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函館市史 通説編 第二巻
(刻昆布)
刻
昆
布
前期末には「年ヲ逐ツテ盛大ニ赴カントスル」と推測された
刻
昆
布
製造業は、20年をピークに清国向,こうして函館の
刻
昆
布
は印、印の製品をはじめとして上海で好評を博し、30年代には新規の参加者が増加する。,ところが、30年10月に
刻
昆
布
劇薬混和販売事件が発生する。,函館警察署が
刻
昆
布
業者7名に対し、刑法第253条の人の健康を害すべき物品を飲食物に混和して販売するの罪, 表9-24
刻
昆
布
業者の状況および製造額 名称 高橋 阿木 加藤 畑中 高橋 /
刻
昆
布
函館市史 通説編 第二巻
(刻昆布製造)
刻
昆
布
製造
刻
昆
布
の製造は享保6(1721)年に大阪で創始され、文政年間(1818~1829)には販路,また、安政元(1854)年に高田源左衛門(高田屋3代目)が大阪生まれの
刻
昆
布
職人を雇入れて、古築島町(,
刻
昆
布
の製法は葉
昆
布
を煮たのち、乾燥圧縮(寒気のため12月中旬より2月末まで休業)して鉋を以て削り、再,維新後、輸出
昆
布
価格の騰貴があって、函館港よりの
刻
昆
布
輸出は、数量・金額ともに逐年上昇したが、その明治,一方で明治10年に印の小林重吉が旧漁業請負地の三石郡姨
布
村の「村端ニ
刻
昆
布
ノ製造場ヲ設ケ函館ヨリ数十ノ /
刻
昆
布
製造
南茅部町史 上巻
(松前昆布)
以来、
昆
布
は重要な輸出品となり、六箇場所の
昆
布
出稼ぎが増加してくる。 ,宇賀
昆
布
として知られたこの地方の
昆
布
は、松前地の名産として松前
昆
布
と呼ばれ、若狭の小浜へ積み送られていた,享保二年(一七一七)の松前蝦夷記には、昔から
昆
布
は大別して、赤
昆
布
・本赤
昆
布
・青
昆
布
・切
昆
布
・細
昆
布
などにわけられていた,赤
昆
布
は品質は今では荒
昆
布
・塩
昆
布
と呼んで下等なものであるが、当時は色彩の点で珍重されたものか、献上
昆
布
,天明年間(一七八一)、大坂には数軒の
昆
布
問屋が開業されて、
昆
布
商として荒
昆
布
を
刻
(きざみ)
昆
布
に加工が / 松前
昆
布
南茅部町史 上巻
(昆布市場視察)
名産「大阪
昆
布
」 尾札部産
昆
布
は
昆
布
中最高価ノ優良品 要望 1三等以下ニ,
昆
布
茶、塩
昆
布
は元揃の切尾の良いところを混入 商品「元揃
昆
布
」両端の耳を切りおとし,、幅五寸・長さ一尺位に折り 結束 百匁
刻
七〇銭売 「とろろ」一・二番は百匁五,乾物問屋で取扱う 勧業課長 「だし
昆
布
・巻
昆
布
(
昆
布
巻)・煮
昆
布
」,横浜市 足立
昆
布
加工問屋 市民は
昆
布
を嗜好せざる所、「だし
昆
布
」より安い鰹節を用いる。 /
昆
布
市場視察
函館市史 銭亀沢編
(天然昆布漁)
天然
昆
布
漁 天然
昆
布
漁はその年の生育状況に合わせ、七月下旬あるいは八月上旬から始まり、十月中旬までおこなわれる,夕
刻
までに乾燥が不十分な場合には翌朝天日で干し上げるか、灯油乾燥機で補う。,「本場折り
昆
布
」に仕上げる。,これらは等級別に選別され、「岸
昆
布
」は八キログラム、「中間
昆
布
」は一〇キログラム、「沖
昆
布
」は一五キログラム,の豊かな現在では、出荷の残り
昆
布
をわずかに自家用とし、ほとんどはダシ
昆
布
に使う程度であるという。 / 天然
昆
布
漁
戸井町史
([昆布漁])
