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函館市史 通説編 第二巻
(2つの八幡宮)
#160; 当地(函館)崇敬社ノ義、亀田八幡宮ノ方可然御心得ノ内、同社ハ旧社ノ趣ニハ及承候得共(中略)
内澗町
八幡宮,ニ有之、神霊無二ノ義ニ付、社頭ノ新旧ニ不依、人ノ崇敬スル所、自然ノ崇敬社ニ可有之歟、地形ニ寄候テも、
内澗町
八幡宮,ニテ当庁ヘも近ク、氏子戸数二千軒余有之、亀田村八幡宮ハ、東偏村落中ニテ、氏子戸数九百軒余ニ有之候、殊ニ
内澗町
八幡宮,可相成歟 (明治六年「神社改正調」) この中で注意すべきは、第一に、亀田村の八幡宮と
内澗町
,政治的立場で、伝統の古さを誇る亀田八幡宮よりも、「北海道惣鎮守」であり町域の中央に位置し、しかも氏子数の多い
内澗町
函館市史 通説編 第二巻
(町と町に準ずるもの)
人口戸数等の統計上に見られる町名としては、寛政期(1790年代)にはその存在が確認できる弁天町、大町、
内澗町
, 表2-20 町代表(明治2年12月現員) 担当町名 町代名 大町 伊藤弥太郎 常野与兵衛
内澗町
,大町、
内澗町
、弁天町、地蔵町、三町、大黒町、山上町、尻沢辺町がその8町である。,この内、三町というのは鰪澗町、仲町、神明町を総称したもので、箱館の表通りの町(弁天町、大町、
内澗町
)の,ちとなっており、町政的には
内澗町
の範疇で処理されていたようである。
函館市史 通説編 第二巻
(町屋敷経営の変容と職業構成)
3(1820)年の屋敷数と戸数の比は、内澗、大町などでは1.5倍でこれが万延元(1860)年になると
内澗町
,)年の「函館大町家並絵図」(図4-5)から3倍の数値を得ている(前掲「維新前町村制度考」、万延元年「
内澗町
,これらの数値と関連するものとして、万延元年の上記史料から
内澗町
の地主家持12パーセント、家持7パーセント,この変化を、先の数値と比較しても明治5(1872)年の
内澗町
で屋敷数と戸数の比が2.4倍と低下し、地主家持,
内澗町
を例にとれば、万延元(1860)年では小商が16パーセントを占め奉公人、手代などの使用人が次に続
函館市史 通説編 第一巻
(市街の拡張)
それを中心に海岸に沿って西に弁天町、大町、東に
内澗町
、地蔵町が一列に並んでいた。,出入を取締まる沖ノ口役所および問屋、小宿、諸商人ならびに場所請負人らの大家屋が軒を連ね、その東に続く
内澗町
,
内澗町
に続く地蔵町は弁天町に対して町の内陸寄りのはずれに位し、小商人、蝦夷地出稼ぎを業とする場所出稼人
函館市史 通説編 第一巻
(消防組織の確立)
○
内澗町
官庫は
内澗町
人足三十人受持。
函館市史 通説編 第二巻
(書店魁文社の開店と新聞縦覧所)
年同業者の平塚時蔵や今井市右衛門それに写真家の田本研造に相談して魁文社を結社し、官許を得て、その年8月
内澗町
,早速8月16日、「此度更に同区(第二大区五小区
内澗町
)一番地三ノ地ヘ魁文社中家屋ヲ造築シ、各種の新聞誌,により焼失、翌11年同地へ防火性の石造建築物として新築されたが、12年の大火に再び類焼、翌13年末に
内澗町
函館市史 通説編 第二巻
(開港以前の様相)
前直轄時代の市中には名主が9人置かれており、それぞれ地蔵町、山ノ上町、大町、弁天町、大黒町、
内澗町
、仲町,そして、これらの町の職業構成は、弁天町、大町、
内澗町
などは場所請負人、問屋、小宿などを業種とする有力商人,これらの職業の違いを反映してか、当時の土地所有における坪割銭によれば
内澗町
