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戸井町史
(四 長福寺の円空仏(佐井村))
四 長福寺の円空仏(
佐井
村) 僧円空は、諸国行脚(あんぎゃ)の旅に出、寛文五年(一六六五)蝦夷地に渡,
佐井
村の長福寺に伝わっている円空仏は、十一面観音像で、
佐井
村では「寛文八年、円空が北海道から帰路にここに,
佐井
村に円空仏についての照会をしたが全然回答がなかった。 ,
佐井
村長福寺の円空仏は、昭和三十六年(一九六一)十月六日付で青森県重要文化財に指定された。 ,下北には
佐井
村長福寺の外に、恐山円通寺、大湊の常楽寺にもある。 / 四 長福寺の円空仏(
佐井
村)
戸井町史
(一 仏が浦の絶景(佐井村))
一 仏が浦の絶景(
佐井
村) 仏が浦の絶景(
佐井
村)
佐井
村の仏が浦は、天下の絶景として一部の,然し真澄の訪れた昔とちがい、今ではこのあたり一帯の地域が国定公園に指定され、
佐井
港から遊覧船が出、絶壁 / 一 仏が浦の絶景(
佐井
村)
戸井町史
(六、佐井村の人が宝物を探した話)
六、
佐井
村の人が宝物を探した話 宮川神社が館町にあった明治の頃まで、この附近に宝物が埋められているという,明治の初期か中期の頃、対岸下北、
佐井
村の〓某という人が戸井に来て宮川神社の附近を耕作し、収穫した作物を,船で
佐井
村に運んでいた。 ,そこで又は一旦
佐井
村に帰り、
佐井
村の人々を大ぜい連れて来て、そのあたり一帯に掘った。,宝物がはいっているという一ケは遂に発見できず、〓もあきらめ、
佐井
から来た人々が帰って行った。 / 六、
佐井
村の人が宝物を探した話
戸井町史
(二 鍵掛岩(かぎわけいわ)(願掛岩(がんかけいわ))(佐井村))
二 鍵掛岩(かぎわけいわ)(願掛岩(がんかけいわ))(
佐井
村)
佐井
から仏が浦へ行く途中、矢越部落の / 二 鍵掛岩(かぎわけいわ)(願掛岩(がんかけいわ))(
佐井
村)
南茅部町史 上巻
(姉妹町友好(昭和五〇年))
この子ども交流会のはじめての
佐井
村会場の打ち合わせのとき、
佐井
村と南茅部町臼尻との歴史的な関係の深さが,同じ連絡船に
佐井
村の人達を迎えることになる。 ,青森県
佐井
村役場 協定書をとり交わした
佐井
村松谷村長と南茅部町佐藤町長 北海道南茅部町,昭和五十年三月二十五日 青森県
佐井
村長 松谷 清治
佐井
村議会議長,[章] [
佐井
村概要表]
椴法華村史
(南部船の漂流)
南部船の漂流 享保三年(一七一八)南部
佐井
湊甚右衛門手船(持船)夷地クスリへ漂流 享保三年南部平兵衛手船
椴法華村史
(多賀丸の漂流)
多賀丸の漂流 延享元年(一七四四)
佐井
の竹内徳兵衛、多賀丸十六人乗、大豆・昆布・鰯カスを大畑で積み入
函館市史 別巻 亀田市編
(亀田港の発展)
但川内、横浜、
佐井
泊五月朔日より七月九日迄着岸。,二番船九十六艘、松前船七十六艘、川内、横浜、
佐井
泊五月より七月十五日迄着岸、舟数二百十二艘 ,し、翌三年四月二十九日までに松前船一七艘、五月より七月十五日までに松前船七六艘が田名部、川内、横浜、
佐井
恵山町史
((2) 岬が作る渦)
北海道側では、福島沖、木古内沖、函館の大森湾、恵山沖に反時計回りの渦が、下北側では大間埼の南方
佐井
沖で
恵山町史
(蝦夷地の航路を開く)
〈箱館・
佐井
航路〉 蝦夷地から奥羽にわたり、陸路、江戸に赴くには西の松前・三厩間、東の箱館・
佐井
間の,この時代、
佐井
は日和見・帆待ちの湊として大いに繁栄したと言われている。
南茅部町史 上巻
(文化文政の新鱈約定)
また、文政一〇年(一八二七)に江戸へ送る臼尻の新鱈を、荷の送り主から
佐井
浦の富繁丸船主などに、同浦問屋,ニ相成候所 相違無御座候 為其 約定證文 依而如件 富繁丸 船主 盛岡
佐井
浦, 文政十年亥九月廿五日 松屋 傅 四 郎
佐井
浦 問屋
恵山町史
([津軽海峡の概要])
キロメートルの線から西口と呼ばれる白神岬と竜飛岬を結ぶ約20キロメートルの線、そして南側は下北半島の
佐井
村焼山崎
函館市史 通説編 第一巻
(御雇医師)
春堂は南部
佐井
の人で、江戸の吉田長淑の門に入って西洋医術を修め、高野長英と同門であった。
戸井町史
(二、汐首観音堂と円空仏)
下北
佐井