切
昆
布
というのは、元
昆
布
の良いところを取った後の末
昆
布
である。,これは享保年間以前からで、宝暦以後は益々盛んになり、安永頃からは、
刻
み
昆
布
、荒
昆
布
等の加工品になって若狭地万,村上島之丞は、蝦夷地の
昆
布
を①御上り
昆
布
、②シノリ
昆
布
、③菓子
昆
布
の三種に分けて、その産地、大きさ、色,「シノリ
昆
布
は名代(なだい)の
昆
布
、名代
昆
布
はシノリの
昆
布
」と民謡に歌われている
昆
布
は、支那に
昆
布
を輸出,その後は、三石
昆
布
が凶漁のため、一時品不足になったことと、長折
昆
布
の需要が増加して、三石
昆
布
をやめ、長折
昆
布
/ [
昆
布
漁]
恵山町史
(4、江戸時代の昆布漁)
・
刻
昆
布
等の加工品は同地に出現したという。,)箱館開港以降の
昆
布
輸出の中に『
刻
昆
布
』名称が見られる。,
刻
昆
布
の製造については、
昆
布
製品に付加価値を付けることにあったものと推察される。,
刻
昆
布
の原料となる、長切
昆
布
・棹前
昆
布
・駄
昆
布
・拾
昆
布
は、長切
昆
布
を除いて価格の安いものである。,
刻
昆
布
は、これらの、そのまま販売すれば安価な
昆
布
に、若干の上等
昆
布
を混ぜ、着色し煮沸・乾燥・切断・揉み / 4、江戸時代の
昆
布
漁
函館市史 通説編 第二巻
(日本昆布会社の設立と昆布生産者連合組合の結成)
日本
昆
布
会社の設立と
昆
布
生産者連合組合の結成
昆
布
諮問会開催の翌22年、道庁は、諮問会の答申を受けて,新会社は、22年5月、社名を日本
昆
布
会社(後に日本
昆
布
株式会社)と称し、資本金50万円(1株50円)、,又業務内容には、先の
昆
布
の直輸出のほか、連合地区外の
昆
布
と、鯣、鮑、煎海鼠、干鱈、
刻
昆
布
などの清国向け,海産物の売買、及び
刻
昆
布
の製造、さらには自社船による貨物の輸送があげられている。 , 1.連合組合の生産する
昆
布
は総て日本
昆
布
会社に販売すること。 / 日本
昆
布
会社の設立と
昆
布
生産者連合組合の結成
椴法華村史
(明治二十年代の昆布漁業)
真
昆
布
即チ長
昆
布
ト唱フルモノニシテ幅二三寸長サ數丈ニ及フ三石
昆
布
ニ比スレハ質薄シ 水
昆
布
,ニ産スルヲ利尻
昆
布
ト云フ俗ニ「ダシ」
昆
布
ト云フモノ即チ是ナリ。 ,柔軟ニナリタルトキ結束スルモノトス ・結束法 元揃
昆
布
原草ハ元
昆
布
黑
昆
布
ノ二種ニシテ,ニシテ一把トス 其量目七百目トス 長切
昆
布
原草ハ眞
昆
布
三石
昆
布
細目
昆
布
ニシテ之ヲ一枚毎, 百斤ニ付 一圓八十五銭
刻
昆
布
仝 二圓七十銭 / 明治二十年代の
昆
布
漁業
南茅部町史 上巻
([大正・昭和初期の昆布採取])
[大正・昭和初期の
昆
布
採取] 昭和五年に尾札部村漁業組合の編集した「漁業組合状況」に拠り、当時の
昆
布
採取,毎年七月二〇日から
昆
布
は解禁となる。,玉は即
刻
降ろされ、白旗が掲がり、海上の小旗持(監視船)が喇叭(ラツパ)を吹奏して採取が開始される。,よい
昆
布
は、よい
昆
布
場(海産干場)で干燥される。
昆
布
の採取はマッカで搦み、捻り採る。,真
昆
布
のなかでも浜の内、または白口浜と呼ばれていた南茅部沿岸の
昆
布
には七つの区画の印が付されていた。 / [大正・昭和初期の
昆
布
採取]
函館市史 通説編 第二巻
(清国市場視察と昆布諮問会)
清国市場視察と
昆
布
