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函館市史 通説編 第一巻
(箱館六箇場所の和人)
箱館
六箇場所
の和人 昆布の採取も箱館、亀田近辺からしだいに
六箇場所
(小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部,・野田追)に及んだが、
六箇場所
は蝦夷地に属していたので、和人は、はじめ出稼ぎしてアイヌとともに採取し、 / 箱館
六箇場所
の和人
南茅部町史 上巻
(東蝦夷地六箇場所)
東蝦夷地
六箇場所
箱館在の志海苔、小安辺は古くから昆布採り場所として和人の来住が多かった。,元文四年(一七三九)頃の蝦夷地各場所の状況を記した「蝦夷商賈聞書」は、
六箇場所
を知るためにも貴重な文献,市立函館図書館所蔵の蝦夷商賈聞書から
六箇場所
の部分を次に掲げる。 ,また、
六箇場所
の場所を「是ゟカヤベト申迄昆布出所」とあり、
六箇場所
即昆布場所として和人の入稼ぎについて / 東蝦夷地
六箇場所
椴法華村史
(村並となった六箇場所)
村並となった
六箇場所
前項でも記したように、場所請負人が各場所の実支配を行うようになった天明年間(一七八一,午十一月 中村一郎 東夷周覧 箱館ヨリ東ノ方ニ
六箇場所
ト唱フル所アリ。,コノセツ公領トナリシヨリ、此
六箇場所
ハ日本地トシ村号ヲ給リタリト云。 / 村並となった
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(箱館六箇場所)
箱館
六箇場所
これまで箱館港に入荷する産物は、亀田、箱館、尻沢辺、大森浜、志海苔、小安などの近郷の零細出稼人, 以上のごとく、この地帯は、いわゆる箱館
六箇場所
と称し、ほとんど箱館の人びとが運上金を / 箱館
六箇場所
椴法華村史
(六箇場所の支配人・番人)
六箇場所
の支配人・番人 寛政十二年(一八〇〇)の『鈴木周介アツケシ出張日記』によれば次のように記されている, 支配人勧右衛門 ○湯野村 支配人佐平治 この記録から当時の箱館
六箇場所
/
六箇場所
の支配人・番人
南茅部町史 上巻
([嘉永七年六箇場所書上])
[嘉永七年
六箇場所
書上] 市立函館図書館所蔵の田中正右衛門第五号とある古文書に、嘉永七年(一八五四),この書上は、先年、
六箇場所
の紀行を記述して、すぐれた情報を提供している蝦夷日誌に匹敵した大きな情報がふくまれている / [嘉永七年
六箇場所
書上]
南茅部町史 上巻
(箱館在)
「箱館ヨリ東ノ方ニ
六箇場所
(ろつかばしよ)ト唱フル所アリ。,この時期から名実ともに郷土は箱館在
六箇場所
と呼ばれるようになったのである。 ,されるようになった年時については、河野常吉編「北海道史附録年表」には、享保元年(一八〇一)「是歳幕府
六箇場所
小安,
六箇場所
の村並が村となるのは、幕府による蝦夷地再直轄がおこなわれてからの安政五年(一八五八)で、
六箇場所
中
南茅部町史 上巻
(箱館の税制)
四半敷役 箱館ならびに在々
六箇場所
は、一軒三〇〇文を毎年一〇月から一一月中に、村役人に納めることとなっていた,
六箇場所
村割歩割金は、村により分納の時期を定めた。 ,
六箇場所
歩割金合計 九四五両二分 長崎俵物運上代り金 煎海鼠 一斤につき 一分四厘六毛二五,荷物積取船役銭 穀役
六箇場所
新鱈積船は、地元船(地船)他国からの入稼船(他船)に限らずその年,
六箇場所
は御用捨。
南茅部町史 上巻
(村並)
当時、
六箇場所
の各場所には出稼ぎに来る漁業者が多く、そのまま定住する者も増加して和人地と同じ状態になっていた,箱館奉行は、寛政一二年(一八〇〇)、
六箇場所
を村並として認め、住民による村の自治をおこなわせることとした
南茅部町史 下巻
(〔安政年間の牛馬の数〕)
六箇場所
の海岸の村々のうち、砂原からヤムクシナイにおよぶ平地の村では、漁獲高・戸口の増加にともなって、,嘉永七年の
六箇場所
書上と、翌安政二年の東蝦夷地海岸図台帳、そして明治四年二郡二九ヶ村一面表を対照すると,、
六箇場所
における牛馬は、需要の増加の傾向をしめしている。
南茅部町史 上巻
(知行主)
知行主 天明から寛政末年頃まで、文献により
六箇場所