村の村勢要覧に 「
佐井
村長福寺に安置されている十一面観音像は、一木一体のナタ削(けず)りと,美濃国僧、円空上人の作仏であり、寛文八年(○○)(一六六八)、北海道よりの帰路(○○○○○○○○)、
佐井
,各地で円空仏について、くわしく記録し、蝦夷地を去る時は松前から下北の奥戸(おこっぺ)に渡っていること、
佐井
村,に円空仏があることなどから、円空は帰路、戸井の汐首か松前から、下北の大畑か
佐井
あたりに渡ったものと推定,に汐首を訪れて、観音像を納め、汐首から大間崎を目ざして、漁船に身を托して船出し、易国間か大畑に着き、
佐井
南茅部町史 下巻
(大正四年 函館港海運・回漕店)
大畑行 電話一三〇五番 定期 八幡丸 大間・奥戸・
佐井
, 電話六九〇番 幸町六番地 〓若山回漕店 定航 稲荷丸 大間・奥戸・
佐井
,大畑行 電話一五一二番 定航 福榮丸 大間・奥戸・
佐井
南茅部町史 上巻
([郷土の開基])
享保三年(一七一八) 南部
佐井
村(青森県)の人、東出屋多五右衛門が臼尻に来住したのを臼尻村の開基としている
南茅部町史 上巻
([慶祥丸漂流])
享和三年(一八〇三)、南部領牛瀧村(青森県
佐井
村)百姓源右衛門の持船慶祥丸が、六箇場所臼尻村の新鱈(塩鱈,、八月一四日、奉行羽太正養より南部藩に六人の身柄が引き渡され、まる四年ぶりで故郷の下北牛瀧村(青森県
佐井
村, 勘右衛門 卯四十歳 家内七人相暮 同 禅宗
佐井
長福寺 岩 松 卯二十三歳 ,に古
佐井
の宿で写したと添え書きがある。,南部
佐井
逗留中宿古
佐井
濱丁能登屋久兵衛取持ヲ写者也 文化五年四月十八日 江登呂府嶋ヨリカムサスカ
南茅部町史 上巻
(口絵)
篠田順調 臼尻部落沿革誌 川汲部落図 明治41年 竹中重蔵調 友好町村 青森県
佐井
村役場
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館への移動)
海を隔て南方には南部領
佐井
、大間等の湊も七、八里の渡りにあり、潮の流れも穏かにして龍飛、白神の如く成激流
函館市史 通説編 第一巻
(江戸交易と東回り航路の発達)
渡る一線によっていたが、この路線は箱館ならびに東蝦夷地に赴くのに、迂遠であったので、寛政11年南部の
佐井
南茅部町史 上巻
(管内の町村の起源(資料))
旧臼尻村 享保 三年(一七一八) 南部
佐井
村の東出屋多五右衛門が横澗に来住。
椴法華村史
(木造官船の増強)
前松前藩時代には主として三厩・松前間の航路がとられていたが、享和三年(一八〇三)ごろから箱館・大澗又は箱館・
佐井
函館市史 銭亀沢編
(磯漁)
また、『
佐井
村誌』(笹澤善八 昭和十二年)の「漁業」に、アワビ漁に刺し網を明治十八年に考案して使用したことが,
佐井
、奧戸、大間の三ケ所にては鮑漁に指網を使用する。
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使直営と郵便制度)
これに対する政府の回答は官費を仰がず衆力協力して金額を募集するようにとの返事であった(『
佐井
町史』上巻
函館市史 通説編 第一巻
(石器天降説)
また下北半島の
佐井
村に箭(や)之根八幡宮という神社があるが、この社の高台一帯は縄文時代中期の遺跡になっていて
恵山町史
(【主な参考図書】)
松前町史・同年表(1984~97) 上磯町史(平成9) 〈青森県〉 むつ市史(昭和61)
佐井
村史
南茅部町史 下巻
(渡島の港門)
かつて津軽三厩から松前・江差へ、下北
佐井
から箱館・襟裳・釧路へむかう流れのなかで山陰在とよばれた昆布の
函館市史 銭亀沢編
(イワシ漁)
またこの漁法は、網造りや漁法に技術を要するため、青森県の上北郡野辺地町、八戸市、下北郡
佐井
村などから船頭
戸井町史
([下北半島の景勝地と伝説])
からいろいろな交流があり、石器時代から同一文化圏(ぶんかけん)であり、和人の移住が始ってからは、下北地方の
佐井
戸井町史
((参考)北海道と青森県の円空仏)
田舎館村 弁天堂 十一面観音立像 弘前市 西福寺 十一面観音立像
佐井
村長福寺のものと同型 〃 ,
佐井
村 長福寺 十一面観音立像 もとは真言宗の庵寺六角堂にあったという。総立一八〇センチ。,すること一ヶ月余り、自ら大士観自在の尊像一躯を彫刻して予に授けた」という意味のことが書かれているし、