諮問会 こうした事態に対処するため、20年9月、北海道庁は、清国内の
昆
布
市況視察のため,翌年帰国した視察団は復命書をまとめ道庁に提出しているが、その中で清国における
昆
布
取引の実情と、
昆
布
貿易不振,
昆
布
生産者の連合組織については、まず産地ごとに
昆
布
生産者の組合をつくり、これら組合の連合体を組織し、一定,つぎに
昆
布
の荷受、直販機関としての特約会社については、社の業務は清国向けの
昆
布
輸出に限られること(ただし,、
刻
昆
布
の国内移出は除く)、
昆
布
事業に対して最低50万円の資本金を準備し会社役員の若干名は官選とすること / 清国市場視察と
昆
布
諮問会
恵山町史
(3、明治前期の昆布漁について)
ここに『
昆
布
場及取獲高調』と『
昆
布
場調』が現存する。,・長切
昆
布
原草は、三石
昆
布
・真
昆
布
(ナガコンブ)・細目
昆
布
で、1枚ごとに引き伸ばし根茎を截断し葉先,なお、郷土の結束法としては、元揃
昆
布
・長切
昆
布
・駄
昆
布
が殆どである。 ,の
刻
昆
布
(江戸時代の
昆
布
漁、加工
昆
布
の項を参照)中国向け輸出品が多く、茅部・亀田地方の「元揃
昆
布
(マコンブ,
昆
布
一円八五銭(百石に換算 約四六二円) 同
刻
昆
布
二円七〇銭( 同 / 3、明治前期の
昆
布
漁について
函館市史 通説編 第二巻
(直立会議における昆布会社と組合側の対立)
直立会議における
昆
布
会社と組合側の対立 このようにして日本
昆
布
会社の営業においても成功を収め、23年,鯣、鮑、煎海鼠、干鱈、
刻
昆
布
等の清国向け輸出海産物の取り扱い、
刻
昆
布
の製造が付け加えられることになった,組合側の提示価格の根拠は22年の
昆
布
価格の高騰にあり、とくに、会社ルート外の函館における
昆
布
の平均価格,だが、総資産の中では、
昆
布
の在庫(
昆
布
売買)が43パーセント(31万8950円)、かつ払込未済株金が29,ちなみに、この期の営業状況をみると、
昆
布
の取引状況では、
昆
布
の仕入額は46万3840円、前年度繰越在庫高 / 直立会議における
昆
布
会社と組合側の対立
南茅部町史 下巻
(〔戦後の商工業〕)
とろろ
昆
布
刻
昆
布
吉田水産 吉田福敏 生スキミ 棒すけそうたら S下池水産 下池徹 ,助子 〓吉田水産 吉田辰雄
刻
み
昆
布
こんぶ佃煮 竹原水産 竹原武一 生スキミ 棒すけそうたら, 川汲おぼろ
昆
布
刻
昆
布
塩蔵
昆
布
〓加我水産 加我惣太郎 棒すけそうたら 生スキミ 〓張磨水産, おぼろ
昆
布
こんぶ茶 梅こぶ茶
刻
昆
布
ハマナス(味
昆
布
)
昆
布
そうめん,
昆
布
刻
昆
布
坂井商店 坂井 藤雄 助子
南茅部町史 上巻
(寛政の「ひろめかり」)
ひろめかり」 ひろめかり 未来社刊「菅江真澄全集二」より転載 寛政年間、当時の松前箱館辺りの
昆
布
採,りのありさまを
刻
明に書きのこしたものとして、菅江真澄の著作がある。 ,
昆
布
刈りの図絵一七丁三四図の付図のうち、直接
昆
布
に関連する図絵のみを未来社刊の菅江真澄全集第二巻より転載,して、もっとも古い、詳細な、紹介書として古き時代の
昆
布
採りの理解に資する。 ,このあと真澄が記した「えぞのてぶり」に詳しい木直沿岸の海上の
昆
布
採りの様子や、鹿部村での
昆
布
解禁まで凪待
南茅部町史 上巻
(水産博覧会)
〃尾札部村 今津 甚蔵 元揃
昆
布
〃 〃 ,
刻
昆
布
札幌 鈴木新兵衛 肝油 西川五兵衛 肝油 根室 武富安次郎,長切
