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函館市/函館市地域史料アーカイブ

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南茅部町史 上巻 (会所)

会所 寛政一二年(一八〇〇)、東蝦夷地を幕府が上知して直捌制をおこなうにあたり、東蝦夷地の運上屋は以後会所 / 会所
函館市史 通説編 第一巻 (箱館会所の所務)

箱館会所の所務 直捌下の箱館会所の所務取扱いは、毎年10月限り各場所の必需物資の仕入高を取りまとめ、,会所掛がこれを検査し、調役一同が認印したあと吟味役に差出し、認可を得て御用聞に下げ渡された。,御用聞はその注文品を注文先別に諸国に引分け、注文帳をつくって差出し、会所掛調役、同下役が取調べの上、吟味役,また、場所から箱館役所に不時の追加注文がある時は、臨時買いといって市中の問屋から購入し、仕入品の貯蔵に,文化2、3年ころの例をとれば、会所の総仕入高は、およそ2万3、4000両といわれ、仕入金額の最も多いは / 箱館会所の所務
函館市史 通説編 第二巻 (会所用達)

会所用達 貸付会所の運営に当っては、三井が開拓使より管理を命ぜられ、小野組、島田組、その他6名(田中治郎左衛門,明治7年の小野・島田両組の破産で会所も動揺したので、12月黒田長官が自ら赴き、大阪会所の管理と、同時に,会所規則が整備された(前掲「三井銀行と開拓使」)。,すなわち、明治7年12月に仮規則を定めていたが、8年6月に貸付会所条例、貸付会所定款および貸付規則を制定,「貸付会所定款」によると、第16条で貸付業務によってえた利益は会所純益をも含めて、すべて貸付元金に繰入 / 会所用達
函館市史 通説編 第一巻 (町役所・町会所)

町役所・町会所 箱館もしだいに戸口の増加に従い、町政を司る所として町役所が置かれるようになった。,町役所も後には町会所と改められ、その役人は町年寄・名主、および町代といい、その下に組合頭があって5人組 / 町役所・町会所
南茅部町史 下巻 (会所の頃)

会所の頃 往昔、蝦夷地の交通(道路や乗りもの)は未発達だった。,を村々ならびに場所請負人に命じて開発させた。,会所に通行屋を付属させて旅人の運搬や駅馬の用に当たらせた。       ,また、場所請負人に対して、自己の場所地から隣接の場所までの道路・山道などの開削・改良ならびに橋梁などの,安政2(一八五五) 幕府の蝦夷地再直轄にあたって一層この駅馬宿所の制度が強化された。 / 会所の頃
函館市史 通説編 第一巻 (各会所用達)

各会所用達 各会所には、掛役人のほかに用達を置いたが、箱館会所の用達元〆として福島屋杉浦嘉七が充てられた,大坂は加島屋作次郎を用達とし、会所付仲買として松前問屋13軒を任じ、そのうち伊丹屋四郎兵衛、近江屋熊蔵,これらの産物会所では、蝦夷地からの船舶、貨物を検査し、商人に入札で貨物を売買し、その代金を会所に納めて,馬鈴薯などの新産物をも販売し、また、京都、大坂その他の商人で蝦夷地の産物仕入のため、あらかじめ出金し、会所,に託するものがある時は、その金を箱館に回送し、場所請負人や問屋ならびに一般漁民に貸付して、産物で返済させるという / 各会所用達
函館市史 通説編 第二巻 (町会所の新築)

町会所の新築 町会所  函館の町会所は、幕末期には奉行所の表門に付属した長屋(門長屋という呼称,したのを契機に、会所町(第1大区4小区会所町16番地)に新築移転したようである。,・駅場・町用掛月給・町会所取建拝借金納メ其外一切区入費大区割総合計」とあって、町会所建設のために開拓使,町会所)は民政担当の民事掛に近接したところに設けるべきとの論を展開、町用掛が町会所と町用扱所両方に交番,戸長の執務場所が支庁内に移ったため、会所町の町会所は、旧町会所となり空家となった。 / 町会所の新築
函館市史 通説編 第一巻 (会所の設置地)

