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函館市史 通説編 第二巻
(杉浦兵庫頭の決断)
杉浦
兵
庫
頭の決断 最後の箱館奉行 杉浦
兵
庫
頭 杉浦俊介蔵 ところが3月20日ロシアの蒸気船で,これは荒木済三郎が杉浦
兵
庫
頭の決意を無視し、蝦夷地の治安より幕吏の身の安全のみを考慮した「箱館表御警衛諸家江御預,そこで
兵
庫
頭は、奉行所御雇で蝦夷地の事情に精通している鈴木陸治と今後の方針について相談、(1)京師布告書,を護衛として蝦夷地箱館松前鎮撫使被命、二月二十八日頃
兵
庫
出帆ニテ可相越ノ旨、京都二月二十二日付同家重役,指令があり、
兵
庫
頭の決意は承認された。 / 杉浦
兵
庫
頭の決断
函館市史 通説編 第二巻
(倉庫業と銀行の提携)
これに対して倉
庫
は次の9倉
庫
であった。カッコ内は創業年月である。 ,三井物産会社函館支店倉
庫
(明治12年1月)、北海道共同株式会社倉
庫
(明治18年5月)、函館汽船会社倉
庫
,(明治23年1月)、安田銀行函館支店倉
庫
(明治26年3月)、渡辺熊四郎氏倉
庫
(明治20年)、藤野四郎
兵
衛氏倉
庫
,(明治25年2月)、田中武
兵
衛氏倉
庫
(明治25年)、西出孫左衛門氏倉
庫
(同年)、辻快三氏倉
庫
(同23年,するに問屋業であって倉
庫
業ではないと『北海道倉
庫
業』は指摘している。 / 倉
庫
業と銀行の提携
函館市史 通説編 第二巻
(回漕店と倉庫業)
また回漕店は、倉
庫
を持たない。,この種の回漕店は、集荷した貨物を倉
庫
に積込んで置いて、適宜、船舶に積込む。,『北海道倉
庫
業』は、次のように指摘する。, 本港民間ニ於ケル倉
庫
業ノ由来ヲ尋ヌルニ明治二十年ノ頃迄ハ別ニ倉
庫
専門ノ業務店ナク維新前,同じ『函館海運史』に掲載されている明治36年時点での不定期船の函館在籍船主には服部半左衛門や藤野四郎
兵
衛 / 回漕店と倉
庫
業
函館市史 通説編 第二巻
(明治35年の倉庫業)
明治35年の倉
庫
業 商法施行後、明治35年3月末現在の函館の倉
庫
の状況が、『北海道倉
庫
業』に出ている,また庶
庫
として貸与するが入用の場合には何時でも 保税倉
庫
に供するを得る 収容倉
庫
庶
庫
60 東上屋,114 0 0 10 1,112 3 藤野四郎
兵
衛倉
庫
同8 2 422 0 0 0 0 0 0 2,柳田倉
庫
は明治34年8月落成 北海道共同株式会社木造倉
庫
のうち4棟697坪は石炭
庫
函館倉
庫
業組合加盟,は、一時貨物を
庫
入するもの 英人ハウル社倉
庫
は専ら輸出入貨物を
庫
入するもの、その他は賃貸倉
庫
として / 明治35年の倉
庫
業
函館市史 通説編 第一巻
(山田寿兵衛等の埋立)
山田寿
兵
衛等の埋立 安政3年弁天岬台場築造の際、当時ここにあった山田寿
兵
衛の倉
庫
地820坪余を上地した,寿
兵
衛は、土蔵12棟、板蔵3棟の取払いを命じられ、その後山上新地に換地を給与されたが、そこは倉
庫
地には / 山田寿
兵
衛等の埋立
函館市史 通説編 第一巻
(金兵衛の追放処分)
金
兵
衛の追放処分 こうして天保3年8月、この事件は評定所一座の審問の結果、海上で外国船に会い、酒などを,しかし、ロシアとの密約のことが明らかとなり、そのことをこれまで隠していたこと、また嘉
兵
衛とともに捕えられて,帰った徳
兵
衛なるものは、領主領内の外へみだりに出入することを禁じられているにもかかわらず、これを自由に,10里四方追放、生国淡路郡志本村領主松平阿波守領分のほかに他出すべからざること、金
