀は、『万国海律全書』贈呈の答礼として酒5樽を五稜郭へ送,その夜、松平が、榎本、松平、荒井、大鳥の服罪(18日朝第6時より7時までに軍門に降伏)、五稜郭明渡(午後,次いで、軍監前田雅楽が柳河藩2小隊を率いて武器等の引取のため五稜郭へ入った。 / 五稜郭開城
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭築造の内容)

五稜郭築造の内容 『函館市史資料集、第二十六集、函館の史蹟五稜郭』によれば、初の計画は弁天台場、築島台場,(現在の船場町、当時の築島)沖ノ口台場(現在の仲浜町西警察署の処)亀田役所(現在の五稜郭とその裏手の役宅,同心長屋 市立函館図書館蔵   金 九万八千両 役所構築及五稜郭堀割   金 二万五千両 役所及役宅建築,土塁及び堀の形が五稜の形をしているので五稜郭と呼びならわされた。,現在函館博物館五稜郭分館の脇に展示されているのは、当時の庁舎脇玄関の一部である。 / 五稜郭築造の内容
函館市史 通説編 第二巻 (五稜郭占拠)

五稜郭占拠 政権交代の舞台・五稜郭 原田祐平氏提供  26日、脱走軍は無人の五稜郭へ入りこれを / 五稜郭占拠
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭駅前巡査駐在所)

五稜郭駅前巡査駐在所 五稜郭駅前巡査駐在所  前記の赤川・桔梗の両駐在所が住民の要請によって設置,されたのに反し、五稜郭駅前駐在所は大正十三年四月一日、犯罪防止、治安維持などの目的達成のため関係部落民,管轄範囲は亀田村内のうち、中道、富岡、本町、鉄道敷地および港一円であり、初代伊藤巡査は五稜郭駅の一室を,昭和二十三年一月一日警察制度改正により函館地区警察署五稜郭駅前巡査駐在所と改称した。 / 五稜郭駅前巡査駐在所
函館市史 通説編 第二巻 (五稜郭の採氷)

五稜郭の採氷 中川は本州諸地域における採氷事業を軌道に乗せられず、目を北方に転じた。,しかし函館氷製造場を五稜郭と特定することはできない。,転ジ日夜苦身ヲ不厭寒風ヲ雪中奔走イタシ、遂ニ堅硬透明実ニ玻璃状ノ氷数百噸ヲ得」たとあり、明治3年冬に五稜郭,五稜郭で取り組むことになった経緯は不明であるが、その開始には函館の居留外国人の助けがあったようである。,いずれにしても中川は事業着手8年目にしてようやく輸入氷に対抗しうる商品化に成功したわけであるが、五稜郭 / 五稜郭の採氷
函館市史 別巻 亀田市編 (五稜郭駅前郵便局)

五稜郭駅前郵便局 大正十一年七月一日亀田村字本町五二番地に開局、初代局長は北村弥平であった。  ,五稜郭駅前郵便局歴代局長 初代 北村弥平(大正十一・七・一-昭和九・一)本町五二番地 二代 北村弥作 / 五稜郭駅前郵便局
函館市史 通説編 第二巻 (当初の五稜郭プラン)

当初の五稜郭プラン その後、安政2年12月2日、箱館奉行(竹内・堀)は、老中(阿部)に「箱館御役所御引移地所外構,一応御下知無レ之内は取懸り候儀も出来兼云々」とあるが、「蝦夷地御開拓諸御書付諸伺書類」や「亀田御役所五稜郭,は、「御役所構、五稜郭惣堀御入用」金9万8000両、「五稜郭御備筒御入用(24ポンド筒50挺)」金4万両,がこの予算案を認めていることや(同前)、先の安政2年12月2日段階での計画案の内容からすれば、「外構」(五稜郭,なお、この設計者は、弁天台場と同じく蘭学者武田斐三郎(諸術調所教授役)であったが、「五稜郭」という名称 / 当初の五稜郭プラン
恵山町史 ([五稜郭と古武井熔鉱炉])

五稜郭の歴史的意義 ・開国に備え築造・幕末の特殊な状況象徴  五稜郭といえば、多くの人は“箱館戦争,ところで、広義の五稜郭の築造工事は、①掘割・土塁(五稜郭)の工事、②五稜郭北側の地への役人宅新築工事、,③五稜郭内への御役所(いわゆる箱館奉行所)の三種からなるが、このうち最初に着工されたのが五稜郭の工事である,これが現在の五稜郭の原形である。  ,五稜郭とセットにした新たな侍屋敷ができたのである。 / [五稜郭と古武井熔鉱炉]
南茅部町史 上巻 (五稜郭進撃)