会所の設置地 幕府は、ただちに箱館奉行の意見を受け入れ、前幕府直轄時代の産物会所の例に準じ、2、3年試,みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸、大坂、京都、兵庫、堺、敦賀、下関、新潟,に設置され、江戸の会所は新大橋際植物場内に、大坂は劒先町、兵庫は北浜川崎町(後に鍛冶屋町)、堺は住吉橋西詰 / 会所の設置地
戸井町史 (二、会所時代)

幕府は直轄直後、松前藩のつくった場所請負制度を廃し、場所毎に宿泊所を設け、始めはこれを会所と称していたが,後には旧運上屋だけを会所と称し、宿泊所を旅宿又は通行屋と称した。,この時小安と戸井の運上屋はそのままの建物を会所とした。  ,戸井会所跡(〓谷藤家のところ)  会所時代の村役人は嘉永時代までは頭取、小頭、百姓代などと称していたが,会所が廃止された。 / 二、会所時代
函館市史 通説編 第二巻 (町会所蓄積金)

町会所蓄積金 町会所には町会所が管理運用していた町会所蓄積金と呼ばれる市民共有の財産があった。,この町会所積立金に関して、明治8年6月から明治10年10月までの「町会所予備基本金出納月表」(道立文書館蔵,町会所予備基本金というのは町会所蓄積金の大きな部分を占めることは間違いないと思われるので参考として掲げておく,この町会所蓄積金のほかに町会所には備蓄米が存在した。,このほか町会所は町会所持ちの共有地を所有し、地代金家賃が蓄積されていた。 / 町会所蓄積金
恵山町史 (会所・宿泊所の掟・きまり)

会所・宿泊所の掟・きまり 会所・宿泊所の掟・きまりについて、箱館奉行羽太正養の公務日誌『休明光記遺稿,『寛政十二年申三月、休明光記遺稿』より    蝦夷地会所掟所竝箱館会所掟書之事  斯而、東蝦夷地場所々々,おゐて会所を造り建られて、蝦夷人と交易の場となし、又は旅人之宿所となりぬ、依て会所掟書を定めらる。,惣而諸人応対共叮嚀ニ心掛、兼々会所居合之モノ相互ニ可二申合一    候事、右之通平常急度相守可レ申候,以上                申三月           会 所 / 会所・宿泊所の掟・きまり
函館市史 通説編 第一巻 (町会所の埋立)

町会所の埋立 弁天岬台場から地蔵町に至る一帯の海岸は、箱館の発展に伴い埋立の必要が生じたので、町会所 / 町会所の埋立
函館市史 通説編 第一巻 (会所設置の目的)

会所設置の目的 従って、この産物会所の目的は、名目的には、   (1)密貿易・抜荷取締,すなわち、各地産物会所の主要な任務は、拡散した漁場仕込制を統制し、外国貿易を幕府の手に握ることであった,新たな利潤を引出そうとしたものの、会所を通さない産物が多くなるなど、幕末期の広範囲にわたる商品流通を、,明治元年10月、箱館生産会所として組織替えするに至った。  ,なお、この産物会所は、産物振興のため鉱山の開発、硫黄の買上げ、養蚕機織の奨励、陶器および紙の製造、紫根 / 会所設置の目的
函館市史 通説編 第二巻 (産物会所の設置)

が様々にとられるが、安政3(1856)年の「通船改会所諸産物会所」構想(『幕外』14-201)も、そのような,箱館産物会所は、この構想の一環としてのものの実現という意味があったようである(永井信「箱館産物会所の機能,会所附仲買のもの以外は取引ができず従来、だれでも売買できていた時のように相場がすすまない、会所では現金取引,実施の初年次、文久元(1861)年に、大坂会所の為替用達三井八郎右衛門、竹川彦太郎、兵庫会所用達北風荘右衛門,初年次のまとまった出資は大坂会所用達加嶋屋作治郎の1万両だけで、あとは、京都で募った4000両、江戸会所 / 産物会所の設置
函館市史 別巻 亀田市編 (社会福祉事務所)