兵
衛養子嘉市は船稼ぎ,差留め、所払いならびに
兵
庫
・大坂の支店地に立入るべからざることを申し渡され、更に金
兵
衛所有家屋、倉
庫
、 / 金
兵
衛の追放処分
函館市史 通説編 第二巻
(函館倉庫業組合の成立)
表5-5 倉
庫
業組合加盟者 名 称 設立年月 住 所 種 別 渡辺熊四郎倉
庫
,北海道共同株式会社倉
庫
函館汽船株式会社 藤野四郎
兵
衛倉
庫
辻快三倉
庫
安田商事合名会社倉
庫
,西出孫左衛門倉
庫
山田啓助倉
庫
皆月善六倉
庫
明治20年 明治20年頃 明治22年12月 明治,際支拂ヲ受クベシ 一 貨物入
庫
人夫ハ総テ倉
庫
人夫ヲ以テシ其費用ハ貨主負担ノ事、但シ散鮭鱒折昆布ハ員数受授,ヘ通知アルヘシ 右ノ通 明治三十三年十月 (『北海道倉
庫
業』) 同書に、
庫
入貨物申込書 / 函館倉
庫
業組合の成立
恵山町史
(6、郷土と高田屋嘉兵衛)
(現
兵
庫
県津名郡五色町都志)百姓弥吉の子、6人兄弟の長男として生まれる。,1790年(寛政 2)・
兵
庫
の親戚、船頭堺屋喜
兵
衛を頼り、下関まわりの船の船乗りとなる。,箱館で積み荷を捌き、鮭・ます・昆布などを買い込み
兵
庫
に帰る。,・高田屋は箱館を本店とし、
兵
庫
・大阪・江戸を各支店とする。,4年には船頭になり「諸国物貨運漕高田屋嘉
兵
衛」として独立
兵
庫
の西出町に所帯をもつ。 / 6、郷土と高田屋嘉
兵
衛
南茅部町史 上巻
(徳田屋和兵衛と小板屋久兵衛)
徳田屋和
兵
衛と小板屋久
兵
衛 能登国珠洲郡飯田村の人和
兵
衛(天明五年生・一七八五)は、二〇歳のころ箱館,天保五年(一八三四)、和
兵
衛は川汲の漁業者小板屋久
兵
衛と知り合う。,和
兵
衛略伝の誤りとも思えないので、初商いの天保五年を一、二年遡る頃、和
兵
衛と久
兵
衛の出会いの年代とみておく,(上物八 〇〇円・並物六〇〇円)この年一二月、函館大火に罹災、家屋・倉
庫
全焼,ヲ見ルニ至レリ 一、仝年十二月六日夜 堀江町ヨリ出火 函館未曽有ノ大災害ニ罹リ 家屋ハ勿論所有ノ倉
庫
不残烏有 / 徳田屋和
兵
衛と小板屋久
兵
衛
戸井町史
(五、高田屋嘉兵衛と汐首岬)
五、高田屋嘉
兵
衛と汐首岬 寛政年間、豪商高田屋嘉
兵
衛が汐首岬の高台に建てられている汐首神社に、御影石,嘉
兵
衛は汐首神社に鳥居を寄進することを発願し、郷里の淡路島か、
兵
庫
あたりに産する御影石で、組立てるばかりに,並に
兵
庫
、大阪の支店への立入りも禁止され、高田屋所有の建物、器財等は、親類一同の意見に任せて、処理すべしという,箱館の豪商の手に渡り、高田屋の請負場所、幌泉は福島屋清
兵
衛、根室場所は柏屋喜
兵
衛、エトロフ場所は関東屋喜
兵
衛外二名,金
兵
衛が幕府から、「全財産没収」という苛酷な処分を申し渡されたのは、嘉
兵
衛の死後五年目であったので、嘉
兵
衛 / 五、高田屋嘉
兵
衛と汐首岬
函館市史 通説編 第一巻
(運漕業を営む)
運漕業を営む 高田屋嘉
兵
衛は、明和6(1769)年淡路国津名郡都志本村百姓弥吉の長男として生まれた。,寛政2(1790)年摂津国
兵
庫
港に出て船稼ぎをしていたが、同4年24歳の時船頭となり、居を
兵
庫
西出町に,構え、弟嘉蔵および金
兵
衛、嘉四郎とともに住み、主として長崎、下関などの回漕に当った。,こうして同7年和泉屋伊
兵
衛の手船の船頭となって奥州酒田に航海し、手船新造を計画して帰り、西出町に「諸国物産運漕高田屋嘉
兵
衛,高田屋嘉
兵
衛 高田屋手船辰悦丸
函館市史 通説編 第一巻
(択捉場所開発)
択捉場所開発 択捉場所開発準備のため
兵
庫