の知行主の変遷をみることができる。 ,野田追 新井田権之助 新井田兵作 新井(田)伊助 ユウラップ 青山 栄治
六箇場所
, (「松前町史」「森町史」) 天明の頃には、
六箇場所
南茅部町史 上巻
(元揃昆布の粗製乱造)
元揃昆布の粗製乱造 往古、亀田村辺から
六箇場所
の昆布は、元揃・大赤・しもの三種に選別されていた。,粗製乱造は、昆布だけに限ったことではないが、天下昆布といわれている
六箇場所
の元揃昆布の粗製は大きな影響
南茅部町史 上巻
(訴願)
万延二年の争いは、奉行所が
六箇場所
の重立にその仲介を一任し、
六箇場所
宿市五郎らにより従来通り幸吉立場を,固い約束で互いに一札取り替し村方も連名し、
六箇場所
重立も連署して奉行所に提出している。
椴法華村史
(箱館奉行所と村々の行政)
この時から
六箇場所
は箱館奉行所の管轄下に入り、主として箱館奉行所在方掛から行政指導を受けるようになったが,ここで名主の名前が見当らないのは、当時の
六箇場所
の各村は村並の地位(村よりも小規模で枝郷と同じ待遇)であるため
南茅部町史 上巻
(村役人)
万延二年の小川文書に、
六箇場所
宿 市五郎とある。,
六箇場所
の世話掛的役目としての
六箇場所
宿が、箱館におかれていた記録は他にもある。
函館市史 別巻 亀田市編
(箱館奉行の馬産奨励と馬市)
触 書 一 今度馬市御取開に付、市在
六箇場所
とも、馬持のもの、馬員数取調方大小の村々に応じ、一箇村或,何 町 村 馬差 誰 印 一 年々市在
六箇場所
共,一 馬市の儀は当五月上旬亀田村葭川野に於て牧場取建、東地ウス、アフタ牧場より駒並牡牝馬牽入、猶又市在
六箇場所
馬持共所持,一 市在
六箇場所
馬持共是れ迄駒二歳より以上髪刈来候処、以来は二歳に不レ限駒の分は髪刈候義堅令二停止一候事
南茅部町史 下巻
(弁天島)
弁天島 臼尻巌島神社の神社誌によれば、享保の頃、オサツベ場所知行主新井田金右衛門が箱館奉行所の在勤中、
六箇場所
巡行
南茅部町史 上巻
(入稼地)
文化文政年間から次第に
六箇場所
の戸口が増加していく。
南茅部町史 下巻
(作物の収穫高)
して、ここに記されている収穫高がどの程度の給足度となっていたのかはなかなか難しいが、前年の嘉永七年の
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の請負人)
請負人 白鳥屋新十郎 (『蝦夷草紙・別録』) このように箱館は、後背地帯である
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(疫病)
万治元(1658)年には春夏の間に発生し、秋には亀田にも蔓延したといい、更に文化6(1809)年には、
六箇場所
恵山町史
(2、箱館六ケ場所を『村並』に)
「是歳(このとし)幕府、
六箇場所
小安・戸井・尻岸内・尾札部・茅部・野田追の地、和人の居住するもの多きを,箱館ヨリ東ノ方ニ
六箇場所
ト唱フル所アリ、此所、昔ハ夷人アリテ住居セシカ近来松前家領タリシトキヨリ日本人
函館市史 通説編 第一巻
(北前船)
特にこのころ以来東北地方からの移住民も増加し、箱館の人口も次第にふくれあがってくると、箱館
六箇場所
の水産生産高,相成り候由にて、畑作等も出来、以前出稼の時分より村柄宜敷相見え、蝦夷地躰には御座なく候」として、箱館
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(天保12年の戸口)
六九一人) 箱館付村々 三二箇村 一、五六三戸 七、五三八人(内男四、〇五二人・女三、四八六人)
六箇場所
椴法華村史
(会所・通行屋の設置)
会所・通行屋の設置
六箇場所
では、場所請負制度の廃止にともない旧運上屋が廃止となり新たに会所が置かれ
函館市史 通説編 第一巻
(漁業の発展)
ことに箱館近在の小安、戸井、尻岸内、尾札部、茅部、野田追のいわゆる
六箇場所
は、享和元(1801)年、新
南茅部町史 上巻
([アイヌの戸口])
福山、箱館、江差三カ所付 東西村調(市立函館図書館所蔵)によれば、文化六巳年(一八〇九)改、箱館東海岸
六箇場所
南茅部町史 上巻
(鱈請負制)
鱈請負制 復領ののち松前藩は、
六箇場所
に鱈請負の制を設けた。
南茅部町史 上巻
(ヲサツベ場所知行主・新井田知貞)