社会福祉事務所 昭和二十六年三月二十九日制定、同六月一日より施行になった「社会福祉事業法」に基づき、,社会福祉事務所はその規定の事務をつかさどっているもので、福祉六法に規定された援護育成などの措置を業務とする,社会福祉関係諸法規に定められた業務の遂行が福祉事務所の任務である。 / 社会福祉事務所
函館市史 通説編 第一巻 (運上屋を会所に)

運上屋を会所に こうして新たな商人を御用聞として上から把握して、流通の拠点となる要港をおさえ、同時に,蝦夷地各場所では、旧来場所請負人の場所経営の中心となっていた運上屋を会所と改め、幕吏を在勤させ、これまでの,運上屋の機能のほかに、公務をも執行する出張役所としての性格をもたせた。,そして各地の建物は、ほとんど建て替えられ、その周囲には旅宿所をはじめ倉庫、作事小屋、番屋などが数多く増築 / 運上屋を会所に
函館市史 通説編 第一巻 (産物会所の設置)

産物会所の設置 幕府の蝦夷地再直轄は、開港および北辺の防備という対外的な要因によって行われたものであったが,そのため、箱館奉行所は、安政4(1857)年幕府へ産物会所の設置を稟請した。,船手の密貿易も行われる心配があったので、これを取締るため江戸、大坂、その他諸国の要地に箱館奉行付属の会所,を設け、役人を置いて、その地の問屋などのうち相応の人物を選んで用達とし、江戸、大坂、箱館の3か所でこれを / 産物会所の設置
函館市史 通説編 第二巻 (町会所開設の新聞縦覧所)

町会所開設の新聞縦覧所 明治の初期、新聞はどのようにして一般の人々へ普及していったのだろうか。,して進んで新聞を購読してもらい、それによって函館の人々の開明化を図っていこうという意図のもとに、6年町会所,の手によって新聞縦覧所が開設されることになり、5月12日、松代伊兵衛・白鳥衡平両戸長より新聞縦覧所設置,この新聞縦覧所は午前8時から午後5時まで開所され、貴賎を問わず入場料は一切無料だった。,また同所には絵草紙などを売って利益を得ることが許された無報酬の番人(管理人)も置かれた。 / 町会所開設の新聞縦覧所
函館市史 通説編 第二巻 (町会所の組織構成)

町会所の組織構成 前述の通り町会所の責任者は、江戸時代の町年寄・名主が開拓使により明治2(1869),町会所は区長・戸長・副戸長体制となったのである。,もっともこのときは、前年末の町会所行革のあおりで戸長は罷免され1人もいなかった。,、その事務を町会所内で一括する体制であった。,   表2-28 町会所事務分担表(明治12年中期) 事務内容 担当者 出納・用度・租税 / 町会所の組織構成
椴法華村史 (会所・通行屋の設置)

会所・通行屋の設置 六箇場所では、場所請負制度の廃止にともない旧運上屋が廃止となり新たに会所が置かれ,幕府の命令により各場所における実支配者であった場所請負人は廃止されたが、他方運上屋の支配人や番屋の番人,そのほか村の有力者などは、会所の支配人や通行屋の番人と云った、いわば奉行所の下役人的存在となり、行政担当者,官用書状の継立・旅行者の宿泊・人馬や船の継立・道路の修理・それに非常時の備えとして早馬・早船そのほか会所 / 会所・通行屋の設置
函館市史 通説編 第二巻 (函館支庁会議所の設置)

函館支庁会議所の設置 東京出張所で開拓使職務定制の草稿が稟議されようとしていた明治6年3月17日、函館支庁,「会議所規則」(「会議所書類」道文蔵)を布達した。  ,ところが4月17日に会議所規則施行を東京出張所へと報告すると、東京出張所から会議所設置を認めない旨の書簡,この指令を受けた杉浦中判官は、5月31日、東京出張所からの回答書を付けて会議所廃止の布達を出した。,函館支庁会議所は、東京出張所の一方的な指令で、結局4月2日、16日、5月2日の3回の会議開催で終わったのである / 函館支庁会議所の設置
函館市史 通説編 第二巻 (開拓使の町会所監督強化)