、弁天町、大町が1か年地面1,町名 店役(文化2年) 家役(文化3年) 四半敷(文化1年) 人別銭(享和3年) 地蔵町
内澗町
函館市史 通説編 第二巻
(貨客取次店と函館支社の設置)
その後
内澗町
48番地の武富平作の持家に移り、そして12月には同じ
内澗町
34番地の旧郵便蒸気船会社出張所
函館市史 通説編 第一巻
(市中の警察)
当時、
内澗町
に御小屋というものがあって、町方掛捕亡方が常にここに在勤して市中の取締りをした。
恵山町史
(箱館港の整備と船造場の建設)
享和元年(1801)、役所は補助金を出し町人を使役し、
内澗町
(現大町)に掘割りを造り寄州の埋立てを行い
函館市史 通説編 第一巻
(町費)
内澗町
、弁天町、大町 一箇年地面一坪銭十文ずつ 大黒町、山ノ上町 同六文ずつ 地蔵町, 二貫九百七十文 地蔵町 一貫九百四十四文
内澗町
一貫三百七十七文 大町
函館市史 通説編 第一巻
(天保12年の戸口)
箱館 大町 一二九戸 六四三人
内澗町
一七六戸 八七
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の町勢)
「
内澗町
」 地蔵町に続き本通り大町役所下の坂まで、およそ3丁の間を
内澗町
といい、ここには場所請負人の和賀屋,八幡社はこの
内澗町
から上り、石の華表(かひょう、鳥居)を建て美事な社境をなし、当地の産神として春秋2回,「会所町」 八幡社から西、役所の下までをいい、小役人、足軽、請負人小林屋などが住み、
内澗町
の上の山の端,御役所の坂 一般にいい習わされたもので、この坂は
内澗町
と大町の境から御役所にのぼる坂で、ここを登れば役所,の正面両側に松並木があり、役所の裏山は薬師山(箱館山ともいう)を負い、前は北面して
内澗町
、大工町にのぞみ
函館市史 通説編 第二巻
(社屋の移転)
社屋の移転 北溟社は社屋を11年5月
内澗町
魁文社内の仮住まいから大町84番地へと移転したが、翌12年
椴法華村史
(日吉丸砲撃事件)
日吉丸砲撃事件 ヲビルネップ事件の興奮もさめやらぬ天保二年七月二十八日、(一八三一)箱館
内澗町
戸沢屋孫右衛門手船,同年九月廿五日志摩守御届 私領分東在箱館
内澗町
戸沢屋孫右衛門手船日吉丸沖船頭虎吉代リ船頭第吉増水主共十人乘組松前山田屋文右衛門出店箱館弁天町山田屋善吉雇船
函館市史 通説編 第二巻
(町年寄・名主の廃止)
担当町名 五十嵐荘八 注6 小島又次郎 白鳥半十郎 定兵衛 堺新三郎 大町 弁天町
内澗町
,注2 担当町名 小島又次郎 注7 白鳥半十郎 堺新三郎 松代伊兵衛 蛯子武兵衛 注8
内澗町
,白鳥半十郎 注9 界新三郎 松代伊兵衛 注10 蛯子武兵衛 石川茂作 太右衛門 地蔵町
内澗町
, 注4 担当町名 五十嵐荘八 小島屋又次郎 岩井屋茂作 池田屋新左衛門 能登屋惣吉 大町
内澗町
函館市史 通説編 第一巻
(名主)
大町 弁天町 鰪澗町 名主 新十郎 山ノ上町 神明町 同 次兵衛
内澗町
地蔵町
函館市史 通説編 第一巻
(箱館に本店を置く)
その後、箱館大町の支店を本店に改め、倉屋敷を
内澗町
ならびに宝町および蓬莱町に設け、別に長屋数棟を恵比寿町
函館市史 通説編 第一巻
(掘割および築島)
そこで享和元(1801)年蝦夷地取締御用松平忠明は同役とはかり、
内澗町
に掘割を設け、その浜手の寄洲を埋立,これにより此度新たに
内澗町
通海岸寄洲これ有る場所埋立候て、追々仮屋を建て船引上げ作事成候様に拵え、入掘
函館市史 通説編 第一巻
(五稜郭付近及び山の手方面)