に帰った嘉
兵
衛は、明けて寛政12年弟金
兵
衛とともに辰悦丸に乗,衣食を給し、風俗を改めさせて稼働させることに成功、択捉島が完全にわが領有に帰し、しかも蝦夷地第一の豊
庫
となったのは,、まさに嘉
兵
衛の努力によるものであった。
函館市史 通説編 第一巻
(会所の設置地)
の例に準じ、2、3年試みようという指示を与えて発足したが、会所は、箱館、松前のほか江戸、大坂、京都、
兵
庫
,、堺、敦賀、下関、新潟に設置され、江戸の会所は新大橋際植物場内に、大坂は劒先町、
兵
庫
は北浜川崎町(後に
函館市史 通説編 第一巻
(箱館支店開設)
箱館支店開設 嘉
兵
衛が箱館大町に支店を設け、弟金
兵
衛を支配人とし、根拠を置くようになったのは寛政10,年で、呉服太物類、荒物などを売捌き、蝦夷地の産物を買入れ、手船5艘をもって
兵
庫
、大坂、下関に売捌き、また
函館市史 通説編 第二巻
(政務の引継)
政務の引継 翌27日、空き役宅に仮役所を移していた杉浦
兵
庫
頭は五稜郭へ出頭して清水谷総督と対面、側近,勿論ニ候間、裁判所附属ノ心得を以テ尽力可致候事 (前掲「日次記」) 杉浦
兵
庫
頭,平穏引継ぎと以後の円滑な経営継続に心を砕いてきた杉浦
兵
庫
頭は、箱館奉行所直接統治地域の業務内容を認めた,5月1日、杉浦
兵
庫
頭は熨斗目麻上下姿で五稜郭に出頭、引渡目録13冊を清水谷総督へ手渡し、一ノ間に着座していた,しかし、箱館奉行所の金穀は、江戸表の状況を心配した杉浦
兵
庫
頭が、3月中に江戸へ回送してしまっていたために
函館市史 通説編 第一巻
(高田屋の家訓)
その後、嘉
兵
衛は弟金
兵
衛を養子とし、家業一切を譲って淡路に隠居したが、金
兵
衛もまた他の兄弟らと力を合わせ,一、
兵
庫
本家江年々金弐百両宛積金、内百両は箱館店より登らせ申すべく、残りは大坂店より出金、尤も正金にて,候様、尤も諸入用之儀は、高の内半分は箱館店より出金、残りは大坂店より相渡積り、弥蔵年々自分稼出金は、
兵
庫
本店,一、大阪、
兵
庫
共五ケ年之内は、家作並地面等相求め申さざる積り、尤も拠無き儀は、其年支配に登り申すもの了簡,一、箱館店名前人の儀、金
兵
衛え年々七百石積船壱艘の徳用遣し申すべき事。
函館市史 通説編 第一巻
(官船建造と定雇船頭となる)
箱館に帰った嘉
兵
衛は急に江戸に呼ばれて、官船5艘の建造を命じられた。,ってこれを造り、翌享和元(1801)年4月箱館に回漕し、主として千島方面の運航に当たったが、この年嘉
兵
衛,以来嘉
兵
衛は官船ならびに官雇船まで一手に管理差配し、箱館と
兵
庫
に根拠地を持ち、蝦夷地および本州各港に縦横
函館市史 通説編 第一巻
(箱館回航)
箱館回航 寛政8年手船辰悦丸(1500石)を新造して自ら船主となり、兄弟力を合わせて乗組み、
兵
庫
で酒,、塩、木綿を積み、更に秋田辺で米を買積みして箱館港に入津したのが、嘉
兵
衛が箱館に来たそもそもの始めであった,かくて嘉
兵
衛は箱館の回船宿白鳥勝右衛門(松浦武四郎『蝦夷日誌』に白鳥新十郎とあり)方に止宿し、積荷を売捌
函館市史 通説編 第二巻
(書籍館の建設)
書籍館の建設 函館区で前記の書籍
庫
建築の計画予算を検討したところ、書籍
庫
に縦覧室の設備を整えるには500,そこで、金子利吉、林字三郎、平田
兵
五郎、渡辺熊四郎が函館区共有書籍
庫
建築委員に任命されて広く寄付金を集,明治20年11月の通常区会において、建築中の書
庫
を「函館書籍館」と称することを表明し、翌21年度の収支予算案,いよいよ12月には建築が竣工し、翌21年6月6日、これまでの思齊会文
庫
と公立弥生・宝両小学校所有の教科書