五稜郭進撃 暁の空を仰いで土方歳三は、主力を率いて登頂してきた。 / 五稜郭進撃
函館市史 通説編 第一巻 (五稜郭付近及び山の手方面)

五稜郭付近及び山の手方面 一方、築島には文政元(1818)年遊女屋5戸の出張を許していたが、慶応2(,1866)年1つの遊廓地とし、また亀田に五稜郭が築造されたことにより、その付近に官舎を建て、郷宿、料理店 / 五稜郭付近及び山の手方面
恵山町史 ((3)弁天岬砲台と五稜郭)

(3)弁天岬砲台と五稜郭 これを受けて、まず、弁天岬と築島の砲台の構築を許可し、詳細な設計図を提出させ,一方、五稜郭は亀田役所土塁の名で、安政4年(1857年)工事に着手、9年後の元治元年(1864年)に完成,しかし、この攻防も15世紀の戦いであり、五稜郭が19世紀の、西欧諸国との近代戦争に耐え得る城砦ではなかったとする / (3)弁天岬砲台と五稜郭
函館市史 別巻 亀田市編 (鉄道敷地の合併請願)

鉄道敷地の合併請願 合併地域について、「五稜郭の構内およびこれに連なる操車場の構内は、合併地域より除外,という趣旨をもって、三月十九日付、五稜郭駅長、五稜郭検車区長、函館車電区五稜郭助役詰所、函館管理部函館用品庫長
南茅部町史 上巻 (上湯川)

土地の百姓を探索に走らせると、まもなく帰ってきて五稜郭・千代ヶ岡の辺りにちがいないという。  ,大鳥圭介の本隊はすでに五稜郭を遠まきにして攻撃の陣を布いた。,このとき五稜郭には箱館府兵で元徳川の臣岡本柳蔵ら四〇人がいた。,岡本は五稜郭の背後、神山村に陣した一連隊に使を走らせ「五稜郭は無人なり。我等は郭内を守っている。
函館市史 別巻 亀田市編 (概況)

その間において桔梗駅が設置され、続いて五稜郭駅が設置されるようになってからは漸次道路網が完備されてきた,、大正五年十二月桔梗郵便局が開局してから年々躍進する村勢に伴って利用件数も増加し、大正十一年七月には五稜郭駅前郵便局,郵便局利用状況(昭和二六年中)  右の利用状況のうちで五稜郭駅前郵便局の電話件数に比べ桔梗、赤川局件数, 両駅の乗降客数のうちで、特に著しい変化を示しているのは五稜郭駅の場合で、昭和二十六、八年と比較,昭和二十八年中の五稜郭駅の乗降客人員が大きく増加しているのは、本駅が松前・江差線の分岐点であることによる
函館市史 通説編 第二巻 (氷専売の出願)

この他五稜郭での採氷権を獲得するための一連の動きをしている。,前述したように中川が五稜郭で事業に着手する前の3年2月には函館市中のものが採氷している。,この例で分かるように官有地である五稜郭は官許さえ得れば何人でも採氷は可能であった。,こうした状況に対処するために中川は4年の五稜郭の採氷に成功すると、同年7月に五稜郭の周囲の堀を拝借する,ところが同年12月に五稜郭が陸軍省の管轄となり、五稜郭外堀の上地を命じられた。
函館市史 別巻 亀田市編 (役宅)

『罕有日記』の著者は、安政四年に箱館に在った役宅を尋ねているところから、同心長屋は五稜郭に建てられたが,五稜郭の建設を開始したのは、安政四年の春であるから五稜郭の建設前より同心長屋が造られていたわけであり、,同心クラスの役人は、ここに生活し、中にはここより五稜郭の建設を監督した人物もあったものと考えられる。,『渡嶋国戦争心得日誌 上下』によれば、      (五月十二日)官軍の陸軍神の山台場よりも五稜郭へ,破裂弾にて打出候に付徳川勢も困窮して五稜郭役宅弐百余軒も有レ之候所不レ残火を付焼失。    
函館市史 通説編 第二巻 (降伏交渉開始)