開拓使の町会所監督強化 町会所に自主的な町政運営を任せてきた開拓使も、官僚機構が整備されると、町政の,は、学校資金、町会所蓄積金、区入費賦課など総ての民費の会計検査を民事課から会計課へ移し民費監理の純化と,しかし、この時は民事課の主張が通り官費により積立てた町会所予備金殻のみが会計課所管に変更された(「町会所金穀出納評議留,また、明治10年2月には町会所での事務、つまり区務所事務を函館支庁内で取扱うことに変更し、同年5月には,民費に属する金殻の事務は民事課所管からすべて会計課租税係所管に変更(明治10年「函館支庁日誌」道文蔵) / 開拓使の町会所監督強化
函館市史 通説編 第二巻 (函館商業会議所の設立運動)

を続けてきた函館商工会が解散し、新たに函館商業会議所が設立されるのは明治28年のことであるが、商業会議所,それは、明治23年9月に商業会議所条例が公布され、それと共に、それ以前に国内で69か所の設置をみた勧業会組織,(=商工会)の中で、農商務省の会議所認可基準の内規(所得税15円以上の納税者が会議所区域内に100名以上居住,それは明治23年9月公布の商業会議所条例第5条では、その会員資格を「会議所設立地ノ商業者ニシテ所得税ヲ,翌24年3月、区役所より函館商業会議所の会員資格問題で諮問を受けた函館商工会は、19日付で「収益金三百円以上并 / 函館商業会議所の設立運動
函館市史 通説編 第二巻 (町会所蓄積金の経理調査)

町会所蓄積金の経理調査 体制を整えた函館支庁は、ついに町会所蓄積金の経理にメスを入れた。,ノ内ヨリ委員ヲ命ジ調査セシメ候処現在ノ金穀左ノ通ニ候」と、町会所蓄積金調査結果を広告した。,また、この町会所蓄積金調査完了祝賀会が11年1月5日に上大工町の協同館で開かれ、函館新聞の創刊号には次,の人事刷新と同時に、次の2点を改正して、町会所経理の公正を期した。  ,1、町会所の経理精算書を年2回(7月と12月)一般市民に公開縦覧すること。 / 町会所蓄積金の経理調査
函館市史 通説編 第二巻 (函館商法会議所の設立問題)

の地所も要用なれば、幸ひ右共有地の内若干坪を其用に充んと発議し、大町、神明町の惣代は同会議所の事を至極賛成,その趣旨は、「欧州文明国」における商法会議所の存在意義を論じつつ「当港函館ニ商法会議所ヲ設立シテ商人ノ,当然」の事と述べ、「日本国」の各地商法会議所の実態が「地方ノ有志者カ結合ニ成リタル私立会議所ナレハ、其,翌明治14年7月5日には、住友家の大番頭で、大阪商法会議所の設立に関与した広瀬宰平の来函を機に、町会所,  (七月)五日雲 午後五時函館町会所ニ至リ諸氏ノ請ニ依リテ商法会議所ノ経歴ト功用トヲ説 / 函館商法会議所の設立問題
函館市史 通説編 第二巻 (運上会所の創設と通訳)

運上会所の創設と通訳 塩田三郎  安政6年6月に外国との交易が開始され、運上会所も創設された。,新規の建物は万延元年10月に落成して、以後通訳たちはこの役所で勤務することになる。,安政6年2月末には運上会所の定員などが定められたが、その「詰合人数」には各役々に混じって、名村五八郎、,そこでの通訳の仕事ぶりは、運上会所の書類にある一件がよく示している。,通訳は、必ずこのような場面に立ち会うわけでその苦労がしのばれるが、この願いは「御沙汰及び難し」という一行 / 運上会所の創設と通訳
函館市史 通説編 第二巻 (初めての小学校・会所学校)