昆
布
根室 鹿島 萬平 長切
昆
布
札幌 共救組合 鯡搾粕 塩鮭 漁網 四等賞状, 山本又三郎 塩鮭 緋搾粕 根室 高橋 伊助 塩鮭 塩鱒 函館 升谷 友七
刻
昆
布
, ○ 〃 杉谷金兵衛 元揃
昆
布
根室 工藤吉次郎 長切
昆
布
〃 鈴木庄太郎
椴法華村史
(明治七年)
・十月二十二日 開拓使函館支庁は人身の障害となるため、
昆
布
着色のため緑青銅屑等を使用することを禁止する,清国輸出向けの
刻
昆
布
は緑色が非常に好まれたため、種々の方法で着色が試みられたがいずれも人身に害を及ぼすものが,中でも
刻
昆
布
を製造する過程で約十六貫目(六十キログラム)の
昆
布
に、水一石五斗(二百七十リットル)溶解下等緑青二升,・十二月十二日 漁場・
昆
布
場を自費を以て開拓したる者は、五年間免税とすることが定められる。
恵山町史
((6)当時の漁業状況・町有文書より)
本年は柔魚・
昆
布
共ニ希有ノ凶漁ナリキ、鰛豊漁ナルモ価格暴落ノ為メ収支償ハザル状況ナリ。,殊に7年の豪雨は、昭和4年の駒ケ岳噴火
昆
布
礁災害による復旧事業がようやく成果を表しかけた矢先だっただけに,諸河川の濁流は
昆
布
礁を再び泥で覆い、翌8年
昆
布
の生産額を著しく減産させた。,減退し(これは組合員の増加著しきにも依る)、
昆
布
も本年は薄漁の為め収入少なく、全く苦痛そのものである。,一戸当たりの本年の収入は二百円乃至二百五十円位(元揃
昆
布
十把四十五円・塩干
昆
布
大束十円・柔魚三十把十円
函館市史 通説編 第一巻
(食品加工)
食品加工
昆
布
の製造は大坂で発達し、すでに文化年中から着手されていたが、箱館での
刻
昆
布
の製造は嘉永年間
椴法華村史
(寛永十七年の駒ヶ岳噴火)
新羅之記録』によれば、寛永十七年(一六四〇)「六月十三日松前之東内浦之嶽俄尓焼崩其勢滄海動揺而〓滔來百餘艘之
昆
布
取舟之人,されており、寛永十七年六月十三日、松前の東部にある駒ヶ岳が噴火し海水が大きくゆれ動き津波を生じ、百余隻の
昆
布
取船,また『新北海道史・第二巻通説一』によれば、「焼灰は空に満ち、十四日巳
刻
(今の午前十時)より十五日午
刻
にいたるまでは
函館市史 銭亀沢編
(海藻類の利用と地方名)
これらのコンブ類は主に天日乾燥しマコンブとガゴメは折り
昆
布
に、ホソメコンブは棒切り
昆
布
に加工される。,マコンブは「削り
昆
布
」「
刻
み
昆
布
」「
昆
布
茶」「
昆
布
蒲鉾」などの高級加工品向けで、特にガゴメは粘液質が多
椴法華村史
(「まこんぶ」「みついしこんぶ」)
○曳鉤 單ニ鉤ト稱ス其形狀まつけ碇ノ如ク深海
昆
布
ヲ採取スルノ具ニシテ海底ヲ牽曳シテ兩爪ノ間ニ
昆
布
,採取 捻リノ使用法ハ略三石
昆
布
場ニ同シ即チ採取場所ノ水深ニ應シ棹ヲ接キ合セ海中ニ挿入シ旋回數度
昆
布
全,製造 三石
昆
布
場ニ於ケル製品ノ種類ハ凡テ長切ニシテ之ヲ上
昆
布
、中
昆
布
、下
昆
布
、棹前
昆
布
、拾
昆
布
等,ニ分テリ(棹前
昆
布
トハ期節前拾集シタルモノヲ云ヒ葉質薄ク且ツ短少拾
昆
布
ハ漂着セシモノヲ云ヒ品質劣等)而,マルモノアリ 早期乾燥ニ着手セルモノハ午後ニ至レハ全ク乾燥シ手ヲ觸ルシハ殆ント破砕スルニ至ルヲ以テ夕
刻
濕気
函館市史 別巻 亀田市編
([主な工場(大正・昭和前半)])
本町二五六 半田 文夫 大正八年 星野工業株式会社 機械用鋳鉄器 本町一〇九 星野 亮治 大正一五年 三友
刻
昆
布
製造所,水産食料品 港町一八一 白鳥 トシ 昭和四年 浅野
刻
昆