降伏交渉開始 5月11日の総攻撃で箱館を制圧した新政府軍は、翌日からは五稜郭および弁天岬台場を艦砲攻撃,12日の甲鉄からの砲撃は激しく、試発の1、2発以外は五稜郭へ飛来、会合中の衝鋒隊幹部数人が爆死し、隊長古屋佐久左衛門,いで重傷を負っていた遊撃隊長伊庭八郎も「創ニ堪ヘズシテ眼ヲ怒ラシ拳ヲ握リ敵ヲ罵ナガラ」(「北州新話」)五稜郭,永井玄蕃らがこれを五稜郭に伝え、千代ヶ岱付近の1軒屋で田島と榎本との会見が行われた。,五稜郭へ戻った榎本は、傷病者を湯ノ川村へ送り、最後の決戦に備えた。
函館市史 通説編 第二巻 (開港による市街の二分化)

そして、奉行所移転のために五稜郭が築造されることになった。,さて、もう一方の五稜郭周辺では「亀田に五稜郭の築造あるや、其附近に官舎を建て郷宿、料理店等も開業し、本町通,文久元(1861)年頃では五稜郭周辺に千代町、元町、二ノ町、三ノ町、五ノ町、仲町、柳町、本町などの町名,しかし、このように市街化されつつあった五稜郭周辺も、箱館戦争によって役宅などが焼失し、行政府としての役割,その後、五稜郭周辺は亀田村の住民による拝借地の願いにより、農地として転用されることになった(明治2巳年
函館市史 別巻 亀田市編 (推移)

以後、村の発展人口増加に伴い大正十三年には五稜郭駅前、昭和九年に赤川、同二十九年に鍛神駐在所といった順,巡査駐在所  昭和四十年三月三十一日現在の警察官配置は、五稜郭駅前巡査部長派出所は、巡査部長一名,昭和四六年三月三一日および昭和四八年三月三一日現在)   昭和四十六年と四十九年の配置人員を比較するに、五稜郭駅前
函館市史 別巻 亀田市編 (中川嘉兵衛と製氷事業)

於テ中川氏ハ百計尽キ、終ニ彼ノ英人ブライキストン氏ニ謀リ、同氏ノ忠告ニ随ヒ英人ジョージ氏ヲ傭ヒ入レ、五稜郭外堀,中川嘉兵衛は立地条件のよい五稜郭外堀に製氷場を移し、前記の英人の力を借りた。,なお、前記『経歴談』では明治四、五年ころより五稜郭で製氷と記されているが、実際には明治二年より五稜郭外堀,なお、前記成島『天然氷』によれば、明治六年から九年までの間に、合計八、〇二五トンの五稜郭氷を香港に送ったと,記録されているが、五稜郭の氷製造高と合わないので疑問が残り、恐らくほかの氷が入っているのではないかと思
函館市史 別巻 亀田市編 (郵便局の実績)

郵便局の実績 桔梗郵便局が開局された大正五年から、五稜郭駅前郵便局が開局された大正十一年までの資料によると,[郵便局の実績]  大正十一年の数字の急増は五稜郭駅前郵便局ができたためである。
函館市史 通説編 第二巻 (5月11日の戦い)

5月11日の戦い 武器の補給を終えた新政府軍は、5月11日午前3時を期して五稜郭・箱館総攻撃を仕掛けることに,作戦は、陸軍本隊は三方から五稜郭を包囲し、海軍は箱館港と大森浜側から箱館を挟撃、奇襲部隊が箱館山裏手から,四稜郭は五稜郭の北の備えとして脱走軍が急造したもので、松岡四郎次郎を主将に1連隊、衝鋒隊が守っていた。,しかし神山村の東照大権現の台場が長門萩藩の隊に攻撃されると、退路を遮断されるのを恐れて五稜郭へ退却、まもなく,この報を受けた五稜郭では、松平太郎が諸隊を率いて再度箱館奪還に向かい、数度接戦に及んだが、五稜郭へ引揚
函館市史 別巻 亀田市編 (線路図)

線路図 東五稜郭は現在の本通遊園地の地所であり、駅の建物はなかったが土地だけは確保していた。,戸井線の区間は五稜郭駅から亀田郡戸井町市街に至る二九キロメートルであり、その勢力圏は函館市、亀田村の一部
函館市史 銭亀沢編 ([未完の戸井線と下海岸の陸上交通])

まもなくの昭和二十五(一九五〇)年に発行された「函館市都市計画地域図」(函館市役所編)を見ると、国鉄函館本線五稜郭駅,より桔梗駅方向約七〇〇メートル先、現在の日本貨物鉄道株式会社五稜郭機関区付近より東側に分岐し、五稜郭裏
函館市史 通説編 第二巻 (新政府軍箱館へ迫る)