初めての小学校・会所学校 初めての小学校・会所学校の子どもたち    8年3月20,日、会所学校の開校が布達され、翌4月4日には、100名の児童を収容して函館で初めての小学校が開校した。,文部省の学則・教則に基づいて決められた会所学校の「校則」は次のとおりである。,一入学出願日ハ・・・月々二ノ日就学ハ其翌日ト相定 一入学出願ノ者ハ左ノ雛形(略)ノ通名札二葉ヲ製シ、町会所,会所学校は開拓使費によって開設した開拓使立=官立の小学校である。 / 初めての小学校・会所学校
函館市史 通説編 第二巻 (運上会所設置と海岸道路普請)

この運上会所が、産物会所とともに大町の御作事場に建設されることに決まったのが安政5(1858)年10月,同年の12月20日に両会所建設の入札があり、1423両にて伊勢屋伝蔵代伊兵衛に落札された。,8月11日に運上会所事務室落成。,万延元(1860)年7月1日運上所波止場が落成し、10月20日に全体で4551両をかけた運上会所産物会所建築工事,この頃になると、外国人居留地と運上会所あるいは町家地区と沖の口役所などを結ぶ海岸道路が必要となってきた / 運上会所設置と海岸道路普請
函館市史 通説編 第二巻 (町会所蓄積金から函館区共有金へ)

出納表に「(出納内容を)詳細閲覧致族ハ函館区役所内町会所ヘ出頭帳簿閲覧」とある通り、町会所は区役所内に,出されたこの計算表は「細目承知致度向ハ町会所ヘ出頭帳簿閲覧」とあり、区務所が町会所内に置かれる形をとっていたのが,、逆に区役所内に町会所が置かれたのである。  ,明治10年末の町会所出納調査以前は市中商人へ貸付けて増殖を図っていたが、出納調査以後は貸付会所に預け替,市中商人が同業組合を作ってしばしば会合を持つようになり集会所の必要性を痛感し、区民集会所を作ることとなった / 町会所蓄積金から函館区共有金へ
函館市史 通説編 第二巻 (運動の再開と函館商業会議所の設立認可)

運動の再開と函館商業会議所の設立認可 この商業会議所条例の改正によって、再び函館や小樽では会議所設立,函館の場合、28年6月頃より函館商工会有志が中心となって会議所設立の協議会を開いていたが、8月6日の有志会,(函館商業会議所『第壱回事務報告』)。,このため、4月に博多で開催された第5回商業会議所連合会には、博多商業会議所からの参加要請にもかかわらず,ちなみに、小樽商業会議所の設立認可がなされたのは、函館商業会議所に後れること3か月の明治28年12月であり / 運動の再開と函館商業会議所の設立認可
南茅部町史 下巻 (〔北海道電力株式会社南茅部営業所〕)

〔北海道電力株式会社南茅部営業所〕 北海道電力株式会社南茅部営業所は、昭和五四年臼尻・尾札部電業所を,七月八日、所長金田光照着任。,南茅部営業所は敷地三〇〇坪、機械室一〇〇坪の計四〇〇坪で、営業所面積一二一平方メートル(三六坪)である,北海道電力株式会社南茅部営業所 南茅部営業所概況 (表)南茅部営業所概況 資料提供 北電, 南茅部営業所 / 〔北海道電力株式会社南茅部営業所〕
函館市史 別巻 亀田市編 (事業所)

事業所 当時の会社、工場につき通産省工業製造業統計調査によってみると、村の事業所は次のとおりになっている,      本町三七   五人 柾品 福川木工製作所(有限会社)   〃三七  一三〃 建具 早坂合板株式会社,      〃     六〃 製材   事 業 所 名      所在地  従業者数 製品名 長沢竹籠製作所,赤川通    三〃 精米 桜井硝子製造所(株式会社)  富岡    三〇〃 硝子 及川燃料工業所        ,手押車 茅原味噌正油株式会社      〃    一三〃 味噌正油    以上の事業所の中でも翌二十七年調査書 / 事業所
函館市史 通説編 第二巻 (大区扱所・小区扱所)