布
製造工場 水産食料品 港町七四 浅野 喜作
南茅部町史 上巻
(【資料】松前福山諸掟)
様子聞届其旨可申越候事 7一、亀田より知内迄釘合舩所持候ハゝ改町奉行無断舩者不致自由様ニ可申付候、他国江商賣ニ出候
刻
松前沖口奉行,より早く新
昆
布
商賣候義堅令停止候 附、五年も捨置候畑地者、新世間之者共ニまかせ可申候、畑作仕廻候者,は大目の百姓同然之事 8一、汐くひより下江
昆
布
取ニ相越候者共、本
昆
布
四駄宛人別之役右書出候役金弐匁之代,り相納候事 9一、しのり浜の内にて
昆
布
取候者共ニしのり
昆
布
七駄宛相納候事 10一、亀田百姓やけないにて,
昆
布
取候者共、役金弐匁之代りやけない
昆
布
拾弐駄相納候事 11一、鮫取舩汐くひより下江相越候舩共、亀田番所
函館市史 別巻 亀田市編
(元禄四年の定)
一
昆
布
取場え他国より直ニ船来候はば人遣、其船留置、様子早々可二申越一候。,他国え商売ニ出候
刻
松前沖口奉行より切手取出候様可二申付一候。,一
昆
布
時分より早く新
昆
布
商売候義堅令二停止一候。 ,処置 三 キリシタン宗門改 四 賭博の禁止と犯罪人の摘発 五 遭難船救助のこと 六
昆
布
漁取締,のころの知内以東の一般行政および出入国船からの徴税、取締といった内容から、蝦夷地内における商人の取締、
昆
布
密漁
函館市史 通説編 第二巻
(函館店開業と上海支店・開通洋行)
函館で開業した6年9月に赤井善平はそれまでに買い付けした
昆
布
や煎海鼠等3000石を函館に碇泊中のイギリス,函館支庁は「何分直輸創業ノ事」であり、かつ「一応其地(編注・東京出張所)ヘ相伺候上差許可申ノ処
昆
布
其他莫大,しかし5年に
布
達された「不開港場心得方条目」に抵触する可能性もあるため、今後の扱いについて東京出張所に,また同年12月には木村万平の手船善通丸に商会の
昆
布
と万平の
昆
布
1600石を積み込み上海の開通洋行に向け,ちなみに上海の開通洋行に関しては7年1月の『新報節略』に掲載された「開拓使御用達商会ヘ行キ
刻
昆
布
ノ輸出
椴法華村史
(恵山沖第一能州丸の遭難)
恵山沖第一能州丸の遭難 昭和十二年九月十三日 函館新聞 昨夕
刻
惠山沖で 第一能州丸,(三好商會)遭難 乗組員六名行方不明 日高国幌泉郡笛舞村から
昆
布
を積んで昨十二日正后出帆,沈沒の原因は、滿載してゐた
昆
布
が浸水のため膨れあがり容積が増大したため船体に亀裂を生じ水船となり沈没したものであり
函館市史 通説編 第一巻
(輸出品及びその金額の推移)
48,617束 ドル 24,525.58 % 23.72
刻
昆
布
2,164梱 2,395.98,119,654.95 ドル 293,620.97 % 70.77
刻
昆
布
4,508.56,117,012.49 ドル 300,363.325 % 57.61
刻
昆
布
1,009.90,117,012.49 ドル 300,363.325 % 57.61
刻
昆
布
1,009.90,127,431.99 ドル 359,826.08 % 59.57
刻
昆
布
908.69
函館市史 通説編 第二巻
(主要輸出品の構成)
表6-20は主要輸出品の一覧であるが、
昆
布
、
刻
昆
布
、煎海鼠、干鮑、鯣の海産物でその総数を占めており、その,輸出用の
昆
布
は長切
昆
布
で主産地は根室をはじめ日高、釧路産が多い。, 表6-20 主要輸出品 年 次 総 額
昆
布
刻
昆
布
煎 海 鼠,15,710 19,053 38,267 『函館市史』統計史料編より作成.