直後、脱走軍陣営には五稜郭から大鳥圭介が到着し、翌12日には戦闘5時間に及んだ。,この後小競り合いを続けていたが、大鳥圭介は18日の夜、作戦会議のため五稜郭へ帰った。,上磯郡上磯町)を固めることになり、額兵隊、衝鋒隊、見国隊などが胸壁を築いて守備につき、その他の諸隊は五稜郭,この時榎本釜次郎も駆付けたが、敗勢の立直しは図れず全軍五稜郭へ退却した。,脱走軍の占拠地は箱館と五稜郭を残すのみとなったのである。  
函館市史 通説編 第二巻 (御役所の建設)

御役所の建設 箱館御役所の建設工事は、3つの五稜郭関係工事のうち最も遅く着手された。,御役所は五稜郭内に建設されるものであり、五稜郭それ自体の築造工事が御役所の建設に支障のない程度まで進捗,として着手されたが、中川傳蔵は、秋田の能代で下拵をしたうえで、資材を能代から箱館に廻漕し、文久2年秋から五稜郭内,また多くの文献は、元治元年で五稜郭関係の諸工事が総て完了したともうけとれる記述をしているが、これは間違,いであり、付帯工事を含めた総ての工事が完了したのは、慶応2(1866)年のことであった(「五稜郭御役所廉増御入用調
函館市史 通説編 第一巻 (箱館の繁栄を助ける)

箱館の繁栄を助ける 五稜郭庁舎  弁天岬台場と五稜郭とは箱館の警備を厳にし、かつ宏壮の観を添えたのはもちろん
戸井町史 (六、開拓使時代の概観)

榎本軍は二隊に分かれ、大鳥圭介を長とする部隊を本隊とし、峠下を経て大野、七重(現在の七飯)から五稜郭を,することとし、他の一部隊は援助部隊として土方(ひじかた)歳三を長とし、川汲山道を越えて、湯の川に出、五稜郭,を守備していたのは、弘前藩五〇〇名、松前藩四〇〇名、福山藩(備後)五〇〇名で、その外に府兵三ケ小隊が五稜郭,二十六日五稜郭総攻撃の策戦を練り、村人に五稜郭の様子をさぐらせたところ、五稜郭内は寂(せき)として人無,く、青森及び箱館方向に逃れたことを確かめ、この日一戦をも交えずして五稜郭を占領した。  
函館市史 別巻 亀田市編 (大正七年の加入状況)

○五稜郭駅前-〓共同運送店、米林運送店、〓篠田金三郎五稜郭駅運送店など三 ○亀田村字有川通-大日本人造肥料株式会社
函館市史 通説編 第一巻 (築造の予算)

そこで詳細な調査をとげ、弁天岬台場、築島台場、亀田役所(すなわち五稜郭)および役宅を築造することに決し,  一金二万五千両 役所、役宅普請入用 一金九万八千両 役所構五稜郭惣堀入用 一金二万両,備船伺済九艘の内二艘出来、一艘買上、残六艘分並スクーネル船二艘、会所入用諸色小買物其外共 一金四万両 五稜郭備筒入用
函館市史 別巻 亀田市編 (乗合自動車会社)

、赤川水源地間七、二〇〇メートルの定期乗合自動車の運輸事業を始め、二年後の昭和八年十二月、鉄道大臣に五稜郭駅前,五月一日には揮発油および重油販売取締規則施行により切符制によるガソリン消費規制が実施され、同日休止路線中の五稜郭駅前,-五稜郭公園前間三、七四〇メートルなど三系統の運転を開始した。
函館市史 通説編 第二巻 (江差・松前地方の制圧)

しかしここで五稜郭から兵站線が伸びすぎるとの指令が入り、福山へ戻って滞陣した。,二股口、木古内口とも新政府軍を撃退したとの情報が入り、再び江差を奪回すべく江良町村まで進軍したが、再度五稜郭,この時期最前線の状況を十分に把握していなかった五稜郭の指令で、脱走軍は右往左往してしまっていたのである
南茅部町史 上巻 ([土方隊、川汲峠進攻])

本隊は大鳥圭介を大将に遊撃隊長大岡幸次郎、伝習隊長大川正次郎、新選組隊長相馬主計ら四百余名の主力が箱館五稜郭,土方隊は砂原鹿部の海岸沿いに進み、川汲山道を越えて野田部、上湯の川村へでて、五稜郭を背後から攻略する。
函館市史 別巻 亀田市編 (終日の戦闘)