ヲサツベ場所知行主・新井田知貞 遠い昔、蝦夷地であった南茅部町は、
六箇場所
のヲサツベ場所といわれ、恵山岬
函館市史 通説編 第一巻
(職業別戸数)
木古内から石崎迄(25か村) 1,206戸 5,547人 新開地の分(10か所) 106戸 393人
六箇場所
南茅部町史 上巻
([鰮(いわし)漁業])
一八五八) 幸吉 尻岸内村古川尻 鰯(引)網 (3)嘉永以後の鰮漁 嘉永七年「
六箇場所
書上,また、安政二年の東蝦夷地海岸図台帳には、
六箇場所
書上にある翌年の生産高が次のように記されている。
椴法華村史
(元揃昆布の高値と粗製)
当時
六箇場所
(ヲヤス・トイ・シリキシナイ・ヲサツベ・カヤベ・ノダオイ)の昆布は元揃・大赤・しもの・の三種類
函館市史 通説編 第一巻
(森林の保護)
森林の保護 文化年間の公文書によれば、100石以上の船舶を製造する際は、箱館付近をのぞき、
六箇場所
において
函館市史 通説編 第一巻
(商取引)
その他、塩鰤、新鱈、昆布、鯣、鰯粕なども江戸に送られるようになっているが、なかでも箱館
六箇場所
の生産力
南茅部町史 上巻
(ヲサツベの新鱈)
とくに
六箇場所
のヲサツベ場所、椴法花・尾札部・臼尻産のものが最上といわれて、寛政の初めに江戸に送り出された
椴法華村史
(前幕領時代以後)
前幕領時代以後 前幕領時代になり
六箇場所
では、場所請負人が廃止されると同時に、旧運上屋は会所と改められ
南茅部町史 下巻
(村々の畑作)
六箇場所
の村々は、どこもみな野菜物を自給自足していたので野菜物のみとして報告しているところ二四、ほかに
函館市史 通説編 第一巻
(百姓入)
箱館付諸村の人口も増加し、元治元(1864)年の付近諸村の分は13,.606人、
六箇場所
の分が7,421
椴法華村史
(木造官船の増強)
(前松前藩時代
六箇場所
の鱈以外は本州諸港へ直送を許可されていなかったが、幕府直轄後は、塩鮭・塩鱒・魚油
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の地場産物)
箱館の地場産物 当時代における箱館についてみると、まず地場産業の中心である箱館近海沿岸から、
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(堀・村垣の復命)
意見に同意するが、一時に全蝦夷地を直轄することは、手が届きかねて趣意に反する憂いがあるから、まず箱館
六箇場所
南茅部町史 上巻
(松前昆布)
以来、昆布は重要な輸出品となり、
六箇場所
の昆布出稼ぎが増加してくる。 ,この頃が、漁場請負制と
六箇場所
の成立期であるといわれる。
函館市史 通説編 第一巻
(造船)
次いでスクーネル型船の製造に着手したが、この時の船材は主として箱館
六箇場所
から切り出したものを使用し、
南茅部町史 下巻
(五升芋)
蝦 夷 日 誌
六箇場所
書上 東蝦夷地海岸図台帳 上磯茅部郡一面表 弘化二年(一八四五) 嘉永七年(
函館市史 通説編 第一巻
(畜産)
月亀田村葭川(よしかわ)野(現吉川町付近)に牧場を取立て、有珠・虻田牧場から馬を牽き入れ、なおまた市在
六箇場所
函館市史 通説編 第一巻
(風俗)
」 安政元(1854)年町年寄が提出した『箱館風俗書』には、問星・小宿・附船・五十集・郷宿・
六箇場所
宿,(ここではその船頭) 図合船 これは2、3人ずつ乗組む船で、当所の海岸から地回り海岸
六箇場所
辺の漁業や
椴法華村史
(亀田奉行の定)
亀田奉行の定 次に亀田奉行の法令・覚書の中から
六箇場所
に関係すると思われる条文をとり上げ、その内容について
椴法華村史
(頭取・小頭の仕事)
・村内布達のこと 奉行所から発せられた布達は、当時村並であった
六箇場所
においては、まず各村の頭取に
南茅部町史 上巻
(箱館在の掟(おきて))
のなかの亀田箱館奉行「定」書きによれば、元禄四辛未年(一六九一)から享保一四己酉年(一七二九)前後の下在と
六箇場所
函館市史 通説編 第二巻
(町と町に準ずるもの)
なお、この11町を基礎とする最後の統計と思われるものが、明治5年の開拓使の記録中に「函館并近在
六箇場所
共人口戸数租税調大略
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