函館市史 通説編 第二巻
(戸数割税乗率規則の審議)
続いて牧田藤五郎が、この賦課規則は貧富の差が考慮されていないので修正を要求すると発言したが、泉藤
兵
衛は,まず泉藤
兵
衛が、敷地等級制導入に反対し、「家屋倉
庫
」の坪数へ平均に賦課すべきで、特に倉
庫
は当区に於て最,も活動力を有するので「倉
庫
」も賦課対象とすべきだと発言した。,工藤弥
兵
衛は、倉
庫
を賦課対象に入れることは重大な変更であるので、他の議案を先にして、第1号議案は熟考の
函館市史 通説編 第一巻
(箱館東蝦夷地の中心となる)
運航に要する多くの官船や官雇船は、高田屋嘉
兵
衛を定雇船頭として指揮させている。,高田屋は
兵
庫
・大坂の外に箱館を本拠としたので、箱館は、東蝦夷地の中心として、行政上のみならず経済的にも
函館市史 通説編 第二巻
(産物会所の設置)
、拡張して行く、というのがその構想で、安政4(1857)年、箱館のほか江戸に会所を設置、翌年に大坂、
兵
庫
,取扱額で、手当、経費を除いた利益788両余、同6年で、取扱額7万3000両、利益金2872両余、大坂・
兵
庫
,、取扱額20万4213両余と16万9148両余、利益金4072両余と3666両余であり、江戸、大坂、
兵
庫
,蝦夷地産物が大坂、
兵
庫
の会所による規制を避けて他の港へ廻ってしまうのを把握するという意味からである。,近江屋熊蔵 伊丹屋四郎
兵
衛 為替用達 同上 同上
兵
庫
同上 北風荘右衛門 堺 文久元年
函館市史 通説編 第一巻
(近江商人の排除)
、阿部屋伝
兵
衛、高田屋嘉
兵
衛などの新たな商人を積極的に登用したところに、一つの大きな特徴が見られる。,、伊達林右衛門、阿部屋伝
兵
衛、平岩屋平八、江戸では栖原角
兵
衛、栖原久次郎、田中屋伊助、京都では越後屋利右衛門,、大坂では多田清左衛門、伊丹屋四郎
兵
衛、小山屋吉
兵
衛、南部大畑では菊地与左衛門、新屋元左衛門、敦賀では,網屋伝
兵
衛、飴屋治左衛門、総州銚子では十五屋伝五郎等を、それぞれ御用聞に命じている。,次いで
兵
庫
、下関、酒田、青森、鍬ヶ崎、岩城、平潟、浦賀、下田等にも会所を置いた。
函館市史 通説編 第二巻
(北海道運輸会社設立の動き)
最初の事件報道があった8月10日、杉浦嘉七、佐野専左衛門、田中正右衛門、小林重吉、藤野喜
兵
衛、常野正義,表2-56)が三井銀行函館支店会議室に集まり、資本金50万円を募って会社を設立、開拓使所属の汽船と倉
庫
の,しかし黒田長官もまったく払下願書を受け入れる姿勢は見せず、汽船と倉
庫
の払下げを受けて運諭会社を設立するという,安浪次郎吉 工藤弥
兵
衛 枚田藤五郎 上田武左衛門 米谷権右衛門 泉藤
兵
衛 石田啓蔵 ※,岩船峯次郎 大野六
兵
衛 興村忠
兵
衛 高橋七十郎 佐野源右衛門 遠藤吾平 蛯子安五郎
椴法華村史
(文化四年箱館沖の出没)
翌十九日には外国船箱館沖に出現し、市中警備のため南部・津軽藩
兵
、役人、その他百姓を十八箇所に配置し、奉行,更にこの日南部領大澗岬辺にも外国船が現われたとの報があり、箱館奉行所の役人はもとより、各藩の藩
兵
、箱館及,六月二日、ノサップ沖にて松前藩禎祥丸を襲い
兵
器を奪う。,利尻島では万春丸を襲い
兵
器その他を奪い、船及び倉
庫
を焼払うような有様であった。
函館市史 通説編 第一巻
(箱館に本店を置く)
箱館に本店を置く 高田屋金
兵
衛苗字帯刀御免の書 しかも文化9年幕府が直捌制度を廃止し、再び,ならびに宝町および蓬莱町に設け、別に長屋数棟を恵比寿町に建てて番頭以下雇人の者を居住させ、かつ支店を大坂、
兵
庫
,なお、嘉