安政5年市中で官金100両を借り、
内澗町
と大町の境に木戸を建てたが、すこぶる太い柱で堅固なものであったという
函館市史 通説編 第一巻
(士官らの市中見物)
しているが、この一行は、『亜墨利加一条写』によれば、 又々山田より出かけ、弁天町、大町、
内澗町
,と段々見廻り、夫より鎮守八幡宮へ参詣いたし、同宮神官宅前通りかかり、大工町辺え通り、大三の坂下り
内澗町
函館市史 通説編 第一巻
(新興仲買人)
大町 藤吉 大町 要吉 大町 喜左衛門 大町 勝太郎 大町 平吉 大工町 茂左衛門 地蔵町 孝作
内澗町
,徳兵衛
内澗町
源次郎 大黒町 忠吉 (万延元年『諸書付』) ここに挙げられた人物
函館市史 通説編 第二巻
(維新前の様子)
ではうまく行かなくなるのは当然で「享和元年、幕府が始めて蝦夷地を直轄するようになって、松平忠明等の考案で
内澗町
函館市史 通説編 第二巻
(組合頭・伍長)
第2大区4小区
内澗町
の6ノ組に属する田中正右衛門家の「諸用留」に書き留められた「月番伍長事務取扱心得」, 表2-29 第2大区4小区
内澗町
6ノ組伍長月番表 蕃号 2月 3月 4月 5月
函館市史 通説編 第二巻
(岡村小三郎)
; 以書付奉願上候 私儀先般奉願上候艀下船繋場無之候ては以甚難渋仕候間、何卆格別の以御憐愍
内澗町
波止場, 松代伊兵衛 新田孫右衛門 民事御役所 (明治五年「
内澗町
丁代
函館市史 通説編 第二巻
(異人仲買)
村 田 駒 吉 原 常 吉 前 田 治三郎 福 地 善 六 大町24 仲浜町98
内澗町
,65
内澗町
6 地蔵町47 地蔵町35 掘江町60 掘江町10 堀江町36 堀江町81
函館市史 通説編 第二巻
(3区の設定)
当時の函館市街を3区に分け、函館山の裾を巡る地区を第1区(27町)、弁天町から
内澗町
までの海岸線とその,尻沢辺町 2区 鰪澗町 鰭横町 神明町 仲町 弁天町 西浜町 喜楽町 七軒町 大黒町 大町 仲浜町
内澗町
,尻沢辺町 2区 鰪澗町 鰭横町 神明町 仲町 弁天町 西浜町 喜楽町 七軒町 大黒町 大町 仲浜町
内澗町
函館市史 通説編 第二巻
(町会所開設の新聞縦覧所)
こうして翌月19日には、3坪ほどの小さな新聞縦覧所が人通りの多い
内澗町
の基坂近くに開設されたのである(
函館市史 通説編 第一巻
(文化3年の大火と消防体制)
南部、津軽両藩の手勢もまた繰り出して消火に努めたが、火勢はますますつのり、同町の表通り両側から
内澗町
まで
函館市史 通説編 第二巻
(清商との取引)
節ハ前金ヘ割下ケ相添不残御返金可仕候、向後為念請人連印依而如件 弐千五百三拾三年 癸酉
内澗町
壱丁目,「高田家文書」) 荷主の高田祐吉郎は高田屋嘉兵衛の系譜の人物で大阪在住であるが、
内澗町
函館市史 銭亀沢編
(八幡宮の祭礼)
依之惣町四組に相成り、祭山と相唱ひ、弁天町・大町・
内澗町
・山之上町。
函館市史 通説編 第一巻
(市中商人の成長)
内澗町
惣代相原屋喜之丞、藤屋与三郎。大町惣代能登屋久太郎、越後屋新五郎。
函館市史 通説編 第二巻
(私立小学校と夜学校)
個人では、伝習所の私費生徒森梅五郎が伝習所を中途退学して10年6月
内澗町
の自宅に愛陶舎を開業、会所学校
函館市史 通説編 第二巻
(幕末の外国人医師たち)
深瀬洋春 菅野季硯 岡嶋道専 右の通治療相頼種々薬用仕候得共、今以て全快不仕何共難渋至極に罷在候処、
内澗町
喜兵衛手代寅之助,以御燐愍治療被仰付被下度、此段以書付奉願上候、已上 未正月
内澗町
函館市史 通説編 第一巻
(戸口の増加)