大区扱所・小区扱所 その後、この扱所という名称は、大区扱所と小区扱所とに二分されるようになるが、函館,この大区扱所が、翌10年5月に「従来各町ニ取設有之大区扱所及ヒ会所等(函館町会所ヲ除)ハ、自今開拓使第何大区区務所,しかし区務所となっても大区事務が函館町会所において取扱われることには変わりなく、形式的には3つの区務所,が町会所内という体制であった。,所も存在しており、函館市中では高張提灯を掲げる所の1つとして記されており、これも小区扱所の前身といえる / 大区扱所・小区扱所
函館市史 別巻 亀田市編 (研修所)

本研修所の完成を祝う落成式は翌三十五年一月十五日同研修所講堂において、渡島支庁長ほか関係者七〇名の出席,この研修所利用の円滑で高率的な活用を図るため、「亀田村青年研修所管理使用条例」(昭和三十四年十二月十八日定例村議会,)が設定され、本条例によって関係機関および各団体中から一〇名構成による「亀田村青年研修所運営委員会」を,村会議員 亀谷  正  藤谷久三郎  社教委員 井上 忠三  厚谷 政治  農業委員 水島辰三郎,青年研修所使用料 / 研修所
南茅部町史 下巻 (季節保育所)

季節保育所 昭和二九年、婦人会岡部キミによる季節保育所が婦人会館で開設された。,昭和三二年、川汲婦人会(会長井畠セツ)が季節保育所を開所した。,保育所後援会を結成して運営開所のための基金あつめをする。  ようやく九月初めから開所をする。,昭和三七年、安浦婦人会(会長井上千代)は、白旗青年会館で季節保育所を開設。  ,大船婦人会(会長金沢千代)、季節保育所開設。   / 季節保育所
南茅部町史 下巻 (乾繭所)

乾繭所 昭和七年九月三〇日、字熊泊九〇番地(字大船二三四)に乾繭所(かんけんじょ)(三二・七五坪)を,鹿部・臼尻・尾札部三ケ村により養蚕実行組合聨合会が組織され、養蚕の指導や事務連絡に当たっている。  ,繭の荷受には臼尻村は運上書記、鹿部村から棟方書記、尾札部村後木書記らが立会して看貫(かんかん)役をつとめた,乾繭所の建物は、戦時中大船地区の集会場に使われ、戦後は一時、外地からの引揚者が入居したこともあるが、のちに,熊泊村乾繭所開所式 村上元三郎提供 乾繭所の役職者 村上元三郎提供 表彰状 同 / 乾繭所
函館市史 通説編 第二巻 (町用扱所)

町用扱所 当初、大区の事務を執る所として「町用扱所」を各大区に設置することを企画した。,明治6年4月16日に開拓使函館支庁の会議所(第1節参照)へ提出された議案中に「町用取扱所三大区ニ設ルノ,  一 三大区中ヘ一ヶ所宛町用扱所ヲ置ベキ事 但東京ノ例ニ倣フテ邏卒屯所ニ接近スベシ 一,ヲ報スベキ事 一 非常ノ節ハ早拍子木ヲ以テ町内ヲ廻ルベキ事 (明治六年「会議書類」道文蔵)  ,しかし函館では、開拓使官吏が意図した町用扱所は設けられず、市民の願伺届等の窓口は、町会所対応のままであった / 町用扱所
函館市史 別巻 亀田市編 (社会福祉協議会)

社会福祉協議会 敗戦直後の国民生活の困窮の中において、昭和二十一年暫定措置として、「生活困窮者緊急生活援護要項,発足後は、毎月「民生委員協議会」を開き各担当委員から担当地域の保護必要地域調査が報告され、この資料によって,更に二十六年三月二十九日制定、同六月一日より施行となった「社会福祉事業法」に基づいて「社会福祉協議会」,二 第二種社会福祉事業  居宅生活、事務所、保育所、老人福祉センター、点字図書館などの施設について援護育成,以上の経過を通して民生児童委員、社会福祉協議会の活動は相当の効果を挙げてきているが、当村の社会事業状況 / 社会福祉協議会
函館市史 別巻 亀田市編 (防犯協会)