佐井
村誌
函館市史 通説編 第一巻
(石器)
最近青森県下北郡
佐井
村から出土した骨製品がある。
函館市史 銭亀沢編
(テンテン釣り)
トン級のモーター船を建造し、青森県、北海道方面に同年七月に視察団を派遣し、その結果、青森県は下北半島の
佐井
函館市史 通説編 第二巻
(矢越丸による海運業の創始)
18年7月4日の「函館新聞」は矢越丸が近日中に試験航海をして大畑、大間、
佐井
、脇ノ沢など青森方面への航海
恵山町史
([明治・大正時代の漁業])
1718年(享保3)南部
佐井
村より東出多五左衛門、同、臼尻に来住する。,郷土へは1720年(享保5)南部
佐井
村より西村善次郎来住、同じ年、池田某が戸井村へ来住(戸井村郷土史)
恵山町史
([江戸時代の漁業])
「龍飛」は、日本海を北上してきた対馬海流(黒潮)の一端が龍飛岬の西陸棚を伝わって東に向かい
佐井
・大間岬,文化5年(1808)幕吏夏目某に随従して
佐井
湊から箱館へ渡航した文筆家の児島紀成は著書『蝦夷日記』に「
函館市史 通説編 第一巻
(赤人ノッカマプに来る)
一行は4月29日松前を出帆、南部
佐井
港に入津してむなしく順風を待つこと数十日、ようやく霧多布に着いたのは
戸井町史
(目次)
旧銭亀沢村志海苔から出土した古銭 「附 志海苔出土古銭一覧表(昭和四十三年) 六、
佐井
村, 第二節 名称と文化財……………………………………………………1137 一、仏が浦の絶景(
佐井
村,) 二、鍵掛岩(願掛岩)(
佐井
村) 三、恐山(むつ市) 幸田露伴の,恐山参詣記 四、長福寺の円空仏(
佐井
村) 五、下北の野生猿(脇野沢村) 資料(補遺
恵山町史
((3) 木古内湾で産卵するマダラ)
また日本海側では松前で2個体、青森県では平館および
佐井
村で1個体ずつ再捕された。 ,また、松前では296日、青森では平館で14日、
佐井
村で340日であった。
戸井町史
(二、二代戸長 松代(まつしろ)孫兵衛)
松代家の祖先は長野県松代の出身といわれ、故あって下北の
佐井
に移住し、石崎松代家の祖金沢屋孫兵衛は石崎に
恵山町史
(【聞き取り協力者】)
西村家(大澗) ・西村家は1720年下北
佐井
村から最初に移住した西村善次郎の子孫、同家に残されていた
戸井町史
((参考)康正三年(一四五七)の下北地方豪族配置図)
地名 城主又は館主 摘要 セウ宮 奥戸貴太夫 兵糧六五、〇〇〇石 木石 原田舎人(とねり)
佐井
恵山町史
(3、恵山町ふるさと民話集)
〈七ッ岩の光仏像〉は、下北の
佐井
村から取材した話であるが、郷土を商圏とした高田屋嘉兵衛に関わる話として
椴法華村史
(〔大龍寺遺跡〕)
東北地方の大木系の文化が入ってくるが、北海道特有の余市式と呼ぶ文化が道南に広まって、青森県の下北半島である
佐井
村
戸井町史
(一、戸井の館とその伝説)
昔下北
佐井
の人々が、このあたりに畠まきに来ていたが、財宝が埋められたという伝説を聞き、親方が
佐井
から人夫
戸井町史
(三、戸井に移住した人々)
南部のうちでも戸井の対岸である大間、
佐井
、風間浦、大畑、東通(ひがしどおり)などの町村からの移住者が最
恵山町史
(1、郷土の起源・集落の形成)
それによると、「本村の開創は遠く享保5年庚子6月、西村善次郎なるもの陸奥国南部地方(
佐井
村)より来住したるを
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
尾嚊岬は薬師山の南面にあって南部の
佐井
岬に対峙する。
南茅部町史 下巻
(町の文化財指定)
南茅部町字臼尻 一五一番地 宗教法人厳島神社 昭53・2・28 明治六年、厳島神社旧神殿再建に祭し、青森 県
佐井
村
南茅部町史 上巻
([北海道の大謀網])
函館縣渡嶋國茅部郡臼尻村平民 追賞金十圓 故 小川幸吉 幸吉ハ青森縣陸奥國下北郡
佐井
村幸右衛門
南茅部町史 上巻
(漁業協同組合のあゆみ)
二万個放流 7・22 〃 、水試の昆布乾燥試験 9・ 9 〃 、
佐井
町,大船漁協創立三〇周年、荷捌所、事務所落成記念式典 5・23 尾札部漁協、ウニ種苗放流、青森県
佐井
村一
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