刻
昆
布
,
刻
昆
布
は横浜、神戸、大阪でも製造されたが函館産は品質が良好であり清国市場では歓迎された。
函館市史 通説編 第二巻
(取引の停止)
わせていたが、資力微弱にして清商サイドで常に営業する商人は大いに困窮を生じ、ことにそのころ前年の輸出残の拾
昆
布
,元来拾
昆
布
は内国商人がこれを買入れて輸出するものは僅少であり、多くは清商が買入れていた。,清商はこれを横浜を経て東京に輸送し、
刻
昆
布
に製造して上海に販送する習慣であった。,ことに前に述べたように拾
昆
布
の滞貨も追々増進し資金繰りに困難を来す商人もいた。,この時に函館県庁は某商に委嘱し区内に貯蔵する拾
昆
布
と囲
昆
布
を販売する方法を検討させたり、また組合に編入
函館市史 通説編 第一巻
(駒ヶ岳噴火)
)年6月13日、正午頃突然地震とともに駒ヶ岳が爆発して近海に大津波をおこし、たまたま出稼ぎに来ていた
昆
布
取船,駒ヶ岳の噴火の状況は、噴出が13日から15日の朝まで続いて、焼灰を降らせて闇黒の中にあり、15日辰の
刻
(
函館市史 銭亀沢編
(幕末の村むら)
長折
昆
布
六八束、重さ九〇〇目、価六〇文。,駄
昆
布
五〇三駄、一駄にて重さ一貫七〇〇目、価一駄七四文とあり、
昆
布
は量目から値段まで記されている。,「蝦夷日誌」によると「此辺り
昆
布
漁を第一とするなり…
昆
布
取ころはにぎやかなり」で、瀬戸川付近は
昆
布
小屋,産業は鯡、鰯、烏賊、
昆
布
也とあり、鯡差網三五〇放、鰯は筒船六艘にて漁し、一艘三〇〇石目を得、
昆
布
船は一三,「蝦夷日誌」によれば「石崎村より惣て
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漁よろし。
函館市史 通説編 第二巻
(罐詰)
種田は真砂町で生産合資会社の建物、機械(9馬力1基)を借受けて、男子職工11人、女子数十人を使用して、
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, 表9-29 食品工業の推移 年次
刻
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清酒 醤油 味噌 精米 晒餡 馬鈴薯
戸井町史
([戸井の万体仏と貞伝上人])
万体仏は背面に「貞伝作」と
刻
まれている。 ,⑥貞伝は海中に石を投じて、
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の繁殖をはかることを教え、盛んに投石させた。,今では
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増殖のための投石は珍らしいことではないが、貞伝が投石を教えたのは、今から二五〇年も昔のことである,山田文右衛門が日高海岸で
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投石をしたのは、貞伝よりずっと後である。 ,この「納経碑」の正面には「大乗(だいじょう)妙典」と
刻
み、向って左側面には、「桑門、宝洲」と
刻
まれている
函館市史 通説編 第二巻
(広業商会の開業)
広業商会と
刻
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製造場 『北海道独案内商工の魁』[1] 広業商会と
刻
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製造場 『北海道独案内商工
恵山町史
(硫黄鉱毒被害調査復命書 (大正元年、北海道立中央水産試験所 技師 半田芳男))
③水産業について 鉱害が最も深
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な影響を及ぼしたのは、同村の基幹産業ともいうべき水産業へである。,<海藻類の被害> 「長切
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・元揃
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」について明治四十三・四十四(1910・11)の産額を比較しての,北海岸に於ける
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を実際に見ているが、常に濁水に覆われている水域の
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は果たして生育できるのかどうか、,また、一年生
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(ミズコンブ)の流失するのはなぜか、これは、恐らく泥土に覆われた岩石上に生じた真
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は,一年生
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(ミズコンブ)流失は、即ち、翌年の真
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の生産減となるのは明らかである。
椴法華村史
(弘化三年の大山津波)
怪我人廿四人、惣家数四十一軒の内、潰家三十軒、半潰七軒、船数七十三艘 尚此外潰れ家、潰れ船、
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取丸小屋数多,扨、此度の変事は別の事にはあらず候へども、右椴法華より嶋泊り、根田内・古武井、右二里余も相隔りて同時
刻
に,尚其節当所役人
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の猟事に運上取立に出役致し居候白鳥孫三郎と申候人、椴法華村に止宿いたし、潰家に打れ死去,しかし白鳥は未だ死去は不致候等申沙汰も有之、医師両人即
刻
出立いたされ候。 ,當村は昔椴法華と稱する所は本村の位置なりしが、弘化三年丙午七月晦日夕
刻
より覆盆の大雨にて椴法華中濱島泊三
函館市史 通説編 第一巻
([2 文化])
貞治の碑は、二様の阿弥陀信仰を陰
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し、平安から鎌倉にかけて信仰された来迎の浄土思想を、みごとに表現した,永享の鰐口の奉納者「平氏盛阿弥」にしても、弘前長勝寺の嘉元4年鋳造の鐘に