兵
衛が御用御免を願い出て、事業一切を弟金
兵
衛ら兄弟に譲り、郷里都志本村に隠居したのは文政元(1818
函館市史 通説編 第一巻
(商取引)
移出品も多くはこれらの諸港に向けられるものが多く、ことに大坂、
兵
庫
などは重要な移出先になっている。,問屋はその「差し値」を聞いて倉
庫
に入れ、船の去ったあと買手があり次第売却した。,更に内地の商人が秋季に来て滞在して鰯粕を購入し、問屋の倉
庫
に預けておいて、翌春一番船で積出す物もあり、
南茅部町史 上巻
(さらし首)
脱走軍の
兵
士であったという。,明治四三生) 自動車の通る山道(大正一四年開通)以前の旧山道の入口(登り口)から現在の渡島信用金
庫
寄
函館市史 通説編 第一巻
(各会所用達)
大坂は加島屋作次郎を用達とし、会所付仲買として松前問屋13軒を任じ、そのうち伊丹屋四郎
兵
衛、近江屋熊蔵,
兵
庫
では北風荘右衛門、堺では和泉屋伊助、石割作左衛門が用達に、大和屋徳次が用聞になっている。
函館市史 通説編 第二巻
(刻昆布製造)
そして、また11年2月に高田六三郎、升谷友七、福崎清
兵
衛の3名が銅線を以て渋付をしたとして製品は取上げ,18年の状況を「独リ昆布製造所ハ年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスルノ色アリ」(明治19年「統計書類」『河野文
庫
』,また、明治11年の刻昆布製造業者福崎清
兵
衛(10年の製造高が15万斤であるから、製造金額約4500円と,26,628 『函館支庁統計概表』『函館県統計書』河野文
庫
・明治19年「統計書類」より作成 ,24組 24人 19人 55人 工場位置・東川、西川、鶴岡町各1か所 河野文
庫
・
函館市史 通説編 第一巻
(ディアナ号箱館入港)
「北夷談」付図 (文化9年松田伝十郎著) ディアナ号は9月11日ようやく絵鞆に到着、ここで嘉
兵
衛,があらかじめ差向けておいた部下の水夫平蔵を水先案内として乗込ませ、同16日夜箱館港外に停泊したが、嘉
兵
衛,南部藩は備頭下田将監以下180余人をもって、沖ノ口番所・弁天倉
庫
地・山背泊台場・立待台場を守り、津軽藩,リコルドの上陸に先だち、嘉
兵
衛が官命を帯びてディアナ号を訪問、オホーツク長官の書を受領、9月19日正午,12時、奉行所差し回しの飾船(儀礼艇)で、嘉
兵
衛が先導し、リコルドは陸岸に向かった。
椴法華村史
(明治四十年ころの海運)
他太平洋側諸港)~神戸(終点) ○西廻り 北海道・本州間の主要航路 函館~日本海諸港を経て
兵
庫
又
函館市史 通説編 第二巻
(箱館裁判所設置)
丁度この日は前日の11日に江戸城の明け渡しが行われ、旧幕府歩
兵
奉行大鳥圭介率いる旧幕府陸軍と旧幕府海軍副総裁榎本釜次郎率,慶応4年1月27日の大坂裁判所設置を手始めに、
兵
庫
、長崎、大津、京都、横浜、箱館、新潟など12か所に設置,10日に杉浦
兵
庫
頭に面会(箱館の本陣宿で)、箱館裁判所が設置され総督、副総督が近日中に下向する旨を伝え, 四月 長秋 花押 岡本監輔 徇 同断 杉浦
兵
庫
頭殿, (前掲「日次記」) これを受けて、杉浦
兵
庫
頭は翌11日「
函館市史 通説編 第二巻
(経済力と土地所有)
山ノ手辺ニ移転スルノ得策ナルヲ考エ、幸ヒ汐見町ニ於テ凹凸ノ畑地アルヲ廉價ニ購ヒ入レ此地ニ居住ノ家屋倉
庫
等,としての機能性が高いことが推察できるし、倉
庫
地の所有者が他町である割合が高い地区でもある。,井口
兵
右衛門 田中正右衛門 寺井四郎
兵
衛 福田由松 石垣隈太郎 近藤孫三郎,井口
兵
右衛門 田中正右衛門 寺井四郎
兵