防犯協会 亀田村防犯協会の事業活動をみるに、昭和三十六年四月二十八日青年研修所において三十六年度総務会,昭和四十年度亀田町防犯協会総会は、四十年十月二十一日青年研修所において開催され、前年度収支決算を承認し, 西富岡町会 関根 康為  監 事 小山 政行、小熊キヌエ    このほか、防犯指導員(防犯連絡所,所の指導員に委嘱状と連絡所名簿が手渡され、亀田市長、函館中央警察署長代理、赤川警察官派出所長などから激励,“亀田市内の犯罪概況と防犯連絡所活動の方向” 函館中央警察署村上防犯課長  “体験発表” 函館市深堀町会沢向防犯副部長 / 防犯協会
函館市史 別巻 亀田市編 (亀田市教育研究所)

亀田市教育研究所 一 基本方針  ア 所員相互の意志の疎通を図り、円滑な運営をし、みんなの研究所にする,イ 所員相互の研修をすすめる。  ウ 各部(総務 研究 事業)の活動の充実を図る。  ,研究の推進と助成  イ 研究発表会の開催  ウ 市内研究会の開催  エ 講演会講習会の開催  オ 体育大会, シ 全道教育研究所と渡島教育研究所との連絡提携  ス 『亀田所報』の発行    全教員が会員であり,所長 小山 政行  副所長 田中 市郎  田村 安蔵  事務局を亀田小学校内に置く。 / 亀田市教育研究所
南茅部町史 下巻 (町村の教育研究所)

いくつもの校内、村内、管内の研究会への参加も積極的になされた。,管内に続々誕生していく研究所の殿(しんがり)に昭和三二年九月、尾札部村教育研究所が設立され、同年同月臼尻村教育研究所,そして昭和三四年、南茅部村の発足により新しい南茅部村立教育研究所が設立され、町制施行により町立教育研究所,(表)南茅部町教育研究所の沿革   南茅部町教育研究所予算 昭和三四年 二三八,〇〇〇,音楽発表会 一〇〇 教員研修 研究所(負担) 一,四六〇 (一三○) (一,一五 / 町村の教育研究所
函館市史 別巻 亀田市編 (保育所施設等)

著しく人手不足をきたし、このため農家主婦より季節保育所の設置が強く要望され、地域農協婦人部、部落運営会,(旧赤川青年団事務所使用)  ○桔梗季節保育所は同年六月一日から新築の施設で開所。,鍛治保育所  ○町立赤川通保育所は、二つ目の町立保育所として赤川通二一三番地に、昭和四十三年十月七日,建物は、木造平屋二九二平方メートル、更に当町の社会福祉事業の眼目でもあった「母と子の家」が桔梗三三二番地,このほか地域の福祉センターとしても諸会合に大いに利用されるものである。 / 保育所施設等
函館市史 別巻 亀田市編 (青年訓練所)

青年訓練所 大正十五年六月、村会において勅令第七〇号により、村内小学校通学区域に基づき、青年訓練所設置,開所以来、年々その成績を挙げ、入所率および出席歩合なども良好となった。,入所に関しては理事者が主事指導員と協力勧誘し、出席に関しては職員が督励に努め、昭和六年は桔梗、亀田両訓練所,各訓練所の生徒数は次のとおりである。,[青年訓練所]  青年訓練所における訓練は教練科を主体として、一か年四五日以上の授業を行い、昼間 / 青年訓練所
函館市史 別巻 亀田市編 (青年研修所の利用)

青年研修所の利用 青年研修所  公民館の転用によって、唯一の社会教育施設を失ったが、後述(第十七節,スポーツ、研修)のとおり、三十四年八月、村議会において、近代的な家づくり、村づくりを目標に青年研修所の,この研修所は公民館的な役割を果し、翌年新しく設置した公民館とともに、社会教育の施設として活用された。 / 青年研修所の利用
南茅部町史 上巻 ([村会])

