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恵山町史
(箱館奉行羽太正養の『休明光記録』(巻之一)より)
箱館奉行羽太正養の『
休明光記
録』(巻之一)より この道路行政について、初代箱館奉行(幕府遠国奉行として,1802年5月設置、1807年の全島上知以降は松前奉行と改称す)の、羽太正養はその公務記録の、『
休明光記
録 / 箱館奉行羽太正養の『
休明光記
録』(巻之一)より
恵山町史
(会所・宿泊所の掟・きまり)
会所・宿泊所の掟・きまり 会所・宿泊所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『
休明光記
遺稿,『寛政十二年申三月、
休明光記
遺稿』より 蝦夷地会所掟所竝箱館会所掟書之事 斯而、東蝦夷地場所々々
恵山町史
(海運の官業)
初代箱館奉行羽太正養の
休明光記
・
休明光記
遺稿(淡斎如水編)には当時の『官船四六艘』と記されている。
椴法華村史
(帰徳丸の破船)
帰徳丸の破船 文化七年(一八一〇)官船帰徳丸、五百石積尻岸内にて破船(
休明光記
遺稿)
函館市史 別巻 亀田市編
(表彰 褒賞)
二孝女のことは、羽太安論の『
休明光記
』巻六に詳記している。,このことは『北海道婦女善行録』(大正六年庁立札幌函館小樽旭川高等女学校校友会編集発行)にも『
休明光記
』,『
休明光記
』巻六にはその証明として、鍛冶村における非行少年が二孝女の感化によって、行状を改めたことが記
函館市史 通説編 第一巻
(町の碩学)
特に『松前方言考』『箱館夜話草』などは、地元人による初めての風俗、地誌の成果であり、『
休明光記
遺稿』は,羽太正養の『
休明光記
』を補うものとして貴重である。
椴法華村史
(陸路の充実)
このことについて箱館奉行羽太正養は『
休明光記
巻之一』で次のように述べている。 ,なお宿泊所・会所のことについては、『
休明光記
遺稿』に次のように記されている。 ,寛政十二申年三月、
休明光記
遺稿 蝦夷地会所掟書竝箱館会所掟書之事 斯而、東蝦夷地場所々々
椴法華村史
(矢尻浜沖のあやしき船)
矢尻浜沖のあやしき船 箱館奉行羽太正養はこの時の様子を、『
休明光記
』巻之八・文化四年五月の個所で次のように
椴法華村史
(外国船来航の概観)
(椴法華村矢尻浜沖)に沖掛りしている時、『外国船とも思われる船を見た』と『十五日に届出があった』と『
休明光記
恵山町史
(定雇船頭高田屋嘉兵衛)
については不慣れなものも多く、また、新造の官船は完成を急ぐあまり船体が脆弱で難破する船が続出、前出の
休明光記
函館市史 銭亀沢編
(幕府、蝦夷地の直轄を開始)
初代箱館奉行羽太正養の「
休明光記
」(『新撰北海道史』史料一)によると本制札場は九か所(箱館 鷲木 砂原
恵山町史
(3、奉行所の設置)
羽太正養は蝦夷地取締御用掛以来の蝦夷地経営状況を公務日記『
休明光記
』に、詳細に記している。
恵山町史
([鉱業のあゆみ−砂鉄])
1807年(文化4)蝦夷地取締御用掛、蝦夷奉行、箱館奉行の任についた羽太正養(はぶとまさやす)は公務日記「
休明光記
函館市史 通説編 第一巻
(寛政の蝦夷乱)
(『
休明光記
』巻之1)という考え方が台頭していたので、この騒動も背後にロシア人がそそのかしているという
函館市史 通説編 第一巻
(幕吏の文人)
箱館奉行羽太正養は文才に富み、『
休明光記
』9巻を著わして当代の史実を明らかにしたほか、多くの俳句を残し
恵山町史
(3、恵山町ふるさと民話集)
〈日浦の孝女れん〉は、松浦武四郎が“羽太正養の
休明光記
”からの引用として蝦夷日誌巻之五にのせている。
恵山町史
(3、幕府直轄以降の箱館六ケ場所)
羽太正養(蝦夷地取締御用掛・箱館奉行)が著した『
休明光記
』によれば、経営の中心は「千島列島を南下するロシア,1802~1807年)を務め、退任(フヴォストフらの北辺襲撃の責任を問われ更迭)後、その公務を記録した『
休明光記
,1804年(文化元)『
休明光記
』に見る六ヶ場所 文化4年、松前奉行、羽太正養著『
休明光記
』の文化元年頃
恵山町史
([蝦夷地の馬])
この時のことについて、先出『
休明光記
・巻の二』は、次のように記している。
戸井町史
([蝦夷地と馬])
この時のことを、羽太正養(はぶとまさやす)は『
休明光記
巻の二』に次のように述べている。
函館市史 通説編 第二巻
(新しい産業分野をめぐって)
「エトロフ嶋鯨沢山ニ御座候ニ付、肥前平戸鯨漁之もの両人試のため差遣候」(「
休明光記
附録」巻之5『新撰北海道史,だけを問題にすべきではない、という考え方もあったが(老中安藤対馬守から箱館奉行あての「御書取」-前出「
休明光記
附録
恵山町史
(2、箱館六ケ場所の成立)
なお、「村並」とした際の幕府の記録(
休明光記
附録巻五・箱館奉行羽太正養)には「箱館最寄口蝦夷地之内ノタヲイ,寛政11年(1799)幕領化したとき、箱館奉行の公務日記、
休明光記
附録巻五(羽太正養)には「(当地域に
戸井町史
([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])
弘化二年(一八四五)八月、松浦武四郎が日浦村を通った時に、箱館奉行羽太正養(はぶとまさやす)の著『
休明光記
巻之五,幕府に上申し、文化二年(一八〇五)七月、将軍から褒美(ほうび)を賜わったという事蹟で、羽太正養自ら『
休明光記
,『
休明光記
』の記録を意訳すると。 ,以上が羽太正養の『
休明光記
』に採録されている『日浦の孝女』を意訳したものであるが、羽太はこの後に次のように
恵山町史
(4、村政のはじまり)
松前奉行、羽太正養著『
休明光記
』の1804年(文化元年)の条項に次の記述がある。
恵山町史
(6、蝦夷日誌に見る郷土のすがた)
・材木の販売を副業にしていたと考えられる) 「日浦の孝女の事」 武四郎は日浦村の項に、『
休明光記
恵山町史
(5、江戸時代の鱈漁)
なお、『日浦の孝女れん』については、実際にあった話であり、
休明光記
(箱館奉行羽太正養)・蝦夷日誌(松浦武四郎
恵山町史
(②古武井熔鉱炉に関する研究 幕末期蝦夷地開拓と外国技術)
註 (1)「新選北海道史」第2巻130頁・
休明光記
附録・巻6・7・10 (2)蝦夷地御開拓御書付諸伺書類, 以上 丑三月 小出大和守 註 (1)
休明光記
録附録巻
恵山町史
(①松前地古武井熔鉱炉の研究並びに考証年表)
(
休明光記
付録6)松右ヱ門は南部大畑のことを知っており、タタラ吹製鉄法を導入したが、箱館奉行の、個人経営
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