衛 福田由松 石垣隈太郎 近藤孫三郎,井口
兵
右衛門 田中正右衛門 寺井四郎
兵
衛 福田由松 石垣隈太郎 近藤孫三郎
函館市史 銭亀沢編
(近代の勝願寺)
この明治二十七年は、勝願寺にとって、「本堂
庫
裏」の大改築を実施した画期的な年であった。,青江秀の「北海道巡回紀行」によれば、石崎村の有力者として、松代孫
兵
衛がいた。,明治二十七年の頃、この松代孫
兵
衛が、村田長右衛門、久保田左七とともに、壇家総代を務めており、改築事業に,力をなしていたことが、寺伝の「本堂
庫
裏改築願」なる文書によって知られる。 ,明治四十三年、境内に隣接する石崎村字中村野の四畝一反の「未開地」を、払下げを受けようとして、壇家総代の松代孫
兵
衛
南茅部町史 上巻
([明治の村])
慶応四年地方引渡演説書(明治元年一八六八五月一日、前箱館奉行杉浦
兵
庫
頭ヨリ、箱館裁判所総督 清水谷侍従
戸井町史
((1)宇美家(東浜町))
承 認 状 一金 弐円五拾銭 右報告ノ主旨ヲ以テ軍資金ノ内へ献納ノ趣承認候中央金
庫
へ, 一金 弐円五拾銭 右報告ノ主旨ヲ以テ軍資金ノ内ヘ献納ノ趣承認候別紙納入告知書ニ拠リ中央金
庫
へ,納付可有之候也 明治二十七年十月十六日 陸軍恤
兵
監陸軍騎
兵
中佐
椴法華村史
(大政奉還と箱館裁判所)
司法・外交・警備・開拓を担当する目的で設置された総合的な役所で、明治元年閏四月二十七日前箱館奉行杉浦
兵
庫
頭,次に明治元年五月一日の開庁に先だって、前箱館奉行杉浦
兵
庫
頭から箱館裁判所総督清水谷公考に引き継がれた村名
函館市史 通説編 第二巻
(汽船の購入)
汽船の購入 井上石見が横浜に出張した主任務の内、ロワ号買入交渉というのは、旧幕府箱館奉行杉浦
兵
庫
頭が,箱館在留のイギリス商人ブラキストンを仲介として、杉浦
兵
庫
頭が清水谷公考に引継を行う2か月前の慶応4年3,このため、出
兵
費用の捻出に苦慮していた奥羽鎮撫総督府に、代金の立替を懇請された箱館府は、ブラキストンの
函館市史 通説編 第一巻
(奉行の更迭異動)
転任したので、同年8月箱館奉行支配組頭であった新藤鉊蔵方凉が箱館奉行並に進み、慶応2年正月杉浦勝誠(
兵
庫
頭
函館市史 別巻 亀田市編
(相馬藩の開拓)
相馬藩の開拓 元治元(一八六四)年相馬藩家老熊川
兵
庫
は蝦夷地開墾を計画し、箱館在石川郷に四五戸、軍川
函館市史 通説編 第一巻
(ロシアの樺太・択捉侵寇)
国樺太東部経営の根拠地クシュンコタンに至り、番人富五郎ら4人を捕え、米・酒・煙草・木綿などを略奪し、運上屋や倉
庫
、,であり、番人のうち3人は逃れたが、船は焼かれてしまったので、松前に通報もできず、翌4年3月松前藩士柴田角
兵
衛,当時、紗那には調役下役戸田又太夫以下南部・津軽2藩の衛
兵
が駐在し、一戦を交えたが支えきれず、ときに間宮林蔵
恵山町史
([執務方法の刷新])
郷土については、掲載された中から、役場庁舎の図面・吏員の配置図・事務分掌・文書
庫
の取扱図等を示し、行政執行,<別紙、図面の通り> 二 文書函・文書
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等の施設又は考案 (一)文書函 別紙、見取図,(二)文書
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(イ)可成不燃質物建造物にし、且つ通風防湿の設備に注意すること。 ,(ハ)不要文書の整理を随時為し、書
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の整理整頓に留意すること。 ,税務財務係 書記一名 書記補二名 勧業統計係 書記一名 製炭組合・畜産団体等事務兼掌