[村会] 村会の任期は二年で全員改選した。,村長が村会の議長をつとめるのは総代時代と同じであり、村会に村費の支出事業についての議決権はなかった。,または、村税は平均額以上を納入する者、耕地一町歩または宅地百坪以上の所有者であることを資格条件としていた,昭和二〇年八月以後、敗戦処理などで失われたものか、その所在はわからない。  ,市立函館図書館所蔵の各種の新聞や道内の年鑑などによって、ようやく戦前の村会議員の名簿を作成した。   / [村会]
南茅部町史 下巻 (〔社会福祉協議会〕)

〔社会福祉協議会〕 昭和三四年、地域住民の自主的な任意団体として、南茅部町社会福祉協議会(以下社協),昭和五二年一〇月二二日、社会福祉法人として厚生大臣の設立認可をうけ、初代事務局長に小板幸雄(大正八生),はじめ福祉課に同席したが、まもなく福祉センターに独立した事務所をもった。  ,一戸当り年額六〇〇円の会費制とし、町内会、婦人会などの啓発協力によって会員登録制がすすめられ、運営されることになった,町内の社会福祉団体   町内会八  婦人団体七  保護司会一  老人クラブ一  母子会一  心身障害者団体一 / 〔社会福祉協議会〕
南茅部町史 上巻 (水産会)

水産会 大正一〇年四月制定された水産会法に基いて支庁単位に水産会の設立をみるに至った。,水産会は、農業における農会、商工業における商工会議所に対応してつくられた公益的な自治機関であった。,にあった水産会は、郡単位に分離独立していった。,渡島は昭和四年三月一五日をもって松前郡水産会・上磯郡水産会・亀田郡水産会そして茅部山越水産会が設立した,昭和五年には全道五五の市・郡水産会を数えたという。   / 水産会
函館市史 銭亀沢編 (評議員会)

評議員会 第二次世界大戦が始まり、隣組の制度を基礎とする部落会が創設される以前には、各大字単位に評議員会,事務所は、現在の石崎町会集会所(石崎二八三)にあり、老人の書記が常駐していた。  ,部落会になるまでは、世帯主が納める月銭の額は、評議員会が決めた等級にしたがって、一五銭から五〇銭まで該当,この会費は、書記の手当、村役場の会議への出席費、交際費、八幡神社の運営などに使用された。  ,評議員会は、大字にかかわることを決めたり、山林、まきや入会の許可証を住民に出していた。 / 評議員会
函館市史 通説編 第一巻 (場所請負入札)

場所請負入札 幕府が直捌という、生産と流通の全面的な統制を解除し、再び場所請負制度を復活したのは、文化,2 落札者には希望によって場所にある会所、船舶、倉庫、漁具仕入品の残りなどを払下ぐべきこと。,3 山越内から三石までは小場所であるから、1人で2、3か所を入札し得ること。,8 従来会所で使用していた支配人、番人などをそのまま雇使することは随意であること。,入札は何場所3か年季、運上何程(外に秋味運上、海鼠引運上、鱒場運上などがある場所は別株に記すこと)とし / 場所請負入札
函館市史 通説編 第二巻 (回漕会社)

開拓使はこの時に「産物会所規則」を定めて、そのなかで海運事業の取り組みとして「廻漕ノ為蒸気船一艘北海道,商社中ニテ買入使用シ、尤規則ヲ立、不平無之様運転セシメ、且民部省廻漕方ヘモ手ヲ組、北海道運漕ノ傍、他所ノ,用達に任じられた回漕会社では頭取の1人である定飛脚問屋の村井弥兵衛を函館に派遣し出張所を設置し、三橋喜久造,が出張所の業務を担当した(「自午至未雑書拾遺」)。,当初は函館の問屋商人蛯子武兵衛を仮出張所としたが、その後は島屋佐右衛門(回漕会社の頭取、定飛脚問屋)の / 回漕会社
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