刻
む平氏と、無関係とは断定できないものがあろう,志海苔町出土の古銭を収容した3個の大甕は、室町期の越前窯および能登の珠洲窯と推定され、
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を媒介としてこの
南茅部町史 上巻
([板木の分離独立と境界紛争])
水産組合副組長となる)あくまでも従来の海区を主張する臼尻部落の漁業者は、実力行使をも辞さない勢いのまま
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解禁,支庁は即
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、加藤庁属を臼尻村に派遣した。,即時、「
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等採収境界標」なる木標を現地に建設した。
戸井町史
([松浦武四郎の『蝦夷日記』(嘉永三年)])
医師が二人即
刻
出発した。 ,
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取小屋がある。,小川があり、
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小屋がある。この辺の
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は巾広く丈が長い。花折りにするのであろう。,この村の
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は皆長崎屋に納める。この
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は御物(献上
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)になるという。,その味はともかくとし、
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の大きなことは、この村からシノリ辺の
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以上のものはない。
恵山町史
([1級町村制施行の辞退と当時の村財政])
は、七九、三九二円の所、追加更正の結果、現在予算額は、一〇七、九八一円に膨張せり、右は臨時部に於いて
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礁災害復旧資金貸付金,の繰越しに因るものであり、前年来の財界の不況は益々深
刻
の度を加え、年末景況を観るに未曾有の不景気にして,なく随て村経済甚だしく窮乏貧弱なる処、昭和四年駒ヶ岳噴火に因り非常なる災害を蒙り、村民の生活資源たる
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礁,ならざる処へ、昭和七年九月大洪水の慘害を蒙り死者四名、流失及倒壊家屋二五戸に及び粒々辛苦の許に竣功したる
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礁,本年亦本村生産物の大部分を占むる
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は、採取時期に於て天候に恵まれず、其の産額著しく減じ、平年度の三分作前後
函館市史 通説編 第一巻
(生産者の動向)
ちなみに、箱館における
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および俵物3品のみの国別輸出高を示すと、表14・表15の通りである。,
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および長崎俵物3品とも、文久2年ころまでは、イギリス、アメリカ両国がその主要輸出国になっているが、,価額 割合 数量・価額 割合 数量・価額 割合 数量・価額 割合 数量・価額 割合 数量・価額 割合
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,13.43 15.84 0 0 3,948.95 6,679.38 3.10 1.86
刻
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,・
刻
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とも、1862年の数量単位はカテー (「近世海産物貿易史の研究」による)
南茅部町史 下巻
(尾札部村役場駒ヶ岳爆発災害日誌)
海面は数十間の沖合厚さ一、二寸の軽石浮流し、殆んど水面を認め得られず、之が沈下のため採取期を目前にせる
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,六月二十四日 温度 六五、天候 曇、風向 西 沈石による
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の被害甚大の見込を以て専門家の鑑定を乞,七月一日 温度 七〇、天候 晴、風向 和 支廳より「軽石沈石の最多最少の二箇所にて
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採取晴天に,七月二十日 温度 八四、天候 晴、風向 南西
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採取は沈石のため全滅を豫想されたるも採取の結果品質,天候 雨後晴、風向 南 道廳水産課野田、前田両技手被害調査のため來場せり依て能戸、齎藤両村會議員
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礁其
椴法華村史
(昭和十一年)
デアツテ首相ハ安全ニ生存セラレテ居タ事ガ判明シタ、作朝首相ハ先ヅ後藤臨時代理ヲ経テ閣下ニ辞表ヲ捧呈シ同夕
刻
天機,留意ヲ要スルモノアルヲ以テ貴部内學校、在郷軍人分會、青年團等ニ對シテハ勿論一般町村住民ニ對シテ本日公
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セラレタル,この後、村では夏の