兵
事戸籍係
函館市史 通説編 第二巻
(戸長の公選)
なお、4組の戸長は第1位第2位の者が辞退したため、第3位の得票者竹内与
兵
衛が戸長になることを承諾して請書,町総代人の協議に任され、事務担当者としては筆生が置かれ、主に「地券譲渡ノ事」「地券名義書換ノ事」「建家及土
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売買,ノ事」「建家及土
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新築届ノ事」などの事務を担当していたが、戸長役場の開設が8月1日と決定したため、7月,井口嘉八郎 今井市右衛門 諏訪久
兵
衛 泉藤
兵
衛 奥村忠五郎 ※116 80 78 69,42 35 相川洗心 米谷権右衛門 佐々木忠
兵
衛 近江勇蔵 井原
兵
五郎 山本鉄次郎 ※
函館市史 通説編 第二巻
(区会開設請願)
この請願書に連名していた各町人民総代は次の人々である(「函館区会沿革大要」『河野文
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』北大蔵)。, 会所町人民総代(中村
兵
右衛門・小林重吉)、山ノ上町仝上(広田丈吉・村林又右衛門)、弁天町仝上,)、大町仝上(脇坂平吉)、内澗町仝上(渡辺熊四郎・今井市右衛門・金沢弥惣
兵
衛)、地蔵町仝上(亀井惣十郎,・泉藤
兵
衛・菊池治郎右衛門・村田駒吉・三浦喜助・米谷権右衛門)、鶴岡町仝上(官野宇一郎・大宅民蔵・西村善吉,)、山ノ上町仝上(佐々木政十郎・安保定
兵
衛・工藤孫三郎・中村右三郎)、尻沢辺町仝上(丸山文右衛門・和田幸太郎
函館市史 通説編 第一巻
(江戸交易と東回り航路の発達)
蝦夷地御用として政徳丸を交付し、凌風丸を買上げ、次いで浦賀、大畑および様似などにおいて造船、その他高田屋嘉
兵
衛,に命じて大坂で官船5艘を建造、箱館にも造船所を設けて
兵
庫
・大坂から船大工を雇入れて造船作業に従事させた,にある船舶も数十艘に多きに達し、水主同心組頭格長川(ながかわ)仲右衛門、水主同心露木元右衛門、高田屋嘉
兵
衛
函館市史 通説編 第一巻
(修好通商条約の締結)
オランダ、フランスもまたこれにならい、いずれも同様の条約を結び、下田、箱館のほかに神奈川、長崎、新潟、
兵
庫
函館市史 通説編 第二巻
(箱館裁判所の内部機構)
箱館裁判所の内部機構 5月1日、五稜郭において箱館裁判所の開庁が宣せられ、引継ぎを終えた杉浦
兵
庫
頭は,此度裁判所御取立ニ付、今朔日当地市在其外共引渡相済候条、得其意小前末々迄不洩様可触知モノナリ 五月朔日
兵
庫
,杉浦
兵
庫
頭の日記には4月29日の項にその内容が載せられている。
函館市史 通説編 第二巻
(創業総会の議事)
大倉喜八郎、北海道の渡辺熊四郎、阿部興人、大阪の藤田伝三郎、鴻池善右衛門諸氏を始め、京都府及び神奈川県、
兵
庫
県
椴法華村史
(昭和二十年・敗戦からの再出発)
重要文書の大部分が無くなり、その後の村史編集作業に大変な苦労をすることになる) 十月四日 函館へ米
兵
約六千人,一方米軍は直ちに日本軍の要塞・監視所・
兵
舎・弾薬
庫
・艦船・飛行場等について調査を行い、米軍占領上好ましからぬ,当時恵山岬には軍隊の監視所が設置されていたが、十月末頃旧日本軍関係者の案内により、米
兵
が来村し監視所及
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