、榊太郎右衛門、名主白鳥九右衛門、年寄井口兵右衛門、村岡清九郎、逸見小右衛門、茅野忠兵衛 地蔵町、
内澗町
函館市史 通説編 第一巻
(遊里)
このほかに密娼もおり、
内澗町
では「風呂敷」、大町では「薦冠(こもかぶり)」、弁天では 「車櫂」、谷地頭
函館市史 通説編 第二巻
(地券発行と土地の私有化)
片町1~2丁目 第2区 神明町 大黒町 大町 仲町
内澗町
,2丁目 第2区 神明町 仲町 鰪澗町 大黒町 大町
内澗町
函館市史 通説編 第一巻
(産物の箱館回送方請願)
酉三月 地蔵町惣代 惣十郎
内澗町
善之丞 大町 久太郎 弁天町 伝之助 大黒町 石五郎 三丁代 利兵衛
函館市史 通説編 第二巻
(戸長役場統合から廃止へ)
3組 鰪澗町~仲浜町10町 弁天町20番地 ※大黒町83番地に新築 小西清次郎 斎川万次郎 4組
内澗町
函館市史 通説編 第二巻
(幕末期の埋立)
享和元(1801)年蝦夷地取締御用松平忠明は、同役とはかり、
内澗町
に掘割を設け、その浜手の寄洲を埋立て
函館市史 通説編 第一巻
(箱館の年中行事および風俗)
この日は、近在の者どもが馬を当所に引いて来て、桝形外から
内澗町
通り辺まで競馬をした。,この祭礼については全市四組に分かれ、祭山と唱え、弁天町、大町、
内澗町
、山ノ上町から船山、大黒山、蛭子(
函館市史 通説編 第二巻
(町内入費)
地坪の地位は見聞割をもって行われ、
内澗町
、弁天町、大町は1坪に付銭10文(後12文)、大黒町、山上町は
函館市史 通説編 第二巻
(区会開設請願)
、天神町仝上(成田嘉七・石田四郎右衛門)、大黒町仝上(鈴木久蔵・及川弥兵衛)、大町仝上(脇坂平吉)、
内澗町
仝上
南茅部町史 上巻
(徳田屋和兵衛と小板屋久兵衛)
和兵衛は文政四年(一八二一)、
内澗町
の八幡坂下に徳田屋を開業したと二代目の略伝に記している。 , なり、箱館より全国の諸港、千島エトロフ島への航海をする 文政四年(一八二一)
内澗町
八幡坂下,年二回乃至三回位宛通商ノ便ヲ務ル事十有余年 一、文政四辛巳年大ニ見ル所アリテ、年来ノ水夫ヲ廃業シテ、函館
内澗町
八幡坂下,濱渡直段百石八百円ニ賣却セリ 其他大阪昆布屋金吉丸江モ 百五十石 賣却シ 其残昆布壱百石余 函館旧
内澗町
物産商角本勝太郎氏買取横濱,又其他従来都テノ慈善事業ニハ應分ノ義務ヲ負擔シテ常ニ其席末ヲ穢力セリ 一、明治四年七月中 ヽ等率先シテ旧
内澗町
五十五番地亀井勝蔵外拾名協議
函館市史 通説編 第二巻
(広業商会の開業)
内澗町
39(翌年類焼により船場町に移転)に設置された函館支店の創業時の構成は不明であるが、12年末での
函館市史 通説編 第二巻
(開拓使付属船)
明治4年の「
内澗町
丁代亀井勝蔵扱書類」にその例(小樽行きの便)をみることができる。
函館市史 通説編 第二巻
(函館支庁付属船)
月に高田祐三郎が付属船安渡丸をチャーターして厚岸産昆布の積み取りをしたことを挙げておこう(明治6年「
内澗町
丁代
函館市史 通説編 第二巻
(社長伊藤鋳之助)
その後の忠礼は
内澗町
に「六花堂」という菓子店を経営、一方では開拓使官有物払い下げ請願運動の中心人物となるが
函館市史 通説編 第一巻
(問屋口銭をめぐる対立)
甚右衛門 同
内澗町
同
函館市史 通説編 第二巻
(公立小学校の開校)
この状況をみた学務世話係の杉浦嘉七は、9年8月、
内澗町
51の私宅と土蔵を地代7年間無料で校舎に提供したいと
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