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漁が豊漁でやや一息つき、続いて鰯がやや好漁をみせ、あとは鱈漁が良ければ、本年はまずまず
函館市史 通説編 第二巻
([目次])
/広業商会の開業/勧商局と広業商会/営業内容/資本金貸与・償還の仕組み/清商商社の交替/二人の華僑/
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, 二 日本
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会社の設立…766 清国市場視察と
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諮問会/日本
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会社の設立と
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生産者連合組合,の結成/日本
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会社開業後の
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取引/上海における日本
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布
会社の営業/直立会議における
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会社と組合側,の対立/
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会社の営業方針の転換/日本
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会社の解散 第五節 商業機関の整備と米穀塩海産物取引所の,函館氷売り出す/氷専売の出願/販路の拡大/同業者の出現 五 市中の諸製造業…1067
刻
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製造
函館市史 通説編 第二巻
(商取引の実態と商人の諸相)
し、函館と東京・横浜間に荷為替の便を開いたといい、それを契機に、釧路国の厚岸、浜中両地において漁場、
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浜,村田駒吉は、行商から問屋長崎屋の奉公人となり、独立して外国貿易の仲買を業とし、
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の売買で巨利を得たという,初代和兵衛は水夫から身を起こし、内澗町に商店を開いたが、天保年間には、
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売買の業を起こすとともに、川汲村,の漁民に仕込をなし、村民の生産した
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、鱈、鰯などの売買を営業するようになった。,その主な取引は、
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などの清国貿易の直輸と道産海産肥料を大阪地方に回漕し、府県各地から米穀を移入し、北海道
南茅部町史 上巻
(促成コンブ)
施設の安定と
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の品質向上を図るため負荷に対する浮力と施設の上げ下げを実施した。 ,即
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、一〇本一束を二、三束ずつ連結して、水面下三~四メートルのところに、五日~一〇日間仮殖してのち本養成
南茅部町史 上巻
(寛政三年五月)
ミヅは
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の若生いのことで、和音でいうと、みつ枝さすなどと和歌にもよまれていて、科野(信濃)の国伊奈(,この巴の形を調度に
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んで家の守護(お守り)としている。,浜)といっているが、今日は海も荒れずに、
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も少なくないので、この
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を刈り取ったら人は飢えることもない,どこもこのあたりは、ひろめ(
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)がよいのだろう。,今でも、ひろめ(
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)は、この浦にまさる佳い
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は他にないと世の人たちが専らいっていることである。
函館市史 通説編 第二巻
(庶庫・上屋関係規則)
』) 表5-4 庶庫敷料 品 目 単 位 金額 米及雑穀 同上 長切
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,
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大山酒 大阪酒 紋鼈産菜種 紋鼈産白砂糖 阿波産煙草 敦賀ローソク 判綿
函館市史 銭亀沢編
(嫁入り)
嫁入り この地域では七、八月頃は
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採り、八月から十月頃まではいか釣り、十一、十二月には鰯漁がおこなわれ,やがて嫁入りの時
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となって、嫁は仏壇に参り、両親や参会者に挨拶をして「嫁迎え」の人びとと共に婚家に向かう
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