『慶応出軍戦状』によれば、「桔梗野台場乗落候ニ付、引続五稜郭新道台場迄追撃、此辺台場数ケ所打払、瓦野台場迄追退,、右ヘ相固居候処、又々三字比賊徒五稜郭ヨリ繰出、守返ノ手配卜相見ヘ、進ミ喇叭(ラッパ)ヲ以押寄及二合戦一候,及び動揺し、一本木方面(現在の若松小学校付近)に退き、同所で再度官軍の攻撃を受け、千代が岡の陣屋及び五稜郭,によれば一時過ぎまでに亀田新道で数人の死者と数十人の負傷者を出しながらも「新道瓦焼場等ニ踏ミ止リ烈戦ス、五稜郭
南茅部町史 上巻 (台場通宝)

台場通宝 安政四年(一八五七)着工した五稜郭築城には、近在の百姓たちも多く人足に徴用されたり、雇われていった,五稜郭の築城工事のほか、弁天台場などの大がかりな工事には、たびたび近在の百姓が多く徴用され、この種の台場通宝
函館市史 銭亀沢編 (渡島半島鉄道株式会社)

同鉄道は、前述の戸井電気軌道とは異なり、起点を国鉄線の函館本線五稜郭停車場とし、軌間も国鉄線と同じ一〇,出願書中にある「渡島半島鉄道線路予測平面図」(前掲「鉄道省文書」)を見ると、五稜郭停車場から分岐して、,亀田村を通り五稜郭跡裏手を経て、湯川村、銭亀沢村へと線路は延びていくが、終点の戸井村戸井停車場までは鉄道省敷設予定線
函館市史 銭亀沢編 (〈函館面〉)

〈函館面〉 五稜郭の南、本町から駒場町にかけて、最もまとまって分布する。,それらの崖線に沿い、扇状地の堆積物が及ばなかった部分、すなわち五稜郭駅操車場の北側、函館圏流通センター
函館市史 別巻 亀田市編 (四稜郭)

岡山藩、福山藩関係の記録では「神山新五稜郭」とか「新五稜郭」と書かれ、福山藩の「阿部正桓家譜」(復古外記,奥羽並蝦夷地出張始末』(岩崎季三郎・市立函館図書館蔵)によれば、「仏人フリヨネーと申して徳川雇入の陸軍教師築く所にて新五稜郭
函館市史 別巻 亀田市編 (工事)

国道五号線と赤川通りをまたぐ地点にはガードを設けるために、五稜郭駅の分岐点から国道五号線を通過し、赤川通,それをトロッコに積んで、国道五号線を越えて五稜郭駅寄りに運んだ。,東五稜郭駅予定地跡(現本通遊園地) 五稜郭駅から東五稜郭までの略図
函館市史 別巻 亀田市編 (道路交通量)

歩行者  七一三人通過               車 輌  八七九台通過    これらの数字は、五稜郭駅前, 的 四十六年度から始める「交通安全施設等整備事業五か年計画」を実施するための参考資料とする 五稜郭駅前付近,した一一か所の中から、著しい増幅を示した点につき考察してみると、   ア 交通量最多場所    五稜郭駅前巡査部長派出所向,町の南北を函館本線が縦走し、町の南西端に五稜郭駅があり、それより約五キロメートル北方には桔梗駅がある。,この間バスの便あり、また、町内には函館市内より一一路線のバス往復または通行の便があり、ほかに函館市より五稜郭駅
函館市史 別巻 亀田市編 ([工場所在地])

ってみると、大正の初期の工業生産は神山、赤川などの精米、石川、赤川、桔梗などの澱粉製造、赤川の竹細工、五稜郭駅付近,昭和十五、六年ころには亀田本町の五稜郭駅付近と港町、更には昭和町の国道沿いの一部に工場が急激に増え、工場地域
函館市史 別巻 亀田市編 (新設道路)

新設道路 五稜郭駅前富岡(通称ガード下)より赤川線を結ぶ村道の新設は、本町住民の強い要望もあって昭和三十年度,     有効幅員六メートル、造成幅員七メートル    この村道新設によって従来亀田小学校前経由で五稜郭駅
函館市史 別巻 亀田市編 (榎本軍の占領と防備体制)

榎本軍の占領と防備体制 一方五稜郭を占領した榎本軍は次いで福山、江差方面をおさえ、その間主力艦の開陽丸,亀田周辺でも榎本軍の本営である五稜郭および弁天台場の本格的要塞を中心として、軍事上の拠点と思われる湯の
函館市史 別巻 亀田市編 (札幌・函館・小樽区となる)

「但現在ノ町村名ハ大字トシテ之ヲ存ス」とあるように、「函館区大字亀田村字五稜郭通」などの字名を用い、昭和六年,                域 札 幌 区 (略) 函 館 区 函 館 区亀 田 郡   字村内 字大川通内 字五稜郭通
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